綏寇紀略九江の哀傷(九江哀)
明末最大の軍閥となった左良玉の生涯を、崇禎十二年(1639)の穀城をめぐる熊文燦との対立から弘光元年三月(1645)の九江での死までたどる篇。侯恂に抜擢されて一年余りで元帥に上った経緯、羅猴山・瑪瑙山での献忠追撃、朱仙鎮で李自成に大敗して精鋭を失った転機、襄陽・武昌を捨てての東下と李邦華の説得、崇禎帝崩御後も東下を拒んで寧南伯として上流を預かった経緯、そして黄澍に促されて馬士英討伐に発ち九江で袁継咸と会するさなかに血を吐いて没するまでを描く。
年表(15件)
- 穀城をめぐる熊文燦との対立(崇禎十二年・)1639年献忠攻撃を献策するも容れられず、羅猴山で官軍が大敗する
- 蜀への追撃と瑪瑙山の勝利(崇禎十三年・)1640年楊嗣昌が左の策に従い瑪瑙山で勝つが、以後は召命に応じなくなる
- 朱仙鎮の敗戦(崇禎十五年・)1642年李自成の土山と長大な壕にかかって大敗し、襄陽へ落ちのびる
- 侯恂の再起用と汴の陥落(崇禎十五年・)1642年恂との合流をいつわって出兵せず、開封がそのまま陥落する
- 襄陽・武昌の放棄(崇禎十五年末〜十六年正月・)1643年自成に押されて襄陽を捨て、武昌でも大略奪して東へ下る
- 江南の震駭と李邦華の説得(崇禎十六年・)1643年李邦華の檄と兵糧十五万で軍心が鎮まり、南都が戒厳を解く
- 皖への駐屯と杜応金(崇禎十六年・)1643年安慶で休兵し、潰兵の罪は王允成に帰されて左は賞される
- 献忠の武昌焼き討ちと左の復帰(崇禎十六年七月〜八月・)1643年焼け跡の武昌に入って軍府を置き、民と市を呼び戻す
- 江西の攻防(崇禎十六年・)1643年馬進忠らが袁州・岳州を収め、江右と湖南がほぼ平定される
- 呂大器の総督と江西の失陥(崇禎十六年・)1643年総督呂大器と衝突し、建昌・撫州が陥ちる一方で荊襄の空地を収める
- 寧南伯への封爵と進兵の上奏(崇禎十七年正月〜二月・)1644年寧南伯に封ぜられ、三か月で十四府州県を回復したと上奏する
- 崇禎帝
- 崩御の報と東下の拒絶(崇禎十七年・)1644年東下を請う諸将を退け、蓄えを分けて武昌を守ると誓う
- 南都の擁立と四鎮(弘光元年・)1644年福藩擁立で侯に進み、上流の任を専らにして荊州・承天を回復する
- 阮大鋮との確執と黄澍(弘光元年・)1644年阮大鋮との対立と黄澍の逮捕未遂で亀裂が開き、東下へ傾く
- 東下と九江での死(弘光元年三月・)1645年馬士英討伐の檄を発して東下し、九江で城の炎上を見て血を吐き没する
左良玉の出自と昌平での抜擢
- 左良玉は字を崑山といい、臨清の人。幼くして父を失い叔父に育てられたため、貴顕となった後も実母の姓を知らなかった。十八歳で従軍したが旅人から略奪を働き、法により斬罪に当たるところ、邱磊という同罪の者が「自分ひとりが罪を負う」と申し出たので死を免れた。
- その後、昌平の督治侍郎・侯恂のもとで側近く仕えた。冬至に陵に登って朝官をもてなす宴で酒を注ぐ役を命じられたが、良玉は泥酔して金の盃四つを紛失した。翌朝おそれて罪を請うと、侯恂は「それはそもそもお前が扱うべき品ではなかった。私の手落ちであってお前の罪ではない」と言った。
- 昌平の兵を辺郡へ回し榆林を援けよとの詔が下ったとき、総兵の尤世威は陵の守護のため動けなかった。侯恂が「代わりに誰を遣わせるか」と問うと、世威は「左良玉ただ一人。ただし今はまだ一兵卒の身、他の諸将をどう納得させるか」と答えた。侯恂は「それだけのことなら、私が良玉を重く取り立てられぬはずがない」と言い、その夜のうちに世威を遣って意を伝えさせ、自分も直接会いに行くと告げた。
- 良玉は世威が来たと聞いて自分を捕らえに来たと疑い、寝台のまわりを走り回って「邱磊の件が露見したか」と言い、寝台の下に隠れた。世威は戸を押し開けて「左将軍、富貴が向こうから来たぞ。早く酒を出して飲ませよ」と呼ばわり、引き出して事情を告げた。良玉は色を失ってしばらく立ちつくし、やがて世威の前にひざまずいた。世威も共にひざまずいて助け起こしたところへ侯恂が到着し、面と向かって翌朝の約束を交わした。
- 翌朝、轅門に諸将を大集させ、良玉に三千金を贈って送り出し、盃酒三杯と令箭一本を賜って言った。「三杯の酒は三軍をそなたに託す意である。令箭は私自身が出向いたのと同じこと。諸将士は左将軍の命に従え。左将軍は今すでに副将軍として諸将の上に立つ」。良玉は退出しざま轅門に頭を打ちつけて必ず報いると誓い、やがて功を立てて総兵官となった。降格された校尉の身から元帥にのぼるまで、わずか一年余り、年は三十二であった。
左良玉の人となりと軍の気風
- 背が高く赤ら顔、驍勇で左右どちらの手でも射た。文字は読めなかったが文意を解することには通じており、喩布衣という者を掌記に置いた。喩は性格が謹厳で、良玉は父のように仕えた。
- 賊と対すると自ら陣頭に立って降伏を説き、「お前たちは良家の子弟で、思わぬ成り行きで叛逆に落ちたのだ。左の兵には敵わぬ、早く降れ」と言い、聞かねば兵を進めた。勝っても深追いの殺戮を戒め、「中には脅されてやむを得ぬ者もいよう」と言った。
- 出陣して勝てば先触れを出して喩に知らせた。喩は草鞋履きで三十里も出迎え、良玉は馬を下りて喜び、自分の車に乗せて帰り、喩は厨に飯を用意させて共に笑い興じた。敗れたときは喩は南面して座ったまま立ち上がりもせず、良玉は長揖して席に着こうともしない。喩が名を呼んで数え立て、「良玉、朝廷はお前を厚遇している。今、官の士馬を損ない、日々兵糧の金を空費して、どの面を下げるつもりか」と責めた。寧南伯に封ぜられた頃には喩はすでに死んでおり、良玉は食事のたびに酒を地にそそぎ「喩大兄」と呼んだ。士を遇し道理をわきまえることはこのようであった。
- 山西で用兵した初めは、力を尽くして報効に努め他意はなかった。懐慶で督撫と意見が合わなかったのを境に、追撃を緩めて賊を養い、降人を収めて自らの重みとする策を図りはじめた。手勢が多くなると兵糧が足りず、行軍中の略奪を禁じなかったため、たびたび譴責を受けた。
- しかし結局は衆を得たことで強者と称された。同時期の諸将では曹文詔は忠に殉じて死に、鄧玘は兵乱で死に、祖寛は誅されて死んだ。良玉は老練で慎重、勝っても深入りせず、敗れても中軍だけは常に温存したので破滅に至らなかった。部下には獲物を取らせて自分では私せず、士はその寛さを喜んで働いたので軍が乱れず、その威名は辺境の任にある者たちを畏服させ、ひそかに一個の敵国のような存在となった。それゆえ誅されもしなかった。進退や成敗の見通しは前後の督府の及ぶところでなく、そのため一層独断専行して統制を受けなくなった。これは諸公の側にも招いた責任があり、すべてが良玉の過ちではない。
穀城をめぐる熊文燦との対立(崇禎十二年・1639年)
- 張献忠が穀城にいたとき、良玉は攻撃を請うた。熊文燦は「彼に二心があっても事はまだ起きていない。君が敢闘の士でも兵はまだ集まっていない。急に攻めれば他の賊も動き、もし勝てなければ失うものが大きい。ゆるやかに行くべきだ」と言った。
- 良玉は反論した。「逆賊は野戦を得意とし籠城には向かない。今わが兵で不意を突けば、敵兵は動揺し兵糧の後続もなく、諸隊は様子見をして前に出まい。賊は怠り我は奮い、賊は寡く我は衆い。攻めれば必ず抜き、襲えば必ず擒にできる。この機を逃せば悔いても及ばぬ」。文燦が強く禁じたので沙汰やみになった。
- 献忠は穀城を焼き房県を蹂躙して鄖・竹山の山中へ逃げ込んだ。文燦が追撃を求めると良玉は不可とした。文燦が「将軍は逗留して逃げ腰か。賊はもう行き場を失って窮まっている、急追して逃すな」と責めると、良玉は答えた。「先に速攻を説いたのは逃亡を恐れたからだ。今攻めないのはその鋭鋒を避けるためだ。竹藪の深く険しい地では前が逃げ後ろに伏兵がいて、我が利を失う。行き止まりの地ではない。二人の叛将が加わり九営がそれに従って同悪の気勢が盛んで、追い詰められた状態ではない。米を背負って山に入り、十日も山谷を転げ歩けば糧は尽き馬は斃れ兵は飢える。強行すれば我が軍が必ず敗れる」。果たして羅猴山で官軍は大敗した。
- 良玉は前後の経緯と、上役の文臣と争った次第を条書きにして朝廷に報告した。兵部尚書の楊嗣昌は文燦の失策を言い立てるのを憚りつつ、過ちが左にないことも知っていたので、自らの督師にあたって特に左を平賊将軍に推挙し、孟明・曹沫のような雪辱の機会を与えた。左はその意図を承知しながら思うようには使われなかった。
- 嗣昌が襄陽で誓師したとき、諸大帥は恐れかしこんで指揮に従い遅れまいとしたが、左だけは臨機の裁量を守って作戦を素直には受けなかった。楊も手綱を緩めて寛大に扱った。
蜀への追撃と瑪瑙山の勝利(崇禎十三年・1640年)
- 官軍が蜀へ献忠を追ったとき、良玉は先鋒を命ぜられたが、作戦の往復で総督府と食い違った点が三つあった。進路について嗣昌は興平を、良玉は大竹を主張した。派兵について嗣昌は一部の別動隊を、良玉は全軍を主張した。敵情の読みについて嗣昌は「平利へ引き返すのを恐れる」と言い、良玉は「賊は再び鄖・房をうかがう度胸はない」と言った。嗣昌が「八賊の将は必ず脇へそれて巫へ帰る」と言えば、良玉は「逆献はきっと遠くへは投じない」と言った。曹過の監軍道・万元吉は、良玉が指示を受けようとしないことを強く問題にしたが、嗣昌が意を屈して従ったので、瑪瑙山ではそのおかげで勝ちを得た。
- 楚と蜀の一件を合わせて見れば、羅猴山は良玉が戦うべきでないとしたのに文燦が背いて敗れ、瑪瑙山は良玉が戦わねばならぬとしたのに嗣昌が従って功を奏した。長く軍中にあって敵を見抜き勝ちを制する知略は、たしかに人に大きく勝るものがあった。これに謹み深さと忠誠が加わり、功を誇らず智を鼻にかけなければ、古の名将にも劣らなかったろう。
- ところが自分の一策が当たったことで文臣を兵を知らぬと嘲り、嗣昌が使相の尊位と賜剣の権威をもって九度召しても九度来なかった。その果てに追い詰められたはずの賊は羽毛を生やし、諸将は心を離し、開県で兵は焼き尽くされ、襄陽で藩地は覆った。これを賀人竜だけのせいにして良玉を責めずにいられようか。
- やがて督師(楊嗣昌)は縊れ藩王は亡び、賊は蔡を伐ち随を侵して漢東は大いに乱れた。それでも良玉は新敗の後に当陽を下り宛・葉に出て、麻城・洵陽のあたりで再三戦い、賊はこれによって破れた。献忠は刃を逃れ肝を潰して逃げまどう暇もなかった。先に取り逃がしたのは追撃を緩めたためであり、後に取り逃がしたのは逃げる兎を取り損ねただけのことである。江漢・巴蜀の民がこの賊の手で肝脳を地に塗ることになったのは、良玉に功を成させなかったからだ。ああ、これも天のなせるわざでないものがあろうか。
左軍の実力と李自成との比較
- 左軍の強さは献忠を破ってその士馬を得たことに大きく由来する。部下を三十六営に分け、営ごとに副将一人を置き、馬は数万匹あった。国庫から支給される軍糧は必要の十分の一にも満たず、残りはすべて略奪でまかなったので、百姓は賊よりも左軍を恐れた。
- とはいえ兵の強弱を比べれば李自成とほぼ互角であった。自成は野に起こって思うままに振る舞い、衆を駆り立てて湯火にも飛び込ませることができた。良玉は朝廷の威光を借りながら、様子見・功への貪り・罪の回避を免れず、前を見ては後ずさりして持ち味を出し切れなかった。そのため勢いでは常に及ばず、郾城が囲まれても支えられず、汪喬年が全滅しても救わなかった。論者はこれを難じ、良玉をほとんど賀人竜と同類に語るまでになった。
- 帝は開県・項城での二度の逃走を恨み、人竜を斬って軍政を引き締めた。その意図は左にも向いていたが、朝廷を疑う心を起こさせるのを恐れ、内帑の金五万を出し、戸部からさらに十万、錦や綵物を千端、名前を書き込む前の任命書数百通を使者に持たせて軍前で頒賞した。獄中から前の尚書・侯恂を出して兵部侍郎として丁啓睿に代えて督師とし、河内知県の王漢を抜擢して御史とし、平鎮軍の監軍を命じて良玉に汴(開封)救援を急がせた。しかし恂と漢が軍に着く前に、良玉はすでに朱仙鎮で敗れていた。
朱仙鎮の敗戦(崇禎十五年・1642年)
- 朱仙鎮では賊が西に、官軍が北に陣した。良玉は甬道を築いて城につなぎ河北へ通じさせ兵糧の便を図ろうとしたが、汴の人々は左が自分たちを荒らすのを疑い、門を閉じ石で塞いで通じさせなかった。
- 数日の大雨のあと、良玉は夜に諸将を集めて謀議した。夜明け前、陣の南に雲のような山影がぼんやり見え、皆が驚いて何かわからずにいると、良玉は刀で地を打って「これは瞎賊(李自成)が土山を築き砲台を立てて我を撃つつもりだ」と叫んだ。騎兵を出して偵察させると果たしてその通りで、土山は三つ、山ごとに台が一つ、台の下にはそれぞれ精兵一万が伏せ、深い溝を掘っていた。官軍が近づくと賊はその下に伏せ、兵が去ると雷鳴のように砲を轟かせた。左も軍中に台を築いて応じたが、賊が交代で休みながら攻めるので支えきれず、陣を引き払った。
- 自成は左の陣が動くのを見て「左の健将がこう来る以上、必ず死戦する。争うな。通り過ぎるのを待って背後から撃てば必ず成る」と言った。左は歩兵を前に、騎兵を後ろに置いた。賊は歩兵には通行を許し、騎兵とは戦っても本気で揉み合わず、刃を交えるとすぐ退いた。左の兵は逃げられると喜んで八十里を疾駆したが、賊はその行く手にあらかじめ巨大な壕を掘っていた。深さ二尋、幅も同じで、百里にわたって環をなしていた。自成は百万の衆を率いて後方を塞ぎ追撃した。
- 左の陣はすでに乱れて戦意を失い、皆で馬を下りて溝を渡ろうとし、輜重を背負い刀槊を携えたまま谷底に倒れ伏し、後の者は前の者の屍を踏み越えて進んだ。自成はそこを踏みにじり、左は大敗した。馬騾一万匹を棄て、失った兵器は数知れず、そこから襄陽へ落ちのびた。
侯恂の再起用と汴の陥落(崇禎十五年・1642年)
- 侯恂が獄につながれてすでに七年、左は豫で用兵した際に三度その郷里を通り、部下に「侯公の家がここにある。草木一本でも荒らす者は斬る」と命じ、城に入って恂の父・太常卿の侯執蒲に謁するときは家人のように拝伏し、客将として振る舞わなかった。帝はその事情を知って恂の罪を洗い流し登用しようとした。
- ところが敗報が届くと、恂は急ぎ良玉の軍へ赴きたいと願い出た。帝は「恂を用いたのは良玉を動かして汴の急を救わせるためだ。今、良玉の軍に行けば、襄陽の一客人として驕った鎮将の旧知になるだけで、汴の救援にはならぬ」と言い、黄河を押さえて賊を図らせ、良玉には兵を率いて合流するよう命じた。
- 良玉は新敗の後で自成を恐れ、行く気がなかった。やむを得ず旧主への義理から部将の金声桓に五千人を付けて従わせ、自身が三十万を率いて河北で恂と会するといつわった。恂は兵糧の出所がないのを恐れ、また内情を察して「将軍の兵の大半は官から糧を受けていない。遠来してわが下に就くのは結構だが、その衆を散らすのはよくない。全員来て自分で食を賄うとなれば、都のすぐそばでどこから調達するのか」と言った。結局、良玉はついに来ず、汴はそのまま陥落した。帝は怒って恂を罷免し、やがて罪に問うた。
襄陽・武昌の放棄(崇禎十五年末〜十六年正月・1643年)
- 李自成は汴を破ると急に西へ転じ、襄陽を根拠地とすべく攻略を図った。当時、良玉は樊城に籠って大量の戦艦を造り、襄陽一郡の民を駆り出して兵を補充していた。賊将の恵登相・常国安・馬進忠・馬士秀・杜応金・呉学礼らが皆これに付き、士馬はいよいよ増えたが、親軍の愛将は死に、降人は統制に服さず、左自身も気力が衰えて病がちとなり、もはや自成と戦えなくなっていた。
- 自成が勝ちに乗じて攻めると、良玉は南岸に退いて水寨を結び、砲撃を交わした。賊は江に臨んで馬を進め、水がたてがみや腹に届いても止まらなかった。一か所だけ浅い中洲があり、以前に献忠が渡った所だったので、良玉は一万の兵で守らせた。自成が十万を投じて争うと良玉は大いに驚き、夜のうちに逃げた。
- 水軍を率い、左に歩兵右に騎兵を配して武昌へ下り、楚王に見えて「二十万の兵と糧をくだされば、王のために境を保ち城を固め、楚は安泰でいられます」と言った。王は口をつぐんで答えられなかった。良玉は兵を放って大略奪を行い、その火光は江を照らした。士民や宗室は通山・崇陽のあたりへ逃げ、多くが土着の者に害された。駅伝道の王楊基は財貨をまとめて先に城門を破って出たが、船を出す前にすべて左に奪われ、子女もみな左軍に取り込まれた。
- 良玉は十二月二十四日から正月十六日まで武昌にとどまり、そこから出発した。軍船が江を覆って下り、五昼夜のあいだ九門は固く閉ざされた。住民は蛇山に登って眺め、皆が「左の兵が過ぎた」と叫んで生き延びたことを喜んだ。
江南の震駭と李邦華の説得(崇禎十六年・1643年)
- 漢陽から下流では降将や叛兵が各地に群れ集まり、左軍の名を騙って略奪した。蘄州の守将・王允成が実際の乱の首魁であった。左の中軍がまだ小孤に達しないうちに、允成は賊の白貴らを収めて先鋒とし、すでに建徳を破り池陽を劫かして蕪湖から四十里の地点まで来ていた。
- 水軍は三山・荻港に泊まり、漕船や塩船をことごとく奪って兵を載せ、「諸将の財を南京に預ける。腹心三千人を伴って入りたい」と称した。文武の操江が江上に軍を並べて守りを固め、士民は一夜に何度も逃げ移り、商旅は途絶えた。南京兵部尚書の熊明遇はうろたえて策を出せなかった。
- 都御史の李邦華はもと南京の枢臣で、召命を受けて家から出て湖口を通りかかり、変事を聞いた。浙江から京口を経て北へ回るよう勧める者もあったが、邦華は「何ということを言うか。大臣の身で東南が決裂するのを座視し、袖手して去れるものか」と叱った。
- 邦華は舟によりかかって檄を草し、良玉に正面から告げた。「本部院は四朝の老臣、多難の時に遭って身を国に投じ、貴鎮が我と仇を同じくすることを仰ぎ望んでいた。ところが麾下の全軍が南へ潰走し、通過した先で殺掠して陵京を震駭させていると伝わる。なぜこれほど軽々しく動くのか。列聖の英霊と主上の神武があれば、群れなす醜類は遊魂にすぎず、斧鉞にかけられる日も遠くない。貴鎮はこの時に戈を枕にし剣を研いで病を押してでも賊を討つべきなのに、みずから身を貶めて名を損なうのは本部院の解しかねるところだ。旧京の文武は気位高く弁も立つ。もし心事を察してもらえず弾劾の章が上がれば、何と申し開きするのか。海内の豪傑にはそれぞれ思惑があり、諸鎮や麾下の将領の中にも様子をうかがう者がないとは限らぬ。事を一つ誤れば身も家も辱め青史を汚して千古の笑い草となる。智者のすることではない。貴鎮は即日、兵を厳しく取り締まり、江路を通じ、舵を返して期日を切って鎮に還るがよい。欠餉の件は本部院が到着してから手当てする。断じて安慶より一歩も先へ進んで流言を事実にしてはならぬ」。
- 良玉は檄を得て心服した。また客分の李猶竜・胡以寧らが禍福を説き、「主上は廉頗・李牧のような将を得たいと膝を打っておられる。参内すれば功名を保全するよう力を尽くし、中山王が箱箧を疑われたような嫌疑を解いて、元侯として弓矢を賜る栄誉を得られましょう」と示したので、良玉は望外に喜んだ。
- 邦華が早馬で書を送り、皖の巡撫に九江の庫銀十五万を出させて六月分の兵糧に充てさせると、軍心は大いに落ち着き、南都はようやく戒厳を解いた。
- 翌日、邦華は威儀を整えて左の陣営に入った。良玉は紅い袜首に韡袴、刀を握り矢を挿して舳先にうつむき立った。邦華が辞退すると、師弟の礼で会見した。良玉は楼船に座を請い、士馬を大閲した。邦華は諸将をねぎらい、部曲の姓名を尋ね、軍中に忠義を尽くして賊を殺すよう宣諭した。良玉は軍中に令して淫殺した者四人を斬ってさらし、掠奪した男女四千余人を解放し、漕船・塩船五百余艘を返した。別れぎわには余生を挙げて尽くすと誓った。邦華は退いて人に「東南に事あらば、この一軍は必ず働けよう。良玉は私を裏切るまい」と語った。
皖への駐屯と杜応金(崇禎十六年・1643年)
- 邦華が去った後、良玉は皖(安慶)で兵を休めた。皖の守将・杜弘域は杜文煥の子、杜応金は文煥の一族の子で、賊帥から左に降った者である。左の東下にあたって応金が先鋒となり、あらかじめ弘域に書を送って事情を伝えたので、皖も弘域も無事であった。左軍の兵で杜の麾下に逃げ込んだ者を杜が斬ったときも、客を介して詫び、鍵を捧げ鞭を執って従う姿勢を示したので、左はそのまま受け入れた。
- 張献忠は初め廬州を襲い舒城を陥れ、巣湖で船を造っていたが、左が皖に下ったと聞いて去り、矛先を楚に向けた。傅国都を陥れ、その王を江に沈めた。左はそのとき九江の上流にいて、君も民も蹂躙されるのをじっと見ながら救わなかった。それでも帝は責め問うことができなかった。
- 邦華は帝に見えたとき、「良玉の潰兵の罪は王允成をもって除いてほしい」と述べ、帝もそれによって允成に罪を帰し、良玉には叛を誅し変を鎮めた功があるとして賞した。允成は左の帳中を平然と出入りし、結局死なずに済んだ。
献忠の武昌焼き討ちと左の復帰(崇禎十六年七月〜八月・1643年)
- 献忠は七月二日に武昌を大焼きし、咸寧・蒲圻から岳州へ上った。良玉は十六日に兵を率いて湖口を出た。
- 湖口の県令・謝所挙は湘潭の人で気骨のある士であった。左の兵が来ると住民は魂を失い、逃げよと勧める者もあったが、令は笑って「恐れることはない、私が去ってどこへ行くのか」と言い、あらかじめ牛酒と飼葉・糧食を用意した。兵が着くと小舟で包囲の中へ突き入り、長くひざまずいて涙を流した。左が怪しんで「何か願いがあるのか」と問うと、「何もありません。ただ公から『早』の一字を頂きたいだけです」と答えた。左は笑って「話のわかる男だ」と言い、そのまま去った。
- 献忠が武昌を去った後、宝慶から下る者を劉兵、沅県から下る者を張兵、夔門から下る者を郭兵と称し、官軍の恢復を名目に偽官を捕らえ富人から搾り取り良民を剥ぎ取ったので、楚の人は生きた心地がしなかった。左の先鋒・馬進忠が到着してようやく少し収まった。
- 良玉は八月に武昌へ入った。城中の四十八の役所も民家もすべて焼け、もと礼部侍郎・郭正域の邸だけが残っていたので、そこに軍府を立てた。部下に旗を持たせて百姓を呼び戻し、軍船が下江で奪った貨物を安値で売って市を通わせたので、商賈が聞きつけて集まってきた。郡邑の太守以下、城も印も失って塢壁に潜んだり徒歩で家に帰ったりしていた者も、兵の到着を聞いて自ら出てくれば元の職に復した。
- 巡按御史の黄澍は権謀があり左と意見がよく合った。黄州の守・周大啓は献忠に壊された古城を修築し、沔陽知県の章曠は州民を率いて義兵を挙げ、これに呼応する郡邑もあって、楚の下流はしだいに立ち直った。
江西の攻防(崇禎十六年・1643年)
- 張献忠は湖南の諸郡をすべて陥れ、偽都督の張其在を江西へ向かわせた。楚の新任巡撫・王揚基は、献忠が長沙に駐まり残党が江西へ入ったと聞いて、兵をもって岳州を回復した。
- 江西巡撫の郭都賢が兵を率いて境界で防いだが、賊はすでに醴陵から萍郷の挿嶺を犯していた。官軍が黄花橋を扼すると、賊は別道から渡り、萍郷の県令は逃げて賊を入れた。張其在は瀏陽・万載から分かれて袁州へ向かい、袁の人々は門を開いて賊を入れた。
- 良玉は先に九江にいて、副将の呉学礼に袁州の救援を命じた。学礼が着くと賊将の邱仰が拒み守ったが、わが軍は高山から先登して仰を斬った。学礼は兵を放って大略奪し、袁・臨・吉の民で郊外の塢に籠る者は騒然として仇討ちに走った。都賢は学礼に引き揚げを命じ、自ら土地の人を募って戍らせた。
- 左の兵が撤退したと聞いて、張其在は長沙から突進して吉安を犯し、これを陥れた。吉水・永新・安福・泰和の県令は同日に逃げ、賊は再び袁州に入った。
- わが水軍の方国安が楚にいたころ、別将の王世泰・楊文富は、献忠が長沙から返して岳州をうかがわせた賊将と遭遇した。合戦になると賊は偽って敗走し、わが軍は輜重を奪って舟が進まなくなり、賊がそこに乗じて殺されたり溺れたりした者は数知れず、岳州は再び陥ちて江夏も震え上がった。
- そこへ良玉が馬進忠に歩騎を率いて進ませ、常国安・杜応金らが続いて発し、袁州を囲んだ。賊は門を突いて逃げ、二千を斬首した。また馬士秀・郎啓貴が水軍を率いて再び世泰・文富と合わせ、臨湘で賊を破り、追撃して岳州城下に及んで賊を大敗させ、袁州と岳州をともに収めた。これで江右と湖南はほぼ平定された。
李自成と左良玉の妻子
- 当時、李自成は荊襄・承徳・漢黄以上を跨いで領し、応・随に接する地域では塢壁の人々の多くが賊と通じて糧を送っていた。
- 良玉は先に許州が陥ちた際、妻と娘を自成に奪われていた。自成はこれを軍中に置いて手厚く養い、王四という配下に良玉の娘を娶せ、武昌へ遣って家族の無事を伝えさせ、それによって左を懐柔しようとした。左は応じなかったが、多額の金帛を持たせて帰し、結局これを殺すこともできなかった。
呂大器の総督と江西の失陥(崇禎十六年・1643年)
- これに先立ち、兵部侍郎の呂大器を江・楚・応・皖の軍務総督として侯恂に代える詔が下った。恂は任を解かれ、途中で逮捕され下獄した。良玉は自分のせいで旧督が再び罪を得たと知って鬱屈し、呂とは何かにつけて衝突した。
- 呂が頼みとしたのは李輔明・馬科の二将だけだったが、馬はすでに関寧へ転じ、輔明は用に足りなかった。柯・陳の二姓を募兵する案を立てたところ、皖の軍営と私闘になり、南昌の関廂が焼けた。呂は江西省城に高く座したまま、吉安の恢復を口実にごまかしていた。
- そのうち賊が建昌・撫州・南豊をことごとく陥れても大器は救えず、左軍からあざけられた。賊将の先鋒・艾四が嘉魚に屯して鋭かったので、馬進忠は三十六湾で戦って敗れ、蒲圻で再戦してまた敗れ、左軍の勢いも振るわなくなった。
- ちょうど献忠が荊河から蜀に入ったので、良玉は兵を出して追わせ、荊州の七十里手前まで進んだ。荊襄で賊が守る地では、自成が西へ関中に入ったと聞いて守備が緩んでいた。左は副将の盧光祖を随州・棗陽・承徳へ上らせ、恵登相は均州・房県から、劉洪起は南陽から賊の背後を挟み、空になった地を収めて恢復の功を自分のものとした。
寧南伯への封爵と進兵の上奏(崇禎十七年正月〜二月・1644年)
- 十七年正月、帝は良玉を寧南伯に封じ、その子に平賊将軍の印を与え、功成った後には武昌を世襲で守らせることとした。あわせて特詔を下し、江督の大器とともに今どこに駐まり、どう進軍するのかを問責した。鳳陽の総督が合わせて殲滅にあたり、黔・粤の各督が分かれて救援し、楚・皖・江・沅の各撫が挟撃を担当することとし、先に査察を命じられていた科臣の左懋第が通りがかりに開戦を催促した。
- 良玉は日付を追って進兵の状況を条書きにし、疏を上げて奏した。「臣は十六年八月に武昌を回復し、江西に警報があると聞いて副将の呉学礼を遣り、十月十三日に袁州を回復しました。糧が絶えて兵が引くと賊が隙に乗じて再び拠ったので、臣は水軍をゆっくり出す策を定め、先に副将の馬進忠に騎兵を率いさせて陸路から進め、十一月二十七日に再び袁州を回復、十三日に萍郷を、十二月二日に万載を回復しました。ここを過ぎればもう楚の境です。五日に醴陵を、二十六日前後に長沙・湘潭・湘陰の諸処を回復し、偽の守道以下、尹先民らの官を捕らえました。次いで副将の馬士秀らに歩兵を率いさせ水路から湖南へ向かわせ、十六年十一月二十四日に岳州・臨湘を、十七年正月十六日に監利を、二十二日に石首を、二月十一日に公安を回復しました。臣はまた先に密かに副将の恵登相を調して所部を率いさせ均州から東下させ、十七年正月二十四日、登相は副将の毛顕文と協同して恵安を回復し、二十六日に随州を回復しました。三か月ほどの間に回復した府州県は十四か所。臣と監軍の職方司主事・李猶竜が前後して馳報しており、その疏は御前にあって照合できます」。あわせて江督の呂大器が兵を出さないことと、旧巡撫の王聚奎が狼狽して省城へ帰った有様を訴えた。
- しかし当時は道路が塞がり駅逓が遅れ、疏が届いて詔旨が下らないうちに、京師が賊に陥ちたとの報せが来た。
崇禎帝崩御の報と東下の拒絶(崇禎十七年・1644年)
- 良玉は崩御の凶報を確かめると、三軍に喪服を着せ、諸将を率いて朝夕に哭礼を行った。
- 翌日、諸将が進み出て請うた。「天下の事はすべて我が公にかかっています。今、南方で君を立てれば天子を挟んで詔を下してきましょう。定まらぬうちに兵を率いて東下すべきです」。良玉は胸を打って叫んだ。「ならぬ。武昌を代々守れとは先帝のご意向ではないか。先帝が天下を棄てられたばかりで、それに背くのは、国家の変事を幸いに自分の利を図ることだ。封疆の大臣は封疆を守るべきだ。南方で君が立てば、私は西の藩として尽くす。ここから一歩でも越える者があれば、良玉は死をもって誓う」。
- 蓄えていた金銀・綵物およそ二、三万をすべて出して諸将に分け、「これは皆、先帝の賜物である。国の厚恩を受けながら禍変がここに至った。良玉がどんな気持ちで独り占めできようか」と言った。良玉が哭くと、諸将も声を上げて哭いた。副将の馬士秀は奮い立って「公の令に従わず東下を口にする者があれば、私が撃つ」と言い、大艦に砲を据えて江を断ったので、衆はようやく落ち着いた。
- 良玉が蓄えを出すとき、その子の夢庚が惜しむ顔をした。良玉は「お前はこれを自分の物だと思っているのか。今これを分け与えるのは、そもそもお前のためなのだ」と言い、嘆息して「左氏はこの軍を代々持ち続けることはできまい」と言った。
南都の擁立と四鎮(弘光元年・1644年)
- 大学士の史可法・馬士英が策を定めて福藩の世子を南都に立て、寧南伯左良玉と靖南伯黄得功をともに侯に進爵し、子一人に錦衣衛正千戸の蔭を与えるよう奏した。高傑を興平伯、劉沢清を東平伯、劉良佐を広昌伯に封じ、得功とともに淮揚に藩を開いて四鎮とし、上流の任は左に専任させた。詔書が楚に届くと同時に良玉の賀表も届いた。
- そのころ李自成が関門で敗れ、楚の西境が付け入れる状況になったので、良玉はその隙に荊州・徳安・承天を回復した。承天は献皇帝の弓剣を納めた地であり、陵園の収復を左の功として、担当官に速やかに補給させよとの詔が下った。十六年の楚の兵糧不足額は四十万であった。
- 何騰蛟が楚の巡撫、袁継咸が江督となった。騰蛟は良玉とともに武昌を立て直し、心を合わせて固守した。継咸は李邦華が推挙した人物で、邦華が北都の難に死んだ後もその客だった李猶竜らが左の幕中におり、継咸は忠義をもって励ましたので、二人の交わりはよく合った。
左軍の実相
- 左の兵はおおよそ八十万、百万と号した。前の五営が親軍、後の五営が降軍である。春秋には武昌の諸山で調練し、山ごとに一色の旗印を定めた。左が射堂に大将の旗鼓を立ててぐるりと麾を振り一声かければ、旗を立てて並ぶ者で山谷が埋まった。閲兵の法は二人が馬を挟んで走らせるもので「過対」と呼び、馬の脚が地を震わせて雷のように響き、数十里先まで聞こえた。
- 南方が頼みとした四鎮のうち、東平・広昌は弱く、黄靖南(得功)だけが自ら敢闘し、高傑の士馬はその三鎮の十倍だったが、左軍から見ればみな遠く及ばず、当時は寧南が最強とされた。
- しかし朱仙鎮の戦いで左の精鋭は尽き、その後に帰属した者は烏合の衆で、雑役や炊事の者が大半を占めた。少し目端が利いて力のある者は一割の利を取って自活し、楼船が泊まればそこに質屋や屠殺、あらゆる商人が集まって軍中の市をなし、法令はまったく行き渡らなかった。識者はこれを用いるに足りぬと見ていた。
- 左は許州で家族をすべて失った。武昌の諸営では娼優が夜通し歌い舞ったが、元帥だけは寝台に独りぽつんとして、侍らせる女はいなかった。老いて病を得たころ、南方の楊生という医の巧みな者と、柳生という談笑の巧みな者を大いに気に入り、楊は上奏して武昌同知として守事を代行させた。柳生は官を望まず、客将として寝所に出入りする最も親しい存在となった。
- あるとき月夜に僚佐の李猶竜らと飲み、ある将官の営妓十余人を呼んで酒を注がせ、杯も履物も入り乱れた。しばらくして左が振り向いて咳払いし、順に退出させると、賓客は粛然として左右の者も顔を上げられなかった。百万の軍を率いて自ら身を正し、衆を率いて部下に服せられたのは、すべてこのような具合であった。
阮大鋮との確執と黄澍(弘光元年・1644年)
- 懐寧の光禄・阮大鋮は縦横の才を負いながら、閹党だったため廃されていた。帰徳の侯方域はかつて友人と連名で書を送ってこれを罵ったことがある。方域は侍郎・侯恂の次子である。左の兵が南へ潰走したとき、方域は陪都に寄寓していたが、大鋮は良玉を賊と言いふらし、侯を同じく謀反人と目した。左はその事情をすべて知って大鋮を恨んだ。
- 大鋮が馬士英に付いて起用され、朝廷こぞって反対したとき、四鎮は国是に参与していたが、左は一言も発しなかった。阮は権を握ると、でたらめを言い、左の客を通じて修好を装ったが、実は陰険で猜疑深かった。李邦華と侯恂はもと東林の党魁で良玉はその推挙を受けた身であり、いずれ左を借りて自分を難ずる者が出ると考え、ひそかに黄靖南(得功)と結んで支えとした。
- 左は武人でもとより党派のことを知らなかったが、板磯に城を築いて西の備えとするのを見て、「西に今さら何を防ぐことがある。まっすぐ私を防いでいるのだ。流れを下る策を考えざるを得まい」と嘆じた。
- おりしも朝政は日々混乱し、楚への兵糧も届かない。御史の黄澍が入朝して様子を見たいと願い出て、面奏で権臣に触れ、帰ってきたところを金吾に逮捕・処罰させようとした。左は澍を引き留めて送らず、亀裂はここに開いた。
- 諸将は日ごとに「君側を清めよ」と請うたが、左は「率いているのは乱人と降卒ばかりだ。幸い天子が下流におられるからその名分を借りて繋ぎとめていられる。もし東下を許せば、こいつらは有利な方へ散り去るだろう。再び統御できようか」と考え、黙って応じなかった。
- まもなく王之明の一件が起き、内外が騒然となった。楚の西辺からの報せも日に日に急を告げ、左の心も動いた。黄澍は三十六営の大将を召し集めて盟を結び、楼に登って密かに計画を練ったが、左はためらって決めかねた。中の一将が衣を払って立ち上がり、「疑いながらでは事は成りません。主帥がどうしても動かぬなら、我らだけで行きます。いつまでもここで鬱々としてはいられません」と言ったので、左はやむなくこれに従った。
諸将の分地と王之綱の暴虐
- 左は初め楚の地を各鎮に分け、恵登相が漢陽に駐まるほか、諸将にみな分地を与えたので、楚の人は大いに苦しんだ。
- 武昌県にいた王之綱はとりわけ残忍で、好んで人を食糧とし、裸にして木にかけ、煮え湯を注いで腸腑を洗い尽くしてから煮た。之綱の別号は摃子といい、百姓はその名を聞くだけで魂を奪われた。
- 楚の紳士で逃げられなかった者は、子女や財帛を差し出してあらゆる手で鎮将に奉り、免れることを願った。出発が近づくと之綱はそれらを全部取り上げたうえ、営中で棚に吊るして拷問し、あるいは二枚の門扉で挟んで屈強な兵にその上を歩かせ、賄賂を絞り取った。賄賂を出し切らないうちにあばらが折れ骨が砕けた者もあり、祝世英・樊維城といった人々はみなその地で死んだ。旧江西巡撫の劉宗祥は之綱と義兄弟の契りを結んでいたが、軍が出発すると財貨十余万を奪われて殺され、遺体すら見つからなかったという。
東下と九江での死(弘光元年三月・1645年)
- 左は乙酉三月二十六日、馬士英を討つとの檄を飛ばし、国を空にして進発した。漢口から蘄州まで、火光が天に接して二百余里にわたった。
- 九江に至ると袁継咸が舟中で会見に来た。座も定まらぬうちに岸に火の手が上がり、城が破られたと報せがあった。左右の者が「袁の兵が営を焼き、自分で城を破ったのです」と言うと、左は「これは我が兵だ」と罵り、深く悔いて胸を打ち、「私は臨侯に背いた」と嘆じた。臨侯とは袁の字である。数升の血を吐き、病は篤くなった。
- 諸将を召して言った。「私は朝廷に報効できず、諸君もあまり私の法制に従わなかった。だから憤り疲れてここに至った。思えば二十年、辛苦を重ねてこの軍を作り上げた。私の死後、死力を出して封疆を守るのが上、一地を守って尽くすのが次だ。もし散り散りに逃げるなら、国に背くだけでなく我が軍を辱めることになり、良玉は死んでも目を閉じられぬ」。諸将は皆哭いて犠牲を供えて誓おうと請うた。後営総兵の恵登相は血をすする段になって佩刀を抜き膝に横たえ、「我が公の百年の後、副元帥の号令に服さぬ者があればこの剣にかける」と言い、諸将は皆「諾」と答えた。副元帥とは夢庚のことである。
- 登相はもと降った賊で、いわゆる過天星である。左に再生の恩を感じて忠実な心を持っていた。左の没後七日で軍は東下し、恵は黒旗軍を率いて殿軍を務め、舟は岸に近づけず軍紀があった。しかし前鋒と中軍は大いに乱れ、彭沢から下流はすべて陥ちた。夢庚は制御できなかった。
- 兵が池州に至ると東風が激しく、黄得功がその鋒先を遮った。諸将は略奪に飽き、池州だけは破らずに残し、登相に書を送って「ここは後続の軍のために残しておく」と言った。登相は書を得て大いに罵り、「それでは以前に流賊であった頃と変わらぬ。先帥の末命をどうするのか」と言い、軍を撤して引き返した。夢庚は黒旗の船がしきりに西へ上るのを見て怪しみ、問いただして事情を知り、軽舟を求めて追いかけた。登相は会うと大いに慟哭し、夢庚は仕えるに足りぬとして、兵を率いて江を渡り去った。
- はじめ邱磊は斬罪となって刑部の獄につながれていたが、十三年に良玉が万金を投じて救い、死を免れた。侯恂が再び督師となったとき、山東総兵に推挙したが、劉沢清と折り合わず、罪を構えられて馬士英・阮大鋮に淮南で殺された。良玉が東下したのも磊の死が一因だったという説もある。
史論(外史氏曰)
- 思陵(崇禎帝)の末年、天下の帰趨は良玉にかかっていた。中原は崩れ、朝廷の法令はもはや行われず、我らを苦しめ得たのは自成が飢民を号召できたからであり、賊を死に至らしめ得たのは良玉が降った賊を招き寄せられたからである。
- 国のために計るなら、河南全体を良玉に委ねて速戦を求めず、天下の兵を集めて黄河・江漢・関を守り、良玉には屯田の粟を与えて耕しつつ戦わせ、長期戦に持ち込むべきだった。自成と力が拮抗するうえ天子の威光を借り、兵糧が続けば李際遇・劉洪起・沈万程らを収められ、勢いは日々強まったはずだ。自成の側は寄せ集めで、羅汝才・袁時中とも折り合わず人心が離れ、二年とかからず衆は左に帰したろう。功成った後に一州を分けて節度使に任じても、北へ向かって天下を争えるものではない。
- ところがそうした計を出さず、汴を救う一戦にこだわって敗れた。これは国を謀る者が将を御する術を知らなかった過ちである。
- 敗れた後は襄陽に退き、湖口で潰え、武昌に帰って、かつての猛気も実力もほぼ消え尽き、身は降兵・叛卒の手中に落ちていた。それを論者は「上流を専制しており必ず変を起こす」と憂えた。ああ、良玉の兵は昔の兵ではなく、将も昔の将ではない。天子が爵賞で我を繋ぎとめれば、我はそれで自軍を繋ぎとめる。彼が君側を清めて国柄を握れば志を行えると知らぬはずはないが、勢いがそれを許さなかっただけだ。
- 唐末の藩鎮はみな父子兄弟の兵だったから一方を専制し、戈を闕に向けられた。彼が百万の衆を率いて門を一歩出れば、たちまち崩れ散る。賊を働く者と同列に語れる相手ではない。
- 生涯をたどれば、機変を知り方略に富み、智将と言ってよい。ただ私意を用いて主君の意向を推し量り、軍心を取りまとめ形勢を張って身の便を図り、国法から逃れた。主君が亡び自身が病んで、部下にも背かれた。九江の舟中で自ら望みなしと悟ってから恩に背いたと嘆いたのでは遅すぎる。
- 曹文詔・黄得功は忠にして勇だが謀に長けず、良玉は謀は足りたが身を忘れて国に殉じる心がなく、座して禍乱を長引かせた。この二公に比べれば恥じるところが大いにある。それでも劉沢清のように権を侵し利を貪った者と同列に見るなら、寧南はやはり一時の傑物であり、十把ひとからげに棄て去ってよい人物ではない。
附紀・河南巡撫陳益吾の書簡
- 河南巡撫の陳益吾が同年(同期及第)の許霞城に宛てた書簡にいう。河南の事が壊れたのは、吏部が人のために土地を選び、土地のために人を選ばなかったからだ。要領のよい者は運動して閩・粤・浙・直の美職へ去り、無能で立ち回りを知らぬ者だけが名指しで欠員に充てられ、法令で追い立てられて赴任する。久しくすれば城という城が同じ有様で、一面の沈滞、地方は何の手当てもされない。賊が来れば山寨に避け、賊が去れば元のように城に入る。鄢陵・舞陽のように門を開いて賊を迎える例まである。中原の要地を手をこまぬいて賊に渡したのは、これが原因である。
- 督撫が賊地に臨む以上、副将や佐貳は才に応じて自ら選ばせ、腕と指のように動かせるべきだ。ところが近年、吏部が権を握って私を営み、守巡の標下の中軍まで一人残らず部の任命による。まして督撫は言うまでもない。部内の使い走りや偵探で老獪な者たちが恩を乞い献上して管事に任じられ、それを「酬労」と称する。この手合いは宦官の下働きか市井の遊民で、智勇の才もなく逃げ隠れの技だけは達者で、賊を見れば逃げ、事が破れれば取り繕う。部に後ろ盾があるのを頼み、日ごろの情実で少しでも叱れば流言を撒く。
- 兵を率いる大将ともなれば、官は功で授かったものでなく、勢いで気を張り、垣は堅く、去来は思いのまま。先年、左良玉に催促の文書を数十回出してやっと一度動き、賊を望むなり腕を振って去った類だ。だから私は「兵を調するのは客を招くよう、将を御するのは驕子を扱うよう」との疏を上げた。また李重鎮は賊一人殺さぬのに、旧枢部はその重賄を貪って何度も疏を上げて誇張し、左良玉が偽報で賊を避けたのを少し弾劾しただけで、朝堂で目を怒らせ腕まくりして「なぜ我が将官を困らせるのか」と言う始末だ。だから私は「将官が賊を殺さねば巡撫を罰し、巡撫が将官の不戦を弾劾すればまた巡撫を罰する」との疏を上げた。この類は数え切れない。
- 朱仙鎮の敗戦では、良玉が七千の衆で真っ先に逃げ出し、十八万の人馬が一斉に潰えて、中原の事はもはや問うべくもなくなった。ああ、誰のせいなのか。
- 思えば私は河南に入るとすぐ旧鎮臣の劉超に会い、使い物にならぬと見て棄て、また旧鎮臣の許定国を物色したが、さらに使い物にならぬと見て棄てた。ところが後に枢部はどちらも封疆に用い、今や許は逮えられ劉は叛いた。ひどいのは、旧司農がもともと将才でないのに保定総督に挙げられ、「左良玉を御し劉超を駆り使える」と言われたことだ。良玉に檄を出しても良玉は鼻で笑い、劉超はあからさまに難色を示した。保督が河北で兵を張り、秦督が潼関に駐まって、二軍が互いに表裏をなし、一方を正兵、一方を奇兵とする策も、保定の兵が黄河を一歩も渡らぬうちに秦の兵が先に虎の鬚をなでて函谷を出るなり大敗した。用兵の効とは一体どういうものか。
附紀・何騰蛟と南都の詔
- 南都の詔が武昌に届いたとき、楚の巡撫・何騰蛟は剣を身から離さず、「社稷の安危はこれにかかる。もし詔を開いて読まぬなら、この身は三尺の剣に付すのみ」と言った。折よく良玉の腹心の盧鼎が強く拝詔を勧めたので事は落着した。
- 良玉が黄澍の謀に従って東下するとき、騰蛟が謀に加わらないので、その印を奪おうとした。騰蛟は急いで印を解いて家人に渡し、早く城を出て奪われぬようにと命じた。良玉は四将に騰蛟を守らせ、無理やり同行させた。騰蛟は漢陽門に至ったところで隙を見て江に身を投げ、流れに乗って十里ほど、竹牌門で漁舟に救われた。岸に上がって見れば関帝廟であり、印を懐に逃げた僕もそこにいて、顔を見合わせて大いに驚き喜んだ。急いでその漁舟を探したが行方が知れず、神が救ったのだと語り伝えられた。