宋史紀事本末呉曦の叛乱(吳曦之叛)
呉氏が代々西辺の兵権を握ることへの警戒(紹熙三年、1192)から、呉曦が開禧の北伐に乗じて金に四州を献じて蜀王に封じられ、興州で僭立して四十一日で誅されるまでを追う。安丙・楊巨源・李好義が密詔を掲げて曦を斬り、関外の四州を回復したが、安丙は功を争って楊巨源を殺し、李好義も毒殺され、蜀の人心は乱れたまま残った。
年表(11件)
- 光宗
- 紹熙三年夏四月1192年呉氏の世襲を絶つため丘崈を四川安撫制置使とする
- 紹熙四年五月1193年呉挺が没し、兵権を子に継がせず呉曦を帯御器械とする
- 寧宗
- 嘉泰元年秋七月1201年賄賂と陳自強の斡旋で呉曦が興州都統制となり兵権を握る
- 開禧二年三月1206年程松を四川宣撫使、呉曦を副とし、曦の専断が進む
- 開禧二年夏四月1206年呉曦が姚淮源を金に遣り、四州を献じて蜀王の封を求める
- 開禧二年十二月1206年金が曦を蜀王に立て、曦は関を撤して金兵を通し、程松は逃げる
- 開禧三年春正月1207年呉曦が蜀王を称して改元し百官を置き、安丙を長史に召す
- 開禧三年二月1207年李好義・楊巨源・安丙が密詔を掲げて呉曦を斬り、蜀を撫定する
- 開禧三年三月1207年西和・成州・和州・鳳州と大散関を回復し、孫忠鋭を殺す
- 開禧三年六月1207年安丙が功を訴えた楊巨源を殺し、人情が騒然となる
- 嘉定二年八月1209年安丙を四川制置大使とし、宣撫司を罷める
光宗紹熙三年夏四月(1192年)
- 丘崈を四川安撫制置使とした。もと留正が蜀の帥だったころ、呉氏が代々の将であることを慮って除こうとしたが果たさなかった。ここに至って蜀の帥を替える議になり、正は、西辺の三将のうち呉氏だけが兵権を世襲し「呉家軍」と号して朝廷のあることを知らないと述べ、そこで戸部侍郎の丘崈を遣った。崈は辞去に際して、自分が蜀に入った後、呉挺が万一死んだら、兵権を再びその子に付すべきではない、便宜に従って諸軍を撫定させていただきたいと奏し、許された。
紹熙四年五月(1193年)
- 利州安撫使の呉挺が没した。丘崈は総領財賦の楊輔に安撫使を代行させ、統制官の李世広にその軍を統べさせた。知枢密院の趙汝愚も、呉氏が代々西の兵を掌るのは国家の利ではない、別に帥を置くべきだと述べ、そこで興州都統制で挺に代え、挺の子の呉曦を帯御器械とした。
寧宗嘉泰元年秋七月(1201年)
- 呉曦を興州都統制とした。曦はそのころ殿前副都指揮使だったが、鬱々として志を得ず、賄賂で宰輔に蜀への帰任を求めた。陳自強が韓侂胄に取りなし、侂胄が許してこの任命となった。曦は興州に至って副統制の王大節を讒して官を罷めさせた。これによって兵権はことごとく曦に帰し、異心はそのまま固まった。
開禧二年三月(1206年)
- 程松を四川宣撫使、呉曦をその副とした。松は司を興元に移し、東は三万の軍を曦に属させ、進んで河池に駐屯させ、西は六万の軍を曦に属させ、そのまま節制を許し、財賦を掌り計司を弾劾できるようにした。曦はこれによっていよいよ専断でき、松は関与できなかった。
- 松は着任した当初、執政の礼で会おうとしたが、曦は庭に出て参謁することを求めた。曦はこれを聞いて境まで来て引き返した。松は東西の軍千八百で自らを守らせたが、曦が抜き取って行ったのに松は気づかなかった。
- まもなく詔して曦に陝西河東招撫使を兼ねさせた。知大安軍の安丙は松に十の憂うべきことを陳べた。まもなく松が漢中に府を開くと、夜、丙を招いて議した。丙は松に、曦は必ず国を誤ると述べたが、松はやはり悟らなかった。
開禧二年夏四月(1206年)
- 丁丑、呉曦が叛いた。曦は志を得ると、従弟の呉晛および徐景望・趙富・米修之・董鎮とともに謀反を企て、密かに客の姚淮源を遣って関外の階州・成州・和州・鳳州の四州を金に献じ、蜀王に封じられることを求めた。
開禧二年十二月(1206年)
- 呉曦は姚淮源を金へ遣ってから、重厚に構えて河池で兵を按じていた。韓侂胄は日夜その進兵を待って使者を相次いで送った。曦は謀が漏れることを恐れ、兵を遣って秦州・隴州を越えさせ金人と戦わせて侂胄の心を固めさせた。
- 金人は曦が叛いて封を求めていると聞いて大いに喜び、曦に詔して曰く――卿の家は蜀漢を専制して年を重ね、猜疑がすでに萌して進退窮まっている。しかも卿は自らの翼賛の功を岳飛と比べてどうか。飛の威名と戦功は南北に轟いたが、一朝にして忌まれ、誅戮の惨に遭った。畏れずにいられようか。智者は時に順って動き、明者は機に因って決する。今、大軍が江に臨んでいる。兵を按じ境を閉ざして異を立てず、我が師が東下して西を顧みる憂いがないようにできるなら、全蜀の地はもともと卿のものだ。封冊を加え、一切を康王の故事に依る。さらに流れに順って東下し犄角の勢いを助けられるなら、旌旗の指すところをすべて卿に付そう――と。
- そこで完顔綱に経略させた。綱は水洛に進兵し、曦の一族の呉端を探し当てて水洛城巡検使に任じ、人を遣って曦に報せた。曦は報せを得て喜んだが、程松が興元にいるので発しかね、偽って端を杖殺したと称し、密かに使者を遣って綱に降伏の意を伝えた。
- 金の将の蒲察貞が和尚原を破って西和州を侵したとき、曦の将の王喜らが力戦していたが、曦が突然、黒谷まで退いて守るよう令を伝えたので、軍は潰えた。貞は成州に入り、曦は河池を焼いて青野原に退いて守った。金人はもはや憂いがなくなった。
- 当時、興州都統制の母思が重兵で関を守っていた。呉曦は金兵が来ると聞いて驀関の守備を撤した。金人は扳閘谷から関の背後へ回り込み、思は孤軍で支えきれず関は陥ちた。曦は退いて罝口に駐屯した。完顔綱は張仔を遣って会わせ、あわせて曦の告身を信として求めた。曦はすべて出して仔に渡した。綱は金主の璟の命として馬良顕に詔書と金印を持たせて曦を蜀王に立てた。曦は密かにこれを受け、興州に戻った。
- その夜、天が血のように赤く、光が地を照らして昼のようだった。翌日、曦は幕僚を召して意を諭し、東南は守りを失い車駕は四明に行幸された、今は権道で事を済すべきだと言った。王翼と楊騤之が抗言して、そうすれば相公の忠孝八十年の家門が一朝にして掃き払われますと言った。曦は、我が意はもう決したと言い、ただちに任辛を遣って表を奉じ、蜀の地図と呉氏の系譜を金に献じた。
- 金の完顔抄合が鳳州を攻めた。程松はまだ呉曦の叛意を知らず、人を遣って曦に援けを求めた。曦は三千騎を送ると偽り、松は疑わなかった。曦は金の詔を受けてから、金の使者が階州・成州・和州・鳳州の四州を得て和そうとしていると言い触らし、書を馳せて松にほのめかして去らせようとした。松はなす術を知らなかった。折しも金兵が来たとの報せで百姓が逃げ惑って互いに踏み合った。松は急ぎ米倉山へ向かって逃げ、閬州から流れを下って重慶に至り、書を曦に送って餞別を乞い、曦を蜀王と呼んだ。曦は匣に封じて贈った。松は望み見て大いに恐れ、剣ではないかと疑って急いで逃げた。使者が追いついて渡すと、金の宝物だった。松は受け取って道を倍して出、陝西の方を向いて涙を拭い、自分は今やっと首をつなげたと言った。
開禧三年春正月(1207年)
- 辛卯、呉曦が自ら蜀王と称した。将の利吉を遣って金兵を鳳州に引き入れ、四郡を渡し、鉄山を境と定めた。曦は興州を行宮とし、改元して百官を置き、董鎮を成都へ遣って宮殿を整えさせ、そこへ移ろうとした。章服の制を改めることを議し、表を奉じて金に臣と称した。統べる兵十万を分けて統帥を置き、禄祁らを遣って万州に守らせ、舟を浮かべて嘉陵江を下り、金人と約して襄陽を挟撃すると言い触らした。黄榜を成都・潼川・利州・夔州の四路に下し、興州を興德府とした。
- 随軍転運使の安丙を丞相長史・権行都省事として召した。それ以前、従事郎の銭鞏之が曦に従って河池にいたころ、曦が神祠に祈って銀杯を珓として投げると、神が起ち上がって、公は何を疑うのか、後の政事はすでに安子文に任せてあると告げる夢を見た。曦が解しかねていると、神はさらに、安子文には才があってこれを処理できると言った。鞏之は目覚めてその事を異とし、詳しく曦に語った。曦はそこで丙を召して用いた。
- また権大安軍の楊震仲を召したが、震仲は屈せず、毒を仰いで死んだ。呉晛が曦に、蜀の名士を用いて民心を保つべきだと勧めた。そこで陳咸は自ら髪を剃り、史次秦は自ら目を潰し、李道伝・鄧性甫・楊泰之はみな官を棄てて去った。
開禧三年二月(1207年)
- 己未、楊輔を四川制置使としたが、呉曦がこれを逐った。もと輔は知成都のとき、呉曦は必ず叛くと述べていた。帝は輔なら曦を誅せると考え、密詔で制置使を授け便宜に従うことを許した。
- 青城山の道人の安世通が輔に書を献じて曰く――世通は山中で突然、関外の変を聞いて思わず大いに慟哭した。世通は方外の人だが、大人先生もかつて道に入る門を開いてくださった。ひそかに思うに、公は初めて曦の檄を得たとき、ただちに返書してその家世を挙げ忠義で激励し、官属と軍民を集め、素服で号哭し、そのうえで金を散じ粟を出して忠義を鼓舞し、剣門・夔州・梓州・興州に明らかに檄を伝えて義の師を挙げ、順をもって逆を討つべきだった。誰が従わないだろう。それなのに士大夫はみな酒瓶と飯袋で大義を弁えず、しばらく屈して民を保つなどと言う。何と軽重を知らぬことか。 君は父であり民は子である。どうして父を棄てて子を救う道理があろう。これは曦一人の叛ではなく、蜀じゅうの士大夫の叛である。古に叛く民はあっても叛く官はないと聞く。今、曦が叛いて士大夫がみな手を縮めて命を聴くのは、民を駆り立てて叛かせるものだ。しかも曦の叛は逆とはいえ、まだ憚るところがあってあえて正朔を建てず、士大夫を虚しい文言で招いている。これは公論が味方するか否かで民の従うか否かを占っているのだ。今、ぐずぐずと決しないのは、いたずらに婦女子の悲しみをなすばかりで、いわゆる「囚を留めて智を長ぜしむ」というもの、朝廷の失望を恐れる。 およそ大事を挙げる者は成敗も死生も度外に置くべきだ。区々たる世通は今年五十二になる。古人は、生きるべくして生きるのは福、死ぬべくして死ぬのもまた福と言った。決して面を汚して天を戴き、ともに叛く民となるには忍びない――と。
- 輔には重い名声があり、蜀中の士大夫の多くが義を挙げるよう勧め、世通の言はとりわけ切実だった。だが輔は自ら兵事に習わないうえ、内郡には用いうる兵がないとして、ぐずぐずして動かなかった。曦は輔を知遂寧府に移し、輔はそのまま印を通判の韓植に渡して成都を棄てて去った。
- 乙亥、監興州合江倉の楊巨源が呉曦を討つことを謀り、密かに曦の将の張林・朱邦寧および忠義の士の朱福らと深く結んだ。眉州の人の程夢錫がこれを知って転運使の安丙に告げた。丙はそのころ病と称して事を執っていなかったが、夢錫に書を託して巨源を招き、寝所に迎えた。巨源が、先生ともあろう方が逆賊の丞相長史ですかと言うと、丙は号泣して、目の前の兵と将は自分の知るかぎり奮い起てない、豪傑を得てこそこの賊を滅ぼせると言った。巨源は、先生でなければこの事を主宰できず、巨源でなければこの事を成し遂げられませんと言った。
- 折しも興州中軍正将の李好義もまた軍士の李貴、進士の楊君玉、李坤辰、李彪ら数十人と結んで曦を誅す謀を立てていた。好義は、この事は死を誓って国に報い西蜀の生霊を救うためだ、ただ曦の死後、威望ある者が鎮撫しなければ、一つの変が収まらぬうちにまた変が生じよう、安丙を奉じて事を主宰させたいと言い、坤辰を遣って巨源を会合に招いた。巨源は行って約し、戻って丙に報せ、丙は初めて出て事を執った。君玉は白子申とともに密詔を草した。その要旨は、干戈に際して身を省みず聖賢の戒めに暗く、犬馬でさえその主を識るのに仇敵の臣たるを甘んじた、国に常の刑がある、罪は赦されない、というものだった。
- 乙亥、夜明け前、好義はその徒七十四人を率いて偽宮に入った。偽宮の門は開け放たれており、好義は大声で入り、朝廷の密詔を奉じ、安長史を宣撫として、我らに反賊を誅させる、抗する者は一族を滅ぼすと呼ばわった。曦の兵千余は詔があると聞いてみな武器を捨てて逃げた。巨源は詔を持って馬に乗り、奉使と称して戸内に入った。曦が戸を開けて逃れようとすると、李貴が進んで捕らえ、刃が曦の頬に当たった。曦は反撃して貴を地に倒したが、好義が急ぎ王換を呼んで斧でその腰を打ち、曦はようやく貴を放し、貴はその首を斬った。馳せて丙に告げ、詔を宣べると軍民は拝舞し、声は天地を動かした。曦の首を持って城中を撫定し、市は店を閉じなかった。曦の党をすべて捕らえて殺した。
- 衆は丙を推して権四川宣撫使とし、巨源を権参賛軍事とした。丙は曦の叛いた次第と制を矯めて賊を平らげ便宜に功を賞したことを陳べ、上疏して自ら弾劾し罪を待ち、曦の首と制に違う法物、および曦が受けた金人の詔と印を函にして朝廷へ送った。曦の僭立は四十一日だった。金は珠赫と高琪を遣って曦に冊を奉じさせたが、着かないうちに曦は誅されていた。
- それ以前、韓侂胄は曦の叛を聞いて大いに恐れ、曦に書を送って封土を許し、あわせて知鎮江府の宇文紹節を召して計を問うた。紹節は、安丙は逆に付いた者ではないようだ、賊を討てるかもしれないと述べた。侂胄はそこで密かに帛書で丙に、曦を図って国に報い本心を明らかにできれば、序列を越えて賞すると諭した。書が届かないうちに、曦を誅した露布がすでに聞こえ、朝廷は大いに喜んだ。曦の首が臨安に至ると廟社に献じ、市に三日晒した。詔して曦の妻子を誅し、家族を嶺南に移し、曦の父の挺の官爵を奪い、曦の祖父の呉璘の子孫を蜀の外へ移し、璘の廟祀は存し、呉玠の子孫は連座を免れさせた。
- もと曦がまだ叛かなかったころ、辺塞で狩りをした。ある日、夜に帰る途中、笳と鼓が競って鳴り車輪の音が入り交じった。曦が鞭を垂れて四方を眺めると、折しも秋の盛りで空は澄み渡り、仰ぐと月の中に馬に乗って鞭を垂れた人があり、自分にそっくりだった。左右に問うとみな同じに見えると言うので、大いに驚いた。黙って心に、自分は貴くなる、月の中の人は自分だと思い、鞭を揚げて挨拶すると、その人も鞭を揚げた。そこで大いに喜び、異心はこれによって決した。妄心がひとたび萌して魂を奪われ、目に映る形にすでに覆亡の禍が兆していたのである。
開禧三年三月(1207年)
- 丁丑、偽の四川都転運使の徐景望を利州で斬った。庚子、楊輔を四川宣撫使、安丙をその副とし、許奕を宣諭使とした。
- 壬寅、程松を続けて貶して澧州に安置した。
- 楊巨源と李好義が安丙に、曦が死んで敵は肝を潰した、関外の西和・成州・階州・鳳州の四州は蜀の要害だ、勢いに乗じて取り返すべきだ、そうしなければ必ず後患となると述べ、丙は従った。そこで好義を分け遣って西和州を回復させ、張林と李簡が成州を、劉昌国が和州を、張翼が鳳州を、孫忠鋭が大散関を回復した。
- 好義は兵を進めて独頭嶺に泊まり、忠義の兵と民兵を合わせて挟撃した。金人の死者が道を覆い、七日で西和に至った。人ごとに死を厭わず、前に留まる敵はなく、金の将の完顔欽は逃げ去った。好義は軍を整えて入り、軍民は歓呼して迎え拝した。好義は府庫を帳簿に記して官に納め、勝ちに乗じてまっすぐ秦州・隴州を取り、淮の敵を牽制しようとしたが、宣撫司の楊輔と安丙が許さず、士気はみな沮んだ。
- 孫忠鋭はそのために散関を守り切れず失った。丙はもとより忠鋭を憎んでおり、檄して呼び戻して廃そうとし、先に楊巨源に朱邦寧とともに沔の兵二千で応援させた。巨源は鳳州に至り、忠鋭が出迎えたところで幕の後ろに伏せた壮士を突出させて殺し、その子の孫揆も殺した。丙はそこで忠鋭が偽朝に付いたと朝廷に報告した。
- 丁卯、楊輔を召し戻し、呉猟を四川制置使とした。当時、朝廷は安丙と輔の不和を察して輔を闕に召した。著作佐郎の楊簡が、輔はかつて成都を棄てた、召すべきではないと述べ、そこで輔を知建康とした。
- 李好義が中軍統制・知西和州となった。呉曦の旧将の王喜がその死党の劉昌国を遣って好義の節制を受けさせた。好義は昌国と杯を交わして夜通し歓談した。好義は心腹が激しく痛んで死に、昌国は逃げた。納棺のとき口・鼻・爪・指がみな青黒くなっており、住民でその冤を憐れまない者はなく、身内のように号泣した。朝廷は喜が変を起こすことを恐れ、節度使を授けて荊鄂都統制に移した。まもなく昌国は白昼に好義が刃を持って刺しに来るのを見て、驚き恐れて倒れ、疽を発して死んだ。
開禧三年六月(1207年)
- 安丙が楊巨源を殺した。もと呉曦の誅は実に楊巨源と李好義が首唱で、功は最も大きかった。ところが安丙が討賊の事を朝廷に報告するにあたり、偽って巨源と好義を筆頭としながら、実際には二人を後回しにした。奨諭の詔書が沔州に届くと、巨源は、詔の文言に一字も巨源のことがない、功を覆い隠す者があるのではないかと疑った。まもなく王喜が節度使を授けられたと聞き、巨源はわずかに通判とされたので、いっそう不平を抱いた。そこで啓を作って丙に謝し、飛矢で聊城を下したことは魯仲連の高節を深く慕うもの、印を解いて彭泽を去ったことは陶靖節の清風に近い、と述べ、さらに朝廷に功を訴えた。
- ある者が安丙に、巨源が乱を謀っていると言った。丙は王喜にその党を取り調べさせ、みな罪に落とした。当時、巨源はちょうど鳳州の長橋で金人と戦っていた。枢密使・興元都統制の彭賂が巨源を枷にはめて閬州の獄へ送った。大安の龍尾灘に至ったとき、丙は将校の樊世顕に刀を抜いてその首を取らせた。首は一寸ばかり切れ残った。そこで巨源は自ら死んだと報告した。忠義の士で腕を握りしめて涙を流さない者はなかった。剣外の士人の張伯威が文を作って弔い、その詞はとりわけ悲切だった。
- 丙は人情が騒然としているので上章して免職を求め、楊輔もまた、丙が巨源を殺したのは必ず変を招くとして、劉甲を代わりとするよう請うた。
嘉定二年八月(1209年)
- 安丙を四川制置大使とし、宣撫司を罷めた。