宋史紀事本末北伐と盟の改定(北伐更盟)

嘉泰四年(1204)に韓侂胄が金討伐を決してから嘉定元年(1208)の和議成立までの5年間。金が北方の韃靼に疲弊しているとの情報に乗じて開禧二年に討伐の詔を下したが、郭倬・皇甫斌・李爽らは各地で敗れ、金の九道南下によって淮西の州県を失った。丘崈・方信孺が和を探る間に、史弥遠が楊后と結んで侂胄を誅殺し、その首を函にして金に送り、旧境の回復と引き換えに盟を改めた。

年表(25件)

寧宗嘉泰四年春正月(1204年)

  • 韓侂胄が金を伐つ議を定めた。当時、金は北辺の韃靼などの部に悩まされ、毎年のように出兵して討伐し、兵禍が連なって士卒は塗炭に苦しみ、府庫は空になり、国勢は日々弱まって群盗が蜂起し、民は命に堪えなかった。
  • 韓侂胄に、世を蓋う功名を立てて自らの地位を固めるよう勧める者があり、侂胄は同意した。こうして恢復の議が起こり、財を集め兵を募り、封樁庫から黄金一万両を出して功への賞に備え、呉曦に西蜀で兵を練らせた。
  • まもなく安豊の守臣の厲仲方が、淮北の流民はみな帰属を願っていると述べ、浙東安撫使の辛棄疾が拝謁して、金国は必ず亡ぶ、大臣に属して兵を備え、突然の変に応じる計を立てられたいと述べ、侂胄は大いに喜んだ。折しも鄧友龍が金から帰り、金に駅の使者に賄賂して夜半に会いを求めてきた者があり、金国は困窮し弱っている、王師が来れば枯れ木を折るような勢いだと詳しく語ったと述べた。侂胄はこれを聞いて用兵の意をいよいよ固めた。

嘉泰四年五月(1204年)

  • 癸未、岳飛を鄂王に追封した。飛にはすでに武穆の諡が賜られていたが、ここに至って韓侂胄が諸将を励まそうとして追封した。

開禧元年夏四月(1205年)

  • 武学生の華岳が上書して、朝廷は兵を用いて辺境の釁を開くべきでないと諫め、あわせて韓侂胄・蘇師旦・周筠を斬って天下に謝すよう請うた。侂胄は大いに怒り、岳を大理に下して建寧に編管した。

開禧元年五月(1205年)

  • 金主の璟は朝廷が兵を用いようとしていると聞き、諸大臣を召して問うた。みな、宋は敗北の余りで自らを救うのに手一杯だ、盟に背く勇気はあるまいと答えた。完顔匡だけが、彼は忠義保捷の軍を置き、先代の開宝・天禧の年号を取っている、どうして中国を忘れていようかと言った。そこで平章の布薩揆に汴で兵を集めて備えさせた。

開禧元年六月(1205年)

  • 内外の諸軍に密かに行軍の計を立てるよう詔した。

開禧元年八月(1205年)

  • 金が河南宣撫使を罷めた。もと布薩揆は汴に至って文を送り盟を破ったことを責めた。三省と枢密院は、辺臣が事を起こしたのですでに貶黜した、置いた兵もすでに引き揚げたと答え、揆は信じた。
  • 折しも殿前副都指揮使の郭倪と濠州の守将の田俊邁が虹県の民の蘇貴らを誘って間諜とし、揆に、宋が守備を増したのはもともと他の盗賊を警戒したものだ、行台の設置を聞いていっそう畏れて備えを解けずにいる、しかも兵はみな素人で自ら糧を携え、困窮と飢えと病で死ぬ者が多いと告げさせた。揆はいよいよ備えを緩め、その言を金主の璟に伝えた。当時、金の群臣はみな先に兵を挙げるよう勧めたが、璟は、南北の和好は四十余年、民は戦を知らない、それはできないと言い、揆の言を聞くと、宣撫司と新設の兵を罷めさせた。
  • 丁亥、湖北安撫司に神勁軍を増募させた。乙巳、郭倪を鎮江都統兼知揚州とした。

開禧元年九月(1205年)

  • 丁未、韓侂胄が敵の虚実を探ろうとして陳景俊を金へ遣って元旦を賀させた。景俊が帰るとき、金主の璟は諭して、大定の初め、世宗は宋が代々姪の国たることを許され、朕は今まで遵守してきた。まさかお前の国がたびたび我が辺を犯すとは思わなかった。それで大臣を遣って河南を宣撫させた。お前の国の公文書を得てすぐ司を罷めたのに、お前の国の侵擾はいっそう甚だしい。朕は和好が久しいことを思って曲げて容れてきた。姪の宋の皇帝が詳しくご存じないのかもしれない、卿は帰国したら詳しく伝えよ、と言った。景俊は帰って陳自強に告げたが、自強は言うなと戒めた。これによって用兵はいよいよ固まった。
  • 丘崈を江淮宣撫使としたが、崈は辞して拝さなかった。もと韓侂胄が北伐の議を崈に示したとき、崈は、中原が沈んで百年になる、我らにとって一日も忘れられないのは当然だが、兵は凶であり戦は危うい、真っ先に非常の挙を唱えても、兵を交えて勝負は分からない、事を起こした禍は誰が負うのか。必ず誇大な言葉で昇進を貪る者が腕まくりして僥倖を求めるだろう、速やかに斥け絶つべきだ、そうでなければ必ず国を誤ると述べた。侂胄は容れなかった。
  • ここに至って崈に江淮を宣撫させると、崈は手ずから書いて力説し、金人が必ずしも盟を破る意を持つとは限らない、中国は大体を示すべきで、軍備を戒め整えて常に我に勝ちの勢いを保つべきだ、釁が向こうから起これば我に言い分がある、と述べ、そのまま強く辞して拝さなかった。侂胄は不快だった。

開禧元年十二月(1205年)

  • 戊寅、金の使者の太常卿の趙之傑が元旦を賀しに来て拝謁した。韓侂胄はわざと賛者に金主の父の諱に触れる名を唱えさせて挑発した。之傑はそこで傲慢に振る舞い、侂胄は帝に内へ還るよう請うた。著作郎の朱質が北の使者を斬るよう請うたが返答はなく、詔して使者に改めて元旦に朝見させた。

開禧二年夏四月(1206年)

  • 庚午、秦檜が和を主張して国を誤った罪を追論し、王爵を削奪して繆醜と改諡した。
  • 金は皇甫斌が兵を分けて唐州・鄧州を取ろうとしていると聞き、改めて布薩揆に汴で行省を統べさせ、河南をすべてその節制に従わせ、諸道の登録兵をすべて徴して要害を分け守らせた。彰德の守臣に韓琦の墓を守らせ、宋の宗族の住む所はすべて有司に管理させた。
  • 鎮江都統制の陳孝慶が泗州を回復し、江州統制の許進が新息県を回復し、光州の忠義の人の孫成が褒信県を回復した。

開禧二年五月(1206年)

  • 辛巳、陳孝慶が虹県を回復した。
  • 丁亥、韓侂胄は泗州および新息・褒信・潁上・虹県を得たと聞き、直学士院の李璧に詔を草させて金討伐の詔を下した。要旨は――天道は還るを好み、我が国には必ず伸びる理がある。人心は順に効い、匹夫にも報いない仇はない。今、金国はなお要盟にかこつけて生霊の資を絞り、谷のような欲を満たしている。これはやむを得ずしたことでないのに、彼は当然のこととする。軍が塞に入れば公然と破壊をほしいままにし、使者が朝に来れば傲慢に振る舞う。使者を続けて遣れば、また無礼な言葉を加えてくる。垢を含み汚を納れることは人情としてすでに極まった。罪を鳴らして討つのは敵の勢いが衰えようとするときだ。兵は名目があって出、師は正しくてこそ壮んである。遠きも近きも問わず、誰に忠義の心がなかろう。人の子たり人の臣たる者は、祖宗の憤りを念え――というものだった。
  • もと兵部侍郎の葉適が輪対でかつて、弱に甘んじて安きを幸いとする者は衰え、弱を改めて強に就く者は興ると述べた。侂胄は聞いて喜び、直学士院として詔を草させ、それで中外を動かそうとしたが、適は病と称して職を辞したので、改めて璧に命じたのである。
  • 甲午、郭倪が郭倬と李汝翼を遣って兵を合わせて宿州を攻めさせたが敗れて戻り、蘄に至って金人に追われて囲まれた。倬は馬軍司統制の田俊邁を捕らえて金人に渡し、ようやく免れた。当時、建康都統の李爽も寿州を攻めて敗れた。
  • 皇甫斌が唐州で敗れた。当時、江州都統の王大節も蔡州を攻めたが落とせずに潰えた。

開禧二年六月(1206年)

  • 甲寅、鄧友龍を罷め、丘崈を両淮宣撫使とした。韓侂胄は出師して功がなかったので友龍を罷めて崈を代わりとし、揚州に駐屯させた。崈は鎮所に着くと諸将を配置し、三衙と江上の軍をことごとく分けて江淮の要害を守らせた。侂胄は人を遣って潰兵の収容を議させ、あわせて自らの言い逃れの計を求めた。崈は、蘇師旦・周筠らが軍を潰した姦を明らかにし、李汝翼・郭倬らが軍を失った罪を正すべきだと述べた。
  • 崈は淮東の兵力を全うして両淮の後ろ盾としようと考え、泗州は孤立しており淮北に駐屯する精兵は二万近い、万一、金人が南へ清河口に出て天長などの城を侵せば首尾が断たれて敵の計に落ちる、棄てて盱眙に軍を還すほうがよいと奏し、許された。
  • そこで王大節・李汝翼・皇甫斌・李爽らはみな連座して貶され、郭倬は鎮江で斬られた。

開禧二年秋七月(1206年)

  • 韓侂胄は軍を失ってから、初めて蘇師旦に誤らされたことに気づいた。李璧を召して飲み、酒が進んで師旦が初めに謀った事に話が及んだ。璧はそれとなくその過ちを摘んで様子をうかがい、そのうえで、師旦は勢いを恃んで権を招き、明公に謗りを負わせている、この人を流謫しなければ天下に謝せないと極言した。侂胄は同意し、翌日、師旦を罷めて家財を没収し、まもなく除名して韶州に安置した。

開禧二年八月(1206年)

  • 丙子、金の布薩揆が兵を九道に分けて南下した。揆の兵三万は潁州・寿州に出、完顔匡の兵二万五千は唐州・鄧州に出、赫舎哩子仁の兵三万は渦口に出、赫舎哩呼沙呼の兵二万は清河口に出、完顔充の兵一万は陳倉に出、富察貞の兵一万は成紀に出、完顔綱の兵一万は臨潭に出、石抹仲の兵五千は塩州に出、完顔疄の兵五千は来遠に出た。
  • 呼沙呼が清河口から淮を渡り、そのまま楚州を囲んだ。

開禧二年十一月(1206年)

  • 甲申、丘崈を僉書枢密院事として江淮の軍馬を督視させた。金人の淮南攻めが日々急になったので、詔して郭杲に兵を率いて真州に駐屯して援けさせ、さらに崈に江淮の軍馬を督視させた。ある人が崈に廬州・和州を棄てて江を守る計を勧めると、崈は、淮を棄てれば長江の険を敵と共有することになる、自分は淮南と存亡をともにすると言い、兵を増して防守した。
  • 金の完顔匡が光化・棗陽を陥れ、江陵副都統の魏友諒は囲みを破って襄陽へ逃げ、招撫使の趙淳は樊城を焼いた。金人はそのまま信陽・襄陽・随州を破り、進んで德安府を囲んだ。
  • 金の布薩揆が兵を率いて淮に至り、人を遣って密かに淮水を測らせると、八畳灘だけが渡れると分かった。そこで奥屯驤を遣って下蔡で示威させ、渡ると言い触らした。守将の何汝勵と姚公佐は本当だと思い、全軍を花靨に駐屯させて備えた。揆は薩布らを遣って密かに八畳を渡らせ南岸に駐めた。官軍は不意を突かれてみな潰走し、互いに踏み合って死ぬ者は数知れなかった。揆はそのまま潁口を奪い、安豊軍と霍江県を下し、進んで和州を囲み、瓦梁河に駐屯して真州・揚州の諸州の要衝を扼した。そして軍を整え騎を並べ旗を長江の上下に張ったので、江表は大いに震えた。

開禧二年十二月(1206年)

  • 金の赫舎哩子仁が滁州を陥れ、そのまま真州に入った。州の士民で逃れて江を渡った者は十余万。知鎮江府の宇文紹節は急ぎ舟を用意して渡し、さらに食を給した。これ以来、淮西の県や鎮はみな金の手に落ちた。
  • 当時、金の布薩揆は和を通じて兵を罷めようとしていた。韓元靚という者が自ら韓琦の五世の孫だと称した。揆はこれを遣って淮を渡らせた。丘崈は捕らえて来意を問うた。元靚は、両国が兵を交え、北朝はみな韓太師の意によるものだと言っている、今、相州の墳墓も一族も保てないので太師を頼って来たのだと述べた。崈がその説を最後まで言わせると、初めて和議を持ちかける意が現れた。崈は密かに人に護送させて北へ帰し、その実情を探らせた。元靚が戻ると崈は金の行省の文書を得て朝廷に報せた。
  • 韓侂胄はそのころ出師してたびたび敗れ、先の謀を悔いて家財二十万を出して軍を助け、崈に人を募って書と幣を敵営へ持たせ和を議させるよう諭した。崈はそこで陳璧を小使として書を揆に届け、和を講じて兵を息めたいと願った。揆は、臣と称し地を割き禍を首唱した臣を献じてこそ可だと言った。崈はさらに王文を遣って、用兵は蘇師旦・鄧友龍・皇甫斌のしたことで朝廷の意ではない、しかも三人はすでに貶黜されたと述べさせた。揆は、侂胄に用兵の意がなければ師旦らがどうして専断できたのかと言った。文が戻ると、崈は相次いで使者を遣り、淮北の流移した人と本年の歳幣を返すことを許したので、揆はようやく承知し、和州から退いて下蔡に駐屯した。ただ濠州だけは一人の統軍を置いて守らせた。
  • 畢再遇に権山東京東招撫司を任せた。当時、諸将の用兵はみな敗れ、再遇だけがたびたび功を立てた。金人は常に堰の水を利用して勝ちを得ていた。再遇は夜に藁人形数千を作って甲冑を着せ、旗と戈矛を持たせて整然と並べ、夜明けに鼓を鳴らした。金人は驚いて見て急いで堰の水を放ったが、後にそれが兵でないと知って大いに気を落とした。そこで兵を出して攻めると、金人は大敗した。
  • また、金人を引き寄せて戦い、進んでは退くことを四度も繰り返し、日が暮れかけたころ、香料で煮た豆を地に撒き、また前に出て戦って敗走を装った。金人は勝ちに乗じて追ったが、馬は飢えていて豆の香を嗅ぐとみな食べに寄り、鞭打っても進まず、かえって暴れた。金人の馬で死んだものは数知れなかった。
  • また金人と塁を接していたとき、金兵が日々増えて鋒を争いがたいと見て、ある夕、営を払って去るにあたり、旗を営に残し、生きた羊を縛ってその前足を鼓の上に置いた。鼓が鳴り続けたので、金人は空の営と気づかず数日も対峙し、気づいて追おうとしたときにはすでに遠かった。

開禧三年春正月(1207年)

  • 丁丑、丘崈を罷め、張巌に江淮の軍馬を督視させた。当時、金にはすでに和の意があり、崈は上疏して金の帥に書を送って和議を成すことを請い、あわせて、金人はすでに韓侂胄を首謀と指している、書を送るなら暫くその肩書きを外すべきだと述べた。侂胄は大いに怒って崈を罷めた。

開禧三年二月(1207年)

  • 知建康府の葉適に江淮制置使を兼ねさせた。適は上言して、三国の孫氏はかつて江北で江を守った、南唐以来これを失った、江北の諸州を兼ねて節制させていただきたいと述べ、詔して従われた。当時、急使が入り乱れていたが、適は平時のように事を治め、軍需はみな官から給して民を煩わせず、その防守はいずれも法度を尽くしていた。
  • この月、金の布薩揆が下蔡で没した。揆が病んだので金主は左丞相の完顔宗浩に汴で行省の事を執らせ、ここに至って揆は没した。

開禧三年夏四月(1207年)

  • 方信孺を国信所参議官として金の軍へ遣った。当時、韓侂胄は金の帥府に使いできる者を募り、近臣が信孺を推した。蕭山丞から都に召され、使いの任を命じられた。信孺は、釁を開いたのはこちらだ、金人が首謀者を問うたら何と答えるべきかと問い、侂胄ははっとした。信孺はそのまま張巌の書を持って発った。

開禧三年九月(1207年)

  • 方信孺の官を貶した。もと信孺は濠州に至ると、赫舎哩子仁に獄に留められ、抜き身の刃で囲んで見張られ、薪と水を絶たれて五事を要求された。信孺は、俘虜を返し幣を届けるのはよい、首謀者を縛って送るのは古来ないことだ、藩と称し地を割くのは臣子としてあえて言えることではないと述べた。子仁は怒って、生きて帰るつもりはないのかと言った。信孺は、自分は命を帯びて国門を出たときからすでに死生を度外に置いていると答えた。
  • 子仁は汴へ遣り、完顔宗浩に会わせて宿舎に移した。宗浩は使者を送って五つの説を固く持したが、信孺は弁じて少しも屈しなかった。宗浩は詰め切れず、返書を授けて、和と戦は再び来たときに決すると言った。
  • 信孺が帰ると、朝廷は林拱辰を通謝使として、信孺とともに国書と誓約の草案を持たせ、あわせて通謝の百万緡を許した。信孺が汴に至ると、宗浩は信孺が委細を建白せず急に誓書を持って来たことに怒り、誅戮や禁錮といった語を発したが、信孺は動じなかった。使者が、これは犒軍の額では済まないと言い、別の条件を示した。信孺は、歳幣は再び増やせないので通謝銭で代えたのだ、今これを得てあれを求めるなら、自分は首を落とされるだけだと述べた。
  • 折しも蜀で軍を出して大散関を回復したので、宗浩はいよいよ疑い、信孺を帰した。張巌への返書に、もし臣と称せるなら江淮の間の中間を境とする、代々子の国たらんとするなら大江をすべて境とする、あわせて首謀の姦臣を斬って首を函にして献じ、歳幣に五万匹を加え、犒軍の銀一千万両を出してこそ和好を議せる、とあった。
  • 信孺は帰ってその書を届けた。韓侂胄が問うと、信孺は、敵の求めるものは五つある、一は両淮を割くこと、二は歳幣を増やすこと、三は帰順者を返すこと、四は犒軍の銀、五は申し上げられませんと述べた。侂胄が強いて問うと、信孺はゆっくりと、太師の首を得たいのですと言った。侂胄は大いに怒り、信孺の三官を奪って臨江軍に居住させた。
  • 信孺は三度、金の軍に使いし、口舌で強敵を折り、彼の計を屈させ実情を現させた。すぐには和せなかったが、すでに話は成りかけていた。貶されてから改めて使者を遣ろうとしたが、朝廷に適任がなく、近臣が王柟を薦めた。そこで柟を仮の右司郎中として書を持たせて北へ遣った。柟は王倫の孫である。
  • 辛卯、趙淳を江淮制置使とした。乙未、張巌を罷めた。韓侂胄は金人が首謀者を罪しようとしていることに怒って和議をやめ、再び用兵に意を鋭くし、淳に江淮を鎮めさせて巌を罷めた。巌が督府を開いていた九か月で官の銭三百七十万緡を費やしたが、寸功もなかった。

開禧三年十一月(1207年)

  • 乙亥、礼部侍郎の史弥遠が奏して、兵が起こって以来、蜀の入り口・漢水・淮の民で兵禍に死んだ者は数え切れず、公私の力は大いに屈しているのに、韓侂胄の意はなおやまず、中外は憂え恐れていると述べ、危迫の勢いを力説して侂胄の誅殺を請うた。
  • 皇后の楊氏はかねて侂胄を怨んでおり、そこで皇子の栄王趙儼に疏を作らせ、侂胄が再び兵端を開いて社稷に不利をなそうとしていると述べさせた。帝は答えず、后が傍らから力めて後押ししたが、帝はなお許さなかった。后が兄の楊次山に群臣で任じうる者を択ばせてともに図らせることを請うと、帝はようやく諾した。次山はそこで弥遠に語り、弥遠は密旨を得た。銭象祖がかつて用兵を諫めて侂胄に忤ったことがあるので、まず象祖に告げると象祖は承知し、李璧に告げた。璧は、事が緩ければ漏れる恐れがあると言った。
  • そこで主管殿前司公事の夏震に兵三百を率いさせ、侂胄が入朝して太廟の前に至ったところで呵して止め、玉津園の脇へ連れて行って殺した。弥遠と象祖が上聞したが、帝はなお信じず、まもなく知って、詔を下して侂胄の罪悪を中外に暴いた。この謀は弥遠に始まり楊后と后の兄の次山によって成ったもので、帝には初め意がなかった。
  • 侂胄が死ぬと、銭象祖は懐から堂帖を出して陳自強に渡し、旨があります、丞相は政を罷められましたと言った。自強はそのまま馬に乗って去った。丁丑、自強を貶して永州に居住させた。己卯、蘇師旦を斬った。

嘉定元年春正月(1208年)

  • 戊寅、右諫議大夫の葉時が韓侂胄の首を両淮に晒すよう請うたが返答はなかった。

嘉定元年三月(1208年)

  • 癸酉、秦檜の王爵と贈諡を復した。
  • 己丑、王柟が金の軍から帰った。もと柟は金に至って、靖康の故事に依って代々伯姪の国とし、歳幣を三十万に増やし、犒軍銭を三百万貫とし、蘇師旦らは和議が定まってから首を函にして献じたいと請うた。完顔匡は柟の言を詳しく金主の璟に奏し、璟は匡に韓侂胄の首を求めて淮南の地と贖わせ、犒軍銭を銀三百万両に改めさせた。
  • 折しも銭象祖が金の帥府に書を送って韓侂胄を誅した件を伝えたが、柟はそれを知らなかった。ある日、匡が柟に、韓侂胄が貴顕になって何年かと問うた。柟は、すでに十余年、平章国事はわずか二年だと答えた。匡が、南朝はこの人を除きたいのではないかと問うと、柟は、主上が英断されれば除くのは難しくないと答えた。匡は柟を見て笑い、和議はここに決した。そこで柟を帰して侂胄の首を求めた。
  • 詔して百官に合議させた。倪思は国体を損なうと述べたが、吏部尚書の楼鑰は、和議は重事でこれによって決する、姦悪の者のすでに死んだ首など惜しむに足りないと言った。そこで臨安府に命じて棺を斬り開いて首を取り、両淮に晒し、あわせて諸路に首を函にして金に与える件を諭した。こうして侂胄と蘇師旦の首を王柟に渡し、金の軍に送って淮と陝の侵された地と交換した。

嘉定元年六月(1208年)

  • 王柟が韓侂胄と蘇師旦の首を持って金に至った。金主の璟は応天門に出て黄麾と儀仗を備えてこれを受け、百官は表を上げて祝賀した。二つの首と肖像を大通りに掛けて百姓に存分に見せ、そのうえで首に漆を塗って軍器庫に納めた。そして完顔匡らに兵を罷めさせ、元帥府を枢密院に改め、使者を遣って大散関と濠州を返した。

嘉定元年八月(1208年)

  • 安辺所を置いた。韓侂胄およびその他の権勢家・寵臣から没収した田、および囲田・湖田で官に属するものはみなここに属させた。そこから納められる銭と租は帳簿に記して使者の往来や金への絹の費用に充てられた。後に北方と好を絶ってからは、軍需と辺境の費用は常にここから取られた。

嘉定元年九月(1208年)

  • 辛丑、金が完顔侃と喬宇を遣ってきた。詔して金国との和議が成ったことを天下に諭した。