宋史紀事本末郝経の抑留(郝經之留)

鄂州の囲みを解く条件として結ばれた密約を隠したい賈似道が、即位を告げ講和を求めて来た蒙古の国信使・郝経を真州の営に拘留した事件。郝経はたびたび上表・上書して、宋は歴代、隣と交わって天下を安んじてきたのに使者を閉じ込めて答えないのは長策ではないと論じたが、返答は得られなかった。景定元年(1260)四月の派遣から七月の抑留までを記す。

年表(2件)

理宗景定元年夏四月(1260年)

  • 蒙古が郝経を国信使として即位を告げに来させ、あわせて先日の講和の議を求めた。
  • 蒙古の王文統はかねて郝経に重い名声があることを忌んでいた。経を遣ることを請いながら、密かに李璮に密かに軍を出して宋を侵させ、他人の手で経を害そうとした。ある人が経に、文統は測りがたい、病と称して辞すべきだと言った。経は、南北が難を構えて以来、江淮の遺民は弱い者は捕らわれ壮健な者は野原で死に、兵は連なり禍は結ばれて久しい、主上は一視同仁で両国の好を通じることを務められる、我が身は微かでも測りがたい危険を踏み、まことに兵を弭め乱を鎮めて百万の生霊を刃の下から生かせるなら、自分の学は用いるところがあったというものだと答え、そのまま出発した。

景定元年秋七月(1260年)

  • 賈似道が蒙古の使者の郝経を真州に拘えた。それ以前、賈似道は帰朝して、その客の廖瑩中らに『福華編』を撰させて鄂の功を頌えさせた。国じゅう誰も和議のことなど知らなかった。
  • 経は宿州に至り、副使の何源と劉人傑を遣って入国の日取りを請うたが返答がなかった。経がたびたび三省・枢密院および両淮制置使の李庭芝に書を送ったので、賈似道は経が至って謀が漏れることを恐れ、経を真州の忠勇軍の営に拘えた。
  • 経は上表して、魯仲連の義に倣って難を排し紛を解きたいと願う、どうして唐倹の徒のように兵を欺いて国を誤ることがあろうかと述べた。
  • また、たびたび帝に上書した。その要旨は――貴朝は太祖が命を受けて極を建て、運を啓いて規模を創り、すべて理に本づかれた。その武功を較べれば漢唐の初めに及ばぬところがあるが、弊政を革め兵の凶を弭め、藩鎮を弱め京国を強くし、思慮は深遠で子孫に謀を遺されたことは、漢唐の後よりも盛んである。かつて自分は、漢は夏に似、唐は商に似、貴朝は周に似ている、後の三代とすべきだと考えた。 そもそも天下を有つ者で、九州四海を併せて混一し、衣を垂れて天下が穏やかに清まることを望まない者があろうか。だが理に及ばぬところがあり、勢いに必ずしがたいところがある。ただ遇うところの理に安んじるだけだ。貴朝の祖宗はこれを深く見て、抑え制して少しも易えようとされなかった。だから太祖は大業を開き建て、太宗は基統を承け、仁宗は治の効を行き渡らせ、神宗は大いに為すところがあり、高宗は坐して強敵を弭めた。いずれも勢いがありながら乗ぜず、理に安んじてみだりにしなかったのである。 今、ある者は、遷徙と戦伐の極まった三百余年の後に、扶持安全の計を立てず、生民の残る命を断ち、祖宗の良法を棄て、理によらず勢いにより、守らずに戦い、奇功を収め幸勝を取ろうとして、道を外れた挙を行おうとしている。誤りではないか。 伏して思うに、陛下と本朝は初め前代の故事を復して使者を遣り交わりを納れようとした。万里を越えて天地人神みな陛下の仁と生民を安んじる意を知った。しかし気数がまだ合わず、小人が交々乱して、使者の往来はいたずらに道中を費やし、ついに成命がなかった。両朝の不幸であり、生民の不幸である。 好を継ぐ使はあっても戈を止める君はなく、信を講じる名はあっても睦みを修める実はなく、報聘の命はあっても和平を輸する約はない。だから紛々として信を明らかにするに足りず、かえって乱を長ずるに足りた。ついに交州・広州の役に至って禍乱は極まった。 主上は即位の初め、意を過ごして交わりを求め、及ばぬことを恐れられた。それなのに貴朝はなぜその使者を受け入れて辺郡に拘え、覆い隠して一室の内から出入りさせず、宛転として天日も見せず、数年を経させるのか。主上に何の罪があり、経らに何の罪があって、ここまで窘め迫られるのか。 ある者は必ず、本朝に兵乱があって乗ずべき隙があると考え、范山が楚子に、晋君は諸侯に意を用いていないから北方を図れると言ったようなことを言うのだろう。貴朝が積み重ねた盛んさで三百余年、民を養い集めてきた以上、故地を回復するのはもとよりなすべきことだ。しかし大河の南北、秦・隴の東西、海岱の表裏には名城が数百ある。かりに本朝に事があって放置しても、諸鎮の侯伯を容易には取れない。中間にたとえ魏の大武帝のように守備を収める計があったとしても、境に入って一日に数百の抄掠騎が群れをなし、一城を得て一寨を取ったところで、数世にわたって失ったものを償えず、いたずらに二国の明信を棄てるだけだ。ある者の論は国を病ませるに足りて成すところがないことは明らかだ。 貴朝の事で質してみよう。熙寧・元豊の間、国を強くする意があったが、ついに強くできなかった。宣和・政和の間、恢復の意があったが、百年の力は燕山の空しい府に無駄に費やされ、それで変を招いた。開禧の間、また進取の意があったが、得ては失い、かえって淮南に兵を招いた。端平の間、また収復を事としたが、いたずらに軍を疲れさせ何も収められず、ついに蜀と漢を失った。これらはみな貴朝の事で、しかも陛下が親しくご覧になったところだ。混乱が広がって今日に至ったのに、論者は古の理を規とせず今の勢いにばかり従い、遠い禍を懼れず近い利を嗜む。これが経が死を冒し僭越を承知で必ず申し上げて惜しまないゆえんである。 ただ天下の勢いに従い天下の理を規としなければ、また必ず、遼・金・夏の人は我らがその滅ぶのを見た、彼らも今は事があり気数は測れる、貴朝の兵乱云々の異聞もみな妄ではないと言うだろう。だが、それをすぐ侮ってよいものか。 本朝が国を立てる根拠は海内を包み絡んで容易に揺るがない。太祖皇帝は漠北に義を唱え、一挙して燕と遼を取り、さらに挙げて河朔を取り、また挙げて西夏を滅ぼし、そのまま秦・雍を拾い、汴・蔡を覆し、巴蜀を貫き、大理を回り込み、東西北はみな海に至り南は江淮に至った。周・漢以来、これほど大きく強いものはない。しかもその風俗は淳厚で、禁網は疎く、号令は簡素で厳粛だ。だから中外の人はみな死力を尽くす。どうして一度の変故で沈み棄てられよう。 しかも伝えられるとおりだとすれば、本朝の不幸というだけでなく、貴朝の不幸でもある。主上が万安であれば必ず兵を弭め、南北の民に殺戮の禍を免れさせられる。そうでなければ戦争はまさに始まったばかりで、貴朝こそ憂うべきだ。 事は今日に至った。貴朝は急ぎ主上の美意に応え、信を講じ睦みを修め、民を安んじる計を立てるべきなのに、なお放置して問われない。実に解しがたいところがある。天がまだ乱を厭わず、これによって兵端を作ろうというのか。それとも別に蓄えるところがあるのか。いずれも知る由がない。 ひそかに思うに、本朝は兵を用いて四十余年、休息すべき時である。貴朝は兵を受けて三十余年、厭い苦しむ時である。そもそも天下の勢いは北に始まり南に終わり、一気の運行は子に建ち午に屈する。動は静に本づき、陽は陰に本づく。日は北に至って陽を生じ、南に至って陰を生じる。だから国を立てる者はみな北から南へ向かう。 周は公劉が豳に遷り、岐に国し豊・鎬に都して成周に至って極まった。平王が東遷して古に復せなくなった。西北から東南に入ったのである。秦人は汧・渭から覇を唱えて関中を有し六国を併せ、最後に楚を滅ぼした。これも西北から始まった。漢は関中から韓・魏・梁・趙を取り、項氏を彭城に追い詰めた。これも西北から東南に至った。世祖が洛に都して漢氏は極まった。 昭烈は蜀に入り、孔明の英賢と関羽・張飛の忠勇を輔けとし、義に仗って漢を復そうとし、樊城を攻めて許都を震わせ、たびたび祁山に出て久しく渭のほとりに駐まったが、ついに関中・洛陽の一郡も得られなかった。孫氏は江東に国を立て三州に拠って天下を虎視し、陸遜の沈着、呂蒙の謀があり、濡須に出て浣城を下し合肥を攻め、戦をもって守りとしたが、ついに淮北の一民も得られなかった。これを見れば南北の理と天下の勢いは明らかである。 伏して思うに、貴朝が王跡の基を開いたのは燕・趙の境からで、一時の将相はみな幽・薊・常山の豪傑だった。二祖の功德は淮南に著れ、命を受けて土を啓いたのは汴・宋から始まった。これも北から南である。皇極を正してから唐(後蜀)・蜀を平らげ、楚と漢を滅ぼし、江南から嶺南に至った。これもまた北から南である。江淮の間から閩・越に至るまで戸口は殖え、諸夏の十倍百倍となり、文物と学校は上国より盛んになった。これも気数のしからしめるところ、万物が相見える南方の卦に応じ、後の王を啓いて今日があるのだ。これもまた北から南である。 そもそも邦交の事は貴朝だけのことではないが、貴朝に至って初めて盛んになった。建国の初め、僭偽を掃き平らげ、沛然として混一の勢いがあったのに、燕雲を措いて取らず、契丹と再び盟誓を定め、聘問を通わせて甲兵を用いず、天下を安んじること百余年。宣和・政和に至って盟約が壊れ、靖康の末に都邑を棄て、高宗が南へ行幸してからは讐を措いて好を崇び、金源と再び盟誓を定め、聘問を通わせて甲兵を用いず、天下を安んじることまた百余年。これを見れば、隣と交わることで国とし天下を安んじる計を成しえたのは貴朝ほど盛んなものはない。だから、和議と邦交で国とするのは貴朝の事だと言うのだ。天子の持し守るところ、大臣の輔け相けるところ、百僚の論議するところ、社稷の大経とするところは、ただこれだけである。 本朝はたまたま陛下と時を同じくしたが、陛下の使命はまとまらずついに成るところがなかった。本朝は兵威を極めて諸国を征し、天はまだ乱を厭わず、たびたび行き違った。だから陛下の聖意は達せられず、祖宗の成規は合わされず、生民の命は救う薬がない。太和の気はついに絶えようとしている。天地は位を設けて必ず対待がある。陛下にこの意があればこそ主上もこの心を啓かれた。おそらくその気数もまた当然のことだ。 主上は即位の初め、まず信使を遣って和を輸し好を継ぎ、兵を弭め民を息めようとされた。それなのに貴朝は館舎に置いて数年を経させ、放置して問われない。これは必ず横議の人があって貴朝を弊れさせ陛下を誤らせようとしているのだ。かりに貴朝の挙が悉く当たり、図るところがすべて叶い、旧京に戻り山東を有し河朔を取り、白溝の界を除いて盧龍の塞に上ったとしても、本朝は故物を失いはしない。もし為して成らず、図って得られなければ、また兵を江水に洗い甲を淮のほとりに掛けて事なきを得ようとしても、おそらくできまい。ひとたび失えば、その失は大きいではないか。 しかも貴朝は天下を有つこと三百有余年である。祖宗三百年の成烈を挙げて再び博打の一擲とし、干戈を玉帛に易え、殺戮を民命に易え、戦争を礼楽に易えるのは、ひそかに陛下のために取らないところだ。 あるいは使人を留めるのに理由がないわけではないのかもしれず、あるいは別に隠された事情があるのかもしれない。それなら明白に指し示すべきで、斥けて問わずにいるべきではない。陳説には答えず、表請には返答せず、黙っておられるだけでは、おそらく貴朝の長策ではない、と。返答はなかった。
  • 駅の吏は垣に棘を巡らせ戸を鎖し、昼夜、見張って経を動揺させようとした。経は屈せず、ただ配下に、先に命を受けながら進めないのは自分の罪だ、ひとたび宋の境に入れば死生も進退も彼に委ねるほかない、身を屈して命を辱めることは自分にはできない、お前たちは不幸にもともに患難にある、忍んで待つがよいと語った。天の時と人の事に照らせば、宋の祚はおそらく遠くない、と。
  • 帝は北の使者があると聞き、宰執に、北朝の使者が来た以上、事体を議すべきだと語った。似道は、和は彼の謀から出たもの、一切を軽々に従うべきではありませんと奏し、もし隣国と交わる道によるなら参内させるべきだと述べた。蒙古は詳問官の崔明道と李全義を淮東制置司へ遣って経らの所在を訪ねさせ、淮東制置の李庭芝は蒙古の使者が長く荊州に留まっていると奏したが、これも似道に阻まれて返答はなかった。