臺灣外紀漳州を囲むも金礪が解囲す/舟山より魯王が海に逃る(卷七 困漳州金礪解圍 逃舟山魯王入海)
周全斌の献策
- 順治九年正月、成功は海澄を得た後、投じてきた周全斌に恢復の策を問う。全斌は「まず舟山・南澳など諸島を固め、糧道を確保したうえで漳州・泉州を取り、それを基盤に江南を窺うべき」と説き、成功はこれを称賛して重用した。
- 長泰を攻めるが、王邦俊の来援でしばらく膠着した。
漳州包囲と総督陳錦の油断
- 二月以降、成功は漳州城を攻囲。守将に地道戦を仕掛けるが、総督陳錦の援軍到来で中断。
- 陳錦は同安での勝利に驕り、部下の進言(詭計を警戒すべしという忠告)を退けて増長した。
陳錦の暗殺
- 成功軍との衝突で陳錦は敗退し同安に退く。折檻された下僕の庫成棟が恨みから陳錦を刺殺し、その首を成功に献じた。成功は表向き喜んで見せたが、「主を殺して栄達を求めるのは大罪」として庫成棟を処刑した。
- 長泰の守将李清は陳錦横死の報を聞いて城を捨てて逃走、成功はこれを接収した。
馬逢知を誘い込む策と漳州の困窮
- 四月、成功は漳州を包囲。清は浙江の猛将馬逢知を援軍に送るが、成功は正面から戦わずわざと城内に誘い込み、馬逢知ごと漳州を完全包囲する策を用いた。
- 秋、張名振の献策で鎮門の水を堰き止めて漳州を水攻めにしようとするが失敗。城内は糧食が尽き、人が人を食う惨状に至った。
金礪の来援と漳州の大量死
- 九月、清の金礪が援軍として到着。分進策により周全斌の軍を破り、成功軍は包囲を解いて撤退した。
- 金礪入城後、餓死者・粥にありついても死ぬ者が続出し、死者は七十三万余に及んだと記され、三つの大穴に合葬されたという。
海澄をめぐる攻防
- 十月、金礪が海澄方面に進撃するが、成功軍は火攻めの不利(風向きの誤算)で大敗。成功は海澄に退いて守りを固めた。
- 順治十年、成功は張名振を北上させる一方、海澄防衛戦では地道(地下トンネル)を用いて金礪軍を火薬で殲滅する奇策を用い、危機を脱した。合戦中、成功自身が砲撃の的にされるほどの激戦であったが、甘煇が身を挺して守った。
漳国公への冊封
- 陳錦を討ち楊名高を破った功が永曆帝に上奏され、成功は漳国公に封じられた。海澄の城郭・砲台の整備を進めた。
烏丁垻攻略失敗と龍熕の獲得
- 七月、成功は烏丁垻を攻めるが陳鉄虎の堅守により失敗し負傷者を出す。撤退の途中、海中から大砲二門を引き揚げ「龍熕」と名付け、厚く守らせた。
郝尚久の反正と潮州の陥落
- 九月、潮州総兵郝尚久は清の道府を殺して反正し永曆に帰順を表明するが、以前の対立から成功は救援に消極的だった。周全斌の進言で援軍を送るも間に合わず、尚久は清の平南王尚可喜・靖南王耿継茂らの大軍に包囲され、巫術に頼って守りを怠ったすきを突かれて陥落、井戸に身を投げて死んだ。
魯王の舟山脱出と接遇の礼
- 十月、浙江の魯王は舟山陥落後、成功のもとへ逃れてきた。成功は参軍らと協議し、「魯王はかつて監国であったが今は永曆の正朔を奉じる身」として、対等の賓主の礼ではなく宗人府府正の礼をもって迎えることに定め、丁重に処遇した。
- 王忠孝・張煌言・辜朝薦ら多くの明の遺臣・名士がこの頃前後して成功のもとに身を寄せ、参軍などとして重用された。