宋史紀事本末蒙古の南侵(䝉古南侵)
蒙古の孟克(憲宗)が三道に分かれて宋を攻めた大遠征と、その頓挫を記す。蜀では蒲択之らが敗れて成都以下が降ったが、合州では王堅が固守し、蒙古主は城下で没した。呼必賚は郝経の献策を容れて鄂州を囲んだものの、北で額哷布格が立つ動きを聞いて撤退し、賈似道は密かに称臣納幣を約しながらこれを隠して大勝と奏し、再造の功を称えられて権を握った。宝祐四年(1256)から景定元年(1260)までの五年間。
年表(17件)
- 理宗
- 宝祐四年八月1256年蒙古主が自ら南侵を決め四万の軍を三道に分けて入る
- 宝祐六年二月1258年納琳が霊泉山で楊大淵らを破り成都以下の諸州が降る
- 宝祐六年冬十月1258年蒙古主が浮橋で江を渡り苦竹隘で守将の張実が戦死する
- 宝祐六年十一月1258年長寧山が陥ち王佐が戦死して青居・運山などが降る
- 宝祐六年十二月1258年馬光祖と向士璧が房州で蒙古軍を破るが閬州は降る
- 開慶元年春正月1259年賈似道を宣撫大使とし烏蘭哈達は潭州城下に塁を築く
- 開慶元年二月1259年蒙古主が合州城に迫り王堅が招諭の使者を斬って固守する
- 開慶元年六月1259年呂文德が浮橋を破って重慶に入るが嘉陵江で史天沢に敗れる
- 開慶元年秋七月1259年汪德臣が負傷して死に蒙古主も合州城下で没し囲みが解ける
- 開慶元年八月1259年郝経が三道並進と内治を説き呼必賚は淮を渡って南下する
- 開慶元年九月1259年董文炳が陽邏堡で官軍を破り呼必賚が渡江して鄂州を囲む
- 開慶元年冬十月1259年賈似道が右丞相となり四明遷都の議は呉潜らに阻まれる
- 開慶元年十一月1259年張勝が鄂州を守り抜き似道は高達らを恨んで呂文德に親しむ
- 開慶元年十二月1259年似道が宋京を遣って称臣納幣を請い呼必賚は和して北へ退く
- 景定元年二月1260年夏貴が水軍で新生磯の浮橋を攻め向士璧も衡州で破る
- 景定元年三月1260年似道が和議を隠して大勝を上表し再造の功として召される
- 景定元年夏四月1260年似道を少師衛国公に進め諸将も昇進するが権を専らにする
理宗宝祐四年八月(1256年)
- 蒙古の諸王の伊遜克、駙馬の阿薩爾らが宋を伐つことを請うた。蒙古主は諸王の額哷布格に和林の留守を命じ、阿勒達爾に輔けさせ、自ら南侵して西蜀から入ることとした。まず張柔に呼必賚に従って鄂を攻めて杭州へ向かわせ、塔齊爾に荊山を攻めさせ、さらに烏蘭哈達に交州・広州から兵を率いて鄂で合流するよう詔し、李全の子の李璮に海州・漣水軍などを攻めさせた。
- 蒙古主は進んで六盤に泊まった。軍は四万で十万と号し、三道に分けて入った。蒙古主は隴州から散関へ、諸王の穆格は洋州から米倉へ、万戸の巴哩義は潼関から沔州へ向かった。
宝祐六年二月(1258年)
- 蒙古の納琳が前軍を率い、都元帥の阿都呼と成都で合流しようとした。蒲択之は安撫の劉整らを遣って遂寧江の箭灘渡に拠らせて東の路を断った。納琳の軍は至ったが渡れず、朝から日暮れまで大いに戦って整らの軍は敗れ、納琳はそのまま長駆して成都に至った。
- 択之は楊大淵らに剣門と霊泉山を守らせ、自ら兵を率いて成都を救おうとした。折しも阿都呼が死に、納琳が諸将を率いて霊泉山で大淵らを大破し、進んで雲頂山城を囲んだ。択之の軍は潰え、城中は食が尽きて主将を殺して降った。成都・彭州・漢州・懐州・綿州などの州、威州・茂州の諸蕃はことごとく蒙古に降った。
宝祐六年冬十月(1258年)
- 蒙古主が江陵の江を渡り白水に至り、総帥の汪德正に浮橋を造らせて渡った。進んで剣門に泊まり、苦竹隘に至って守将の張実が戦死した。
宝祐六年十一月(1258年)
- 蒙古兵が進んで長寧山を囲み、守将の王佐と徐昕は戦って敗れた。蒙古が進んで鵞頂堡を攻めると城は降り、佐は戦死した。これによって青居・大良・運山・石泉・龍州はみな蒙古に降った。
宝祐六年十二月(1258年)
- 蒙古兵が馬湖を渡って蜀に入った。詔して馬光祖に軍を峡州へ、向士璧に軍を紹慶府へ移させて応援の便を図らせた。光祖と士璧は兵で蒙古の軍を迎え、房州で戦って破った。
- 蒙古主が隆州・雅州を取り、さらに閬州を取った。楊仲淵が城ごと降った。
開慶元年春正月(1259年)
- 己酉、蒙古兵が忠州・涪州を攻め、しだいに夔の境に迫った。詔して蒲択之と馬光祖に戦守と調遣を便宜に従わせた。
- 丁卯、賈似道を京西・湖南北・四川宣撫大使とし、馬光祖を沿江制置使に移した。似道はまもなく江西・二広の軍馬の督視を兼ねた。
- 蒙古軍が利州・隆慶・順慶の諸郡を破った。
- 蒙古の烏蘭哈達が四王の兵三千と蛮僰一万を率いて横山を破り、内地を巡り、勝ちに乗じて賓州を破って静江府に入り、続けて辰州・沅州を破った。官軍がその帰路を断つと、烏蘭哈達は密かに官軍の背後へ出、子の阿珠に前から横撃させ、官軍は退き走った。そのまま潭州の城下に塁を築いた。
開慶元年二月(1259年)
- 蒙古主が降人の晋国宝を遣って招諭した。合州の守将の王堅がこれを殺した。蒙古主はそこで大将の琿塔噶に兵二万で六盤を守らせ、竒爾岱布哈に青居山を守らせ、また納琳に涪州の藺市に浮橋を造らせて援兵を杜いだ。蒙古主は自ら鶏爪灘から渡ってまっすぐ合州城に迫り、男女一万余を捕らえた。堅は力戦して守り、蒙古は軍を集めて囲んだ。
開慶元年六月(1259年)
- 四川制置副使の呂文德が兵を率いて涪の浮橋を攻め、力戦して重慶に入り、そのまま艨艟千余を率いて嘉陵江をさかのぼった。蒙古の史天沢は軍を二翼に分けて流れに順って攻撃し、文德は敗れた。
開慶元年秋七月(1259年)
- 蒙古兵が合州を囲むこと二月からこの月まで、守将の王堅は固守して力戦した。蒙古主はたびたび諸軍を督して攻めたが落とせなかった。
- 前鋒将の汪德臣が兵を選んで夜に外城に登ると、堅は兵を率いて迎え撃った。夜明けに德臣が単騎で、王堅よ、自分は来た、お前の一城の軍民を生かしてやると大声で呼ばわった。言葉が終わらぬうちに飛んできた石に当たりかけ、そのために病んで死んだ。折しも大雨で攻城の梯が折れ、後軍は進めず、ともに退いた。
- 蒙古主の孟克が合州の城下で没した。飛矢に中って死んだとも伝えられる。諸王と大臣は二頭の驢に絹を掛けた棺を負わせて北へ行き、合州の囲みは解けた。捷報が届いて堅に寧遠軍節度使を加えた。
開慶元年八月(1259年)
- 蒙古の呼必賚が王維中と郝経を遣って荊湖・江淮を宣撫させ、帰德の軍を率いてまず江山に至った。経は呼必賚に述べた。 経は聞く、天下の事を未然に図るのは易しく、已然に救うのは難しい。已然の中にまた未然があり、往くものを失わず来るものを遂げさせるのは、なおさら難しい、と。 国家は北の漠に奮い起こり、金源を滅ぼし西夏を併せ、荊襄を取り成都を克ち大理を平らげ、諸夷を蹂躙して四海を征すること五十年近く、すべて兵で統一してきた。残された民は生気を失い魂を驚かし、殺され踏みにじられて殲滅されようとしている。古来、用兵でこれほど長くこれほど多かったことはない。 しかも兵を括り賦を課すのに、朝に令を下せば夕に出師し、国を挙げて大挙する。それで宋を伐って混一を図る。志は鋭く力は強いが、術は尽くされていない。まことに諸国を平らげた後には、法を創り制を立て、条綱を布き、将相を任じ賢能を選び、賦を平らげ用を足し、農を屯して食を足すべきだ。内治が挙がってこそ外の防ぎも備わる。 今、西の師が出て久しいのに功が挙がらず、兵は連なり禍は結ばれ、危うきに安んじている。王は人を遣って行在に命を仰ぎ、宋を諭して降らせ、名を進め幣を納れ、地を割き質を納れさせ、兵を偃せ民を息めて我が力を全うし、後の挙を図られるがよい。命を仰いで従われなければ、そのうえで檄を伝えて大信を示し、王が仁にして殺さない意を知らせ、一軍を襄陽から、一軍を寿春から、一軍を維揚から出し、三道並び進んで東西に連衡し、王は一軍に居って節制されよ。我が兵力に常に余裕を持たせる。そうすれば未来の変も弭められ、已然の失も救えよう。 論者は必ず、三道に分け進めば兵は分かれ勢いは弱まる、力を合わせて一方に向かえば当たる者がないと言うだろう。だが国を取る術は地を争うのとは違うことを知らない。力を合わせて一方に向かうのは地を争う術、諸道に並び進むのが国を取る術である。昔の混一者はみなそうだった。晋が呉を取るには六道から進み、隋が陳を取るには九道から進み、宋が南唐に対しては三面すべてから進んだ。一旅の衆で国を克てたという話は聞かない。あったとしても僥倖の挙である。 昔、秦王が王翦に荊を伐つことを問うと、翦は六十万でなければ不可と言った。秦王は、将軍は老いたと言い、李信に二十万を率いさせたが克てず、結局、兵六十万で翦に低頭してから楚を挙げた。おおむね衆には必ず用いるべき数があり、事勢には机上で測って僥倖に取れないものがある。だから王者の挙は必ず万全を期す。僥倖に挙げるのは崛起した無頼の者のすることだ。 まっすぐ前へ進んで鋭く功を図り、一挙に金陵を下し臨安に入れるならそれでよい。だが兵力が消耗し役が長引き、進退できずかえって敵に乗じられれば、悔いても及ばない。まことに重く慎み詳らかに審らかに図られるべきだ、と。
- そこで兵を会して淮を渡った。呼必賚は大勝関から、張柔は虎頭関から道を分けて並び進み、官軍はみな逃げた。
- 当時、呼必賚は沿江制置司の榜を得た。そこには、今夏、諜者が北の兵が黄陂を取ることを議していると聞いた、民に筏を組ませて陽邏堡から渡り鄂州で合流するつもりだとある、と書かれていた。呼必賚は、こんな事は前例がないと言った。黄陂に至ると漁人が舟を献じ、あわせて道案内をした。
開慶元年九月(1259年)
- 宗王の穆克が合州から人を遣って蒙古主の凶報を呼必賚に告げ、北へ帰って人望を繋ぐことを請うた。呼必賚は、自分は命を奉じて南へ来た、どうして功なく急に帰れようかと言った。
- 自ら香炉山に登って大江を見下ろした。大江の北を武湖、武湖の東を陽邏堡といい、その南岸は黄州に許した所である。官軍は大船で江の渡りを扼し、軍容は盛んだった。董文炳が呼必賚に、長江は天険で宋が国の頼みとするところ、必ず死守する、その気を奪わなければならない、臣が試してみたいと述べ、そこで決死の士数十百人を率いてその前に当たり、弟の文用と文忠に艨艟に乗せ櫂を打たせて疾走させ、叫び声を上げて奮わせた。鋒が交わると文炳は衆を指揮して岸へ趨って搏戦し、官軍は大敗した。
- 翌日、そのまま諸軍を率いて渡江し、進んで鄂州を囲み、中外は大いに震えた。
- 蒙古兵が臨江に至った。当時、制置使の徐敏子は隆興にあって兵を止めて進まなかった。知軍事の陳元桂は病を押して城に登り、坐して督戦したが、力及ばなかった。抱えて逃げようとする者があったが、元桂は、死んでも去れないと言った。左右がみな逃げ、兵が至ると元桂は目を見開いて叱り罵り、そのまま戦死した。その首は敵楼に懸けられた。蒙古兵はそのまま瑞州に入った。知府の陳昌世は郡を治めて善政があり、百姓は擁して逃げた。
- 詔して諸路に出師させて蒙古を防がせ、内府の銀と幣を大いに出して軍を労った。前後に出した緡銭は七千七百万、銀と帛はそれぞれ百六万両・匹に及んだ。
開慶元年冬十月(1259年)
- 賈似道を右丞相兼枢密使とし、漢陽に軍して鄂を援けさせた。
- 当時、辺境の報せは日に急で、臨安では義勇を編成し新兵を募り、平江・紹興・慶元の城壁を増築した。朝野は震え恐れた。内侍の董宋臣が帝に四明へ遷都して敵の鋒を避けるよう請うた。軍器太監の何子挙は呉潜に、上が行幸されれば京師の百万の生霊は何を頼るのかと言い、御史の朱貔孫も、鑾輿がひとたび動けば三辺の将士は瓦解し四方の盗賊は蜂起する、決してなりませんと述べた。折しも皇后も駐蹕して民心を安んじることを請い、帝はそこで思いとどまった。寧海節度判官の文天祥が宋臣を斬ることを乞うたが返答はなかった。
開慶元年十一月(1259年)
- 蒙古が鄂州を囲んだ。都統の張勝が州事を代行し、城の危機が旦夕に迫ったので、城に登って諭し、城はすでにお前たちのものだ、ただ子女と玉帛はみな将台にある、彼から取れと言った。蒙古は信じ、そのまま城外の民家を焼いて退こうとした。折しも高達らが兵を率いて至り、賈似道も漢陽に駐まって援けたので、蒙古はまた進んで攻めた。
- 展齊巴図爾に兵と降人を率いさせて鄂州に降を諭させた。城下に至ると勝は使者を殺し、軍を出して襲い、展齊巴図爾は戦って敗れて死んだ。
- 達は武勇を恃んで似道をひどく侮り、督戦するのを見るたびに戯れて、大きな頭巾の者に何ができるかと言った。戦うときは必ず似道が自ら労ってから出、そうでなければ兵士に似道の門で騒がせた。呂文德は似道に諂って仕え、人を遣って、宣撫がここにおられる、どうしてそんな真似をするかと叱らせた。曹世雄と向士璧はともに従軍していたが、軍事を報告しなかった。似道はこれによって三人を恨み、文德に親しんだ。
- 当時、諸路の重兵はみな鄂に集まっていた。蒙古兵が永州・全州から潭州に至り、江西は大いに震えた。呉潜は御史の饒応子の言を用いて賈似道を黄州へ移した。下流とはいえ実は兵の要衝である。孫虎臣が精騎七百で送り、蘱草坪に至ったとき、物見の騎が前方に北の兵があると告げた。似道は大いに恐れて左右に、どうしようと言った。虎臣は似道を隠して出て戦った。似道は嘆じて、死ぬのか、光明俊偉に死ねないのが惜しいと言った。北の兵が至ってみると、老弱の部隊が掠めた金帛と子女を連れて帰るところだった。江西の降将の儲再興が牛に乗って先頭にいた。虎臣が出て再興を捕らえ、似道はそのまま黄州に入った。
開慶元年十二月(1259年)
- 己亥、賈似道が密かに蒙古と和を議した。当時、蒙古の攻城はいよいよ急で、城中の死傷は一万三千人に達した。賈似道は大いに恐れ、密かに宋京を蒙古の陣営へ遣って臣と称し幣を納れることを請うたが、呼必賚は許さなかった。
- 折しも合州の守臣の王堅が阮思聰を急流を跳んで鄂へ走らせ、蒙古の計を報せた。似道は改めて京を遣った。
- 呼必賚もまた阿勒達爾らが額哷布格を立てようと謀り、托果斯を遣って民兵を括っていると聞き、群臣を召して議した。郝経は述べた。易に、進退存亡を知ってその正しさを失わない者は聖人だけだとある。国家は金を平らげて以来ひたすら進取を務め、軍を老いさせ財を費やして三十年になる。今、国内は空虚で、塔竒・錫哩の諸王は様子見をし、立つ者について神器を狙わない者はない。ひとたび狡い者が戎心を起こし、先んじて事を挙げれば、腹背に敵を受けて大事は去る。 しかも額哷布格はすでに塔爾楚に行尚書省を執らせ、燕都に拠って図籍を検め、諸道に号令して皇帝の事を行っている。大王にかねて人望があり重兵を握っておられるとはいえ、金の世宗と海陵の事をご覧にならないのか。彼が果たして遺詔と称して位号を正し、中原に詔を下して赦を行えば、江上から帰ろうとしても帰れようか。 大王は社稷を念とされ、宋と和を議して淮南・漢上・梓州・夔州の両路を割かせ、疆界を定め歳幣を約し、輜重を置いて軽騎を率いて帰り、まっすぐ燕都に至られたい。そうすれば彼の奸謀は氷が解け瓦が砕けるように消える。一軍を遣って大行の霊柩を迎え、皇帝の璽を収め、使者を遣って錫哩・額哷布格・穆克の諸王を召して和林で喪に会し、諸路に官を差し向けて撫慰安輯し、王子の珍戩に燕都を鎮守させて形勢を示せば、大宝は帰するところを得て社稷は安んじる、と。呼必賚はもっともとした。
- 折しも宋京が至り、臣と称して江南を境とし、毎年、銀と絹を各二十万両・匹奉ることを請うた。呼必賚は許し、そのまま砦を払って去り、張傑と閻旺を留めて分遣隊で湖南の烏蘭哈達の兵を待たせた。賈似道は鄂州の囲みが解けたと奏し、詔して功を論じ賞を行った。
- 蒙古の烏蘭哈達が潭州をきわめて急に攻めた。向士璧は潭を率いて力を尽くして守り、飛江軍を置き、あわせて斗弩社を募り、朝夕、自ら城に登って労った。蒙古の後軍が来ると聞き、王輔佑に五百の衆を率いてうかがわせ、南岳市で遭遇して大いに戦い、蒙古はやや退いた。折しも呼必賚が黙德齊に兵を率いて迎えに来させ、烏蘭哈達はそのまま囲みを解いて湖北へ向かった。
景定元年二月(1260年)
- 蒙古の張傑と閻旺が新生磯に浮橋を架けた。烏蘭哈達の兵が至ると、傑らは軍を渡して北へ帰った。賈似道は劉整の計を用いて夏貴に水軍で新しい浮橋を攻めさせ、進んで白鹿磯に至って兵百七十人を殺した。
- 辛酉、蒙古が分遣隊を大理を経て広南から衡州へ至らせた。向士璧が劉雄飛の兵と合わせて道で迎え撃って破り、捕らわれていた民を多く取り戻した。
景定元年三月(1260年)
- 賈似道は和を議して臣と称し幣を納れた事を隠し、殺した敵と捕らえた兵をもって、諸路が大勝し鄂の囲みは解け、江漢は清められ、宗社は危うくしてまた安んじた、まことに万世無疆の慶びだと上表した。帝は似道に再造の功があるとして入朝を詔した。
景定元年夏四月(1260年)
- 賈似道を少師に進め衛国公に封じた。帝は手詔して、賈似道は我が股肱の臣、この宣撫の任に当たり、隠然と敵を殄し身を顧みず奮った、我が民は彼によって生き直り、王室は再造されたようだと述べた。似道が着くと、また百官に郊で労わせること文彦博の故事のようにし、褒め寵むこと至れり尽くせりだった。
- 諸将士はみな官を進められた。呂文德は検校少傅、高達は寧江軍承宣使、劉整は知瀘州兼潼川安撫副使、夏貴は知淮安州兼京東招撫使、孫虎臣は和州防禦使、范文虎は黄州武定諸軍都統制とされ、向士璧と曹世雄もそれぞれ加階された。
- もと似道は高達が軍中でかつて自分を侮ったことを憎み、帝に言って殺そうとした。帝はその功を知って従わなかった。だから功を論じるにあたり呂文德を第一とし達をその次とした。
- 似道は宰相となると、追従して駆け回る士を引き薦め、賄賂を受け取って要職に据え、また外戚の子弟を監司や郡守に引き入れ、倡優と傀儡を進めて帝の遊宴に奉じた。台臣に諫める者があれば、宣諭使が削らせた。これを「節帖」と呼んだ。権は中外を傾け、多くの小人を登用して法制を改めた。