宋史紀事本末董宋臣・丁大全の姦(董宋臣丁大全之姦)
宝祐三年(1255年)から景定三年(1262年)まで、宦者の董宋臣と丁大全が理宗の晩年に権を握って朝政を壊した八年間。「董閻羅」と呼ばれた宋臣を弾劾した洪天錫は退けられ、謝方叔も罷められた。丁大全は閻妃と内侍に取り入って昇り、右丞相の董槐を兵で追い出し、太学の「六君子」を編管して言路を塞いだ。蒙古の侵入を隠したことで開慶元年に罷免され、宋臣は安吉州へ出され、大全は新州流謫の道中で死んだ。
年表(10件)
- 理宗
- 宝祐三年五月1255年董宋臣が佑聖観幹辦となり、洪天錫が宦官・外戚・小人の三患を論じる
- 宝祐三年六月1255年丁大全が右司諫となり、宋臣を弾劾した洪天錫と謝方叔が退けられる
- 宝祐四年六月1256年大全が兵で右丞相の董槐を逐い、太学の「六君子」を編管する
- 宝祐四年十一月1256年大全が簽書枢密院事となり、「閻馬丁当国」の八字が門に書かれる
- 宝祐四年十二月1256年内蔵の督促を諫めた知厳州の呉槃が、宋臣の差し金で罷められる
- 宝祐六年夏四月1258年丁大全が右丞相兼枢密使となる
- 開慶元年春正月1259年徐宗仁が賞罰の廃れを説き、大全ら誤国の徒と首悪の宋臣の誅を求める
- 開慶元年冬十月1259年蒙古の侵入を隠していた丁大全が罷免され、致仕させられる
- 景定元年夏四月1260年内侍の董宋臣が安吉州へ出される
- 景定三年十一月1262年丁大全が新州へ流され、道中で死ぬ
理宗宝祐三年五月(1255年)
- 宦者の董宋臣に佑聖観の幹辦を任せた。宋臣は上意に迎合して梅堂・芙蓉閣・香蘭亭を建て、民の田を強奪し、倡優を宮に引き入れ、権を招き賄を納れて至らぬところがなかった。人は「董閻羅」と呼んだ。
- 監察御史の洪天錫が上疏して、天下の患いは三つ、宦官・外戚・小人だと述べた。宋臣および謝堂・厲文翁を指したものである。帝は天錫に疏を書き改めさせ、自ら戒飭しようとした。天錫はさらに、古来、姦人は勢いを頼んでも、内心は人主に知られることを畏れないことはなかった、知りながら戒飭にとどまれば、その恃みはいよいよ張る、知られないほうがまだましだと述べた。返答はなかった。
宝祐三年六月(1255年)
- 丁大全を右司諫とした。大全は鎮江の人で顔は藍色、外戚の家の婢の婿だった。閻妃および内侍の盧允升・董宋臣に縁を求めて帝の寵を得、蕭山尉からたびたび昇って右司諫に拝された。当時、正言の陳大方、侍御史の胡大昌が大全と同時に任じられ、人は「三匹の吠えない犬」と呼んだ。
- 戊子、監察御史の洪天錫を罷めた。当時、土が雨のように降った。天錫はその異変を蒙(覆い隠す象)とし、陰陽と君子・小人の弁を力説した。また、蜀中で地震があり、閩と浙で大水があり、上下は窮乏して遠近が嘆き怨んでいる、独り貴戚と大宦官だけが富貴を享けている、天下じゅうが窮して怨んでいるのに、陛下は数十人だけと天下をともにされるおつもりかと述べた。
- 折しも呉の民が宦官の董宋臣に田を奪われたと訴えた。天錫がその事を有司に下すと、御前提挙所は、その田は御荘に属し台に申すべきでないと言い、儀鸞司も常平に牒を送った。天錫は、御史は冤を雪ぐためのもの、常平は均しくするためのものだ、宦官がこれを差し止められるなら内外の台は廃してよい、それでなお国に紀綱があると言えようかと述べ、そこで宋臣を弾劾し、あわせて允升にも及んだ。
- また、修内司はもと御膳の調達にとどまるものだったが、近年は動くたびに御前と称し、姦悪な老吏や逃亡した凶徒が一人でも名を紛れ込ませれば有司は手を出せない、狡い者は謀を献じ暴な者は虐を助け、次々に害を受けるのはみな良民だ、史臣に「内司の横暴は今より始まる」と書かせないでいただきたいと述べた。疏は六、七度上げたがみな留められて返答がなかった。天錫はそのまま去った。
- 宗正寺丞の趙崇嶓が書を送って丞相の謝方叔が正して救えないことを責めた。ところが讒言する者はまた、天錫の論は方叔の意だと言った。そこで監察御史の朱応元が謝方叔および参知政事の徐清叟を弾劾して罷めさせた。董宋臣と盧允升はなお不満で、厚く賄賂して人に上書させ、力めて洪天錫と謝方叔を詆り、あわせてその誅殺を乞い、天下に、宰相と台諫の退任は独断から出たもので内侍は与っていないと明らかに知らせようとした。そこで方叔を提挙洞霄宮として出した。
宝祐四年六月(1256年)
- 丁大全が右丞相の董槐を逐った。槐は自ら人主に抜擢された身として、国家を利し安んじられることは何でもしようとしていた。かつて帝に、吏を害するものが三つあると述べた。第一に外戚が法を奉じないこと、第二に法を執る大吏が長く同じ官にあって威福を擅にすること、第三に皇城司が士を検めず将帥が下を検めないこと。だから士卒は横暴になる。士卒が横暴なら変はいつ生じるか分からない。法を執る者が威福を擅にすれば賢と不肖が入り混じる。賢不肖が混じれば姦邪はほしいままになり、賢人は伏して出ない。親戚が法を奉じなければ法令は軽んじられ、法令が軽んじられれば朝廷は卑しめられる。この三つを除かなければ政は日々廃れる。上から除かれたい、と。これで槐を憎む者はいっそう増えた。
- 当時、帝は年を重ねて権柄を独断し、群臣に意に適う者がなく、しだいに佞人と狎れることを喜んだ。丁大全はまさに内寵に諂って威権を窃んでいたが、帝は気づかなかった。大全はかつて客を遣って密かに槐に取り入ろうとした。槐は、人臣に私交はないと聞く、自分はただ上に事えるだけで私に結び約すことはしない、丁君によろしく謝しておいてくれと言った。大全は槐がついに自分を容れないと察し、日夜、槐の短所を探した。
- 槐は入対して、大全は邪佞で近づけるべきでないと極言した。帝は、大全は卿を悪く言ったことがない、卿は疑うなと言った。槐は、臣と大全に何の怨みがありましょう、ただ陛下が臣をここまで抜擢された以上、臣が大全の奸邪を知りながら口をつぐんで言わなければ陛下に背くことになります、しかも陛下が大全を忠とされ臣が奸とする以上、ともに陛下にお仕えできませんと答え、上書して骸骨を乞うたが返答はなかった。
- 大全はいっそう怨み、そこで上章して槐を弾劾した。章が下されないうちに、大全は夜半、台の檄で隅の兵百余人を調え、抜き身の刃で槐の邸を囲み、追い立てて出させ、槐を輿に乗せて大理寺へ運べと偽って命じ、それで脅そうとした。ほどなく北闕を出たところで槐を放り出し、叫び声を上げて散った。槐はゆっくり歩いて接待寺に入った。宰相罷免の制はそれから下り、世論は大いに驚いた。三学の学生がたびたび上書して論じ、そこで詔して槐を観文殿大学士・提挙洞霄宮とした。
- 大全は槐を逐ってからいっそう恣に横暴になり、道行く人は目配せで語った。太学生の陳宜中・黄鏞・林則祖・曾唯・劉黻・陳宗の六人が上書して攻めた。大全は怒って御史の呉衍に弾劾させ、その籍を削って遠州に編管し、三学に碑を立てて諸生にみだりに国政を議さないよう戒めた。士論は一斉に宜中らを称え、「六君子」と号した。
- 左司郎中の陳宗礼は大全が権を擅にして言うことを憚らせているのを見て、嘆じて、ここに一日でも居られようかと言い、対で述べた。宗社の大計を図られ、ただ倉廩府庫の小計とされないように。天下四海の心を得られ、ただ左右の寵臣や外戚の心を得られないように。腹心を忠良に託され、ただ耳目を身近な者に託されないように。四方八方に通じて正しい人を招かれ、ただ脇道や曲がり道から貪濁な者を引き入れられないように、と。容れられなかった。
宝祐四年十一月(1256年)
- 丁大全を簽書枢密院事、馬天驥を同簽書院事とした。当時、閻妃が寵に安んじ、大全と天驥が事を執っていた。名を記さぬ者が朝廷の門に八字を書いた。曰く、「閻・馬・丁が国に当たり、勢いはまさに亡びんとす」。
宝祐四年十二月(1256年)
- 知厳州の呉槃を罷めた。帝が御璽入りの黄冊で内蔵の坊場銭を催促した。槃は奏して、内庫の理財は急ぎすぎ督促は厳しすぎる、龍の章と鳳の篆を府庫の催促に用い、宝の冊と泥の封を下級の官吏の文書と同じくする、万乗の崇高な位にありながら財貨の有無を商う、事は微細でもかかわるところはきわめて大きいと述べた。董宋臣が台諫をそそのかして弾劾させ罷めさせた。
宝祐六年夏四月(1258年)
- 丁大全を右丞相兼枢密使とした。
開慶元年春正月(1259年)
- 国子監主簿の徐宗仁が闕下に伏して上書した。 賞罰は軍国の綱紀であり、賞罰が明らかでなければ綱紀は立たない。今、天下は器が傾いてまだ地に落ちていないようなもので、存亡の機は髪一筋も容れない。兵は虚しく将は怠り、力は乏しく財は尽き、四境を見回してもおおむね恃むに足りない。それでも人心を維持し豪傑を奔走させる頼みは、ただ陛下の賞罰の微かな権が残っていることだけだ。権は陛下にありながら陛下がその用い方をご存じなければ、まだ落ちていない器が最後まで落ちない保証がどこにあろう。臣がひそかにこれを恐れて久しい。 陛下は危急のときに金幣を出し土田を賜り節鉞を授け爵秩を公にされ、寸尺の功も必ず賞された。だから心を尽くし力を尽くして万分の一でも報いるべきなのに、出兵して江を越え広に踰えて以来、封疆に死に陣に死んだという者を聞かない。賞罰が勧め懲らすに足りないからではないか。 今、国じゅうが罰を免れていると言うのは、丁大全・袁玠・沈翥・張鎮・呉衍・翁応弼・石正則・王立愛・高鋳の徒で、その首悪は董宋臣である。それゆえ廷臣は抗疏し学校は闕を叩き、尚方の剣を借りて陛下のために悪を除きたいとまで言う者がある。それを陛下は放って問われない。まことにこの数人を愛し庇って、千万人の心に背かれるおつもりか。 今、天下の事勢は急で朝廷の紀綱は壊れた。国を誤った罪が誅されなければ、兵を用いる士は勇まない。東南の一隅はすでに半ばこの数人の手で壊れたのに、罰はその毛一筋も損なわない。彼らは厚い資財を擁し歌舞を侍らせ豪邸に高枕して、陛下と二、三の大臣に心を焦がし思いを労させてよいものか。行軍中の三軍がどうして憤って、禍を熟れさせたのは誰か、それで我らに軍中で身を捨てさせるのかと言わずにいよう。難に遭った百姓がどうして群れて怨み、乱を招いたのは誰か、それで我らに刃の下で血を流させるのかと言わずにいよう。陛下はこれに思いを致されたことがあるか、と。返答はなかった。
- 宗仁はさらに、宋臣が根を張って久しく、覆い隠すことは日々深い、誅さなければ国を誤ると極論したが、ついに返答はなかった。
開慶元年冬十月(1259年)
- 丁大全が罷められた。当時、蒙古の侵入は日に甚だしかったが、大全は国政に当たりながら隠して上聞しなかった。ここに至って宰相を罷められ、観文殿大学士・判鎮江府とされた。
- 中書舎人の洪芹が繳奏して、大全は鬼蜮の資質と穿窬の行いで、凶悪な者を引き用い忠良を陥れ、言路を塞ぎ朝綱を濁乱した、官を追奪して遠く流し国法を伸ばされたいと述べた。御史の朱貔孫らも相次いで、大全は姦邪狡猾で残忍貪欲、陛下の刑威を借りて天下の口を箝め、陛下の爵禄を挟んで天下の財を絡め取っていると論じた。饒虎臣もまた、言路を絶ち人材を壊し民力を尽くし辺防を誤った四つの罪を論じた。詔して致仕させた。
景定元年夏四月(1260年)
- 内侍の董宋臣を安吉州へ出した。
景定三年十一月(1262年)
- 丁大全を新州に流し、道中で死んだ。