宋史紀事本末北方の諸儒の学(北方諸儒之學)

蒙古の華北支配下で、姚枢が趙復を捕虜の中から救い出したことを機に、周敦頤・二程・朱熹の道学が黄河以北へ伝わっていく経緯を記す。姚枢・竇黙・許衡が蘇門山で講習して学統を築き、許衡は京兆提学・国子祭酒として学校と礼俗を整え、綱常を自らの任とした。嘉熙二年(1238)から咸淳九年(1273)まで三十六年間、南宋の滅亡に先立って北方に儒学が根づく過程である。

年表(7件)

理宗嘉熙二年冬十月(1238年)

  • 蒙古の姚枢が燕京に太極書院を建てた。
  • もと蒙古が許州を破ったとき、金の軍資庫使だった姚枢を得た。当時、北の朝廷には漢人の士大夫がなく、太祖は会って大いに喜び、とりわけ重んじた。奎騰が南侵すると、枢に楊惟中に従って軍中で儒・釈・道・医・卜の人を求めさせた。枢が招き寄せた者はしだいに増えた。
  • 德安を抜いたとき趙復を得た。復は儒学で世に重んじられ、その徒は江漢先生と称していた。捕らえられたが北へ行くことを望まず、力めて死ぬ場所を求めた。枢は止めてともに宿り、百端に説き諭して、いたずらに死んでも益はない、自分に従って北へ行けば他事がないことを保証すると言った。復は従った。枢はこうして周・程の性理の書を目にすることができた。
  • ここに至って惟中と枢は謀って太極書院と周子の祠を建て、二程・張載・楊時・游酢・朱熹の六子を配食し、趙復を師に請い、俊秀で識見のある者を選んで道学生とした。これによって河朔は初めて道学を知った。

淳祐二年夏四月(1242年)

  • 蒙古の姚枢が官を辞して輝県の蘇門山に隠れ、家廟を作り、別に一室を設けて孔子および宋の儒者の周敦頤・程顥・程頤・張載・邵雍・司馬光の六君子の像を奉じ、『小学』『四書』ならびに諸経の伝と註を刻んで国中に行った。

宝祐三年二月(1255年)

  • 蒙古の呼必賚が許衡を召して京兆提学とした。
  • 衡は懐慶河内の人で、幼くして人と違う資質があった。七歳で学に入って章句を授かり、師に、読書は何のためかと問うた。師が、科挙に及第するためだと答えると、それだけですかと言った。師は大いに異とし、衡の父に、この子は聡明でただ者でない、いずれ必ず人に優れる、自分はその師ではないと言い、そのまま辞して去った。
  • やや長じて学を嗜むこと飢渇のようだったが、乱世に遭い、しかも貧しくて書がなかった。かつて占い師の家から『書疏義』を得、乱を避けて徂徠山で『易』の王弼の説を得、夜に思い昼に誦え、身をもって力行し、動くたびに必ず義に照らしてから発した。
  • かつて暑い盛りに河陽を過ぎたとき、ひどく渇いた。道に梨があり、衆は争って取って食べたが、衡だけは樹の下に端坐して平然としていた。ある人が問うと、自分の物でないのに取ってはならないと答えた。ある人が、乱世でこれには主がないと言うと、梨に主がなくとも、我が心に主がないものかと答えた。
  • まもなく河洛の間を往来し、柳城の姚枢から程朱の書を得ていっそう大いに得るところがあった。まもなく蘇門に住んで枢および竇黙と講習し、慨然と道を自らの任とした。かつて人に、綱常は一日も天下に亡ぼしてはならない、上に立つ者がそれを任じないなら、下にいる者の任だと語った。喪祭も嫁娶もみな礼に徴して郷人を導き、学ぶ者はしだいに盛んになった。
  • 衡はかつて彼らに、学を進める順序は、必ず先日の章句の習いを棄てて小学に従事すべきだと語り、そこでこれまでの書物をすべて取って焼き、大小の別なくみな小学から入らせた。
  • このころ秦の人は兵禍を脱したばかりで、学ぼうにも師がなかった。衡が来ると聞いて誰もが喜ばない者はなく、こうして郡県はみな学を建て、民は大いに教化された。

景定元年夏四月(1260年)

  • 蒙古主が竇黙と許衡を召して開平に至らせた。
  • 黙は肥郷の人で、金の末に乱を避けて転々とし、大名に隠れ、姚枢・許衡と講習して寝食を忘れるほどだった。蒙古主が潜邸にあったころ召したことがあったが、黙は姓名を変えて身を隠した。使者はその友人に会いに行かせ、微服でその後をつけた。黙はやむなく命を拝した。
  • 至って治道を問われると、黙はまず綱常をもって答え、あわせて、これを失えば世に自立できませんと述べた。また、帝王の道は意を誠にし心を正すことにあります、心が正しくなれば朝廷も遠近もあえて正に一つとならないものはありませんと述べた。蒙古主は敬って礼を加えた。久しくして南へ帰ったが、ここに至ってまた衡とともに召された。

景定二年五月(1261年)

  • 蒙古が姚枢を太子太師、竇黙を太子太傅、許衡を太子太保としたが、みな辞して拝さなかった。
  • 当時、平章政事の王文統は利を説いて進んだ者だった。衡や枢の輩が侍って治乱休戚を語るときは必ず義を本としたので、文統はこれを憂いとした。竇黙がまた蒙古主の前で、文統は学術が正しくない、必ず天下に禍すると力説した。蒙古主が、では誰が宰相になれるかと問うと、黙は、臣の見るところ許衡に及ぶ者はありませんと答えた。蒙古主は不快で終わった。
  • 文統は衡と黙が表裏をなしていると疑い、そこで枢らに東宮の三師を授けることを奏した。表向きは尊んで用いる形だが、実は蒙古主にたびたび侍らせないためだった。黙はたびたび文統を攻めて当たらなかったので、東宮に拠って禍を避けようとし、枢とともに命を拝して謝しに入ろうとした。
  • 衡は、これは義に安んじない、しかも礼では師傅と太子は東西に向き合い、師傅が坐ってから太子が坐る、公らはそれを復せると思われるか、できなければ師の道は自分たちの代で廃れるのだと言った。そこでともに、太子がまだ立てられていないのに、どうして虚しく官の称を設けるのかという申し状を出した。そこで枢を大司農に改め、黙はそのまま侍講学士、衡を国子祭酒とした。まもなく衡は病と称して懐孟に帰った。

度宗咸淳七年六月(1271年)

  • 元主が改めて許衡を召し、集賢大学士兼国子祭酒に拝し、燕京南城の旧枢密院に学を設けた。衡は命を聞いて喜び、これこそ自分の事だと言い、そこで弟子の王梓・耶律有尚・姚燧ら十二人を召して斎長とすることを請うた。
  • 当時、選ばれた弟子はみな幼かったが、衡は成人のように遇し、我が子のように愛した。出入と進退は君臣のように厳しく、その教え方は、覚りに因って善を明らかにし、善に因って蔽いを開き、その動静を見て張り緩めた。誦読に少し暇があれば礼を習わせ、あるいは書と算を習わせ、幼い者には拝跪・揖譲・進退・応対を習わせ、あるいは射を、あるいは投壺をさせ、負けた者には書を何遍か読ませる罰を与えた。久しくして諸生は人ごとに自得し、師を尊び業を敬い、下は童子に至るまで三綱五常の道を知った。

咸淳九年秋七月(1273年)

  • 元の許衡が懐孟へ帰ることを請うた。元主が翰林学士の王磐に問うと、磐は、衡の教え方には法がある、諸生の行いは政に従わせられる、これは国の大事です、去らせるべきではありませんと答えた。元主は改めて諸大臣にその去留を議させた。竇黙が衡のために懇請し、そこで衡の帰郷を許した。
  • 劉秉忠・姚枢および磐・黙らが改めて、賛善の王恂に学事を代行させ、衡の弟子の耶律有尚・蘇郁・白棟を助教として、衡の規矩が廃れないようにすることを請い、許された。