綏寇紀略塩亭の誅殺(鹽亭誅)

延安衛の武人の家に生まれ「黄虎」と呼ばれた張獻忠が、崇禎三年(1630年)に米脂で挙兵してから順治三年(1646年)に鹽亭で討たれるまでを追う。榖城で熊文燦の招撫を賄賂で買って再叛し、襄陽で襄王を殺して名を挙げ、舒城・廬州から武昌を落として西王を称し、湖南各地を席巻する。左良玉を避けて蜀へ入り、重慶・成都を陥れて大西を建て大順と改元するが、猜疑と虐殺で人心を失い、劉進忠の離反を機に清の大軍に襲われ、西充と鹽亭の境で射られて斬られる。

年表(29件)

崇禎三年 庚午 春二月(1630年)

  • 張獻忠の出自は明らかでない。延綏の帥・杜文煥がこの年の二月、延綏・固原の兵三千を率い、状況に応じて討伐と招撫を使い分け、黄甫・清水・木瓜の三堡を平定した。
  • 米脂の賊・張獻忠が拠っていた十八寨は、官軍到来を聞いていつわりの降伏を申し出た。

崇禎四年 辛未 冬十二月(1631年)

  • 延綏巡撫・洪承疇も党家坪で張獻忠・羅汝才ら千九百人を招撫したが、まもなく再び叛いた。

張獻忠の出自と人となり

  • 献忠は膚施の人で延安衛の籍にあり、代々の武人の家に生まれた。若くして従軍したが法を犯し、総兵・陳洪範に救われて助かったため、栴檀で洪範の像を刻んで祀ったという。
  • 賊となってからは羅汝才と行動を共にした。河北には「鄴台にまた鄴台、曹操がふたたび世に出る」という童謡があり、汝才は曹孟徳の名を借りて軍号とした。降っては叛くのは二人が挙兵したときからの常套手段で、のちの榖城の変を待つまでもなくその詐りは知れていた。
  • 献忠が左良玉を恐れるようになったのは南陽での一戦からである。官軍を装って南陽東関に駐屯し宛城をだまし取ろうとしたが、城門が開く前に良玉が到着した。先鋒に誰何されて献忠は狼狽して逃げ、副将・羅岱が追撃して矢を射かけ、一矢は額に当たり、もう一矢は左手中指を弓の支柱ごと射抜いた。馬が並んだところで良玉が刀を振るって顔を削ったが傷は浅く、二撃目を加える前に馬が走り去った。のち榖城で献忠はその傷痕を指し、「これは左将軍が南陽でつけたものだ」と人に語っていた。
  • 献忠は長身痩身、顔はやや黄色く、身軽で果断、任侠を好み、軍中では「黄虎」と呼ばれた。手勢三千はみな精鋭で、四営に分けて各営に一将を置いた。うち一人は片目で謀略に長けた薛姓の男、韓城の人で、首輔・薛國觀の一族の子弟にあたる。この男が日夜、降伏を約して富貴を得るよう献忠に説いた。

崇禎十一年 榖城の受降(1638年)

  • 献忠は、外に熊文燦、内に薛國觀という後ろ盾があれば招撫は万全だと考え、榖城に拠って降伏を願い出た。挙人・王秉真と諸生・徐以顯が理院に文書を出し、一族百人の命を担保に献忠に二心なしと保証した。
  • 熊文燦はこれを受理する代わりに、黄金千蹄・真珠一斗のほか莫大な財宝を賄賂として要求した。薛某は単騎で京師に走って宰相邸に出入りし、権力者たちにあまねく面会した。賄賂を拒んだのは大司馬・楊嗣昌ただ一人で、薛國觀以下は多くが私的に受け取り、献忠が賊であることなど気にしなくなった。
  • 献忠ははじめ新野の丁氏を連れており、さらに榖城の生員・敖某の妹を妻に迎えた。城外十里の王家河(以前に降人を受け入れて駐屯させた地)を「太平鎮」と改称し、「榖城の人々と共に暮らしたいのだ」と称した。
  • まだ兵を手放せないとして襄陽には入らず、境界の舟中で台使・林銘球を弓矢を携えて出迎え、礼儀正しく拝跪した。銘球も丁重にねぎらって帰った。榖城の士民は献忠が本心から降ったと信じ、道で祝いあった。
  • 熊文燦は福建の海で賊を招撫して重い賄賂を得た成功体験をそのまま榖城に持ち込んだが、恩義と威信で相手を操ることができず、ただ日々財宝をせびるばかりだった。献忠は配下に「私を鄭芝龍のように飼い慣らすつもりだ」と笑った。
  • 文燦は望むものを得ると、献忠のために官位・軍糧・関防を朝廷に請い、不足を恐れるほど尽くした。献忠はわざと無理難題を並べて横暴に振る舞い、文燦はそのつど言を左右にした。やがて朝議が割れていると聞いて文燦の態度が揺らぐと、献忠は「今度は劉香のように始末する気だ」と怒り、日夜、潘獨鼇・徐以顯と謀叛を謀った。
  • 潘獨鼇はもと応城の諸生で、地元の郷紳と田地を争って不満を抱き、県令を殺して反逆し賊に投じた者。徐以顯はもとより陰険狡猾で、献忠に会うや旧知のように打ち解け、軍事の進退はこの二人が実際に画策した。
  • 王秉真は死を恐れて従っていたが、公用の車を借りて北へ行くと称して逃れようとし、城を出たところを連れ戻され、結局脅されて乱に加担したまま死んだ。明経の敖某だけは殿試を受けたいと請い、献忠は年長者として遇して城を出させ、あとで追わせたが、敖は服を変えて別の道から逃れた。のち献忠が娶った敖氏はその一族の女で、明経はそれを知らなかった。
  • 方岳宗は太守・岳貢の兄、戸部の岳朝の従弟である。献忠ははじめ裕福とみて陣中に拘束し賄賂を求めたが、金がないと知り、しかも任侠で気概があり酒を好み議論を好む人物だったので、その家に逗留してよく打ち解けた。共に飲んで杯を干せと勧めると、方が「あまり飲ませるな、酒乱なのだ」と言い、献忠は「かまわぬ、痛飲して楽しめ」と笑った。方は酔って拳で献忠の背を殴り衣を引き裂いたが、献忠はその気概を壮として咎めなかった。
  • 叛旗を翻したとき、献忠は城頭に坐して百姓を駆り立て城壁の狭間を削り取らせた。方が遠くから「張敬軒将軍、助けてくれ」と叫ぶと(敬軒は招安のとき献忠が名乗った号)、献忠は手を振って「お前はまだ城を出ていなかったのか」と言い、急ぎ西門を開かせて方氏一族を老若すべて脱出させ、「遅れればもう間に合わぬ」と告げた。おかげで一族は助かった。
  • 献忠は残忍きわまる男だったが、榖城に長く住んだためか、叛いた日もさほど殺戮せず、壁に書き置きを残して楚の人々に告げた。自分の叛乱は総理(熊文燦)のせいだと弁明し、賄賂を受け取った官の姓名を列挙し、その下に受領の日付と額を記した。そして「襄陽道の王瑞旃だけは私の金を受け取らなかった、ただ一人だ」と書いた。読んだ者は恥じ入った。

崇禎十一年 冬 戊寅(1638年)

  • 榖城の人々は、李自成が敗れて数十騎で榖城を通り過ぎるのを目撃した。献忠は酒を振る舞い、半ばで背を叩いて笑い、「李兄も私と一緒に降ってはどうだ、なぜあくせく逃げ回る」と言った。すでに献忠には叛意があった。自成は天を仰いで「それはできぬ」と答え、献忠は衣服と馬を与えて去らせた。
  • 榖城の人々はこれを挙げて熊文燦を責め、「采配さえ適切なら献忠は闖賊を縛って手柄にしたはずだ。小利を取って大賊を逃した、文燦の肉を食っても足りぬ」と言った。

崇禎十三年 瑪瑙山の戦と襄陽の獄(1640年)

  • 瑪瑙山の戦で献忠の妻・敖氏と高氏が捕らえられた。高氏は嬰児を抱えていた。諸将は彼女らを着飾らせ、奇貨として献忠の急所を握ろうとし、閣部・楊嗣昌は襄陽の獄に収容した。
  • 潘獨鼇は秦将・鄭嘉棟が大坪溪の山狩りで捕らえた。姓名を偽って「黄岡の劉若愚、督師に会って献策したい」と名乗り、来ると悠然と歩いて自分は世に出そこねた者だと称し、天下を治める方略があるが不幸にして賊に陥り今こそ帰順すると述べた。嗣昌は「お前の才学は張献忠に使い尽くされたはずだ。朝廷に用いる余りがあるか。献忠は文字を知らぬ。飛檄を書いて天に逆らい国を罵ったのはお前だ。死んでも罪は余る」と難詰し、独鼇はうなだれて従った。書記の尹曰鳳は早く殺すべきだと言ったが容れられず、先に捕らえていた敖氏の兄と養子の惠二とともに襄陽の獄に繋いだ。
  • 襄陽太守・王承曽は年若く軽薄で、毎晩の点呼のたびに敖氏・高氏の美貌に見とれ、賊中の事情を尋ねると称して笑い興じた。獄吏の多くが賊と通じており、潘獨鼇らは枷を外され酒肉をあてがわれて出入り自由となり、警備はまったく緩んだ。嗣昌が献忠の神出鬼没を警戒せよと文書で戒めても、承曽は「まさか飛んで来られまい」と笑っていた。

崇禎十四年 二月 襄陽陥落(1641年)

  • 献忠は開県で官軍を破ると東へ走り、雲陽から浄壁を経て夔州に至り乾溪に泊まり、一昼夜で三、四百里を進んだ。巫山を攻めて落とせず蜀を出て、房県・竹山から遠安・当陽へ向かった。鄖陽巡撫・袁繼咸が阻もうとしたが止められなかった。
  • 賊は汝才を鄖に残し、自ら軽騎で宜城に下り、途上で督師の軍使を殺して通行証を奪い、夜に襄陽の城門を叩いた。襄陽道の張克儉が受け入れて承天寺に泊まらせたところ、夜半に承天寺から出火し、文選台・襄王府の端礼門も燃えた。潘獨鼇は牢を破って敖氏・高氏を連れ出し、献忠は入城して襄王を殺した。
  • 全軍が到着しておらず左良玉の追及を恐れたため、城内にあった張伯鯨の軍資金数十万にも手をつけず、二日で立ち去った。

崇禎十四年 三月 光州・汝寧(1641年)

  • 樊城を破り、引き返して当陽・郟県を破り、汝才の兵を呼び寄せて東へ下った。三月二十一日、飛梯で光州の北城に登り、翌日には南城にも入った。汝寧以南の商城・羅山・息県・信陽はほとんど壊滅した。
  • 楚の巡撫と京営の兵が蘄州にいると聞き、固始の西関を焼いて軍を二分し、一隊は茶山へ、一隊は応城へ向かわせ、徳安を蹂躙して皇陵を狙おうとした。徳安の守将が出撃し、賊は砲と矢で多数討たれた。応城・応山はいずれも落ちなかった。

崇禎十四年 四月 隨州陥落(1641年)

  • 隨州知州・徐世淳は密使を三度も郢に走らせて救援を求めたが、楚の巡撫が出した別働隊は巡道の趙某が郢の守りに留めて派遣しなかった。
  • 四月二十五日、賊は北城を破って侵入。世淳は馬を進めて市街戦を戦い、胸を貫かれ股を刺されて死んだ。子の肇梁も死に、二人の妾と家僕あわせて二十人が殉じた。

崇禎十四年 五月 南陽・泌陽(1641年)

  • 左良玉が南陽に進駐して西山で賊を追い、賊は敗走した。献忠と汝才は兵を合わせて南陽を攻めたが、知府・顔日愉と指揮・王汝章が防ぎ切った。日愉は力尽きて没した。
  • 献忠は信陽を破って左軍の旗を奪い、部下にそれを掲げさせて泌陽へ向かわせた。六日夜の大雨に紛れて入城し、泌陽知県・王士昌は屈せず死んだ。翌日ようやく左良玉が到着したが賊はすでに去っていた。良玉は兵の統制をせず、賊から逃れた泌陽の民は官軍に遭って一人も生き残らなかった。
  • 賊は唐県を囲み、ついで再び応山を攻めた。応山の民は狩猟の弓に長け、矢に毒を塗って人体に触れると肉が爛れたので、再度の攻撃も実らなかった。

崇禎十四年 七月 鄖陽・鄖西(1641年)

  • 七月、献忠が鄖陽を囲んだが、降将・王光恩が守りを固めて出撃し多数を殺傷したので、献忠は逃げ去った。ところが総兵・黄得功の麾下の叛乱兵が賊に投じて勢いを盛り返した。
  • 良玉は馬進忠・呉學禮・杜應金らを率いて追ったが、南陽まで来て疲弊し前進できなかった。献忠はまた逃れて鄖西へ向かい、鄖西では守将の兵が反乱して守備が崩れ、賊が入り込んだ。
  • 鄖西を落とすと群盗が万を数えるほど集まり、東へ信陽まで略奪しながら進んで連勝に驕り、左良玉など恐るるに足りぬと言うようになった。

崇禎十四年 八月 信陽の大戦(1641年)

  • 先の瑪瑙山の戦では、良玉は実のところ献忠を取り逃がしていた。しかし諸将が軍資金を襄陽に集め、その襄陽が陥ちて献忠が妻子を殺したため、左軍の兵は恨みを募らせ躍起になって戦いを望んだ。
  • 八月、良玉は南陽から進撃し信陽で大戦、賊の頭目・沙某を斬り、馬一万余頭を奪い、数万人を降伏させた。献忠は股を射られて重傷を負い、夜陰に乗じて東の郢へ逃げた。巡撫が前を塞ぎ、馬進忠が後ろを追い、龍岡・蘇家坂・兎兒溝・五股泉で四度戦って大きな戦果を挙げた。
  • 献忠は傷のため馬を駆れず、婦女子を守って一日数十里しか進めなかった。良玉が鄖の北から追撃し、賊はもう手中というところで、補給が興安に滞り、興安から信陽までの百二十里が五日五晩の大雨で川が増水し谷道が寸断され、文武の将吏が数十か所に分断されてしまった。その間に賊は南陽から抜け出した。

崇禎十四年 秋 諸軍の追撃と革左五営(1641年)

  • 丁啟睿は楚の巡撫に蘄州・黄州を、河南の巡撫に光州・固始を押さえさせ、馬進忠を隨州へ向かわせて賊の東を牽制し、猛如虎を安慶方面へ向かわせて西を防ぎ、督師の左軍は手分けして急追し残党掃討にあたらせた。
  • 羅汝才は献忠に不満を抱き、先に内郷で陣を移して別の道から李自成のもとへ去った。献忠の先鋒八哨も自成に横取りされた。間諜は「献忠は上津の連三坂におり、矢が脛を貫いて騒ぎになり、すでに死んだ」と伝えたが、調べると商城・固始の山中にいた。
  • これより先、革左五営は英山・霍山の谷あいに逃げ込んでいた。監軍道・楊卓然が降伏を説いて侮辱を受け、賊は潜伏と叛乱を繰り返し、林に隠れて暑気を避け、山焼けの季節には山に入り、秋になると出てくるのを常とした。山中の県の長官は印綬を携えて川辺の中洲で執務し、集落は荒れ果てて人通りも絶えた。
  • ただ桐城だけは官民が城を修復して固めた。安慶の将・李自春、廖應登、汪正國らは賊に内通し、桐城救援を名目に道中で略奪したので、賊はますます勢いづき、家々を荒らし村を焼き、潜山を蹂躙して県令を殺し、隙をみて羅田・光山のあたりを堂々と行軍し、険しい隘路を越えて献忠と合流しようと図った。楚の兵はこれを刀山・燈草坪・茶溝で遮り、通過させなかった。

崇禎十四年 九月 東界嶺・望雲寨(1641年)

  • 献忠も敗走の身であったため革左と結ぼうとし、九月、商城の牛市畋を出て英山へ向かった。商城・固始の官軍は東界嶺に厚く陣を敷いて待ち構えた。やがて監軍・孔貞訓と副将・王允成が望雲寨で献忠を大破し、その手勢は道々散り果てた。
  • 献忠は羅汝才を頼って李自成のもとへ逃げ込んだ。襄陽陥落のころは自成より威名が上だと自負していたが、敗れて身を寄せたときは従う者わずか数十騎。自成は部下扱いしようとし、献忠は屈しなかったので殺されかけた。汝才が「生かして漢東を荒らさせ、官軍の兵力を分散させればよい」と強く止め、五百騎を与えて「早く東へ行き革左と合流せよ。ここはお前のいるべき地ではない」と追い立てた。
  • 献忠は東へ走り、途中で一斗榖・瓦礶子ら諸賊を糾合し、うわべは自成を盟主として推戴した。自成の兵力はいっそう強大になった。項城の敗戦で傅宗龍が戦死し、丁啟睿と左良玉が開封救援に向かった隙に、献忠は英山・霍山へ走り、革左と約を結んで大いに喜んだ。

崇禎十五年 三月〜四月 舒城・六安(1642年)

  • 十五年三月、両者は合流して舒城を包囲した。舒城は県令が欠員で、参将・孔庭訓と地元の郷紳で編修の胡守恒が共に防備にあたった。庭訓の兵が乱暴狼藉を働いたため舒城の人々に追い出され、怒った庭訓は賊に降り、衝棚で城壁に穴を掘る戦法を教えた。数か所を掘り抜かれたが、守恒が指揮して塞いだ。賊は降伏を勧める矢文を射込んだが、守恒はそれを城壁で焼き捨てた。
  • 四月三日、城が陥落。賊は守恒の腹を矛で突き、数十の傷を受けて死んだ。
  • まもなく六安州も守りを誤った。州には四川出身の将・覃世勛、乙邦才、王憲が守備についていた。献忠は河南の賊・袁時中と示し合わせて板山に屯した。覃世勛は知州・朱謀赤于廷を拳で殴って州民に追い出され、そのまま賊に通じて城は陥落した。献忠は郊外の蓮花寨の住民を徴発して兵力を増した。

崇禎十五年 五月 廬州(1642年)

  • 五月、献忠が廬州を陥とし、太守・鄭履祥が死んだ。献忠は舒城の七里河・汪家灘に屯して土地の者に麦を刈らせ、騎兵を廬州から八十里の白露寺まで進めていた。
  • 廬州の道臣・蔡如蘅は貪欲で民に苛酷だったため人心が離れ、賊の間諜が城中に満ちても気づかなかった。学政使・徐之垣が試験のため来ていたところ、賊は書箱と筆を携え儒者の身なりで城に入り込み、三更に鎧を巻いて城へ走り、城上から火を挙げて呼応した。之垣・如蘅と合肥県令・湯登貴は城壁を縄で下りて逃げた。廖應登は城壁を守っていたが、賊が登ってきてもなお兵をまとめて市街戦を戦い、十数人を殺して脱出した。太守は兵に囲まれて殺された。
  • 献忠はついで無為州を陥とした。

崇禎十五年 六月〜七月 廬江・六安・巣湖(1642年)

  • 六月、献忠は廬江を陥とし、舒城の白馬・金牛洞に戻って屯し、巣湖で水軍を訓練した。老哨三十二営と小哨二十四営を合わせ、皖口に集結した。
  • 七月、ふたたび六安を陥とし、捕らえた男女すべての腕を切断した。盧九德が黄得功・劉良佐の兵で救援に向かい夾山に陣したが、二度戦って敗れ、江南は大いに動揺した。
  • 当初、漕運総督・朱大典が五営の討伐を専任されたが功なく免職。代わって髙斗光が鳳陽総督となったが、半年で五城を失い、給事中・時敏に弾劾され、安慶巡撫・鄭二陽ともども逮捕・処罰された。そこで左遷されていた馬士英が起用されて後任となった。
  • 兵部侍郎・馮元飈が帝に言上した。巣湖は周囲八百里、二つの濡口を経て長江に達し、孫呉が砦を築いて曹魏と覇を争った要地である。これを捨てて賊に与え、船を手に入れさせ天険を窺わせれば、南都が危うくなる、と。

崇禎十五年 九月 潜山の大敗(1642年)

  • 九月二十四日、総兵・黄得功、劉良佐らが潜山で献忠を大破し、六千余の首級を挙げた。
  • 献忠は巣湖にいたとき樅陽を焼き、商船百余艘を奪い、船乗りを募って南下を図っていた。得功の到来を聞いて古城長嶺(潜山の険阻な地)に陣を移した。得功らは夜半に到着し、山の背から鬨の声を上げて登った。賊は大混乱に陥り、崖や谷を越えて逃げ、官軍は追撃した。古山・天井湖・老鸛頭・黄泥港まで六十里、屍が無数に横たわり、家畜数万を奪い、避難民数万人を救い出した。賊の腹心の謀士や妻子までことごとく失われた。
  • 賊は西へ散り、近道して桐城を攻めたが落とせず、蘄水へ走った。官軍は鳳陽・安慶が急なので東の備えを優先して去り、潁で袁時中を撃った。

崇禎十五年 十一月〜十二月 太湖・桐城・黄梅(1642年)

  • 十一月、献忠は隙を突いて天堂山から出撃し、三祖寺まで陣を進め、三百騎で太湖県を襲って破った。十二月には桐城を攻めたが落とせなかった。
  • このころ左良玉は襄陽で李自成を避け、武昌から東へ下り、楚の兵をすべて引き上げて連れて行ったので、蘄州・黄州の諸城は鎧も着られぬ民兵をかき集めて守るありさまだった。献忠はこれを聞いて潜山・太湖を捨て黄梅を攻め、知県事の張聯芳は逃走。太白湖に逃げ込んだ民だけがかろうじて助かった。
  • 献忠は勇猛だが猜疑心が強く、以前に汝才と仲違いしたのもこのためで、革左とも結局は結びつかなかった。

麻城の里仁会と新営

  • 楚の士大夫は家僕の多さで天下一、なかでも麻城が楚随一だった。梅・劉・田・李の名門は家僕が三、四千人を下らず、郷里で威を張ってその驕りは甚だしかった。
  • 賊が起こると、思斉が家僕を隊伍に組んで防衛にあて、配下に同志を糾合させ、牲を埋めて盟い「里仁会」と称した。各家が競って甲冑を飾り立てて誇示したところ、この家僕たちはかえって主人たちを焼き殺し、旧主を斬って賊に投じた。献忠はこれを「新営」と名づけ、道案内として重用した。蘄州・黄州の凶悪な若者も多く加わったので、この十数城が受けた賊禍はとりわけ酷かった。

崇禎十六年 癸未 正月〜三月 蘄州・蘄水(1643年)

  • 十六年正月、広済を破り、ついで蘄州を破った。三月には蘄州が再び虐殺され尽くした。
  • 蘄州では事前に、雀が万羽も南城の濠端の木々に落ち、火器が点火せずひとりでに暴発し、幽鬼が白昼に城壁の上で馬に乗って人をからかうという異変があった。守道・許文岐が防備を敷いたが、楊・毛の二将が言い争って不和となり、鎮筸の兵が内応した。文岐は捕らえられ望華山まで連行されたが屈せず死んだ。
  • 荊王は前年に薨去しており、桂妃と世子は九江へ逃れて難を免れた。黄州の南城門は五日にわたって哭き声が聞こえたという。
  • 三月、蘄水を破った。黄州の人は知らせを聞いてみな逃げたが、女たちは逃げ遅れた。二十四日、賊は入城して美しい女を選び、城壁の取り壊しに駆り立て、動きの鈍い者は指を切り腕を落とし、血が壁に滴った。三日で城を平らげると、女たちを殺して濠に投げ込み埋めた。
  • 黄州の悪党・張以澤は事前に無頼を集めて賊を迎え入れ、生員・李時榮は賊の馬前に拝して降った。

崇禎十六年 四月 麻城・漢陽(1643年)

  • 四月、献忠は麻城を続けざまに破った。里仁会の首領・湯志は諸生六十人を殺し、そのうち自分に与する周文江を推して賊に応じさせた。賊は麻城を州に昇格させ、文江を知州とした。もと金吾の劉僑は妾二人と数万金を献じて命を免れた。
  • そこで張以澤・李時榮らが長江渡河を献策し、星辰湖の漁民を集めて渡し舟を用意させた。賊の漢陽攻撃は急を告げた。
  • 武昌では賀逢聖が長史・徐學顔を伴って楚王に謁見し対策を協議した。王は宦官に命じて高皇帝の分封のとき下賜された金張りの椅子を一脚出させ、「軍資はこれだけだ、ほかにない」と言った。逢聖は泣いて退出した。
  • 武昌参将・崔文榮は気概ある人物で、「事態は切迫している」と嘆き、密かに兵を渡らせて賊を襲い六百級を斬ったが、衆寡敵せず引き返した。漢陽は陥落した。
  • 楚の士民や宗室で、はじめ通城・崇陽の山中に隠れた者は土地の者に苦しめられ、家族を連れて戻ってきた。江上の兵を引き上げて籠城しようという議が出たが、文榮は「城を守るより川を守るべきだ。団風・煤炭・鴨蛋などの中洲は浅くて馬の腹にも届かぬ。そこを渡らせておいて籠城しても座して困窮するだけで策ではない」と言った。

崇禎十六年 五月 武昌陥落(1643年)

  • 五月五日、賊は団風から渡って武昌県を襲い占領した。県は省城から百里で、町は無人だった。賊は樊口に軍を進め、文榮は郊外に陣して洪山寺で防いだが、やがて兵をまとめて城内に入り、副将の胡某に洪山を守らせた。このとき賊の本営はまだ長江の北にあった。
  • そこへ楚王府の募兵官・張其在が罪を得て笞刑を受け、賊に投じて軍情をすべて漏らした。李時榮の一族は省城に住んでおり内応を約した。
  • 二十三日、賊の全軍が鴨蛋洲から渡り切って葛店に陣し、二十五日には先鋒が華容鎮に達し、翌日洪山に至った。胡副将は城内に退き、賀逢聖と崔文榮が武勝門に拠った。
  • 二十九日、賊が城壁に取り付いた。文榮は力を尽くして防いだが、賊は金沙洲を大いに略奪し攻撃はいよいよ激しくなった。道臣・王揚基は矢文を回して門を開けさせ、漢陽に用があると偽って推官・傅上瑞ともども城を捨てて逃げた。楚王府の新兵が保安門・文昌門を開いて賊を引き入れた。
  • 文榮は出撃していて、戻ったときには城門が閉ざされていた。鳳凰山に馬を乗り入れ、矛を持って大喝し三人を殺したが、賊の槍衾に脇腹を貫かれて落馬した。徐學顔は左腕を切り落とされてもなお右手に刀を持ち倒れず、ついに八つ裂きにされた。游撃・朱士鼎は左右の手を斬られて捨て置かれたが、腕に筆を縛りつけて書き残してから絶命した。
  • 賀逢聖は衣冠を正して北に向かい再拝した。賊は「これは賀仏さまだ」と手を振って去らせようとしたが、逢聖は「大臣たる者、生き恥はさらせぬ」と言い、また北に拝して哭し、滋陽湖の王会橋の下に身を投げた。遺体は百七十日沈んでいたが腐らなかった。
  • 武昌通判・李毓英は一家そろって首を吊り、郷紳の馮雲路・熊雯は賊を罵って死んだ。明という生員は妻子を井戸に追い入れ自分も続いたので、人はその井戸を「明井」と呼んだ。
  • 楚王は捕らえられて長江に沈められ、妃は自殺した。献忠は王府の蔵の金を見て、「これほどありながら守りを固めなかったとは、朱鬍子はまったくの愚か者だ」と嘆じた。
  • 賊は「宗室で降伏を届け出た者は殺さない」と布告した。楚の宗室は多くが名簿を出して従い、庶民までまぎれ込んで助かろうとしたが、いざとなると白刃が振り下ろされ、弁解しようとしたときには首が落ちていた。それより先、道で「豚の群れを屠る者どもが来るぞ」と叫ぶ異人がおり、その通りになった。
  • 男子は十五歳以上二十歳以下を兵に登録し、残りは数珠つなぎにして殺した。斬る者の手首が外れるほどだったので、偽って漢陽門を開き逃がすふりをした。門は水に迫っており、人々は喚き合い踏み合い、そこを鉄騎が取り囲んで押し詰めた。長江は鸚鵡洲から道士洑まで浮かんだ屍が蟻のように動き、水が流れぬほどだった。ひと月余りで人の脂が数寸の厚さに積もり、魚も鼈も食えなくなった。
  • 女は別に集められ、飛び抜けた美人は「婆子営」に入れられた。ここにも隊長を置いて賊の頭目に監督させ、その稼ぎを軍費に充てた。

崇禎十六年 武昌の偽政権(1643年)

  • 献忠は楚王府に居座り「西王之寶」の印を鋳造し、武昌を天授府、江夏を上江県と改めた。周文江を兵部尚書、張其在を総兵・前軍都督、李時榮を巡撫、謝鳳洲を守道、蕭彦を巡道、陳馭六を学道とし、偽の辞令と印を与えた。周綜文を天授府知府、沈會霖を漢陽知府、黄元凱を黄州知府とした。
  • 科挙を開いて七十八人を採り、二十一の州県官とその補佐に任じ、それぞれ差をつけて銀を賞与した。使者を送って興国州の柯・陳二姓の兵を降し、湯志を偽の遊撃として麻城を守らせ鳳陽・安慶に備えさせ、張以澤を偽の総督として蘄州・黄州に鎮させた。李時榮が死ぬと謝鳳洲を代わりに充てた。
  • 漢口の人・周五をその地の首長としたが、富人の多くが逃げ隠れたので、兵を出して捜索し千余艘を捕らえ、水に飛び込んで溺れた男女は数知れなかった。
  • このころ李自成の兵が漢陽に至り、献忠が先んじたと知って怒り、書を送って脅した。
  • 一方、左良玉は軍を率いて西上し、総兵・方國安、副将・徐懋德、馬士秀を派遣して蘄州の黄石港で賊を破った。楚の諸生・程天一は郷兵二万を集め、夜に大冶で賊を撃ち、偽知県・奚鼎鉉を捕らえて殺した。沈會霖は風聞を聞いて逃げた。官兵が黄州に進むと、白雲寨の長・易道三が偽知府・黄元凱を捕らえ、黄州は回復された。
  • はじめ献忠は武昌に拠って大望を抱いたため、属城ではさほど殺戮せず、黄鶴楼に詩を題して部下に唱和させたり、金を出して武昌・漢陽の難民を賑わせたりして人心を偽って収めていた。

崇禎十六年 武昌奪回と献忠の西走(1643年)

  • 楚の官軍が集まりつつあると聞くと、献忠は張其在・謝鳳洲らを城の守りに残し、養子の四虎を金沙洲に駐屯させ、自らは主力を率いて金口に浮橋を架け、全軍で西へ渡った。軍を三分し、一軍を白羅山、一軍を白石磯、一軍を蒿洲に置き、水軍を湖中に屯し、馬を山谷に休ませ、岳州・長沙を狙おうとしてまだ発たなかった。
  • 左営の諸将・毛顯文、常國安、郎啟貴、于自成、段鳳翔、秦天禄らが陣を連ねて前進し陽邏堡に宿営すると、蘄州・黄州の四十八寨の民兵がみな呼応した。常國安が水軍で先行すると賊騎百余が両岸から射かけたが、國安は白雲閣から金沙洲まで転戦し、四虎は先に逃げ、官軍は船百艘を奪い、賊騎は逃げ返った。
  • その夕方、官軍は漢口に退いて屯し、翌日各門を攻めた。賊が漢陽門を開いて出撃してきたのを鰐魚套で迎え撃って破り、その勢いで入城した。張其在は黄鶴楼と宗人府の邸宅をことごとく焼き、賊を率いて保安門から西へ逃げ、追撃を防ぐため王恵橋を断った。謝鳳洲は自殺し、漢陽の偽知県・燕某、蒲圻の涂良極、黄岡の王爾忠らはみな捕らえられた。
  • 鳳陽総督・馬士英は寿州に屯し、六安の諸生・黄鼎を潜入させて麻城の諸寨を工作した。劉僑・田生蘭・周從極らが周文江を説いて明側に寝返らせ、賊将・方子雄を鰐魚套で斬り、湯志を捕らえて四つの罪を数え上げて磔にし、首を寿州に送った。
  • 官軍の別働隊が興国・大冶を平定し、監軍道・王瓆が武昌に屯し、沔陽知州・章曠が漢陽に駐屯した。黄安・黄陂ではいずれも偽の県令が自殺し、上流三郡はすべて平定された。
  • 献忠はすでに西へ向かっており、左軍の鉄騎営が金口で追いつき、殿軍の偽総兵・鄧雲程を捕らえて殺した。

崇禎十六年 岳州・陳陵磯(1643年)

  • 献忠はこのとき咸寧・蒲圻を陥とし、岳州は大いに動揺した。沅州巡撫・李乾德、総兵・孔希貴、監軍道・許璟が兵二万で陳陵磯を守った。
  • 乾德は計略で賊を破ろうと考え、住民に妻子を差し出させ壮士と良馬を隠し、父老を装って降伏を約させた。入ってきた賊の先鋒を全滅させ、四人の耳を削いで送り返した。賊は激怒して死に物狂いで攻めてきた。
  • そこで林に隠れて旗を立てて疑兵とし、大砲を埋めて薪で覆い隠した。賊が誤って松明を掲げると砲が炸裂し、銃兵五十騎が吹き飛んだ。さらに巨艦を川の中流に置き、矢石の届く距離を測って前進させなかった。賊が連弩を撃ち続けて矢が尽きかけたところを突撃し、三戦三勝した。
  • しかし賊は交代で休みながら二十万の兵を駆り立て、あらゆる道から攻め上ってきたので支え切れなかった。乾德と璟は逃げ、希貴は湘陰に退いたがやがて彼も逃げた。
  • 献忠は岳州を得て湖を渡ろうとし、洞庭の神に三度占ったがいずれも凶と出たので、筮竹を投げつけて罵った。千艘を湘潭に集めて渡ろうとすると風が起こって百艘が転覆し、献忠は怒って岳州に戻り、大船を連ねて婦女を載せ、薪を積んで油を注ぎ松明を投げ入れて焼いた。火は四十里に延び、夜中も昼のように明るかった。

崇禎十六年 長沙陥落(1643年)

  • 献忠は騎兵で長沙に迫った。長沙はもと吉王の封地である。惠王は荊州を去って湖南へ逃れたが陳陵磯で舟が転覆し、宮中の家族は溺れ、王だけが身一つで助かった。長沙に入って両王が対面し、日々賊を憂えたが、防備を固めることを知らなかった。
  • 長沙から六十里に柵を設けて守れる隘路があり、推官・蔡道憲が強く進言したが、王は自分の宮殿の垣を城壁がわりにして拍子木を打って見回らせるだけで、応じることができなかった。
  • 巡按御史・劉熈祚は長沙総兵・尹先民と副将・何一德に一万の兵で羅塘河を守らせ、孔道貴を三稍磯に屯させた。道憲は公金を出し合って柵を作り陸路を断とうとしたが、柵が完成しないうちに賊が侵入し、先民・一德は降伏した。
  • 楚の巡撫・王聚奎はこのとき城中にいたが、事態が急になると部下を連れて江夏へ引き返した。李乾德は気力が萎え、熈祚・道貴とともに吉・惠二王を奉じて衡州へ逃れた。
  • 賊は城下に迫って道憲を呼び、降伏を促し「我が軍でもお前の名は知られている。無駄に苦しむな」と言った。道憲は自ら弩を構えて射返した。三日で城は陥ち、歯ぎしりして罵り続けて殺された。
  • 屈強な兵・林國俊ら九人が道憲に付き従って離れなかった。賊が道憲に降伏を勧めたとき、國俊は「わが主が降るような人なら我々も去っていた。今日まで従ってはいない」と言った。賊が「降らねば生かしておかぬ」と言うと、國俊は「生きたいと思う者なら去っていた。今日まで従ってはいない」と答えた。賊は彼らも殺した。うち四人が「主の骸を葬ってから死にたい」と願い出ると、賊は義として許した。四人は衣を脱いで道憲の骨を包み南郊に葬り、そのうえで自刎した。
  • 献忠は尹先民・何一德を偽の伯に封じ、蒲圻県令・李鳳起を岳州府知府、通守・任維弼を長岳道とした。郷紳の史可鏡は賊に降り、偽の長沙・辰州・常徳巡撫を授かった。賊が去ると官軍に縛られ、李乾德が拷問のうえ南都に送って処刑した。可鏡はもともと省城で名声のあった人物だったが、晩節はこの通りであった。

崇禎十六年 衡州・永州・常徳(1643年)

  • 献忠はついで衡州を破り、桂王は永州へ逃れた。献忠は桂王邸の宮殿の材木を取り壊して長沙へ運び偽の宮殿を造らせ、尹先民に衡州を守らせて、自分は三王を永州まで追った。
  • 劉熈祚は自ら水軍を指揮して防ぎ、中軍を遣って三王を護衛し南の広西へ入らせ、自分は永州に入って死守した。奸人の内応で城が陥ちて捕らえられ、永陽駅に詩を題し、寧郷の孔子廟で殺された。
  • このとき殉難した者に、湘陽県令・楊開、衡陽県令・張鵬翼、東安県令・陳道壽がおり、楊開は一族もろとも殉じたという。
  • 献忠は宝慶を破った。常徳の被害はとりわけ酷かった。常徳はもと督師・楊嗣昌の居住地である。嗣昌はかつて新城を整然と築き、名目は栄王府の護衛だが実は自衛のためだった。献忠が湖南に入ったころ栄王は薨じ、世子は幼く、王弟の仁和王が王太妃・姚妃を奉じて辰溪へ逃れ、官民の多くが従った。献忠は亡き宰相への旧怨を晴らそうと、すでに常徳を去っていたのにわざわざ引き返し、嗣昌の祖父の墓を暴いて髑髏を砕き骨を焼いた。葬られて長い年月が経っていたのに血が出たという。
  • 献忠は辰州を狙ったが、桃源から上流は大山と峻嶺、石の瀬で険しく上れず、土司の兵が辰龍関を守っていたのでやめた。

崇禎十六年 江西・広東方面(1643年)

  • 江西の袁州は湘陰と境を接し、賊将・張其在が出入りして荒らした。左軍がいったん回復した吉安も再び陥ち、かろうじて自守するのみで、属県の永新・安福はいずれも破られた。建昌・撫州・南豊などの県も再び陥ちた。
  • 広東では南雄・韶州府の属城の官がみな逃げ、道臣・王孫蘭は救援を請うたが応じられず、憤って首を吊った。潯州・桂林・賀州・全州の一帯には守り抜く意志がなくなった。岳州もいったん回復したのに再び失われた。
  • 武昌に駐屯する左軍はみな動揺し、東下して呉越を取るべしと献策する者もいたが、献忠はあくまで左良玉の存在を憚り、蜀へ入ることを決意した。

崇禎十七年 甲申 正月 夔門(1644年)

  • 四川巡撫・陳士竒は福建の文人の家の出で、傲慢で他に方策がなく、弾劾されて免職となり後任を待つ身だった。軍に糧を出さず、十三の隘路を分けて守らせることもしなかった。賊は巫山の梅子坡に至って飢えていたが、守兵がいなかったので入り込んだ。
  • 甲申正月、夔門が陥落した。士竒は兵を出して重慶を押さえ、巡按御史・劉之渤が成都を守った。

崇禎十七年 二月〜六月 涪州・重慶(1644年)

  • 二月、賊は万県にいたが湖の浅瀬が増水して遡れず、三か月留まった。民はみな逃げ隠れた。賊は「降れば殺さぬ」と誘い出し、出てきた者をすべて水に追い込んだ。
  • 賊の戦闘可能な兵は十余万、荷担ぎはその倍。四十里にわたる横陣を敷き、両岸を歩兵と騎兵が舟を挟んで進み、悠々と涪州に入った。
  • 涪州の守将・曾英も福建の人で、以前に副将として夔門で功があり、涪州守道・劉鱗長がとくに重んじていた。陳士竒は重慶にあって、将の趙榮貴に梁山の陸路を押さえさせ、英と鱗長には涪州を守って長江を扼させた。賊が来ると榮貴は戦わず逃げ、英は戦って敗れ、五里の望州関まで退いた。追ってきた賊に頬を斬られ手も傷ついたが、数人を斬って跳んで逃れ、鱗長とともに川南へ落ちのびた。
  • 重慶の下流四十里に銅鑼峡があり、賊が涪州から遡上するなら必ず通る要路なので、士竒は重兵を置いて守らせていた。献忠は六月八日に涪州に入ると、水軍を分けて遡上させ峡に向かわせ、自分は山に登って百五十里を急進し江津県を破り、その船を奪って流れを下り、三日足らずで佛図関を奪った。
  • 重慶は山が壁のように立ち水が周りを巡り、南錦門から佛図関への一筋の道だけが通じている。賊が関を得たので銅鑼峡はかえって下手に出てしまい、兵は動揺して支えられなかった。賊は民の墓を暴いて棺桶を運び、それで城壁に穴を掘り、大砲を据えて火攻めにした。
  • 十二日、城は陥落。瑞王が殺され、巡撫・陳士竒、太守・王行儉、巴県令・王錫が殺された。王錫はとくに激しく賊を罵ったという。
  • 瑞王が漢中から逃れてきたとき、関南道・陳羽白が同行し、隴西の士大夫の多くが妻子を連れて従っていたので、士人の死者がきわめて多かった。王が捕らえられたとき、雲もないのに雷が鳴った。賊は「もう一度鳴れば釈放しよう」と祈ったが、結局王は助からなかった。

崇禎十七年 六月 成都の動揺(1644年)

  • 成都では賊の急迫を聞いて蜀王が雲南へ移ろうと図ったが、劉之渤が反対し、内江王が強く争った。王は六月十三日に出発したが、門番の兵が騒ぎ立てて混乱し、輜重や婦女が略奪される事態となり、移転は取りやめになった。
  • この日、大粒の雹が降り、雷が王の寝殿を撃ち、城中の人々は震え上がった。

崇禎十七年 七月〜十月 成都陥落(1644年)

  • 七月、新任の巡撫・龍文光と総兵・劉佳胤が官軍三千を率いて川北から来て防備を図ったが、諸王や名家の半数はすでに逃げ去っていた。
  • 十月五日、賊の騎兵が資陽から、水軍が洪雅・新津から城下に迫った。佳胤が出撃して交戦したが大敗し、賊は四方から火を放った。文光は急いで人を灌県に遣り、堰を切って錦江の水を城の濠に注がせた。
  • 九日、激しい雷雨で城壁の守兵は立っていられず、賊は重慶と同じ手口で火攻めにかけ、西北隅の錦江楼が崩れた。まもなく灌県の水が届いたが、城はすでに陥ちていた。
  • 蜀王は宮中の家族を率いて井戸に身を投げた。文光と佳胤は浣花溪に飛び込んだが岸で捕らえられ、無理に官職を与えようとしても屈しなかったので、端礼門の外に縛られ矢を集中して射られ、死ぬまで罵り続けた。推官・劉士斗、成都県令・呉繼善、華陽県令・沈雲祚も相次いで死んだ。
  • 士民は先を争って門へ走ったが閉ざされて出られず、裸同然で泥にまみれ、中園(先主劉備の練兵場)へ駆り集められた。
  • 献忠の腹心の将は、平東将軍某以下、撫南は劉文秀、安西は李定國、定北は名を失う。ほかに張能奇・能謀・化龍および馬元利がおり、あわせて十人、みな養子である。
  • この戦いで献忠は蜀の人をみな殺しにしようとした。平東は涙を流して諫めた。「王は三十年転戦し、通った先を屠り尽くして守るべき土地を寸尺も持たない。それは将士の望むところではありません。今、万死を冒してこの地を争ったのは、王のために覇業を成すためです。またその民を屠るなら、我らは何のために生きるのか。王の手の剣を貸してください、百姓より先に首を刎ねます」。献忠はそこで思いとどまり、兵を並べて甬道を作り、民を検分しながら通らせ、若い男と若い女は自軍に取り込んだ。民は親子夫婦が離れ離れになり、町は徹底的に略奪された。

崇禎十七年 十一月 大西政権の樹立(1644年)

  • 十一月十六日、献忠は偽の位に即いて西王と称し、国号を大西、元号を大順とし、成都を西京とした。汪兆麟を左丞相、嚴錫命を右丞相とし、六部尚書を殿前に置いて袍服を与え、蜀王府の門外の建物を朝房とし、偽の丞相以下が朝議のあと政務を議した。
  • まず科挙の実施を議し、漢川の樊某を状元とした。献忠は自ら文をつくって古の帝王を評し、楚の項羽を第一とした。これを「御製万言策」と称して学宮に頒布した。また自ら六言の「聖諭」をつくって石に刻ませ、嚴錫命が注解を付けて敷衍した。
  • 兵で蜀の士大夫を脅し、出仕しない者は法で罰し妻子を没収した。叙州の尹伸は捕らえられ、賊はその名声を重んじて官に就けようとしたが、伸は激しく罵って屈せず殺された。給事中・呉宇英も屈せずに死んだ。偽の任命に応じて名を汚した者も、結局は無事では済まなかったという。

大順年間 献忠の暴政

  • 平東が漢中の任務から帰ったとき、偽の臣たちが連名の書状を持って郊外に出迎えた。平東はそれを隠さず報告し、献忠は旧王朝の悪弊に倣うものだと怒って、名簿の順に二百人を撲殺した。朝士を殺しすぎると諫言する者があると、献忠は「文官のなり手がいなくなるとでも思うのか」と笑った。
  • 生きたまま皮を剥ぐ刑を創始し、皮を剥ぎ終わらぬうちに絶命させた場合は執刑者を死罪とした。かつて南充の江鼎鎮を礼部尚書、彭県の龔完敬を兵部尚書に用いた。
  • 井研の陳氏を偽の后に迎え、その兄を国戚に封じたが、十日もせずに陳氏は死を賜り、兄と二人の尚書はいずれも極刑に処された。
  • 偽の官が朝会で拝伏しているところへ猛犬数十頭を放って殿を下らせ、犬が嗅ぎつけた者を引き出して斬り、「天殺」と称した。誰にもその基準は測れなかった。
  • 兵を百二十営に分け、虎威・豹韜・龍韜・鷹揚を親衛とし、都督・総督を置いて統率させた。城外に大営十、小営十二を置き、各門に兵部一名と都督二名を置いて出入りを取り締まらせた。
  • 保甲法はきわめて厳しく、城を出る者は事前に所属と姓名、用件、帰る日を届け出て割符を照合された。定数より多く帰った者や期日に遅れた者が出ると、十家まとめて斬られた。
  • 配下に忌み名に触れることを禁じ、郡県名も人名も抵触すれば必ず改めさせ、石碑の字まで削らせ、従わねば即座に死罪とした。
  • 手下に密偵の子どもが数千おり、夜に街路を巡って人の話を聞き、抵触する言葉があればその家の門に白土で印をつけ、夜明けに捕吏が来た。俗語に「張家長、李家短(張家がどう、李家がどう)」という言い回しがあり、これを口にした者まで捕まった。献忠は「これは我が張家が李自成に勝つという予言だ」と笑って釈放した。
  • 民が馬を飼うことを禁じた。武生の試験で馬がないとき、自分の獰猛で乗りにくい馬数百頭を引き出させて乗らせ、乗った途端に大砲を放ち、全営に大声を上げさせた。馬が驚いて人は落ち、踏まれて肉塊となり、賊は手を打って大笑いした。
  • 蜀の太医院に古い銅人形があった。賊は紙でその経穴を覆い、医者たちを召して鍼の試験をし、一穴でも外した者はその場で殺した。
  • 大慈寺は宗室を一人匿ったというので、僧千人が寺ぐるみ皆殺しにされた。

大順年間 土司への工作

  • はじめ蜀の人は御しやすいが、黎州・雅州の間の土司だけは容易に服さないとみて、降人を使って誘い、金印を鋳造して届け、旧来の官印と交換させようとした。黎州の馬金は馬岱の子孫で、金印を受け取ると地面に投げつけ、配下に服従しないと誓わせた。
  • 雅州には高克禮と楊之鉻がおり、両家は互いに殺し合っていた。楊には弟の之喬がおり、混乱に乗じて兄を殺し、兵を請うて高氏を攻めた。献忠は喜び、辺境の郡は新たに帰属したとして三年の租税を免ずると宣言した。
  • 蛮人は賊の財物を欲しがってしばしば頭を垂れて従い、全川で遵義一郡だけが屈しなかった。献忠は思い上がって蜀に帝たらんとする心を抱いた。

大順年間 川中の義兵蜂起

  • このころ、曾英・李占春・于大海が合州で、王祥が遵義で、楊展が犍為で、曹勛が黎州で兵を挙げた。大学士・王應熊は喪服姿で達州に誓師し、僉事・馬乾が巡撫代理として檄を伝えて賊を討った。
  • 占春は涇陽の人、大海は項城の人で、曾英の腹心の古参の将、勇名があった。献忠は重慶を去るとき兵を置かなかったので、英は一挙に巴渝を明側に取り戻した。王祥も綦河に出兵して犄角の勢をなした。
  • 楊展の家は嘉定州にあり、下級将校として曹勛とともに成都を守って捕らえられたが脱出した。帰ったときには賊が嘉定を府に改めていたので、密かに犍為に入って偽の県令を殺して挙兵し、州の人々が門を開けて迎え入れた。勛とは声援しあう間柄だった。
  • 王應熊は京師から帰るとそのまま遵義に幕府を開いた。王祥は才幹では曾英に及ばないのに、それ以上に重用された。馬乾は雲南の郷試出身で、はじめ蜀の人々が陳士竒の後任にと望んだ人物であり、朝命は龍文光を用いたが、北京への道が断たれていたため巡撫代理を務めたのも当初の意向によるものだった。
  • ほかに遂寧の司馬・呂大器、西充巡撫・李乾德、宜賓の総督・樊一蘅、内江の戸部・范文光、卬州の挙人・劉道貞らが、詔を奉じ、あるいは臨機の裁量で出兵した。大器・乾德はまだ到着していなかった。兵部侍郎・喻思恂と提学道・王芝瑞は應熊の命で臨機に兵糧を工面し、涪州道・劉鱗長が往来して遊説にあたった。久しくして喻は病死し、芝瑞と鱗長は間道から帰った。
  • 蜂起した頭目たちは、四家とも十三家とも称された。袁韜・武大定はのちに明側に帰順した。ついで天生城の譚文・譚詣・譚弘、巫山の劉體純、酆城の胡明道、金城の姚玉麟、施州衛の王光興がいずれも著名だった。その他、王有進・呼九思・景果勒・張顯・劉惟靈・白蛟龍・楊炳英・李世傑らは詳細を調べようがない。これらを総称して「夔東十三家」という。
  • 討賊の官軍のうち、曾英が李占春・于大海を左右に率いて重慶を回復したのが第一の功で、兵力もやや強かった。
  • 楊展は献忠が川に沈めた黄金億万を回収し、また嘉陵一帯が豊かで物資を送ってきたため軍を養うに足り、富裕とされた。

大順年間 官軍の反撃と献忠の狂暴化

  • 献忠は蜂起を聞き、劉文秀を顧みて「楊展は恐れるに足りぬが、重慶は要害の地で失えぬ」と言った。文秀が向かうと、李占春が多功城で迎え撃ち、于大海と力を合わせて挟撃し、文秀は大敗した。嘉定を攻めた別将も二人に打ち破られ、賊は大いに沮喪した。
  • 賊ははじめ蜀から秦へ入る計画を立て、平東がまず漢中で馬爌を破り、秦・隴は手に入ったも同然と豪語した。李自成が賀珍を馬爌と交代させて進撃させると、平東は戦って敗れた。献忠は自ら救援に赴き、急行して広元に至った。
  • 梓潼の七曲山を通ったとき文昌廟を見て、その額を仰ぎ見て「これは張姓、わが祖先だ」と言い、「始祖高皇帝」の尊号を追贈した。献忠は文字を知らなかったが、従う官が唐が老子を追尊した故事になぞらえて追従し、百姓を欺いて誇り、文昌の子孫である自分こそ巴蜀に覇たるべきだと称した。献忠は廟に詩を題し、嚴錫命以下がみな恭しく唱和し、その御製の詩を石に刻んで記念とした。
  • かつて保寧一城を屠ろうとしたとき、破山という僧が助命を請うた。献忠は犬と豚の肉を差し出して「これを食えば聞いてやろう」と言い、破山は「老僧が百万の生霊のために、如来の一戒を惜しめようか」と言って数切れを食べたので、城は免れた。その凶残と道理を解さぬさまはこの通りだった。
  • 賊の性質は人並みでなく、酔うと穏やかで醒めると凶暴になり、一日でも目の前に血が流れないと不機嫌になった。朝会を嫌がって自分の冠を投げ捨てて踏みつけ、人の帽子を取り上げて被ると気が済んだ。綿州を通って嚴錫命の邸宅が立派なのを見ると、すぐに斬った。
  • 出兵の敗北が重なるにつれ兵の心が離れ、献忠は袖をまくり目を怒らせて蜀の人を食い尽くさんばかりの気色となった。ちょうど朝天関で成都の諸生・顔天漢らが李自成に通じる上表を持っているのが見つかり、領内すべてが叛いたと激怒した。科挙を開くと偽って軍礼で諸生を集め、来ない者は妻子ともども殺し、西門外の青羊宮で二万二千三百人をことごとく殺した。捨てられた筆と墨は丘のように積もった。
  • 大きな橋を一つ架け、兵馬に城上を出入りさせ、百姓を十人ずつ縛って中園へ駆り立て、生き埋めにした。
  • 錦江の流れを付け替えて涸らし、数仞の穴を掘って億万の黄金や宝玉を詰め、人夫を殺して土石を落として埋め、それから堤を切って水を流した。これを「錮金」と称し、後から来た者が掘り出せないようにした。
  • 宮殿を焼けばその礎石を砕き、家屋を壊せばその井戸を埋め、城を平らげればその人を刈り、家を尽くせばさらに生き物や犬鼠まで捕らえて磔にした。その悪意はひとえに「蜀は我が得たもの、我が滅ぼす、毛筋ほども他人に残さぬ」という一念によるものだった。
  • 配下を欺いて「夜、天書が庭に落ち、上帝が蜀人を根絶やしにせよと命じた。背けば譴責は軽くないぞ」と言い、汪兆麟と謀って張能奇・馬元利らを派遣し、郡邑を手分けして削り取り、地方官も面前で誅殺させた。岩窟を捜し、地下の隠れ家を暴き、高所に登って煙を見張り、兵が通った後に炊煙が残っていれば将吏は必ず斬られた。副将のなかには虐殺に忍びず道端の木で首を吊る者すらいた。法の厳しさがここまで至るとは、と思わせるものだった。
  • ある県では事前に噂を聞いた県令が酒屋へ行って酔って死んだ。酒屋は一日で千金を稼ぎ、はじめ大喜びしたが、あとで思い当たって大いに慟哭した。人々はみな手をこまねき身を投げ出して切り刻まれるにまかせ、免れる者はなかった。七月から十二月までに成都の属県の人はことごとく死に絶えた。
  • 賊は民を屠るだけでなく、自分の兵も虐使した。婦女や財物があれば兵の心が乱れて死力を尽くさないとして、陣を移す日には金銀があれば必ず捨てさせ、婦女があれば必ず殺させた。長く駐屯していた者はすでに夫婦となり子がある場合もあり、行軍の命が下るたびに大声で泣いた。
  • 成都では中園の仏塔を壊すのに、下に穴を掘って大砲を置いて崩し、押し潰されて死んだ兵が一万近くに上った。また木を伐って数千の船を造り、山道を数十里、時に百里も引いて水辺まで運ばせ、少しでも怠けて休む者は即座に殺した。一営そろって法を犯したときは、大船に乗せて長江に沈めた。配下は威を恐れて逆らえなかったが、その苛酷さには耐えかね、左右の腹心すら内心では従いきれなかった。

順治三年 鹽亭の誅(1646年)

  • 献忠は川の人を仇敵視し、まず儒者を屠り、次に民を屠り、さらに川民出身の兵まで屠ろうとした。諸将のなかで最も多く川の民を兵に用いていたのが都督・劉進忠で、献忠は彼を捕らえてその配下を穴埋めにしようとした。計画は成らぬうちに門番に漏れ、その軍が聞き知って全員逃げ出した。
  • ちょうど本朝(清)の大軍が漢中に至り、進忠はそれに乗じて帰順した。王が献忠の所在を問うと、進忠は「順慶の金山舖、西充と鹽亭の境にあります。ここから千四百里、急行すれば五昼夜で届きます」と答えた。
  • 献忠は進忠に朝元関を守らせていたので大軍のことなど思いもよらず、先鋒が到着しても信じなかった。進忠はすでに陣中に入り、弓の名手を伴って「あれが献忠だ」と指し示した。放たれた一矢が額に命中し、献忠は「本当だったか」と驚いて逃げ、積んだ薪の下に隠れた。側近を捕らえて問いただして居所が知れ、引きずり出して斬られた。