宋史紀事本末公田の設置(公田之置)
淳祐六年(1246年)の謝方叔の限田の議を端緒に、景定四年(1263年)に賈似道が公田法を実施し、その害が宋の亡ぶまで続いた経緯。似道は劉良貴・呉勢卿の献策を容れて官戸の限外の田三分の一を買い上げ、六郡で三百五十余万畝を得たが、代価は下落した会子や空しい辞令書で、浙西の民は破産した。徐経孫・魏克愚の批判は退けられ、彗星に際しての公論も理宗が似道を庇って沮まれ、さらに経界推排法で民力は困窮した。
年表(7件)
- 理宗
- 淳祐六年十一月1246年謝方叔が兼併の害を説いて限田を請い、公田法の端緒となる
- 景定四年二月1263年賈似道が公田買い上げを行わせ、反対した徐経孫を罷めさせる
- 景定四年六月1263年六郡で公田三百五十余万畝を買い上げ、浙中が大いに乱れる
- 景定五年三月1264年公田を憲司・運司・総所に分属させ、四分司と官荘を置く
- 景定五年秋七月1264年彗星に応じて公田不便の上書が相次ぐが、帝が似道を庇って沮む
- 景定五年九月1264年似道が諸路で経界推排法を行い、民力がいっそう困窮する
- 度宗
- 咸淳三年十二月1267年李鏞の議により推排法を諸路の漕帥に施行させる
理宗淳祐六年十一月(1246年)
- 殿中侍御史の謝方叔が述べた。豪強の兼併の患いは今日に至って極まった。民の名田に限りを設けずには済まない。これも世道を救う臨機の権である。 本朝が銭塘に駐蹕して百二十余年、外は領土が日々荒れ、内は人口が日々増え、権勢の家は日々盛んになり、兼併の習いは日々広がり、百姓は日々貧しく、経制は日々壊れ、上下が煎られ迫られて、なしえない勢いのようだ。いわゆる富貴と権柄を握るものが人主の専らにするところでなくなっている。識者は恐れている。 百万の生霊の生を養う具はみな豆や粟に本づき、豆や粟の産はみな田から出る。今、百姓の肥えた田はみな権勢の家に帰し、租米が百万石に及ぶ者さえある。小民は百畝の田を持てば毎年、保役に差し出され、官吏の誅求は百端に及ぶ。やむを得ずその産を巨室に献じて役を免れようとする。小民の田は日々減るのに保役はやまず、大官の田は日々増えるのに保役は及ばない。こうして弱い者の肉を強い者が食い、兼併はしだいに盛んになって、民は生を遂げられない。この時に当たって、厳しく経制を立てて防がずにいられようか。 去年、諫官がかつて限田を説いたが、朝廷はうやむやにした。今、国用と辺境の糧はみな和糴に頼っているのに、権勢で田の多い家には和糴を課せず保役も及ばない。敵は外からうかがい、盗賊は内から狙っている。この時に当たって、田を多く持ち資財を厚くしても長く保てないなら、金を出して国を助け、ともに目前の危機を和らげるほうがよい。それを転じて導くだけのことだ。 二、三の大臣に諭して臣僚の奏を採って行わせ、経制を定め兼併を塞ぎ、それによって朝廷を尊び国計を裕かにされたい。陛下は貴近の言に引かれて初めの意を揺るがされないように、大臣は仇怨の多さを避けて良策を廃されないように、と。帝は従った。
- 按ずるに、方叔のこの疏は公田を置く端緒である。だからここに載せる。
景定四年二月(1263年)
- 賈似道が国政に当たり、国計が紙幣の増発に困り富民が和糴に困っていることから、法を変えようと考えたがその説を得られずにいた。知臨安府の劉良貴と浙西転運使の呉勢卿が公田を買う策を献じた。
- 似道はそこで殿中侍御史の陳堯道、右正言の曹孝慶、監察御史の虞毖・張希顔に上疏させた。三辺に屯を並べても食がなければ飽かず、諸路の和糴も紙幣がなければ行われない。兵に糧を与えずにいられない以上、和糴は広く図るべきで、和糴を免れない以上、紙幣の増発も止められない。今日の計として、国にも民にも便で、軍食を調え紙幣の価を重くするには、祖宗の限田の制を行うに越したことはない。官品によって頃を計り、品格によって数を計り、両浙・江東西の和糴を行う所へ下し、まず隠し分けた田を併合させ、そのうえで官戸の田産で限を超えた分の三分の一を買い上げて公田に充てる。一千万畝の田を得れば毎年、六、七百万石の米を収められ、軍餉は十分に余る。和糴を免れ、軍に糧を与えられ、紙幣の増発を止められ、物価を平らげられ、富室を安んじられる。一事を行って五つの利が興る、と。帝は従った。
- 詔して公田を買うこととし、官田所を置き、劉良貴を提領、通判の陳訔を検閲としてその副とした。良貴は都省に下して賞罰を厳しく立て、併合の弊を糾すことを請うた。ただ徐経孫だけがその害を条陳した。似道は御史の舒有開をそそのかして弾劾させ、罷めて帰らせた。
- 浙西安撫の魏克愚は、四路の民田を取って限を立てて買い上げるのは、和糴を免れて国の蓄えを増すためで、論者は自ら公にして忠だと思っているのだろうが、その利は見えずかえって害だけが見える、近ごろ給事中の徐経孫が江西の買田の弊をきわめて詳しく奏したが、浙西の弊はなお経孫の言う以上だと述べ、そのうえで害となる八事を歴述した。疏は奏されたが省みられなかった。
- まもなく帝が手詔して、和糴を永く免ずるには限を超えた田を買うのに勝る良法はない、しかし春の農作業が始まったところだ、しばらく秋の収穫を待って追って議して施行せよと述べた。似道は憤然として上疏して辞任を求めた。改めて何夢然・陳堯道・曹孝慶に抗章して留めさせ、あわせて帝に詔を下して慰め励ますよう勧めた。帝はそこで似道に出仕を促し、あわせて、まず浙西から始め、諸路はそれを手本とせよと言った。似道はその制を詳しく陳べ、帝はみな従った。二省は謹んで奉行した。
- 似道は真っ先に自分の浙西の田一万畝を公田として率先し、栄王与苪が続き、趙立奎が自ら申し出て売った。これによって朝野に物を言う者はなくなった。
景定四年六月(1263年)
- 庚申、詔して、平江・江陰・安吉・嘉興・常州・鎮江の六郡ですでに公田三百五十余万畝を買った、今、秋の収穫が近い、荊湖・江西の諸道はもとどおり和糴せよとした。丙寅、公田の事が終わったとして劉良貴らの官を進めた。
- 初め官田を買うのにはなお強きを抑え富を憎む意があった。続いて割り当てを行い、二百畝以下は免じ、その他はそれぞれ三分の一を買った。その後は百畝の家でも免れなくなった。値を定めるのに、租一石につき第十八界の会子四十で償うこととした。だが浙西の田には石の租が千緡もの値打ちのものがあり、それもこの値とされた。代金がやや多ければ銀と絹を半々で給し、さらに多ければ度牒や辞令書を与えた。値の換算は、登仕郎の誥が三十楮、将仕郎の誥が千楮で漕試の受験を許し、校尉の誥が一万楮、承信郎の誥が一万五千楮、承節郎の誥が二万楮、安人の誥が四千楮、孺人の誥が二千楮。民は実物を失って空しい辞令を得た。吏はまた恣に締めつけ、浙中は大いに乱れ、破産し生業を失う民はきわめて多かった。
- 官吏で奉行が行き届かない者があれば、劉良貴はたちまち弾劾し、出身を追奪して永く登用しないこととした。これによって有司は競って多く買うことを功とした。似道はさらに陳訔を秀州・湖州へ、廖邦傑を常州・潤州へ遣って督促させた。その六郡の買田には専任の官があった。平江は包恢と成公策、嘉興は潘墀・李補・焦煥炎、安吉は謝奕・趙与訔・王唐珪・馬元演、常州は洪穮・劉子庚、鎮江は章坰・郭夢熊、江陰は楊班・黄伸。恢は平江で肉刑まで用い、邦傑は常州でとりわけ民を害し、もともと田がないのに併合の名で強いて買わされて自ら縊れる者さえあった。朝廷はひたすら公田を買うことを功とし、詔して良貴の官を二階進め、他も差等をつけて進めた。
景定五年三月(1264年)
- 賈似道が、公田はすでに成った、また州県に総べさせては害が除かれず利も長続きしないとして、江陰・平江の公田は浙西憲司に、安吉・嘉興の公田は両浙運司に、鎮江は総所に属させることを請うた。毎年の租を官倉に納めるときは特に二分を減じ、水旱があれば別に減免を議することとした。
- あわせて四つの分司を立てて公田を主管させ、郷ごとに官荘一か所を置いた。官のために耕す民を官佃といい、官のために監督する者を荘官といい、富裕な者を充てて二年ごとに交代させた。
- 初めに買うとき上下が迎合してひたすら買う数の多さを求め、六、七斗のものもみな一石とした。租の収穫が不足すると、その額を田主から取り立て、そのまま無窮の害となった。
景定五年秋七月(1264年)
- 甲戌、彗星が現れた。詔して中外の直言を許した。台諫と士庶の多くが上書して、公田が民に不便で民間の愁いと怨みを招いたためだと述べた。そこで賈似道が上疏して力めて弁じ、辞任を乞うた。
- 帝は、事を言うのは易く事に当たるのは難しい、古来そうだ、公田の説が不可なら卿が建議した初めに朕がすでに阻んでいる、ただ公私ともに済すからこそ意を挙げて行わせたのだ、今、すでに成った、一年の軍餉はこれに頼っている、急に人の言によって罷めては、一時の異議は決せられても国計はどうなるのか、卿は事に当たった以上は怨みにも当たるべきだ、礼義に過ちがなければ人の言など何を恤むかと言った。知臨安府の劉良貴も人の言が騒然としていることから、田を括った労を自ら述べて罷免を乞うたが許されなかった。これによって公論はたちまち沮んだ。
景定五年九月(1264年)
- 賈似道が諸路で経界推排法を行うことを請うた。これによって江南の地は寸尺ごとに税がかかり、民力はいっそう困窮した。
度宗咸淳三年十二月(1267年)
- 司農卿の李鏞が述べた。経界はかつて修め明らかにすることが議されたが、ついに行われなかった。かつて自ら申告させたが、それもついに終わらなかった。上で事に当たる者が理財の名を避けようとし、下で成果を害する者がまた民を煩わせるという説を唱えるからではないか。だから邑政の壊れるのを座視して狡い吏と姦しい民の欺きを問いただそうとせず、下戸から苛酷に取ることを忍んでも豪家大姓の怨みを受けようとしない。 そもそも経界の法は、多くの官吏を差し出し、都と保をすべて集め、あまねく田畑を歩き回り、すべて畝を測り、等級と種別を審らかに定め、細かく計算しなければならない。姦弊は次々に生じ、長く事が終わらない。ところが推排の法は、県で都を統べ、都で保を統べ、財に明るく公平な者を選任して田畝と税の種別を訂正し図冊に載せ、民に定まった産、産に定まった税、税に定まった籍があるようにするだけだ。臣は呉門を守ってすでにその施行を見た。今、紹興でもしだいに緒に就き、湖南の漕臣も一路の完成を告げたと聞く。 ひそかに思うに、東南の諸郡はみな謹んで奉行するだろう。田畝が実に合わなければ郷の局に正させ、図冊が整わなければ県の局に督促させる。さらに郡守が県の遅滞を察し、監司が郡の怠慢を察し、号令を厳しくし賞罰を信にして、秋冬を期して事を終え、年ごとにその成果を課す。周官に日ごとに成し月ごとに要し歳ごとに会するとあるように綜合して核べるべきだ、と。そこで詔して諸路の漕帥に施行させた。
- おおむね南渡の後は水田の利が中原より豊かだったので、水利が大いに興った。ところが没収された諸々の田を民に募って耕させるときは、みな私租の旧額をそのままにしたので、しばしば重すぎることになった。納入の際も公私の事例はまったく違う。私租は額が重くとも納めるのは軽く、公租は額も重く納めるのも重い。そうなれば小作人は堪えられず、州県の胥吏と倉庫の執事はみな掠め取る計を得た。
- 金人は和したり戦ったりで、戦えば軍需は膨大になり、和すれば歳幣が重い。国用は常に続かないことに苦しんだ。そこで民が官租の重さに苦しんでいることに因って、有司に官田を括って売らせ用に充てた。初めは力役を緩めて誘い、終わりには押しつけを免れなかった。これが官田の弊である。
- 嘉定以後にはまた安辺所の田というものがあり、その租を収めて歳幣を助けた。後にはまた民の名田に限りを設けて限外の分を買い、これを公田と称した。初めの議は和糴を省いて民力を輸するというものだったが、その弊はきわめて多く、その租はとりわけ重かった。宋の亡ぶまで、残された患いはやまなかった。