宋史紀事本末蒙古諸帝の擁立(太宗/憲宗)(定宗/世祖)(䝉古諸帝之立(太宗/憲宗)(定宗/世祖))

宝慶三年(1227年)の太祖特穆津の死から景定五年(1264年)の額哷布格の帰順まで、蒙古の帝位継承をたどる。耶律楚材が諤格德依(太宗)の擁立と冊立の礼を定め、中原の濫刑を禁じたが、太宗の没後は后の鼐瑪錦氏が制を称して楚材は憂死した。定宗庫裕克、憲宗孟克と位は移り、孟克の合州陣没ののち呼必賚(世祖)が開平で立ち、廉希憲が関中の乱を平らげて弟の額哷布格との争いに勝った。

年表(16件)

理宗宝慶三年十二月(1227年)

  • 蒙古主の特穆津が六盤山で没した。在位二十六年、廟号は太祖。子は六人。長子を卓沁といい、性は激しく戦に長けたが早く死んだ。第二を察罕台、第三を諤格德依、第四を図類という。ここに至って図類が監国した。

紹定二年八月(1229年)

  • 蒙古主の諤格德依が立った。諤格德依は太祖の喪を聞いて和博果の地から来て会した。耶律楚材は遺詔をもって諸王を召し、みな至ってから諤格德依を立てることを請うた。当時、図類が監国しており、諸王の意はためらって決しなかった。楚材が監国に、これは社稷の大計だ、早く定めなければ他の変を生じることを恐れると言い、監国はそこで諸王とともに諤格德依を奉じて和林の東、奎騰阿喇勒の地で即位させた。
  • 当時は庶務が草創で礼儀は簡略だった。楚材が初めて冊立の礼を定め、皇族の諸王や尊長にもみな班列に就いて拝させた。また中原は平定したばかりで号令がなく、長吏はみな擅に生殺を行い、少しでも意に忤う者があれば刀鋸が続き、一家残らず禍を被る例さえあった。楚材が言上し、命じて禁絶させた。

淳祐元年十一月(1241年)

  • 蒙古主の諤格德依が没した。廟号は太宗。諤格德依は酒を好み、晩年はとりわけ甚だしかった。耶律楚材がたびたび諫めたが聴かれず、そこで酒槽の鉄の口を持って献じ、この鉄は酒に蝕まれてこうなった、まして人の五臓はどうかと述べた。蒙古主はそこでやや減らした。
  • この年の二月、病が篤くなって脈が絶えた。第六皇后の鼐瑪錦氏はなす術を知らず、楚材を召して問うた。楚材は、今、任用が適切でなく、官を売り獄を売って、罪なく囚われている者が多い、天下を赦されるべきですと答えた。后がすぐ行おうとすると、楚材は、君命がなければできませんと言った。ほどなく蒙古主が少し蘇り、后が言上すると首肯した。赦が発せられて脈が戻り、十一月には病が癒えた。
  • 楚材は六一の数で推して、狩猟はよくないと述べた。左右はみな、騎射しないで何を楽しみとするのかと言った。狩りに出て五日、諤特古呼蘭・温都爾哈瑪爾が酒を進めて歓飲し、夜更けにようやく終わった。その翌日、没した。
  • 諤格德依は時を量り力を度って挙措に過ちがなく、華夏は豊かで羊馬は群れをなし、当時、治平と称された。もと蒙古主の旨で孫の実勒們を嗣とすることになっていた。実勒們は蒙古主の第四子の庫春の子である。ここに至って后が楚材に問うと、楚材は、これは外姓の臣が敢えて知るところではありません、先帝の遺詔があります、それに遵われますようにと答えた。后は従わず、そのまま和林で制を称した。

淳祐三年三月(1243年)

  • 蒙古の中書令の耶律楚材が憂いのうちに没した。当時、蒙古の后の鼐瑪錦氏が制を称し、温都爾哈瑪爾が政を専らにして権が中外を傾けていた。后は御璽を捺した白紙を渡して自ら書き入れさせるほどだった。楚材は、天下は先帝の天下です、朝廷には自ずと憲章があります、今それを乱そうとされるなら、臣は詔を奉じられませんと述べた。
  • また旨があって、温都爾哈瑪爾が建白したことを令史が書かなければその手を斬るとした。楚材は、国の典故は先帝がすべて老臣に委ねられました、令史が何に与りましょう、事が理に合えば当然奉行します、行えないなら死をも避けません、まして手を斬られることなどと述べた。后は不快になり、楚材は憤り鬱して病を得て没した。
  • ある者が、楚材は宰相となって二十年、天下の貢賦の半ばがその家に入ったと讒言した。后が近臣に調べさせると、あったのは琴と阮が十余、古今の書画と金石の遺文が数千巻だけだった。
  • 楚材は宰相として色を正して朝に立ち、勢いに屈しなかった。国家の利病や生民の休戚を陳べるたび、言葉も顔つきも懇切だった。太宗はかつて、お前はまた百姓のために泣くのかと言った。楚材はいつも、一つの利を興すより一つの害を除くほうがよい、一つの事を生じるより一つの事を減らすほうがよいと言った。人は名言とした。

史論(宋子貞曰)

  • 元は大乱の後を承け、天の綱と人の理はほとんど絶えかけていた。加えて南北の政はいちいち食い違い、出入りして事を執る臣もみな諸蕃から降った者で、言葉は通じず志向も違った。楚材は一介の書生としてその間に孤立し、学んだところを行おうとした。難しかったというべきである。それでも施策に現れたのは十のうち二、三にすぎない。もし楚材がいなければ、人類はどうなっていたか分からない。

  • 当時、蒙古の諸王のうち図類の第四子の呼必賚は天下に大いに為そうと思い、藩府の旧臣と四方の文学の士を招いて治道を問うた。

  • もと邢台の人の劉秉忠は英邁で拘りがなく、十七歳で邢台節度使府の令史となって親を養った。常に鬱々として楽しまず、ある日、筆を投げて嘆じ、我が家は累代の衣冠の家なのに、埋もれて刀筆の吏となるのか、丈夫が世に遇わなければ隠居して志を求めるべきだと言い、ただちに棄てて武安山中に隠れた。久しくして僧となり雲中を往来した。折しも呼必賚が他の僧を召したとき、そのまま秉忠も誘って行った。拝謁して応対が旨に適った。秉忠は書に読まぬものなく、とりわけ天文・律暦・三式・六壬・遁甲の類に深く、天下の事を論じることは掌を指すようだった。呼必賚は大いに愛した。秉忠はさらに張文謙を薦め、召して掌書記とした。

淳祐六年秋七月(1246年)

  • 蒙古主の庫裕克が立った。庫裕克は太宗の長子で、母の六皇后が朝に臨むこと四年、ここに至って諸王と百官を集めて擁立を議し、そこで昂吉蘇黙托里の地で即位した。朝政はなお后から出ていた。

淳祐八年三月(1248年)

  • 蒙古主の庫裕克が杭錫雅爾の地で没した。廟号は定宗。
  • 当時、国内は大旱で河水はすべて涸れ、野草は自ら燃え、牛馬は十のうち八、九が死に、人は生を頼めなかった。諸王と各部はまた使者を諸郡へ遣って貨財を徴求し、あるいは西域の回鶻に真珠を求め、あるいは海東に鷹や鶻を取り、駅の騎が絶えず昼夜やまなかったので、民力はいっそう困窮した。
  • 皇后の烏拉海額実が庫春の子の実勒們を抱いて政を聴いたが、諸王大臣の多くは服さなかった。

淳祐十一年六月(1251年)

  • 蒙古主の孟克が立った。もと定宗が没してから長く君が立たず、中外は騒然としていた。ここに至って諸王の穆格および大将の烏蘭哈達らがみな会して立てる者を議した。当時、定宗の后の遣わした使者が同席しており、かつて太宗が皇孫の実勒們を嗣とするよう命じ、諸王百官もみなそれを聞いた、今、実勒們がなお在るのに他に属させようというなら、彼をどこに置くのかと言った。烏蘭哈達らは聴かず、ともに孟克を推して奎騰阿拉克の地で即位させ、その父の図類を帝に追尊して廟号を睿宗とした。
  • 実勒們と諸弟は内心これに堪えなかった。孟克は諸王のうち異心のある者を察してみな繋ぎ止め、主謀者を捕らえて誅した。そのまま便宜の事を国中に頒ち、急でない役を罷め、諸王大臣がみだりに発した牌印・詔旨・宣命をすべて回収した。政は初めて一つに帰した。

淳祐十一年秋七月(1251年)

  • 蒙古主が弟の呼必賚に漢南を総べ治めるよう命じ、詔して漢南にいる軍民はすべて呼必賚に統べさせ、そのまま金蓮川に府を開かせた。
  • 当時、姚枢は蘇門に隠居していた。呼必賚は趙璧を遣って召した。枢が至ると賓客の礼で遇した。枢はそこで数千言の書を上げ、まず帝王の道を陳べ、次に時を救う務めに及んで三十条とした。呼必賚はその才を異とし、動くたびに必ず召して問うた。
  • 枢は呼必賚に、今、土地・人民・財賦はみな漢の地にある、王がこれをすべて有てば天子はどうなるのか、後に必ず離間する者が出る、ただ兵権だけを持ち、万事を有司に付すほうが、勢いは順で理は安らかだと述べ、呼必賚は従った。枢はまた呼必賚に説いて汴に経略司を置かせ、兵を分けて屯田させ、西は襄陽・鄧州から東は清口・桃源まで、みな障を並べて守らせた。

淳祐十二年二月(1252年)

  • 蒙古主は諸王がかつて実勒們を立てようとしたことから、太宗の后を奎騰の居所の西へ移し、諸王を各辺境へ分け遷した。定宗の后および実勒們の母は呪詛の罪でともに死を賜り、実勒們は摩多齊の地に禁錮された。

淳祐十二年六月(1252年)

  • 蒙古主が中州を同姓に封じ、弟の呼必賚に汴京と関中のどちらかを自ら択ばせた。姚枢は、南京は黄河の流れが定まらず土は薄く水は浅くて塩害が生じる、関中に及ばない、その田は古来上上で天府陸海と称されたと述べた。呼必賚はそこで蒙古主に請うた。蒙古主は、関中は戸が少ない、河南の懐州・孟州は地が狭く民が多い、取って加えよと言った。こうして関中と河南の地をすべて有した。
  • 呼必賚が姚枢と夜に宴したとき、枢はそこで宋の太祖が曹彬を遣って南唐を取ったとき一人も殺さず市も店を替えなかった事を陳べた。呼必賚は大いに喜んで、自分にもそれができると言った。枢は賀して、王がそうできれば生民の幸い、国を有つ者の福ですと言った。

開慶元年秋七月(1259年)

  • 蒙古主の孟克が合州の城下で没した。孟克は沈着果断で口数が少なく、飲宴を好まず、自ら祖宗の法に遵うと言っていた。ただ狩猟を好み、巫覡と卜筮の術を信じ、事を行うたびに必ずこれを問い、ほとんど日を空けなかった。廟号は憲宗。

景定元年三月(1260年)

  • 丁卯、蒙古主の呼必賚が立った。
  • もと呼必賚が南伐から北へ帰るとき、廉希憲は額哷布格が劉太平と大将の和囉海に関中で行尚書省事を執らせていると聞き、諸将を結んで秦・蜀を動かすことを恐れ、趙良弼を遣ってうかがわせた。良弼は実情をすべて得て戻り報せた。
  • 当時、諸王の格辰・穆格・塔齊爾がみな開平に会し、錫哩も西域から使者を遣って即位を勧めた。ただ額哷布格だけが来なかった。希憲らは、先んずれば人を制し後れれば人に制せられる、逆順と安危の間は髪一筋も容れない、早く大計を定められたいと力説した。呼必賚は三度譲り、諸王大臣が固く請うて、そのまま即位した。
  • 詔して述べた。朕が思うに、祖宗は初めて国土を開いて四方を有し、武功はたびたび興ったが文治には欠けるところが多く、五十余年になる。おおむね時に先後があり事に緩急がある。天下の大業は一人の聖、一つの朝で兼ね備えられるものではない。 先皇帝は即位の初め、風のように飛び雷のように激しく大いに為そうとされた。国を憂え民を愛する心は自らに切であったが、賢を尊び能を使う道はその人を得なかった。夔門の軍を督されたところで、たちまち鼎湖の泣きを遺された。まさか恨みを残して終えられまいとは思わなかった。 朕は幼く未熟な身ながら、江を渡ってからさらに深く入ろうとしていた。ところが国中で兵の徴発の騒ぎが重なり、黎民が驚いて一朝もいられぬ有様だと聞いた。朕はこれを恐れ、駅の騎で馳せ帰った。目前の急は緩んだが境外の兵はまだ収まらない。そこで衆議を集めて良い規を整えようとしたところ、思いがけず宗盟が真っ先に推戴した。左右万里の名王と重臣が召さずして至り、謀らずして同じくし、こぞって、国家の大統は久しく空けられない、神と人の重い託は暫くも虚しくできないと言った。今日、太祖の嫡孫の中、先皇帝の同母弟の列で、賢といい長といい、ただ朕一人である。征伐の間にあっても常に仁愛の念を存し、博く施して衆を済すのだから、まことに天下の主となれると。天道は順を助け、人謀も能くする。祖訓と伝国の大典はここにある。誰があえて従わぬか。 朕は峻拒して固く譲ること再三に及んだが、祈り懇うことはいよいよ堅く、死を誓って請うた。そこで輿情に俯し従い、勉めて大宝に登った。自ら思うに寡くして暗く、時は多難、淵や氷を渡るようで済す道を知らない。臨御の初めに当たり、遠大な規を新たにすべきである。祖述と変通はまさに今日にある。実德を施すことを務め虚文を尚ばない。太平は容易には至らないが、飢渇の苦しみこそ先に務めるべきだ。ああ、暦数の帰するところ、謹んで上天の命に応じ、勲と親に託される。どうして烈祖の規を忘れよう。極を体し元を建て、民とともに始めを改める。朕の及ばぬところは、遠近の宗族と中外の文武が心を同じくし力を協せ、可を献じ否を替える助けを頼みとする。広く多方に告げ、朕の至意を体せよ、と。

景定元年夏四月(1260年)

  • 蒙古の額哷布格は呼必賚の即位を聞き、阿勒達爾に漠北の諸部で兵を発させ、腹心を分け遣って将佐を入れ替え、金帛を散じて士卒に与えた。また劉太平と和囉海に関中の銭穀を接収させた。
  • 当時、琿塔噶が先朝から兵を率いて六盤に駐屯していた。太平らは密かに結び、琿塔噶はさらに人を分け遣って成都の密喇卜和卓と竒爾岱布哈に同時挙兵を約させた。額哷布格はそのまま和林で帝を称した。

景定元年五月(1260年)

  • 蒙古の劉太平と和囉海は廉希憲が来ると聞き、駅馬で急いで京兆に入って変を起こす謀を立てた。秦の人は以前、阿勒達爾と太平らの威虐を受けていたので、その到来を聞いてみな肝を潰した。
  • 二日して希憲も至り、詔旨を宣示し、人を馳せて六盤へ遣って宣諭安撫した。まもなく城門の番人が急使を引いて来た。六盤から来たと言うので、希憲が訊すと、太平と琿塔噶、密喇卜和卓、竒爾岱布哈が結んだ次第をすべて知った。希憲は僚佐を集めて、主上が我らに命じられたのはまさに今日のためだと言い、そのまま人を分け遣って太平と和囉海を捕らえ、劉里瑪を遣って成都で密喇卜和卓を誅し、汪惟正に沁結で竒爾岱布哈を誅させた。
  • また総帥の汪良臣に秦州・鞏州の諸軍を率いて琿塔噶を進討させた。良臣が旨をまだ得ていないと言うと、希憲はその場で佩びていた虎符と銀印を解いて授け、これはみな身に密旨を承けたもの、君はただ自分の事を行え、制符はすでに飛奏したと言った。良臣はそのまま出発した。さらに蜀の兵四千を抜き出して蒙古の将の巴沁に率いさせ、良臣の後押しとした。
  • 折しも赦の詔が届いたが、希憲は太平らを獄で殺して屍を大通りに晒すよう命じ、それから出て詔を迎えた。琿塔噶は京兆に備えがあると知って西へ黄河を渡って甘州へ向かった。阿勒達爾が和林から兵を率いてちょうど至り、そこで琿塔噶と軍を合わせて南下した。当時、諸王の哈坦も騎兵を率いて巴沁・汪良臣と兵を合わせ、三道に分かれて防いだ。
  • 陣を敷くと大風が砂を吹きつけた。良臣は軍士に馬を下りさせ、短兵で左を衝いて陣の後ろへ回り、右を潰して出た。巴沁はまっすぐ前を衝き、哈坦は精騎を率いてその帰路を遮った。甘州の東で大戦して琿塔噶と阿勒達爾を殺し、関中・隴西はすべて平定された。
  • 希憲はそこで使者を遣って、赦を止めて刑を行ったこと、諸軍を徴調したこと、擅に良臣を帥としたことなどの罪を自ら弾劾した。蒙古主は、卿に方面の任を委ねたのはまさに宜しきに従わせるためだ、常制に拘っては座して機を失うではないかと言い、詔して希憲に金の虎符を賜り、平章政事・行省秦蜀に進め、商挺を参知省事とした。

景定二年冬十月(1261年)

  • 蒙古主の呼必賚は額哷布格が命に背いたので自ら討ちに出、実黙図の地で戦った。諸王の哈坦らがその兵三千を殺し、塔齊爾が道を分けて奮撃して大破し、五十里追撃した。呼必賚は諸軍を率いてその後を追い、三路を合わせて追い詰めた。その部将の多くが降り、額哷布格は北へ逃げ、呼必賚は引き揚げた。

景定五年秋七月(1264年)

  • 蒙古の額哷布格は実黙図の敗北以来、二度と軍を成せなかった。ここに至って諸王の玉隆達実・阿蘇岱・錫里済およびその謀臣の布爾哈・阿里綽・哈果斯らとともに上都へ帰順した。蒙古主は諸王がみな太祖の裔であるとしてともに釈して問わず、その謀臣の布爾哈らを誅した。