宋史紀事本末史嵩之の起復(史嵩之起復)

紹定五年(1232年)から淳祐十年(1250年)まで、史嵩之が京湖の辺功を足がかりに右丞相となり、父の喪中に起復を図って世論に葬られるまでの十九年間。嵩之は杜範・李韶ら異論の士を次々に逐い、徐霖が姦状を弾じ、淳祐四年の起復では太学生黄愷伯ら百四十四人をはじめ武学・京学・宗学の諸生が相次いで上書し、徐元杰・劉漢弼も諫めた。嵩之は喪に服したが、諫めた者は相次いで急死し、淳祐十年の再起用は章琰らの抗疏で阻まれて致仕となった。

年表(12件)

理宗紹定五年春正月(1232年)

  • 史嵩之を京湖安撫制置使・知襄陽府とした。

端平元年六月(1234年)

  • 蔡に入った功で史嵩之に兵部尚書を加えた。

端平元年九月(1234年)

  • 京湖制置使の史嵩之を罷めた。

端平三年二月(1236年)

  • 史嵩之を淮西制置使とした。

嘉熙二年二月(1238年)

  • 詔して史嵩之に参知政事として京西・荊湖南北路・江西の軍馬を督視させ、鄂州に司を置かせた。

嘉熙三年春正月(1239年)

  • 史嵩之を右丞相兼枢密使として両淮・四川・京湖の軍馬を督視させた。嵩之が宰相となると、一時の正しい人々、杜範・游侶・劉応起・李韶・趙汝騰らはみな意が合わず逐われて去った。
  • 王万が真っ先に上疏して嵩之を論じ、その事の運びは切迫し気配は傾いている、太学生がその帰任を促そうとすれば賄賂の跡がすでに現れ、あるいは一族の者がその私事を暴いてほしいままに醜く誹る者があると言われる、相国の大臣でありながらこうであれば、書に言う大臣ではないと述べた。
  • 当時、嵩之は喬行簡・李宗勉とともに宰相だった。論者は、喬は広きに失し、李は狭きに失し、史は専らなるに失すると言った。

淳祐四年六月(1244年)

  • 礼部の進士の徐霖が、宰相の史嵩之が辺功を笠に着て君を脅し党を植えて国を専らにしていると上疏し、その姦深の状を歴挙して述べた。まずは陛下の心を奪い、次に士大夫の心を奪い、はなはだしくは豪傑の心を奪っている。今日の士大夫は嵩之がみなその心を変化させて収め取った。しかもその変化の術はきわめて深く、公然と人に呼ばわって小人にさせるのではない。常に善良な者のうち質が柔らかく気の弱い、奪いやすい者を選んで一、二人を親任し、少しでも自分と異なる者があれば密かに棄てて遠ざけ、それで他を風靡させる。柔弱な者は初めは君子たろうとしても、結局は名節の尊さが富貴の願いに換えるに足りず、義利の弁もついに妻妾と家宅の私に暗くなって、そのまま従うだけになる。これが嵩之が士大夫を変化させる術で、朝廷じゅうがその目と耳を塞がれ、欺かれない者はまれである。 すべて善は自分に帰し過ちは君に帰す。入って陛下に告げるときはただ上意を窺い意向に順い、出て人に語るときは、某事は自分が調停した、某人は自分が斡旋したと言う。これは嵩之が下で誉れを求め、陛下が上で怨みを集めることだ。古人の言う「この謀この猷は我が后の德なり」というものが、嵩之にどうしてあろうか、と。返答はなかった。

淳祐四年九月(1244年)

  • 癸卯、史嵩之が父の病で休暇を願い出て許された。甲辰、史弥忠が没した。詔して史嵩之を喪中から起用して右丞相兼枢密使とした。中外は誰もあえて言わなかった。
  • そこで太学生の黄愷伯・金九万・孫翼鳳ら百四十四人が閽を叩いて上書した。 臣らはひそかに思う。君と親は天地に等しく、忠と孝は古今を問わない。親に事えて孝であればこそ忠は君に移せる。古来、忠臣は必ず孝子の門に求める。不孝でありながらその忠を望めた例はない。 宰我が三年の喪を夫子に問い、一年でよいと言った。夫子は、予の不仁なるかな、子は生まれて三年、そののち父母の懐を離れる、三年の喪は天下の通喪だ、予にも父母に三年の愛があったのかと言った。宰予が一年を請うただけでも夫子は不仁と斥けた。まして父母が亡びかけている病を聞いても見舞わず、父母がすでに亡くなった訃を聞いても駆けつけない者があるとは。人の心と天理があればこうであろうか。これは三年の愛がないどころか、一日の愛さえないというものだ。宰予は聖人に罪を得たが、嵩之は宰予の罪人である。これは天地も覆い載せず、日月も照らさず、鬼神がともに誅し、天下万世の公論がともに誅すところ、その行いは禽獣と遠くない。 しかも起復の説は聖経になく、権宜と変化として衰えた世に初めて現れた。我が朝の大臣で、富弼のように一身に社稷の安危を負い、進退が天下の軽重にかかわり、いわゆる国家の重臣で一日も欠けないという者でさえ、起復の詔を五度も使者で遣られながら、金革の変礼は平世に用いられないとして、ついに命に従わなかった。天下は今もこれを称える。鄭居中や王黼の輩は頑迷で恥知らず、禄位に固執して甘んじて起復し、天理を絶滅させ、ついに靖康の禍を醸した。過去の事は鑑とすべきだ。 かの嵩之は何者か。心術は邪曲、行跡は詭秘、かつて督府を開いて和議で将士の心を怠らせ、厚い資財で宰相の位を窃み、天下の小人を集めて私党とし、天下の利権を奪って私の家に帰した。謀を蓄え慮りを積んで険しさは測りがたい。朝廷に一日あれば一日の禍を残し、一年あれば一年の憂いを残す。万口が声を揃えて、去るのが遅いことだけを恐れていた。 嵩之の父が亡くなって嵩之を去らせられると中外はまさに快哉としたところへ、陛下の起復の命が下った。陛下はしばらく、大臣が去るのを留めずにいられないと言われるかもしれない。だが嵩之は天に見放され、訃を聞いても行かず、ぐずぐずと引き延ばして貴戚を取り繕い宦官に買収を頼み、上の心を転じさせ、御筆に縁を求めて必ず起復の札を得てから、ゆっくり出発しようとしている。大臣は天子を輔けて孝で天下を治めるものだ。孝が大臣に行われなければ、天下を率いて父なき国とすることになる。鼎や鐺にさえ耳がある。嵩之は富弼が起復を受けなかった事を聞いていないはずがない。それでいて鄭居中・王黼の輩のすることを敢えてするのか。 礼に、子は父母の喪を聞けば星を見て行き星を見て泊まるとある。今、嵩之は父の死を路人のように見て、内々の手引きを画策し尾を振って憐れみを乞い、奸謀を遂げてからようやく道に就く。初めから憂え悲しむ様子がない。 父なき嵩之を陛下がどうしても起復されるのは、万里に折衝する才があるからか。嵩之にはもとより封疆を守る能はなく、ただ朝廷を脅し制する術があるだけだ。彼の国が内乱を起こし骨肉が相い残ったのは天がさせたことだ。嵩之は天の功を貪って陛下を欺き、三辺が乱れているのは自分でなければ制せないと思わせている。だが敵情は測りがたく嵩之に制せるものではない。嵩之はただ敵を制するという名で陛下を制しようとしているだけだ。 陛下が嵩之を起復されるのは、財用を経理する才があるからか。嵩之にはもとより国を足らし民を裕かにする能はなく、ただ私に肥え太る計があるだけだ。しかも国の利源は塩の専売が重い。今、鈔法はたびたび改まり、国に帰する利は十のうち一、二もないのに、私の蔵に集まるものは残らず算入されている。国家の土壌は日々削られて嵩之の田宅はいよいよ広く、国家の府庫は日々空しくなって嵩之の袋はいよいよ厚い。陛下が嵩之を留められるのは我が国を利するためだろうが、実は無窮の害を残すだけだ。 嵩之が憚りなく起復を画策できたのは、史弥遠の故智があって真似られるからだ。だが弥遠が喪ったのは庶母、嵩之が喪ったのは父である。弥遠は喪に赴いてから起復し、嵩之は起復してから喪に赴く。弥遠は貪欲で位に固執したがなお憚りがあり、嘉定改元十一月の戊午に喪に服し、翌年五月の丙申に起復した。嵩之のように喪を匿して上を欺き天の常を絶やす惨さはない。 しかも嵩之の計は姦しい。宰相となって以来、二親が老いて必ず不測があると知り、朝夕、起復の下地を作らないことはなかった。父の死ぬ前からすでに死んだときの手を打っていた。近畿の総餉は人が足りないわけでもないのに、卒哭を終えていない馬光祖を起復させ、京口の守臣も適任がないわけでもないのに、喪の明けない許堪を起復させた。だから巷では十七字の謡ができた。曰く、光祖は総領となり、許堪は節制となる、丞相は起復したくて例を援くのだ、と。巷の小民でさえその姦を知っている。陛下だけがご存じないのか。 台諫はあえて言わない。台諫は嵩之の爪牙だ。給事中・中書舎人はあえて言わない。彼らは嵩之の腹心だ。侍従はあえて言わない。侍従は嵩之の肘腋だ。執政はあえて言わない。執政は嵩之の羽翼だ。嵩之は五臓の裂ける(喪の)ときに、姦臣を抜擢して喉舌の任に据え、陽城が麻詔を破いたような事は決してないと踏み、私党を植えて要職に据え、呂惠卿が反噬したような憂いは決してないと踏んでいる。 古来、大臣が忠孝の門から出ず、寵に居り勢いを恃んで三代に及べば、人の国を亡ぼさなかった例はない。漢の王氏、魏の司馬氏がそれである。史氏が政の鈞を執って今や三代。軍旅の将校はただ史氏あるを知り、天下の士大夫もただ史氏あるを知り、陛下の左右前後もただ史氏あるを知る。陛下の勢いは上で孤立している。きわめて恐るべきことだ。天が除こうとするのに陛下が留められる。堂々たる中国にどうして君子がないものか。ただ一人の小人を信じて悟られない。これでは陛下は太祖の三百年の天下を史氏の手で壊し尽くさせるおつもりか。 臣がまさに涙して書を裁しているところ、麻制を見ると、趙普は乾德の開創の初めに当たり、朱勝非は紹興の艱難の際に当たり、みな変礼に従ってついに武功を定めたとある。人を擬えるのは同類でなければならない。姦深の嵩之を趙普ら諸賢と同日に語れようか。趙普と勝非が宰相の位にあったときは、忠肝は日を貫き、德を一にして天を享け、生霊は命を託し、宗社はこれによって安んじた。我が太祖と高宗はその孝思を奪って王事に努めさせた。生霊と宗社のために計ったのである。嵩之は自ら器量をどう見るのか。勝非にさえ万分の一も及ばない。まして趙普と並べられようか。臣の言う、姦臣を抜擢して喉舌に据えたというのがこの証である。 臣はさらに麻制を読んだ。曰く、諜報に憤兵の集まるを聞き、辺報に哨騎の馳せるを伝う、まして秋高くして馬肥え、冬近くして地は凍る、と。嵩之が虎のように宰相の位に踞っていたころは辺事を言うのを憚らせ、通川が守りを失っても一か月余りたって初めて聞こえ、寿春に急があっても危急になってから告げられた。今、起復を図るや詞臣に密かに諭して辺境の警報を言い立てさせ、事勢を誇張して陛下を恐れさせた。脅し制する謀を行うためだ。臣の言う、姦臣を抜擢して喉舌に据えたというのがまたその証である。 ひそかに見るに、嵩之は自ら宰相と称して事あるごとに法を守ろうとしながら、自身は礼法の外に放埒である。五刑の属は三千、その罪で不孝より大きいものはない。法で縛るなら鈇鉞に処してもなお天下に謝すに足りない。まして万人が仰ぐ位に据えて、どうして天下後世を教えられよう。 臣らは嵩之に旧怨も私憤もない。争って闕下に趨って陛下に申し上げるのは、綱常を日月に掲げ名教を丘山より重くし、天下の人臣たり人子たる者に忠に死に孝に死んで立身の大節を全うさせたいだけである。孟軻は、学は三代ともにこれを同じくし、みな人倫を明らかにするものだと言った。臣らは長く教育を受けた。ここで言わなければ人倫は地を払い、嵩之とともに溺れることになる。陛下のご裁断を、と。返答はなかった。
  • 武学生の翁日善ら六十七人、京学生の劉時挙・王元野・黄道ら九十四人が上書した。要旨は――天下には一日も廃せない人倫があり、人心には一日も滅ぼせない公論がある。大倫がすべて廃れるのはもとより乱臣賊子には恥ではないが、公論が滅びないことこそ宗廟社稷のための慮りである。先儒は、親に事える情が奪えるなら君に事える情も奪えると言った。まさに不忠は実に不孝に本づき、父を無みすればついに君を無みするに至る。これは理の必然だ。 陛下が嵩之に拳々として手放されないのは、秋風が近づき冬の寒さも迫っており、嵩之でなければ敵情に通じ辺事に熟していないのでこの任に堪えないからか。しかし臣らは敵国の勢いの盛んなことを憂えず、陛下の勢いの孤立を憂える。 昔、金人の盛んなことは韃靼の十倍だった。我が国で政を専らにしたのは秦檜である。檜が死んで金の亮が南下し、兵は百万と号した。誰しも手をこまねいて策がなかった。だが当時の宰臣の陳康伯は静かに定まって廟謨を運らせ、詞臣の虞允文は忠義で士気を鼓し、ついに采石の勝利を致して亮を誅す功を成した。檜が死んでも陳康伯と虞允文があった。誰が嵩之が去れば康伯や允文のような者がないと言えようか。 ただ陛下が進められた者は今や見当たらない。当世の傑出した士はみな嵩之に排斥されて消え失せた。王万と謝方叔は争って勝てず真っ先に去り、游侶は大政に与らせてもらえず憤って去り、劉応起は転対の直言で去り、張蟠は転対で忌諱に触れて去り、劉漢弼は台諫として嵩之の党を攻めて去り、趙与権は才名が自分を圧するとしてそそのかされ斥けられて去り、李韶は侍従として嵩之の専権を数えて去り、王伯大は意向が合わずに去り、趙汝騰は麻詞に諂いの語がないとして密かに小さな瑕を摘まれて遣られて去り、徐栄叟と趙葵はみなその罠に落ちて去り、別之傑は篤厚と称されたがことごとに本末を問うたため仮託されて押し出されて去った。杜範はとりわけ聖眷に叶い人望を負い、上の前で敢えて論諍し、事に臨んで分別と決断があったが、そこで李鳴復を用いてその退去を早めた。 ひそかに聞くに、そのとき太学の九人の士が閽を叩いて上疏し、鳴復を罷めて範を留めることを乞うたが、九人の封書が天聴に届く前に、嵩之が自ら管する門生がすでに台端に入っていた。凡庸で邪な小人はひたすら承って謹み、今や同僚がこぞって章を上げて範を論じている。陛下が耳目と腹心とされる者はみな嵩之の一網で空にされた。陛下は九重に居られ身は安逸に処し、傍らに謀るべき人なく、外から告げ入る益もない。それゆえ清らかなご一身が史氏の党局の中に游んでおられる。君父がここに至って、天下は何と言うか――というものだった。
  • 宗学生の趙与寰ら三十四人が上書した。要旨は――謹んで麻制を読んで、ひそかに疑いを抱いた。陛下は嵩之が法度を修め遠人を服させられ、三辺を動かし百将を発せられるとされ、また嵩之は中外の望みを慰められるとされる。これらは必ず陛下の意ではなく、嵩之の腹心で憚りを知らぬ小人が陛下の喉舌となっているのだ。 嵩之の不孝は天に達している。弔いの者が門にあり賀の者が里にある。それで苫と土塊を捨てて廟堂に坐し、喪服を脱いで公卿の礼服をまとおうとする。これが忍べるなら何が忍べないのか。かりに陛下が史氏に思いを寄せられるなら、公の圭も旄節も重ねて賜れば陛下の恩は尽きている。それを嵩之は一日も宰相の位を離れようとしない。その意はどこで止まるのか。陛下が大姦を決然と除かれるなら社稷の幸いである、と。
  • 建昌軍学教授の盧鉞もみな上書して切に諫めたが、これも返答はなかった。諸生は太学の斎廊に、丞相が朝に入れば諸生は夕に出る、諸生が夕に出れば丞相は朝に入ると榜を掲げた。
  • 当時、范鐘と劉伯正が暫定で宰相の事を執っていた。京学生が事を言うのを憎み、みな遊学の士が煽っているとして、京兆尹の趙与懽に遊学の士を追わせた。諸生はこれを聞き、捲堂の文を作って先聖に辞して出た。曰く――天が斯文を喪ぼそうとするのは実に興衰の運にかかわる。士が国に何を負うたか、たちまち斥逐の咎に遭うとは。静かに思えばまことに醜いことだ。 祖宗が国を立て学校を広げて才を蓄えられたのを慨然と思う。ただ豊かな苗を育てて後人に遺すためだけでなく、漢の都を隆んにして国士を尊ぶためでもあった。皇上は先の猷を広げ、御筆を輝かせて四学を整え、わずかな束帛も例として諸生に及ぼされた。教育の恩は天のごとく、報いる術のないことを恨みつつ、ただ骨を粉にすることを思い、逆鱗に触れることを畏れず、王安石の姦を言い尽くし、劉安世の去るのをともに惜しんだ。まことに公議は小人に不利で、初めは密かに三緘(口を閉じよ)と諭し、ついには一網で打ち尽くす。その咎を負わずに咎を君に帰する。これは何の心か。人の国を空しくするものだ。 昔、鄭の子産は郷校を毀つべきでないと言い、李斯でさえ客を逐うのは非だと知っていた。彼らがすでに自分の便のためにこれを行う以上、我らも何の顔でここに居られよう。ああ、我が道よ。同盟の諸君に告ぐ。義を見てなさずということなかれ、身を行うに恥あるべし。もし飽食と暖衣のために周の粟を貪る恥を忍ぶな。ともに手を携え、秦の坑の惨に踏み入るな――と。この言葉が出ると翌日、みな去り、京尹はそこで遊学の士の籍をすべて削った。
  • 当時、将作監の徐元杰がちょうど輪対して述べた。臣は先日、経筵に侍って親しく聖問を承り、大臣の史嵩之の起復について、陛下が命を出されるのが軽すぎる、人の言を沮み抑えてはならない、陛下は陛下の礼を尽くされ、大臣は大臣の礼を尽くすべきだと奏し、玉音の許しを賜った。臣に何を言うことがあろう。しかし今、学校の書を見て感嘆せずにいられない。 そもそも大臣は聖賢の書を読んで天命を畏れ人の言を畏れる。家庭の変には哀戚して事を終えるのが礼制の常である。臣がひそかに測るに、どうして死者を送る大事を忽せにして軽々に清議を犯すに至ろうか。先日、朝廷が命を出すのが安易だったので士論が慄然としたのは、実に陛下が四海の綱常の主であり、大臣は身に道の準を任じて綱常を扶ける者だからだ。 大臣に起復の命があると聞いて以来、その避けるか就くかはまだ分からないが、およそ父母の心ある者で声を失って涙を落とさない者はない。これはいったいなぜか。人心と天理は誰にでもある。ここまで言うのは隣国に聞かせられることではない。陛下はどうして悔い悟られずにいられよう、大臣はどうして堅く忍ばずにいられよう。臣は懇々と忠を納れるだけで、どうして誹謗しよう。ただ陛下のために民の常道を惜しみ、大臣のために名節を惜しむだけである、と。疏が出ると朝野は伝えて誦えた。帝もその忠と誠実を察した。

淳祐四年冬十月(1244年)

  • 劉漢弼を左司諫とした。当時、史嵩之が長く国柄を擅にし、帝も苦しんでいたので、夜に御筆を降して四人の不才の台諫を黜けた。そこで諫議大夫の劉晋之、侍御史の王瓉、監察御史の龔基先・胡清献はみな罷めて去った。だから漢弼のこの任命があった。漢弼はまず帝を助けて、陰邪を抜き去ってこそ危を転じて安とできる、そうでなければ是と非は両立せず邪と正は並び進まない、陛下が善良な人々を召そうとされても得られませんと述べ、帝は嘉して容れた。

淳祐四年十一月(1244年)

  • 徐元杰が改めて上疏して史嵩之の起復を論じ、士論が紛々としている、執政の後任を挙げさせることを許されたいと請うた。帝が、学校の議論は正論だが言い過ぎだと言うと、元杰は、正論は国家の元気です、今、正論はなお学校にあります、その一筋の脈を保ち養うべきですと答え、そのまま身を引くことを乞うた。
  • 左司諫の劉漢弼もまた上言して、嵩之に喪を全うさせ、速やかに賢臣を選んで早く相位を定められたいと願い、あわせて馬光祖が喪を奪われて淮東の総賦となったのは嵩之があらかじめ先例を作ったものだ、追って服させて名教を補うよう命じられたいと論じた。折しも嵩之も自ら衆論に容れられないと知り、上疏して喪を全うすることを乞い、帝は許した。

淳祐五年六月(1245年)

  • 工部侍郎の徐元杰が急死した。それ以前、史嵩之が去ってから元老と旧德が次々に召し戻され、杜範が宰相になると改めて元杰を招いて政を議し、益するところが多かった。この月の朔日、元杰は侍立の当番で、前日、范鐘を訪ねて帰った。その夕、ひどく苦しみ、夜の四更に指と爪が裂けて死んだ。
  • 三学の諸生が相次いで闕下に伏して上言し、昔、小人が君子を陥れるのは蛮煙瘴雨の地で死なせる程度だった、今は蛮煙瘴雨が嶺外ではなく朝廷にあると述べた。詔して臨安府に取り調べさせ、常に給仕していた者を獄に下したが、ついに解明されなかった。
  • 劉漢弼もまた常に姦邪が除き尽くされていないことを憂いとしていたが、まもなく腫れ物の病で急死した。太学生の蔡德潤ら百七十三人がまた闕を叩いて上書して冤を訴えた。詔して元杰と漢弼に官田五百畝と緡銭五千を給してその家を恤んだ。
  • 当時、杜範は宰相となって八十日で没し、元杰と漢弼も相次いで急死した。時の人はみな毒に中ったと言い、堂の食事に箸を下ろす者がなかった。
  • 嵩之の甥の史璟卿がかつて上書して嵩之を諫めて述べた。督府を開いて以来、東南の民力は供出に困り、州県は倉卒の調達に困り、金帛を運び秣と粟を挽いて道に絶えない。一に督府と言い二に督府と言うが、何を行い何の功を成したのか分からない。近ごろ蜀川が守れなくなったと聞くが、論者の多くは鄂へ退師した失に帰す。なぜか。守備を分け屯を並べて辺を備え敵を防ぎ、首尾が助け合うのは常山の蛇のようであるべきだ。長江には趙葵があり、廬江には杜伯虎があり、金陵には別之傑がある。督府たる者は鄂渚の形勝の地に拠り、西は蜀を援け、東は淮を援け、北は荊湖を鎮めるべきだ。それを図らず、藩籬をすべて棄てて奥深くに入り、座して飢民と叛将に虚を衝かせ危うきを衝かせ、沅水・湘水を侵犯させ鼎州・澧州を揺るがせている。江陵の勢いが孤立すれば武昌の勢いも守りにくく、荊湖の路に警報が出れば江浙の諸郡がどうして高枕でいられよう。 まして降った者を殺して信を失えば、先日の疆を徹する計はもう用いられず、内地の守りを失えば先日の清野の策はもう施せない。この隙がひとたび開けば、東南の生霊はまな板の上の肉である。宋室が南渡した疆土がどうして金甌の欠けないことを保てよう。 今日の計としては、幕中の小人をすべて除き、在野の君子をことごとく召し、ともに弦を改め轍を易えて王事に力を尽くすに越したことはない。そうすれば東隅に失っても桑楡に収められよう。そうでなければ、失っても救うことを知らず、非を見ても改めることを知らず、天下の大勢は日々、危亡の域へ進む、と。まもなく璟卿は急死した。嵩之が毒したと言い伝えられた。

淳祐十年十二月(1250年)

  • 史嵩之の喪が明け、登用の意向が出た。殿中侍御史の章琰、正言の李昂英、監察御史の黄師雍、翰林学士の李韶が抗疏して論じ、そこで嵩之に致仕を命じ、二度と用いない旨を詔した。