臺灣外紀江夏侯が保山で夢に驚き、顔思斉が日本で謀に敗れる(卷一 江夏侯驚夢保山 顏思齊敗謀日本)
江夏侯周德興、閩地の地脈を巡る
明の太祖朱元璋が天下を平定した後、江夏侯周德興に命じて沿海の衛所設置を進めさせた。徳興は山東・浙江から福建に入り、泉州石井の安平の地で龍脈の勢いを見て切断しようとするが、その夜、二人の人物が夢に現れ「この地は将来五代の諸侯を出す守護地であり、開削してはならない」と告げる。目覚めた徳興は思い直し、山頂で朱熹の書と伝わる「海上視師」の石刻を見て天命と悟り、開削を取りやめる。その後、同安・金門・廈門・鎮海など各所に衛所を設けて任を終える。
鄭芝龍の誕生と幼少期
後にこの地は鄭家の先祖鄭達德(芝龍の曽祖父)が異人廖明師の指南で「五馬奔江」の地形に葬られる。万暦甲辰年、廈門で雷鳴とともに海辺の岩が裂け、内部に予言めいた文字が現れる。同年、鄭紹祖(芝龍の父)の子として鄭芝龍(幼名一官)が誕生した。母黄氏は出産前に不思議な夢を見たという。芝龍は幼少より聡明で、七歳のとき遊びで投げた石が泉州太守蔡善繼の帽子に当たり捕らえられるが、その利発さを気に入られて許される。
一官、日本へ渡る
天啓元年、十八歳になった一官は学問を好まず武芸を好み、広東香山澳の母方の叔父黄程を頼って身を寄せる。天啓三年、黄程の命で白糖・香木などの荷を積んだ李旭の船に乗り、日本へ渡ることになる。当時の日本は唐人(中国人)を厚遇しており、一官は現地の女性翁氏と結ばれ、そのまま日本に留まることになる。
顏思齊、日本で頭目となる
福建漳州出身の顏思齊は、主家の横暴に耐えかね下僕を殴り殺して日本に逃れ、仕立業で財を成し義侠の徒として知られていた。楊天生・陳衷紀・張弘らと親交を結び、天生の勧めで思齊を盟主に推戴する計画が持ち上がる。天生は仲間を募り、洪陞・張弘・陳衷紀・李英ら多数の唐人が集まり、鄭一官(芝龍)も高貫らと共に加わって二十八人の結盟が成立し、顏思齊を盟主と仰ぐ。
日本占拠の謀議
天生は日本の広大な土地に目をつけ、これを奪おうと諸人を煽動する。思齊は当初慎重だが、洪陞・陳衷紀らの強い勧めで決意を固める。洪陞は炮台奪取の具体策を献じ、天生は酒宴を開いて一同に署名血判させ、思齊を主に推戴する誓約を結ばせる。挙兵は八月十五日と定められ、各人の役割(炮台強襲、放火、喊声、応援など)も割り振られた。
この頃、海上に怪異な大魚が現れる異変があり、一官の妻翁氏はそれを見る夢とともに男児(後の鄭成功)を出産する。産室の灯火が「火事」と見紛われる騒ぎも起こり、人々はこれを吉兆と噂した。
密謀の露見
挙兵前日の十三日、酔った李英が妻の王氏に計画を漏らしてしまう。王氏の兄王六平がこれを知って日本側の役人に密告し、当事者楊復は国王に上奏、討伐の兵が出される。一官の舅翁翊皇がいち早く一官に急を知らせ、一官は天生らに触れ回って辛くも唐人たちは船に乗り込み脱出する。炮台からの砲撃を受けるが、日本側の船が舵を外されていたため追撃を免れ、一同は洲仔尾に集結する。
台湾への渡航
集結した一同は今後の方策を協議し、陳衷紀の献策により十三隻の船で臺灣へ向かうことに決する。八昼夜の航海の末に台湾へ上陸し、寮寨を築いて土着の民を慰撫し、船団を出して沿海を荒らし回るようになる。閩浙沿海では顏思齊らが台湾に拠って横行することが知れ渡った。この頃、既に父紹祖を亡くしていた一官の弟蟒二(後の芝虎)・芝豹・従兄芝莞らも合流し、勢力を増していく。
顏思齊の死と後継者選び
天啓五年秋、顏思齊は狩りの後に病を得て急逝する。百日の喪を終えた十二月、天生ら一同は跡目を協議し、香案を設けて天意を占うことにする。何人もが投げた茶碗が次々割れる中、一官(鄭芝龍)が投げた茶碗だけが割れずに聖筊が続き、天意によるものとして一同は彼を首領に推戴することに決する。
(附記として、後世の諸記録に見える鄭芝龍の出自・改名をめぐる異説、崇禎帝が林釬に「芝龍と一官は同一人物か」と問うた逸話、林釬が賄賂を拒み義士として上奏した経緯などが紹介される。)
鄭芝龍、統領の座に就く
一官は当初辞退するが、天生・杲卿らの説得を受け、賞罰の明確化を条件に受諾する。吉日を十八日と定め、旗幟・糧餉・器械の整備を進める。自らは「芝龍」と改名し、弟や一族にも「芝虎」「芝豹」「芝莞」など「芝」の字を冠した名を与える。十八日、金鼓と砲声のうちに帥旗を掲げ、芝龍は正式に一同の主として推戴され、天地と海嶽、亡き顏思齊を祭って就任の礼を行う。以後、船隻の整備と軍備の充実に努める。