宋史紀事本末蒙古、金を侵す(蒙古侵金)
開禧二年(1206)の特穆津(チンギス)即位から嘉定八年(1215)の金の中都陥落まで、蒙古が諸部を併合して金の北辺を侵し、燕京を奪うまでの約10年間。金主永済が蒙古への侮りから釁を開き、烏沙堡・野狐嶺・会河堡で大敗して西京以下を失い、内では赫舎哩呼沙呼が永済を弑して珣(宣宗)を立て、その呼沙呼も珠格高琪に殺された。和議の後に汴へ遷都したことで蒙古は再び南侵し、完顔承暉の自尽と穆延尽忠の逃亡で中都は陥ちた。
年表(18件)
- 寧宗
- 開禧二年十二月1206年特穆津が鄂諾河で即位し、青吉斯皇帝の号を受ける
- 嘉定元年冬1208年蒙古が托克托と庫楚類汗を征し、金では衛王允済が立つ
- 嘉定二年三月1209年輝和爾国が蒙古に降る
- 嘉定二年五月1209年蒙古が霊州に入り、夏主安全が娘を納れて降る
- 嘉定三年十二月1210年蒙古主が永済を侮って金と絶ち、西北の境を侵し始める
- 嘉定四年夏四月1211年金が和を求めるが許されず、撫州に行省を置いて備える
- 嘉定四年八月1211年蒙古が烏沙堡・白登城を抜き、西京と桓州・撫州を取る
- 嘉定四年閏九月1211年野狐嶺と会河堡で金の大軍が壊滅し、居庸関を落とされる
- 嘉定四年十一月1211年図克坦鎰の三州内徙・行省の献策が容れられず、東京も守れなくなる
- 嘉定五年三月1212年呼沙呼を罷め、蒙古は德興府の諸城堡を抜いて去る
- 嘉定六年五月1213年金主永済が再び赫舎哩呼沙呼を右副元帥とする
- 嘉定六年八月1213年呼沙呼が乱を起こして永済を弑し珣を立て、のち珠格高琪に殺される
- 嘉定六年十二月1213年蒙古が三道に分かれて南下し、金の九十余郡を破る
- 嘉定七年三月1214年蒙古主が和を諭し、完顔承暉が使者となって和議を進める
- 嘉定七年夏四月1214年和が成り、蒙古主は居庸関を出て引き揚げる
- 嘉定七年五月1214年金主が汴に遷都し、怒った蒙古と叛いた乣軍が燕京を囲む
- 嘉定七年九月1214年穆呼哩が金の北京を降し、順州・成州・懿州・通州が続いて降る
- 嘉定八年二月1215年救援軍が霸州で敗れ、完顔承暉は自尽、中都は蒙古の手に落ちる
寧宗開禧二年十二月(1206年)
- 蒙古の却特氏の特穆津(テムジン)が鄂諾河(オノン川)で帝と称した。
- 特穆津の祖先に勃端察爾という者があった。その母を阿倫果斡といい、二子を生んで寡婦となったが、夜、寝ているとしばしば光が腹を照らし、さらに三子を生んだ。勃端察爾はその末子である。その後、子孫は繁栄してそれぞれ部をなし、烏済の北に居って、鄂囉・奈曼・九姓回鶻の故城・和琳と境を接し、代々遼と金に貢を奉じつつ韃靼に属していた。
- 伊蘇克依(イェスゲイ)に至って諸部を併呑して勢いは盛大になった。塔塔爾部を攻めてその部長の特穆津を捕らえ、帰って特哩衮盤陀山に泊まったとき子が生まれたので、特穆津と名づけた。
- 伊蘇克依が死んだとき特穆津は幼く、その部衆の多くは族人の塔爾古岱に帰した。部の人を率いて十三の翼に分け、塔爾古岱らと大いに戦って破り、それでやや安んじられた。当時、塔爾古岱の部は地が広く民が多かったが紀律がなく、その配下が謀って、特穆津は人に自分の衣を着せ自分の乗り物に乗せる、まことに我らの主だと言い、こぞって帰属した。塔爾古岱の部はこうして衰えた。
- まもなく塔塔爾部が金に叛くと、特穆津は鄂諾河から衆を率いて金の軍と合してこれを滅ぼした。その功で特穆津は察罕図嚕に封じられた。中国の招討使にあたる。
- 特穆津は奈曼部が強盛なので慎んで事えたが、奈曼が反して侵略したので、特黙格川に属部を大いに集めて奈曼討伐を議した。奈曼の迪延汗は杭愛山に営を置き、黙爾竒斯の諸部と兵を合わせて勢いは盛んだった。特穆津は大いに戦って迪延汗を捕らえ殺し、諸部はことごとく潰えた。特穆津はいよいよ強盛になった。
- 翌年、西夏を攻めて伊奇哩寨を破り、羅索城を経て大いに掠めて帰った。ここに至って鄂諾河の源で諸部長を大いに集めて即位し、九本の旒の白旗を建てた。諸王と群臣がともに尊号を上って青吉斯皇帝(チンギス)とした。
- それ以前、紹興年間に金人はたびたび蒙古を撃ったが勝てず、そこで和した。金主はかつて衛王の允済を靖州へ遣って特穆津の貢を受けさせた。允済はその容貌を異とし、帰って金主に告げ、事にかこつけて除くよう請うたが、金主は許さなかった。特穆津はこれを聞いて恨んだ。
- 特穆津は即位すると兵を出して再び奈曼を征して滅ぼし、必里克汗を捕らえて帰った。
嘉定元年冬(1208年)
- 蒙古が托克托と庫楚類汗を征した。当時、衛喇特などの部は蒙古の前鋒に遭って戦わずに降り、そこで道案内に用いて黙爾奇斯部を討って滅ぼした。托克托は流れ矢に中って死に、庫楚類汗は契丹へ逃げた。
- この年、金主の璟が没し、衛王の允済が立った。
嘉定二年三月(1209年)
- 輝和爾国が蒙古に降った。輝和爾は唐の高昌である。
嘉定二年五月(1209年)
- 蒙古の兵が霊州に入り、夏主の安全は娘を納れて蒙古に降伏を請うた。夏はこれ以後いっそう衰えた。
嘉定三年十二月(1210年)
- 蒙古が金を侵した。それ以前、金主の永済が即位したとき、詔が蒙古に届き、拝して受けるべきだと伝えられた。蒙古主が金の使者に、新しい天子は誰かと問うと、衛王だと答えた。蒙古主はたちまち南を向いて唾し、自分は中原の皇帝は天上の人がなるものだと思っていた、こんな凡庸で怯懦な者でもなるのか、何のために拝すのかと言い、そのまま馬に乗って北へ去った。金の使者が帰って報告すると、永済は怒り、蒙古が入貢するのを待って害そうとした。蒙古主はこれを知り、そのまま金と絶ち、いっそう兵を厳しくして備え、たびたび金の西北の境を侵した。その勢いはしだいに盛んになり、金人は慌てて百姓が辺境の事を語り伝えるのを禁じた。
嘉定四年夏四月(1211年)
- 金が人を遣って蒙古に和を求めたが、蒙古は許さなかった。もと金の納哈塔敏珠爾が北辺を守り、蒙古が辺境を侵そうとしていると知って金主に走り告げた。金主は、彼は我らと釁がない、お前はなぜそう言うのかと問うた。敏珠爾は、近ごろ彼の隣部が西夏に従って娘を献じ、矢を作り楯を製することをやめないと聞く、行営のたびに男子を車に乗せるのは馬の力を惜しむためだ、我らを図る以外に何があろうと答えた。金主はみだりに辺境の釁を生むとして囚えた。
- 蒙古が雲中・九原を連年侵擾してやまず、ついに大水濼を破って進んだので、金主はようやく恐れ、敏珠爾を釈いて西北路招討使の鈕祜禄哈達を遣って和を求めた。蒙古主は許さなかった。金主はそこで平章政事の図吉齊嘉努と参知政事の完顔哈沙に撫州で行省の事を執らせ、西京留守の赫舎哩呼沙呼に行枢密院事として辺を備えさせた。
嘉定四年八月(1211年)
- 金の図吉齊嘉努と完顔哈沙が烏沙堡に至ったが、備えを設ける前に蒙古兵が突然、来て烏沙堡と烏月営を抜き、白登城を破り、そのまま西京を攻めること七日。呼沙呼らは恐れて麾下とともに城を棄て囲みを破って逃げた。蒙古主は精騎三千で駆けさせ、金兵は大敗した。翠屏山まで追い、西京および桓州・撫州を取った。
- 蒙古主はさらに子の珠徹・察罕台・烏格台の三人に兵を率いさせ、雲内・東勝・武州・朔州・豊州・靖州などの州を分けて取らせた。これによって金の德興・弘州・昌平・懐来・縉山・豊潤・密雲・撫寧・集寧、東は平州・灤州を過ぎ、南は清州・滄州に至り、臨潢から遼河を過ぎ西南は忻州・代州に至るまで、みな蒙古に降った。
嘉定四年閏九月(1211年)
- 蒙古主は撫州を破ってから士を休ませ馬を放牧し、そのまま南へ向かおうとした。金主は改めて招討使の完顔糾堅と監軍の完顔鄂諾らに兵を率いさせ、四十万と号して野狐嶺に駐屯させ、哈沙に重兵で後詰めをさせた。
- ある者が糾堅に、蒙古は撫州を破ったばかりで得た物を配下に分け与え、馬を野に放牧している、不意を突いて襲うべきだと言った。糾堅は、それは危うい道だ、騎兵と歩兵をともに進めるほうが万全だと言った。
- 蒙古主はこれを聞いて獾児觜に進兵した。糾堅は麾下の明安を遣って蒙古の挙兵の理由を問わせたが、明安は逆に蒙古に降ってその虚実を告げた。蒙古主はそのまま糾堅らと戦い、金兵は大敗して、人馬が踏み合って死ぬ者は数知れなかった。蒙古は鋭に乗じて前進し、哈沙はその鋒を畏れて防戦せず兵を率いて南へ行った。蒙古兵は追撃し、会河堡で金兵はまた大敗し、哈沙はかろうじて身一つで免れて宣平へ逃げ込んだ。
- 蒙古兵は勝ちに乗じて宣平に迫り、晋安県を落とした。遊撃騎が居庸関に至ると、守将の完顔福寿は関を棄てて逃げ、蒙古兵はこれを落とした。金の中都は戒厳し、男子がみだりに城を出ることを禁じた。蒙古の遊撃騎が都城の下に至ると、金主は南の汴へ逃げようとしたが、折しも衛兵が死を誓って迎え撃ち、蒙古兵は損害を受け、そのまま金の群牧監を襲って馬を奪って去った。金主はそこで思いとどまり、秦州刺史の珠格高琪に通玄門の外に駐屯させた。まもなく哈沙を咸平路兵馬総管に降したが、将士はその罰の軽さから、いっそう命に従わなくなった。
嘉定四年十一月(1211年)
- 金の図克坦鎰は初め上京留守だったが、蒙古兵が日々西北を攻めるので、事は急だとして兵二万を選び、同知の烏克遜鄂特に率いさせて入衛させた。金主は嘉して右丞相に召し拝した。
- 鎰は上言して、国家が韃靼と兵を交えて以来、彼は集まって行動し我は散じて守っている、集まった側が散った側を攻めるのだからその敗北は必然だ、大城に入って保ち力を合わせて防ぐに越したことはない、昌州・桓州・撫州の三州はもとより富み、人はみな健勇だから内地へ移して兵勢を増し、人畜と財貨を失わないようにすべきだと述べた。参政の梁鏜は、それでは自ら領土を縮めることになると言い、金主は鏜の謀に従った。
- 鎰はさらに奏して、遼東は国家の根本で中都から数千里ある、万一、兵を受ければ州府は様子見をして裁可を仰ぐことになり、事を誤ることが多い、大臣を遣って行省を置いて鎮めさせるべきだと述べた。金主は不快で、故なく行省を置けばいたずらに人心を揺るがすだけだと言って従わなかった。三州を失い、さらに東京が守れないと聞くに及んで、金主は大いに悔い、丞相の言に従っていればここまでにはならなかった、丞相に会うのが恥ずかしいと言った。
- 呼沙呼が西京を棄てて帰るとき、蔚州に至って官庫の銀五千両と衣類・貨幣などを擅に取り、官民の馬を奪って随行の者に与え、紫荊関に入って淶水の県令を殺した。中都に至っても金はいずれも問わず、右副元帥とした。呼沙呼はいよいよ憚らなくなり、自ら兵二万を請うて北の宣平に駐屯しようとした。金主は三千を与えて媯川に駐屯させたので、呼沙呼は不満だった。
嘉定五年三月(1212年)
- 金の呼沙呼が南口へ屯を移そうとして尚書省に文を送り、韃靼の兵が来れば必ず支えられない、我が一身は惜しむに足りないが三千の兵は憂うべきだ、十二の関、建春宮も万寧宮もみな保てないと述べた。金主はその言を憎み、有司に下して調べさせ、詔してその十五の罪を数え、罷めて田里へ帰らせた。
- 蒙古主は宣平を落としてから德興府を攻め、城壁をよじ登った。金人が防いで蒙古兵は不利だったが、蒙古主の第四子の図類と沁布矩駙馬がさらに楯を掲げて先に登って射たので、金兵は退き、蒙古はそのまま德興の境内の諸城堡をすべて抜いて去った。金人はまた守りを固めた。
嘉定六年五月(1213年)
- 金主の永済がまた赫舎哩呼沙呼を右副元帥とした。
嘉定六年八月(1213年)
- 金主がまた呼沙呼を用いて兵を率いて燕城の北に駐屯させた。図克坦鎰が切に諫めたが聴かれなかった。
- 呼沙呼はその党の完顔綽諾・富察魯爾錦・烏庫哩達喇らと乱を起こす謀を立てた。金主は蒙古兵が居庸関にいるのに呼沙呼が日々狩りに耽って軍事を顧みないので、使者を遣って責めさせた。使者が至ると呼沙呼は怒り、そのまま知大興府の図克坦南平が謀反したと偽り、詔を奉じて討つと称して軍を三つに分け、章義門から入らせ、自らは一軍を率いて通玄門から入った。城中の兵が出て防ぐことを恐れ、まず一騎を東華門へ馳せさせて、韃靼が来た、関ではもう交戦していると大声で告げさせ、続けてもう一騎を同じように遣った。
- そのうえで党の図克坦金寿に図克坦南平を召させた。南平は事情を知らず、広陽門まで来たところで呼沙呼に遭い、馬上から手ずから斬り殺された。完顔錫庫乃が乱を聞いて兵五百を召して迎え撃ったが勝てず、みな殺された。呼沙呼が東華門に至ると、護衛の錫里竒爾らが入れた。呼沙呼は宮に入って宿衛をすべてその党に替え、自ら監国都元帥と称して大興府に居り、兵を並べて自らを守り、芸妓を召して親党と飲んだ。
- 翌日、兵で金主を迫って衛邸に移し、武衛の兵二百を遣って閉じ込めて見張らせた。呼沙呼は党を任じようとして黄門に宮へ入って璽を取らせた。尚宮左夫人の鄭氏が宝璽を掌っていて拒み、璽は天子の用いるもの、呼沙呼は人臣だ、取ってどうするのかと言った。黄門は、今は時勢が大きく変わった、主上さえ保てないのに、まして璽など、御侍は自ら逃れる計を考えるべきだと言った。鄭氏は声を励まして罵り、お前たちは宮中の近侍で恩遇はことに厚い、君の難に死をもって報いず、かえって逆賊のために璽を奪うのか、自分は必ず死ぬが璽は決して渡さないと言い、目を閉じて黙った。黄門は戻った。呼沙呼は改めて人を遣って宣命の宝を奪い取り、その党数十人を任じた。
- 丞相の図克坦鎰はそのころ落馬して足を傷め休んでいたが、難が起こったと聞いて車を命じて省に入ろうとした。ある者が、省と府はみな軍士が守っていて入れませんと告げた。しばらくして軍士が町中で人を探し始めたので、鎰は邸に戻った。
- 呼沙呼は僭位しようとしてためらい決しかね、鎰に人望があるので訪ねた。鎰は落ち着いて、昇王は章宗の兄で顕宗の長子、衆望の帰するところだ、元帥が策を決してこれを立てれば万世の功だと言った。呼沙呼は黙り、そこで宦者の李思中を遣って邸で金主を弑した。
- 当時、完顔綱が兵十万を率いて縉山で行省の事を執っていたが、呼沙呼は誘って殺した。そして沿辺の諸軍をすべて撤して中都に赴かせ、平州の騎兵を薊州に駐屯させて自らを重からしめ、図克坦銘らを遣って昇王の珣を彰德に迎えた。九月、燕に至って即位し、子の守忠を太子に立て、永済を追廃して東海郡侯とした。後に衛王に追復し、紹と諡した。
- 蒙古兵が懐来に至り、金の元帥右監軍の珠格高琪が防いだが敗れ、屍は四十余里に横たわった。蒙古は勝ちに乗じて古北口に至り、金兵は居庸を保って入れなかった。蒙古主はそこで克特卜齊らを留めて兵を止めて防がせ、自らは衆を率いて紫荊関へ向かい、五回嶺で金兵を破って涿州・易州を抜いた。遮别に兵を率いさせて逆に南口から居庸関を攻めて破らせ、北口へ出て克特卜齊の軍と合流した。まもなくさらに諸部の精兵五千騎を選び、竒塔特・哈坦の二将を合わせて中都を囲んだ。
- 蒙古兵が皂河に至って高橋を渡ろうとしたとき、呼沙呼は足を病んで車に乗って督戦した。蒙古兵は大敗した。翌日また戦おうとしたが、呼沙呼は傷が重くて出られず、高琪に乣軍五千で防ぐよう期日を定めた。高琪が期日に来なかったので、呼沙呼は斬ろうとしたが、金主がその功を理由に死を免ずるよう諭した。呼沙呼はそこで兵を増して出戦させ、勝てば罪を贖える、勝てなければ斬ると戒めた。高琪は出て戦い、夕から暁まで、北風が強く吹いて石を飛ばし砂を舞い上げて目も開けられず、金兵は大潰した。高琪は自ら必ず呼沙呼に殺されると見て、乣軍を率いて中都に入り呼沙呼の邸を囲んだ。呼沙呼は難が起こったと聞いて裏の垣に登って逃げようとしたが、衣が引っかかって落ち股を傷め、軍士に斬られた。高琪はその首を持って闕に詣でて罪を請い、金主は赦した。そこで詔して呼沙呼の罪を暴いてその官爵を奪い、高琪を左副元帥とし、一行の将士に功を論じて賞を行った。
- 当時、蒙古の穆呼哩が兵を統べて金を侵し、向かうところは荒らされた。永清の人の史秉直は集まって謀り、今、国家は喪乱にある、我が家の百口をどうして保てようかと言った。まもなく降った者はみな免れると知って、里中の数千人を率いて涿州の軍門に降った。穆呼哩は秉直を用いようとしたが、秉直は辞し、そこでその子の史天倪を万戸として降った人々の家族を率いて霸州に駐屯させた。
嘉定六年十二月(1213年)
- 蒙古主は竒塔特と哈坦を燕城の北に駐屯させ、降った楊伯遇・劉林の漢軍四十六都統と韃靼の兵を分けて三道とした。子の珠徹・察罕台・烏格台の三人を右軍として太行に沿って南下させ、保州・中山・邢州・洛州・磁州・相州・衛輝・懐州・孟州の諸郡を破って黄河に至り、平陽・太原の間を大いに掠めた。別将の博爾済らは海に沿って東し、灤州・薊州を破って遼西の地を大いに掠めた。蒙古主は自ら子の図類とともに中道から雄州・漠州・清州・滄州・景州・献州・河間・濱州・棣州・済南などの郡を破り、兵を率いてまた大口から中都に迫った。
- 当時、中原の諸路の兵はみな山の後ろへ徴発されて防御に当たり、郷民をすべて徴発して兵とし城に上らせて守らせていた。蒙古はその家族をことごとく駆り立てて攻めさせ、父子兄弟が遠くから呼び合って互いを認めた。これによって人に固い志がなくなり、行く先々の郡邑はみな下った。破られた金の郡は九十余、両河・山東の数千里の人民はほとんど殺し尽くされ、金帛・子女・牛馬・羊はみな席巻して持ち去られ、家屋は焼かれ城郭は丘墟となった。ただ大名・真定・青州・鄆州・邳州・海州・沃州・順州・通州には兵があって堅く守り、破れなかった。
嘉定七年三月(1214年)
- 蒙古主が山東から戻って燕城の北に駐屯した。諸将は勝ちに乗じて城を破ることを請うたが、蒙古主は従わず、使者を遣って金主に諭した。曰く――お前の河東・河北の郡県はことごとく我が有となった。お前の守るのは燕京だけだ。天がすでにお前を弱らせているうえ、我がまたお前を険に迫れば、天は我を何と言うか。我は今、軍を還す。お前は軍を労って我が諸将の怒りを鎮められないのか――と。
- 丞相の高琪は金主に、韃靼の人馬は疲れ病んでいる、一戦を決すべきだと述べた。完顔承暉は、不可だ、我が軍は身は都城にあるが家族はそれぞれ諸路にいる、その心の向背は測れない、戦って敗れれば必ず散り、勝ってもやはり妻子を思って去る、社稷の安危はこの一挙にかかる、使者を遣って和を議し、彼が軍を還すのを待って改めて計るに越したことはないと述べた。金主はもっともとして承暉を遣って和を議させた。蒙古主はその公主を得たがり、金主はそこで先の主の永済の娘および金帛と童男童女各五百人、馬三千を与えた。
嘉定七年夏四月(1214年)
- 金と蒙古が和した。蒙古主は引き揚げて居庸関を出た。金主は蒙古と和したことで国内を大赦した。
嘉定七年五月(1214年)
- 金主の珣は国が狭まり兵が弱く財用が乏しくて中都を守れないとして、汴への遷都を議した。左丞相の図克坦鎰は諫めて、鑾輿がひとたび動けば北路はみな守れなくなる、今すでに講和した以上、兵を集め粟を蓄えて京師を固く守るのが上策だ、南京は四面から兵を受ける、遼東は根本の地で山に依り海を負い、その険は恃むに足り、一面だけ防いで後図とするのが次善の策だと述べた。金主は従わず、平章政事・都元帥の完顔承暉と左丞の穆延尽忠に太子の守忠を奉じて中都に留守させ、六宮とともに出発した。
- 蒙古主はこれを聞いて怒り、和しておきながら遷るのは疑心があって恨みを解いていないのだ、和を解いて我を欺く計にすぎないと言い、再び南侵を図った。
- 金主が良郷に至ったとき、扈衛の乣軍にもと給していた鎧と馬をすべて官に返させた。乣軍は怨んでそのまま乱を起こし、その主帥の素温を殺し、多木達・巴実爾・扎拉爾の三人を帥に推して北へ帰った。完顔承暉は変を聞いて兵で盧溝を阻んだ。卓多が撃退したが、多木達は使者を遣って蒙古に降伏を乞うた。蒙古主はそこで明安を遣って多木達を援けさせ、その兵を合わせて燕京を囲んだ。
- 金主はこれを聞いて人を遣って太子を呼び寄せようとした。応奉翰林文字の完顔蘇哷は不可とした。平章の珠格高琪は、主上がここにおられる以上、太子は従うべきだ、しかもお前は都城が必ず全うされると保証できるかと言った。蘇哷は、全うされるとは確かに言い切れませんが、太子があちらにおられれば声勢はともに重くなり、辺境の隘路に守りがあれば都城に憂いはありません、昔、唐の明皇が蜀へ行幸したとき太子は霊武にいました、それは天下の心を繋ぐためですと述べた。従われず、ついに太子を召した。太子が去ると中都はいっそう恐れた。
嘉定七年九月(1214年)
- 蒙古の将の穆呼哩が兵を進めて金の北京を攻めた。守将の銀青が二十万の衆を率いて花道で防いだが敗れて戻り、城に拠って守った。その副将の完顔実哩・高德玉らが伊済を殺して伊德爾を帥に推した。穆呼哩は史天祥らに兵を急がせて進攻させ、伊德爾はそのまま城を挙げて降った。穆呼哩は降るのが遅かったと怒って生き埋めにしようとしたが、蕭額森が、北京は遼西の重鎮だ、降ったのに生き埋めにすれば、この後どうして降る者があろうかと言い、穆呼哩は従った。伊德爾を権北京留守とし、烏葉爾を権兵馬帥府事とすることを奏した。こうして金の順州・成州・懿州・通州が相次いで蒙古に降った。
嘉定八年二月(1215年)
- 金の中都は囲まれて久しかった。完顔承暉は穆延尽忠が長く軍旅にあることから兵をすべて委ね、自らは大綱を統べた。また人を遣って礬で書いた奏で急を告げた。
- 金主は左監軍の永錫に中山・真定の軍を、左都監の烏庫哩慶寿に大名の軍一万八千と西南路の歩騎一万一千、河北の軍一万を率いさせ、御史中丞の李英に糧を運ばせ、大名行省の富珠哩に調遣させて、相次いで発して中都を救わせた。
- 英は大名に至って数万の兵を得たが、平素から衆を御するのに紀律がなかった。三月、英は酒に酔って霸州の北で蒙古と遭遇し大敗し、運んでいた糧をすべて失って英は死に、士卒は殲滅された。慶寿と永錫の軍はこれを聞いてみな潰えて帰った。これ以来、中都は援けを絶たれ内外は通じなくなった。
- 承暉は尽忠と会議して、ともに社稷に死ぬことを期したが、尽忠は従わなかった。承暉は怒って立って邸に戻ったが、兵柄はすでに尽忠にあり、どうしようもなかった。そこで家廟に別れを告げ、左右司郎中の趙思文を召して、事勢がここに至った以上、ただ死をもって国家に報いるだけだと言った。
- 五月一日、承暉は遺表を作り、尚書省令史の師安石に渡して書かせた。国家の大計と平章政事の高琪の姦状を論じ、あわせて都城を最後まで保てなかった罪を謝したもので、その落ち着きは平生のようだった。財物をすべて出して家人を召して分け与えた。家じゅうが号泣したが、承暉の神色は泰然としていた。安石と杯を挙げて満たして飲み、承暉は五経をみな師について受け、謹んで守って力行し、虚文としなかったと語った。酒が回ってから筆を取って安石と訣れの言葉を書いた。最後に二字を逆さに書いてしまい、筆を投げて、こんな誤りをするのは神志が乱れたのだろうかと言い、安石に、君は行きなさいと言った。安石が門を出ると哭する声が聞こえた。戻って問うと、承暉はすでに薬を仰いで死んでいた。家人は慌ただしく庭に葬った。
- この日の暮れ、中都にいた妃嬪はみな尽忠が南へ逃げようとしていると聞いて荷を束ねて通玄門に至った。尽忠は偽って、自分がまず出て諸妃のために道を開くと言い、諸妃は信じた。尽忠はそこで愛妾と親しい者を連れて先に城を出、二度と振り返らなかった。
- 蒙古兵はそのまま中都に入り、吏民の死者はきわめて多く、宮室は乱兵に焼かれて一か月余り燃え続けた。当時、蒙古主は桓州にあり、燕の陥落を聞いて使者を遣って明安らを労い、その府庫の蓄えを車で北へ運ばせた。こうして金の祖宗の御影と諸妃嬪はみな失われた。
- 尽忠は中山まで来て親しい者に、諸妃と一緒に来ていたら我らはここまで来られなかったと語った。安石が承暉の遺表を奉じて汴に至ると、尚書令が贈られた。尽忠が着くと、金主は釈して問わず、そのまま平章政事とした。