宋史紀事本末蒙古の立国の制(䝉古立國之制)

嘉定十五年(1222年)から咸淳七年(1271年)まで、蒙古が遊牧の草創から中国風の国家制度を整えて国号を大元と改めるまでの五十年間。太宗の代には耶律楚材が十路の課税所・戸口括り・賦税・符印と駅の制・儒者の登科を立てて文治の基を築いたが、温都爾哈瑪爾の課税請負で民は困窮した。世祖呼必賚は劉秉忠・許衡らに内外の官制と朝儀を定めさせ、交鈔を行い太廟を建て、帕克斯巴に新字を作らせ、咸淳七年に大元と建号した。

年表(21件)

寧宗嘉定十五年五月(1222年)

  • 蒙古主の特穆津が扣肯寨で諸将を集めた。西域がしだいに定まったので、初めて各城に達嚕噶齊を置いて監治させた。達嚕噶齊とは中国語の掌印官にあたる。

理宗紹定二年十二月(1229年)

  • 蒙古が初めて賦の算定を定めた。中原は戸によって、西域は丁によって、蒙古は牛羊によって課した。

紹定三年二月(1230年)

  • 蒙古が十路の課税所を立てた。もと蒙古の太祖が西域を征したとき、倉庫には一斗の粟も一尺の帛も蓄えがなかった。そこで群臣はこぞって、漢人を得ても用いようがない、みな殺して草木を茂らせ牧地にするほうがよいと言った。
  • 耶律楚材は、天下の広さと四海の富をもってすれば求めて得られないものはない、ただ行わないだけだ、まことに中原の地税・商税・酒醋・塩鉄・山沢の利を均しく定めれば、一年で銀五十万両、絹八万匹、粟四十余万石を得られる、どうして用がないと言えようかと述べた。太祖は、まことに卿の言うとおりなら国用は余る、卿は試みにやってみよと言った。
  • ここに至って楚材は十路の課税所を奏し、使と副使二員を置いてすべて士人を用い、陳時可・趙昉・劉中らがみな選に入った。楚材は折を見て周公・孔子の教えを説き、あわせて、天下は馬上で得られても馬上では治められないと述べた。蒙古主は深く同意し、これによって文臣がしだいに登用された。

紹定四年八月(1231年)

  • 蒙古主が耶律楚材を中書令とした。楚材は、諸路の州県の長吏はもっぱら民事を理め、万戸府はもっぱら軍政を統べ、課税所はもっぱら銭穀を掌り、互いに統轄しないことを奏請し、令として定めた。また鎮海と鈕赫を挙げてともに事に当たらせた。
  • 権貴は志を得られず、燕京路の長官の実黙威達布が宗室の烏哲を怒らせ、楚材は南朝の旧人を用いており異心があるかもしれない、重く用いるべきでないと奏させ、そこで百端に誣い構えて必ず死地に置こうとした。鎮海・鈕赫・重山らは恐れ、楚材を責めて、なぜ無理に改革して今日のような事を招いたのかと言った。楚材は、朝廷を立てて以来、事はみな自分がしたことだ、諸公が何に与ろう、罪を得るなら自分が当たると答えた。
  • 蒙古主は烏哲の誣いを察してその使者を逐った。まもなく威達布が人に訴えられ、蒙古主は楚材に取り調べを命じた。楚材は、この人は傲慢だから謗りを招きやすい、今は南方に事がある、後日、処理しても遅くないと述べた。蒙古主は密かに近侍に、楚材は旧悪を咎めない、真の長者だ、お前たちは倣えと語った。
  • 蒙古主が雲中に至ったとき、諸路の貢納した課額の銀と幣、倉廩の物料の帳簿がすべて前に陳べられ、みな楚材の当初の奏の数と符合した。笑って、卿はどうしてこれほど銭幣を流入させられるのかと言い、その日のうちに中書省の印を授けてその事を領させ、事は大小を問わずすべて委ねた。

端平三年夏四月(1236年)

  • 蒙古が初めて中原の民戸を括って賦税を定めた。もと蒙古はひたすら進取を事とし、降った戸はそのまま将士に与えたので、一つの社の民にもそれぞれ主があって統轄されなかった。ここに至って詔して戸口を括り、大臣の呼図克に領させ、民は初めて州県に属した。
  • 当時、群臣はみな丁を戸としようとした。耶律楚材は不可とした。衆はみな、我が朝と西域の諸国はみな丁を戸としている、大朝の法を捨てて亡国の政に従えようかと言った。楚材は、古来、中原を有つ者が丁を戸としたことはない、それを行えば一年の賦は納められても、そのまま逃げ散ると述べ、蒙古主は楚材の議に従った。
  • 呼図克が括った戸一百四万を上申すると、蒙古主は諸州郡を割いて諸王貴族に分け賜って湯沐邑とすることを議した。楚材は、尾が大きくては振れず隙を生じやすい、金帛を多く与えて恩とするほうがよいと奏した。蒙古主は、すでに許してしまったと言った。楚材は、官吏を置くなら必ず朝廷の命で任じ、恒常の賦以外は擅に徴収させないようにすれば、まずまず長続きしますと述べ、蒙古主は従った。
  • 楚材はまた賦税を定めた。二戸ごとに絲一斤を出して官用に供し、五戸ごとに絲一斤を出して恩賜を受けた貴戚功臣の家に与える。上田は一畝につき税三升半、中田は三升、下田は二升半、水田は一畝五升。商税は三十分の一、塩は銀一両につき四十斤以上を永久の額とした。朝臣はみな軽すぎると言った。楚材は、将来、必ず利をもって進む者が出る、そのときにはこれでも重くなると言った。

嘉熙元年二月(1237年)

  • 蒙古が初めて官府に符と印を給し、駅の令を定めた。もと諸路の官府は自ら符と印を作り、僭越に限りがなかった。耶律楚材が中書省に式に依って鋳造して給することを請い、名器は初めて重みを持った。
  • 当時、諸王と貴戚はみな自ら駅馬を出せたので、道路は騒がしく行く先々で百端の要求があった。楚材は改めて牌と札を給して分限を定めることを請い、その弊はようやく改まった。

嘉熙元年八月(1237年)

  • 蒙古の耶律楚材が、器を作るには必ず良工を用い、成を守るには必ず儒臣を用いる、儒臣の事業は数十年を積まなければ容易に成らないと奏した。蒙古主は、そうであるならその人を官にせよと言った。そこで税課使の劉中と楊奐に郡ごとに試験させ、経義・詞賦・論の三科に分けた。儒者で捕らわれて奴となっている者にも受験させ、その主人が匿して出さなければ死罪とした。得た士は四千三十人、奴を免れた者はその四分の一だった。楚材はさらに度量衡を立て、鈔法を立て、均輸を定めることを請い、庶政はおおよそ備わり、民はやや息をついた。

嘉熙三年十二月(1239年)

  • 蒙古が温都爾哈瑪爾に諸路の課税を提領させた。もと耶律楚材が定めた課税の銀額は毎年五十万両、河南が降って戸口が増えてから一百十万両に増えていた。ここに至って回回の温都爾哈瑪爾が二百二十万で請け負うことを請うた。楚材は不可として、五百万を取ることさえできる、ただ厳しく法禁を設けて密かに民の利を奪うだけだと述べ、繰り返し争論して声も顔つきも激しかった。蒙古主が、お前たちは掴み合いでもする気かと言った。楚材は力及ばず奪えず、そこで嘆息して、民の困窮はここから始まると言った。

景定元年夏四月(1260年)

  • 蒙古が初めて官制を定めた。蒙古は特穆津以来、諸事が草創で官の設置はきわめて簡素だった。断事官を最も重い任とし、位は三公の上、丞相を「大筆且齊」と呼び、兵柄を掌るのは左右の万戸だけだった。後にやや金の制に倣って行省および元帥・宣撫などの官を置いた。
  • ここに至って蒙古主の呼必賚は大いに制度を新たにし、劉秉忠と許衡に古今の宜しきを酌んで内外の官制を定めさせた。政務を総べるものを中書省、兵権を執るものを枢密院、黜陟を司るものを御史台とし、その次に内では寺・監・院・司・衛・府があり、外では行省・行台・宣慰・廉訪があり、民を牧するには路・府・州・県があった。官には定まった職があり、位には定まった員があり、俸には定まった禄があった。その長には蒙古人を充て、漢人と南人がその副となった。こうして故老旧臣と山林の遺逸の士がみな登用され、一代の制が初めて備わった。

景定元年秋七月(1260年)

  • 蒙古が交鈔の法を行った。王文統が十の宣撫司を立てて条格を示し、賦役の調達は整うが民は煩わされず、課は常額を失わず、交鈔は滞らないようにしようとした。そこで中書省が中統元宝交鈔を造り、潁川・漣水・光化軍に互市を立てた。交鈔の法は十文から二貫文まで十等、年月を限らず諸路で通用し、賦税もこれで収受することを許し、あわせて私塩と私酒の禁を厳しくした。

景定二年夏四月(1261年)

  • 蒙古主が宣撫司の官に農桑を勧め遊惰を抑え、高齢者を礼遇し民の疾苦を問い、文学と才識で政に従いうる者および茂才異等の者を挙げて名を報告させ抜擢するよう命じた。職官で汚職や濫用のある者、民で不孝不弟の者は軽重を量って罰を議させた。

景定二年秋七月(1261年)

  • 蒙古が初めて翰林国史院を立てた。

景定二年十二月(1261年)

  • 蒙古が初めて宮殿府を立てて秩を正四品とし、もっぱら営繕を掌らせ、尚食局と尚薬局を立てた。

景定四年三月(1263年)

  • 蒙古が初めて太廟を建てた。蒙古の国俗では祭享の礼は牲を割き馬乳を奠じ、巫祝に辞を致させるものだった。蒙古主は即位した当初、初めて中書省に位を設け、登歌の楽を用い、祭器と法服を作らせた。ここに至って燕京に太廟を建て、烈祖・太祖・太宗・卓沁・察罕台・睿宗・定宗・憲宗の八室と定めた。また僧に七昼夜の仏事を薦めさせ、毎年これを常とした。

度宗咸淳元年春正月(1265年)

  • 蒙古が六部を四つに併せた。吏部と礼部を一部、兵部と刑部を一部とし、戸部と工部はそれぞれ元のままとした。

咸淳二年春正月(1266年)

  • 蒙古が制国用使を立てた。

咸淳三年三月(1267年)

  • 蒙古の安図が、今、丞相が五人いるが従来こうした例はない、臣らは二人の丞相を設け、蒙古人と漢人を参用することを議したいと述べ、許された。

咸淳三年夏四月(1267年)

  • 蒙古が上都に孔子廟を再建するよう命じた。

咸淳五年二月(1269年)

  • 蒙古が新字を行い、詔して述べた。国家が北方に基を開き、文字を用いるにあたってはみな漢の楷書と輝和爾の字を取って本朝の言葉を表してきた。遼・金および遠方の諸国の例を考えるに、それぞれ字がある。今、文治がしだいに興ってきたのに字書だけが欠けている。特に国師の帕克斯巴に命じて蒙古の新字を作らせ、諸路に頒行して一切の文字を訳し写させる。言葉に順い事を達することを期すだけである。字はおよそ千余、大要は諧声を宗とする、と。

咸淳六年春正月(1270年)

  • 蒙古主が許衡と太常卿の徐世隆に朝儀を定めさせ、衡と劉秉忠・張文謙に官制を定めさせた。また尚文と諸儒に詔して唐の開元礼および近代の礼儀のうち今に行えるものを採り、斟酌して増減させ、文武の儀仗と服色の等級はみなこれに掌らせた。

咸淳七年十一月(1271年)

  • 蒙古が国号を大元と改め、詔して述べた。大いなる天命を受け、四海を覆って尊位に居るからには必ず美しい名がなければならず、百王を継いで統を紀すのは古の隆盛の世からのことで、我が家だけのことではない。 そもそも唐という言葉は蕩の意で、堯はそれで称せられた。虞という言葉は楽の意で、舜はそれで号とした。やがて禹が興り湯が造って、夏を大、殷を中と互いに名づけた。世が降って以来、事は昔と異なり、時に乗じて国を有ちながら義によって称を制さず、秦とし漢とするのはただ初めに起こった地の名に従っただけ、隋といい唐というのはただ封じられた爵邑によっただけである。これらはみな百姓の見聞の慣れに従い、一時の経制の便宜を要としたもので、およそ至公に照らせば少しく貶めるところがないとは言えない。 我が太祖は乾の符を握って北の地に起こり、神武をもって帝図を承け、天の声を振るって領土を大いに広げた。版図の広さは歴代にないものである。近ごろ耆宿が庭に詣でて奏章で申請し、すでに大業を成した以上、早く鴻名を定めるべきだと言った。古の制にもそうあり、朕の心にも異存はない。 国号を大元と建てるべきである。これは易経の乾元の義を取ったものだ。この大いなる治が万物に流れ形をなすとき、誰が始めに資るという功に名を与えられよう。予一人が万邦を寧んじるにあたっては、とりわけ仁を体することの要が切実である。事は因革に従い、道は天と人に協う。あまねく天下とともに大号を隆んにしたい、と。