宋史紀事本末韓侂胄の専政(韓侂胄專政)

紹熙五年(1194)の寧宗即位から開禧元年(1205)の平章軍国事就任まで、外戚の韓侂胄が定策の功を主張しながら趙汝愚に抑えられたことを恨み、内批と台諫を握って留正・朱熹・彭亀年・趙汝愚を次々に逐い、権を専らにした経緯。太学生の楊宏中ら六君子や呂祖倹・呂祖泰の抗議はいずれも流謫で報いられ、陳自強・蘇師旦・趙師𢍰ら諂う者が朝を埋め、三省の印まで私邸に納められた。

年表(24件)

光宗紹熙五年秋七月(1194年)

  • 甲子、皇子の趙擴が即位した。
  • 乙丑、皇后に韓氏を立てた。后は韓琦の六世の孫で、父は韓同卿、韓侂胄はその叔父である。選ばれて宮に入り、両宮の意によく順ったので嘉王邸に嫁ぎ、ここに至って后に立てられた。
  • 己巳、趙汝愚に権参知政事を兼ねさせた。汝愚はまず幸進を抑え、四方の名を知られた士を招いたので、中外は首を伸ばして治を望んだ。
  • 己亥、留正を再び召して都堂で事を執らせた。趙汝愚が参知政事の兼任を免ずるよう請い、右丞相に拝された。汝愚は辞して、同姓の卿として不幸にも君臣の変に処した、どうして功を言えようかと述べた。
  • 戊寅、殿前都指揮使の郭杲に武寧軍節度使を加えた。辛巳、趙汝愚を枢密使とした。壬午、韓侂胄を汝州防禦使とした。
  • もと侂胄は定策の功を認めさせようとして節鉞を望んだ。汝愚は、自分は宗室の臣、お前は外戚だ、どうして功を言えよう、ただ爪牙の臣なら賞すべきだと言い、そこで杲に節鉞を加え、侂胄は防禦使に遷しただけだった。侂胄は大いに失望したが、詔旨を伝達する立場からしだいに親しく寵せられ、折あるごとに威福を弄んだ。
  • 知臨安府の徐誼が汝愚に、侂胄はいずれ必ず国の患いとなる、その欲を満たして遠ざけるべきだと告げたが、聴かれなかった。汝愚が葉適の功を推そうとすると、適は辞して、国が危ういとき忠を尽くすのは職分だ、適に何の功がありましょうと言った。侂胄の不満を聞くと、知閤の劉弼とともに汝愚に、侂胄の望むところは節鉞にすぎない、与えるべきだと述べたが、従われなかった。適は嘆じて、禍はここから始まると言い、そのまま強く外任を求めた。

紹熙五年八月(1194年)

  • 丙辰、内批で左丞相の留正を罷めた。当時、韓侂胄はしだいに政に与ろうと謀ってたびたび都堂に詣でた。正は省の吏に、ここは知閤が日々出入りする所ではないと諭させ、侂胄は怒って退いた。折しも正と汝愚が山陵の件で議が合わなかったので、侂胄はそこに付け込んで帝に讒し、手詔で正を罷めて知建康府として出した。
  • 趙汝愚を右丞相とした。汝愚はもともと留正を頼ってともに事に当たろうとしていたので、韓侂胄が知らせずにいたことに怒り、侂胄が謁に来ても会わなかった。侂胄は恥じ憤った。羅点が、公は誤られたと言い、汝愚は悟って会ったが、侂胄はついに機嫌を直さなかった。

紹熙五年九月(1194年)

  • 壬申、京鏜を僉書枢密院事とした。もと帝が鏜を蜀の帥に任じようとしたとき、趙汝愚が人に、鏜は望みが軽く経歴も浅い、どうしてこの方面を担えようかと語った。鏜は聞いて恨んだ。これによって韓侂胄は鏜を引き入れて助けとした。鏜はそのころすでに平素の節を変え、多くの佞人が付き従い、正しい士を仇のように見た。士大夫の禍はここから始まった。

紹熙五年冬十月(1194年)

  • 内批で謝深甫を御史中丞、劉德秀を監察御史とし、右正言の黄度を罷めた。
  • 当時、韓侂胄は日夜、趙汝愚を除く謀を巡らせていた。知閤門事の劉弼もまた内禅に与れなかったので不平を抱き、侂胄に、趙相は大功を独占しようとしている、公は節鉞を得られないどころか嶺南への流謫を免れまいと言った。侂胄は驚いて計を問うと、台諫を用いるしかないと答えた。侂胄がどうすればよいかと問うと、弼は、御筆で批して出せばよいと言い、侂胄は同意した。そこで内批で給事中の謝深甫を中丞に拝した。折しも汝愚が近臣に御史を推薦させることを請うたので、侂胄は密かにその党の劉德秀を深甫に託し、内批で用いた。これによって劉三傑・李沐らが次々に引き立てられ、言路はみな侂胄の人となって正しい士を排斥した。
  • 侍講の朱熹はそれが政を害することを憂え、進対のたびに帝に切言した。また吏部侍郎の彭亀年と約して侂胄を弾劾しようとしたが、亀年が使者の護送に出て果たせなかった。熹はさらに汝愚に書を送り、厚い賞で侂胄の労に報い、政に与らせないようにすべきだと述べた。汝愚は疎放な人柄で、御しやすいと思って気にかけなかった。
  • 黄度が上疏して侂胄の姦を論じようとした。侂胄はこれを察し、御筆で度を知平江府とした。度は、蔡京が権を専らにして天下が乱れた、今、侂胄は御筆に託して諫臣を逐い、頭を垂れて去らせて一言も述べさせない、国の利ではないと言い、固辞して祠禄を得て郷里へ帰った。
  • まもなくまた内批で侍講の朱熹を罷めた(熹の事は道学の記に見える)。游仲鴻が上疏して、陛下が喪に服される間、御批がたびたび出て中書を経ない、先日の宰相の留正の退任は礼をもってせず、諫官の黄度の退任は正をもってせず、近ごろの講官の朱熹の退任もまた道をもってしていない、古来、宰相・諫官・講官を捨てて自ら聡明たりえた者はない、速やかに熹を還し、小人に志を得させて禍乱を育てさせないでいただきたいと述べた。
  • 王介が上疏して、陛下は即位して三か月もたたぬうちに宰相を策免し台諫を遷し替えられたが、いずれも内批から出ている、盛世の事ではない、崇寧・大観の間、事が御批から出て北狩の禍を成した、杜衍は宰相のとき、内々に降された命を十数通も溜めて封じ返した、今は宰相があえて封じ返さず台諫があえて弾奏しない、これが長く続く道でしょうかと述べた。いずれも返答はなかった。

紹熙五年十一月(1194年)

  • 庚戌、韓侂胄に枢密都承旨を兼ねさせた。もと侂胄を特に二官進めるよう詔したが、侂胄は不満で強く辞したので取りやめとなり、一官進めて宜州観察使とした。趙汝愚への怨みはいっそう深まった。ここに至って特に都承旨に遷した。

紹熙五年十二月(1194年)

  • 乙丑、吏部侍郎兼侍講の彭亀年は、韓侂胄が権を執って宰相より権勢が重いのを見て、上疏してその姦を条奏した。大臣の進退と言官の交代はいずれも初政で最も大体にかかわる、大臣が知らないことを侂胄が知り、声勢に託して威福を弄んでいる、除かなければ必ず後患となる、と述べた。上は奏を見て驚き、侂胄は朕が肺腑として託し信じて疑わなかったのに、こんなことになろうとはと言った。亀年はさらに、陛下が朱熹を逐われたのはあまりに急だった、だから陛下にこの小人も速やかに除いていただき、天下に、陛下は君子を除くのは易しく小人を除くのは難しいと言わせないようにしたいと述べた。
  • そこで亀年と侂胄はともに祠禄を請うた。帝は両者の職をともに罷めようとしたが、陳騤が進んで、閤門の者のために経筵の講官を去らせては、どうして天下に示せましょうと述べた。まもなく内批で亀年に郡を与え、侂胄は一官進めて在京の官観に就けることとした。給事中の林大中は中書舎人の楼鑰とともに繳奏して述べた。陛下は旧僚を礼遇され、即位されて以来、日を空けず招いて諮問された。それが三、数か月のうちに、ある者は死に、ある者は斥けられ、亀年ひとりが残っていたのに、今また去らせる。四方は、彼が言を尽くして罪を得たと言うだろう。政体を損なうことを恐れる。しかも一方は去り一方は留まって、恩意が釣り合わない。去る者は遠くに下ってもまた左右に侍れるが、留まる者は祠禄に就いても召見はいつでもある。亀年を経筵に留め、侂胄には外任を命ぜられれば、事体は平らかとなり人も言うことがなくなります、と。上は、亀年はすでに優遇した、侂胄はもともと過ちがないのだから、そのまま並べて書いて施行せよと批した。大中と鑰はともに奏し、亀年に職を与えて郡に出すのを優遇とされるなら、侂胄を承宣使に転じるのは優遇ではないのか、侂胄にもともと過ちがないと言われるなら、亀年の論事は君を愛する誠から出たもので、どうして過ちとできようか、亀年がすでに去ると決した以上、侂胄が独り留まるのは難しい、外任か外の祠禄を与えて公議を慰められたいと述べたが、聴かれなかった。これによって侂胄はいよいよ横暴になった。
  • 御史中丞の謝深甫が陳傅良を弾劾して罷めさせた。
  • 己巳、陳騤を罷め、余端礼を知枢密院事、京鏜を参知政事、鄭僑を同知枢密院事とした。陳騤は趙汝愚とかねて折り合わず、同じ堂で語ったことがなかったが、彭亀年の件では争った。韓侂胄は人に、彭侍郎が好い官を貪らないのはもとよりだが、元枢(陳騤)まで好人になろうというのかと語り、そこで罷めさせ、京鏜を引いて政府に置いて汝愚を離間させた。汝愚は朝で孤立し、天子も頼み信じるところがなくなった。
  • 趙彦逾を四川制置使とした。当時、彦逾は工部尚書で、帝室に功があると自負して趙汝愚が政府に引き立てるのを期待していたが、蜀の帥に任じられて大いに怒り、そのまま韓侂胄と結んだ。辞去のとき廷臣の姓名を帝に列挙して汝愚の党だと指し、あわせて、老奴はこれから去りますので、惜しまず陛下に申し上げると述べた。これによって帝も汝愚を疑うようになった。

寧宗慶元元年二月(1195年)

  • 戊寅、右丞相の趙汝愚を罷めた。もと韓侂胄は汝愚を逐おうとして名目に困り、京鏜に謀った。鏜は、彼は宗姓だ、社稷を危うくしようと謀ったと誣えれば一網打尽だと言った。侂胄は同意し、秘書監の李沐がかつて汝愚に怨みを抱いていたので右正言に引き立て、汝愚は同姓で宰相の位にあり社稷に不利をなす、その政を罷めて天位を安んじ姦の源を塞がれたいと奏させた。
  • この日、汝愚は浙江亭に出て罪を待ち、そのまま観文殿大学士として知福州として出された。甲申、謝深甫らが、汝愚は宰相の位を僭したのだから、罷免された以上、書殿の隆名や帥藩の重任を加えるべきではないと論じ、祠禄に就けて咎を思わせるよう請い、提挙洞霄宮とされた。直学士院の鄭湜が制詞を草し、そこに、先ごろ我が家が多難に遭い、碩輔の精忠に頼った、危うきを持し傾くを定め、社稷を安んじることを悦びとし、公に任じて節を竭くし、国家を利することでなさぬはなかった、といった語があり、貶する言葉がなかったとして湜も免官された。
  • 兵部侍郎の章頴が経筵に侍ったとき、帝は、諫官が趙汝愚を論じているが卿らはどう思うかと問うた。頴は、天地は変遷し人情は危ぶみ疑っている、加えて敵が侮り国勢はまだ安んじていない、軽々に大臣を退けるべきではない、詔を降して宣諭し、汝愚に去らせないようにされたいと奏した。
  • 国子祭酒の李祥は、去年、寿皇が崩じて両宮は隔てられ、中外は騒然とし、留正は宰相の職を棄てて去り、官僚は解散しかけ、君の喪に主がなく国命は髪一筋にかかっていた、汝愚は一族滅亡を畏れず策を決して陛下を立て、塵ひとつ揺らがずに天下は再び安んじた、社稷の臣である、どうしてその功を念わず礼遇と常典を忽せにして、精忠と直節を暗がりに鬱屈させ、後世に何を示すのかと述べた。
  • 知臨安府の徐誼はかねて汝愚に器量を認められ、政務があれば多く諮られ、誼は事に応じて助け、形跡を避けなかった。また汝愚に早く退くことと侂胄の姦に備えることを勧めていたので、侂胄はとりわけ怨んだ。ここに至って国子博士の楊簡とともに汝愚の留任を強く論じ、李沐が党と弾劾して、みな斥けられた。

慶元元年夏四月(1195年)

  • 丁巳、大府寺丞の呂祖倹が趙汝愚の忠を奏した。韓侂胄は怒って、呂寺丞が自分の事に口を出すのかと言った。祖倹はそこで封事を上げて述べた。陛下の初政は清明で忠良を登用された。ところがいくらもたたぬうちに、老儒の朱熹、旧学の彭亀年が論じ立てれば、たちまち退去を許された。李祥は老成篤実で偏りも党もなく、衆聴のともに信じるところなのに、今また斥け逐われた。臣は、これ以後、天下に言うべき事があっても互いに見合わせて戒めとし、口を閉じ舌を結ぶ風が一度できてしまえば容易に戻せないことを恐れる。これが国家の利であろうか。 今、物を言える士にとって難しいのは、君父に罪を得ることではなく権勢の意に忤ることにある。臣の知るかぎりで言えば、災異を論じるほど難しいことはないが、それを憚らず言えるのはその事が権勢にかかわらないからだ。御筆が降れば、廟堂はあえて重ねて違わず、台諫はあえて深く論じず、給事中・中書舎人はあえて固執しない。事が貴近にかかわり、隙に乗じて煽られて重い罪を得ることを深く恐れるからだ。だから人主に事を中から出すよう勧め導く者は、人主の声勢を借りてしだいに威権を窃もうとしているのだ。 近ごろ道で聞くところ、左右の側近が黜陟・廃置の際に関わり、聞こえてくるかぎりでは、その門に車馬が輻輳して市のようだという。権を恃み寵に頼り外庭を揺るがしている。臣は、事勢がしだいに広がり政が幸進の門に帰して公室になくなること、推薦されるのはみなその私する者、陥れられるのはみなその憎む者となることを恐れる。目を側めて憚り、あえて指して言えないだけでなく、阿り比び順い従って、内外表裏の患いが必ず現れる。臣が李祥の罪を得たことに因んでここまで及ぶのは、どうして激して自ら罪を招くためであろう。まことに士気が萎える中で、少しでも権臣に忤れば踵を返す間もなく去らされ、ひそかに憂えて考え過ぎ、陛下の勢いが孤立して、ともに宗社を維持する者がしだいに少なくなることを深く憂えるからだ、と。
  • 疏が上がると旨が下り、祖倹は朋比して上を欺いたとして韶州安置とされた。中書舎人の鄧馹が繳奏して祖倹を貶すべきでないと述べたが、旨が下って、祖倹の意は君を無みするもので罪は誅に当たる、流謫はすでに寛大な処置だとされた。折しも楼鑰が呂公著が元祐の初めに上った十事を進読し、そこで、公著のような社稷の臣は十世まで宥すべきです、祖倹はその孫です、今、嶺外へ流して万一そこで死ねば、陛下は諫臣を殺した名を負われます、臣はひそかに惜しみますと述べた。帝は祖倹が何を言ったのかと問い、人々はみな韶州への貶謫が上の意から出たものでないと知った。まもなく吉州に改められた。
  • 庚申、太学生の楊宏中・周端朝・張道・林仲麟・蒋傅・徐範の六人が闕下に伏して上書した。 古来、国家の禍乱の由来は一つではないが、小人が君子を中傷することの禍がとりわけ惨い。党錮は漢を敝れさせ、朋党は唐を乱した。おおむねこれによる。元祐以来、邪正が攻め合ってついに靖康の変を成した。臣子として言うに忍びず、陛下も聞くに忍びないところだ。近ごろ諫官の李沐が趙汝愚を罷めるよう論じ、中外は嘆き憤っているのに、李沈は父老が歓呼していると言う。天聴を蔽うことがここまでか。 陛下は去年の事を思い出されないのか。人情は驚き疑い、変は朝夕に迫っていた。あのとき汝愚が死力を出して大議を決しなければ、百人の李沐がいても済すすべを知らなかったろう。国家が多難のとき、汝愚は枢府の位にあって兵柄を握り、指揮も操縦も思いのままだった。どうしてそのときに利を図らず、上下が安んじた今になって異心を抱こうか。 章頴・李祥・楊簡が心から発して力めてその非を弁じると、たちまち斥け逐われた。六館の士は胸を打って憤っている。李沐は邪と正が両立しないことを自ら知り、正しい人をすべて覆して私を便にしようと思い、必ず朋党にかこつけて陛下の聴を欺くだろう。臣は、君子と小人の消長の機がここで分かれ、靖康の実証が今日に再び現れることを恐える。 陛下が汝愚の忠勤を念い、祥と簡が党でないことを察し、李沐の邪曲を照らし、沐を流して天下に謝し、祥と簡を還して士心を収められることを願う、と。
  • 疏が上がると詔して、宏中らは上書を騒がしくして国是を扇動したとして、みな五百里の外に編管した。中書舎人の鄧馹が繳奏して留めようとしたが聴かれなかった。この日、旨が下って李沐を右諫議大夫、劉德秀を右正言とし、知臨安府の銭象祖に諸生を捕らえて貶謫先へ押送させ、まもなく馹を知泉州として出した。当時、天下は宏中らを「六君子」と称した。

慶元元年秋七月(1195年)

  • 癸酉、韓侂胄に保寧節度使を加えた。

慶元元年十一月(1195年)

  • 丙午、故宰相の趙汝愚を永州に流した。もと韓侂胄は汝愚を忌み、どうしても死に至らしめて人の言を息めようとした。ここに至って何澹の疏を用いて汝愚の観文殿大学士と宮観の職を落とした。監察御史の胡紘はそこで、汝愚は偽学の徒を唱え導いて不軌を謀り、龍に乗り鼎を授かる夢を符瑞に仮託したと上言し、その十の不遜を条奏して徐誼にも及んだ。詔して汝愚を寧遠軍節度副使として永州に安置し、誼を恵州団練副使として南安軍に安置した。当時、汪義端が制を担当し、漢が劉屈氂を誅し唐が李林甫を戮した故事を用いて殺意を示した。趙師古もまた上書して汝愚を斬るよう請うたが、帝は従わなかった。

慶元二年春正月(1196年)

  • 壬午、趙汝愚が衡州で没した。もと汝愚は貶されたとき子らに、侂胄の意を見るにどうしても自分を殺す気だ、自分が死ねばお前たちは免れられようと語った。衡州まで来て病を発した。衡州の守の銭鍪は侂胄の意向を承けて窘め辱めること甚だしく、汝愚は急死した。天下は聞いてその冤を憐れんだ。訃報が届くと上は元の官に追復して帰葬を許したが、中書舎人の呉宗旦が復官の命を繳還した。
  • 汝愚はかつて孝宗から湯鼎を授かり、背に白龍を負って天に登る夢を見た。後に嘉王を輔けて素服で即位させた。その符合である。讒言する者はこれを罪とした。

慶元二年秋七月(1196年)

  • 流人を内郡へ移すことを量った。呂祖倹は高安に移され、まもなく没した。祖倹はかつて、世の変によって挫かれ平素の履みを失う者は言うに足りない、世の変によって意気を加える者もまた私心だと言った。

慶元四年五月(1198年)

  • 己亥、韓侂胄に少傅を加え玉帯を賜った。

慶元四年八月(1198年)

  • 丙子、謝深甫を知枢密院事、許及之を同知院事とした。及之は吏部尚書として韓侂胄に諂い事えて至らぬところがなかったが、二年たっても昇進しなかった。侂胄に会って涙を流し、知遇の恩と老い衰えた有様を述べ、思わず膝を屈した。侂胄は憐れみ、この任命となった。
  • 侂胄の生辰に朝臣がみな集まったとき、及之はたまたま遅れ、門番が門を閉ざして拒んだ。及之は大いに困ったが、たまたま潜り戸がまだ閉まっていなかったので、身をかがめて入った。当時、「潜り戸をくぐる尚書、膝を屈する執政」という言葉が伝わって笑い草となった。
  • この月、趙師𢍰を工部侍郎とした。師𢍰は韓侂胄に付いて知臨安府を得た。侂胄の誕生日に百官が争って珍品を献じたが、師𢍰は最後に来て小さな箱を出し、少しばかりの果物を酒の肴に献じたいと言った。開けてみると、粟金の葡萄の小さな棚に大粒の真珠が百余顆連なっていた。一同は恥じ入った。
  • 侂胄には愛妾の張・譚・王・陳の四人がおり、みな郡夫人に封じられ、その次に位名のある者が十人いた。ある者が北珠の冠四つを侂胄に献じ、侂胄は四夫人に与えた。十人もこれを欲しがったが応じるものがなかった。師𢍰はこれを聞き、急ぎ北珠を買って十の冠を作って献じ、十人は喜んで昇進を求めてやり、工部侍郎に拝された。
  • 侂胄がかつて多くの客と南園で飲み、山荘を通ったとき、竹の垣と草の家を見て、これぞ真の田舎の風情だ、ただ犬の吠え声と鶏の鳴き声が欠けていると言った。ほどなく茂みから犬の吠える声がした。見ると師𢍰だった。侂胄は大笑した。

慶元五年春正月(1199年)

  • 庚子、前の起居舎人の彭亀年らの官を奪った。もと趙汝愚が策を定めたとき、枢密院直省官の蔡璉が傍らで盗み聞き、それを漏らしたので、汝愚は流した。まもなく臨安へ逃げてきたのを韓侂胄が聞き、璉に、汝愚が策を定めたとき異謀があったと誣告させ、賓僚の言ったことを列挙して七十余紙にした。詔して大理に下して捕らえ取り調べ、彭亀年・曾三聘・沈有開・葉適・項安世らでその事を裏づけようとした。
  • 中書舎人の范仲藝が侂胄に、章惇と蔡確の権は盛んでなかったわけではないが、今なお清議に罪を得ているのは同文館の獄のせいだ、相公はなぜその轍を踏まれるのかと言った。侂胄は、自分に初めからその心はない、諸公に迫られてやむを得ないのだ、ただその人を問うなと答えた。そこで京鏜と劉德秀が実際にその議を主導したと知れた。侂胄は録黄を取って蔵し、事は沙汰やみとなった。張釜・劉三傑・張厳・程松らが論じてやまなかったが、詔してたびたび赦を経ているので免ずるとし、それでも亀年の三官を奪い、璉を進義副尉に抜擢した。

慶元六年秋七月(1200年)

  • 陳自強を簽書枢密院事とした。自強はかつて韓侂胄の子どもの頃の師だった。侂胄が国を執ると、自強は都に入って銓選を待ちながら会いたくとも伝手がなかった。間借りしていた家の主人が侂胄の家に出入りしていたので、そこから伝えてもらった。ある日、侂胄が自強を召した。着いてみると従官がみな集まっていた。侂胄は堂に褥を設けて自強を上座に招いて再拝し、次いで従官を召して同席させた。従官は畏まって誰も上座に着こうとしなかった。侂胄はおもむろに、陳先生は老儒で埋もれておられる、思えばお気の毒だと言った。翌日、みな章を重ねてその才を薦め、ただちに太学録に任じられた。一年もせず三度遷って秘書郎となり、館に入るとすぐ右正言に改められ、一か月余りで諫議大夫・御史中丞に拝され、十日で政を執った。

慶元六年九月(1200年)

  • 甲子、婺州の布衣の呂祖泰が上書して侂胄を誅すよう請うた。祖泰は祖倹の従弟で、性は開豁で気節を尚び、世事を論じて憚らなかった。それ以前、祖倹が言事で貶されたとき、祖泰は友に、兄が貶されてから人々は口をつぐんだ、自分は位にないが義として必ず言をもって国に報いる、しばらく待つ、今は兄に累を及ぼしたくないと語っていた。ここに至って祖倹が没したので、祖泰は登聞鼓を撃って上書し、韓侂胄に君を無みする心があると論じ、誅して禍乱を防ぐよう請うた。 その要旨は――道学は古来、国を支えてきたものである。丞相の趙汝愚は今の勲労ある者である。偽学の禁を立て汝愚の党を逐うのは、陛下の国を空にするものなのに、陛下は悟られないのか。陳自強は何者か。ただ韓侂胄の幼時の師というだけで宰輔に飛び越えた。陛下の旧学の臣、彭亀年らは今どこにいるのか。蘇師旦は平江の吏胥、周筠は韓氏の下働きで、誰もが知っている。今、師旦は潜邸随龍の功、筠は皇后の親族として、ともに大官を得た。陛下が潜邸におられたとき、本当に蘇師旦という者をご存じだったのか。椒房の親戚に本当に下働きの周筠なる者がいたのか。侂胄はいたずらに自ら尊大に構えて朝廷を蔑ろにすることここに至った。速やかに侂胄・師旦・筠を誅し、自強の徒を逐い罷めていただきたい。もとの大臣で在る者は周必大だけが用いるに足りるので、これに代えられたい。そうでなければ事は測りがたい――というものだった。
  • 書が三省に下ると朝議は入り乱れた。御史の施康年は必大が実際にそうさせたと見て、そのまま章を露にして弾劾し、あわせて、淳熙の末、王淮が首相だったころ、必大はこれを押しのけてその位を奪い、偽学の徒を唱えて党与を植えた、今は田野に退居しながら自ら省みず、狂生を誘って闕を叩かせ自らを推薦させ、召し用いられることを狙っていると述べた。林采も、偽学の成立は周必大に端を発すると述べて貶削を請い、必大は一官貶されて少保となった。
  • 詔を降して、呂祖泰は私意を挟んで上書し言葉が狂妄だとして連州に拘管した。右諫議大夫の程松は祖泰と親しく交わっており、恐れて、人は自分が平素あれと交際していたと知っている、加担していたと言われるのではと考え、ひとり奏して、祖泰には誅すべき罪がある、しかもその上書には必ず教えた者がいる、今は殺さないとしても、なお背を杖打ち顔に入れ墨して遠方に流すべきだと述べた。殿中侍御史の陳讜もそう述べ、そこで祖泰を杖百に処し欽州の牢城に配流して収管した。

慶元六年冬十月(1200年)

  • 韓侂胄に太傅を加えた。

慶元六年十一月(1200年)

  • 己未、皇后の韓氏が崩じた。

嘉泰元年八月(1201年)

  • 張巌を参知政事、程松を同知枢密院事とした。巌も松もみな韓侂胄に付いた者だが、松の諂いはとりわけ甚だしかった。知銭塘県から二年たたずに諫議大夫となり、任期が満ちても昇進しないので大いに不満で、そこで妾を一人買って献じ、名を「松寿」といった。侂胄が、なぜ大諫と同じ名なのかと言うと、卑しい名が常にお耳に届くようにと思いましてと答えた。侂胄は憐れみ、そこで同知枢密院を得た。

嘉泰二年春正月(1202年)

  • 蘇師旦に枢密都承旨を兼ねさせた。もと韓侂胄が平江府兵馬鈐轄だったころ、師旦は筆吏として仕えた。侂胄はその弁と才知を愛し、帝が即位すると藩邸の吏士の中に姓名を紛れ込ませ、随龍の恩で官を得た。ここに至って権勢は日々盛んになった。

嘉泰二年十二月(1202年)

  • 甲申、貴妃の楊氏を皇后に立てた。韓后が崩じてから中宮は定まっていなかった。后は貴妃として曹美人とともに寵を受けていた。韓侂胄は、后が書史にかなり通じて古今を知り、性が鋭敏で権謀を用いるのに対し、曹美人は柔順なので、帝に曹氏を立てるよう勧めたが、帝は従わず、ついに后を立てた。これによって后と侂胄の間には怨みが生じた。
  • 韓侂胄に太師を加え平原郡王に封じた。それ以前、監恵民局の夏允中が上書して文彦博の故事により侂胄を平章軍国重事とするよう請うた。侂胄は偽って辞退し、詔して許さず允中を罷めた。ここに至って太師に進んだ。
  • 侂胄は勢いと利で士大夫の心を蠱惑しようとし、薛叔似・辛棄疾・陳謙らをみな廃されていたところから起用して顕職に用いた。当時、長く斥けられて困窮していた者はしばしば晩節を損なって栄達を図った。政府・枢密・台諫・侍従はみな侂胄の門から出、蘇師旦と周筠という侂胄の下働きまで国政に与った。多くの小人が朝に満ち、勢威は燃え盛った。

嘉泰三年五月(1203年)

  • 陳自強を右丞相とした。当時、韓侂胄は権を専らにし、そのしたいことに宰執は息を潜めてあえて異を唱えなかった。自強に至っては空名の勅劄に印を捺して渡し、思いのままにさせ、宰執は関知しなかった。
  • 言路は塞がれ、毎月、小吏一、二人を弾劾するのを「月課」と称し、また君德や時事について広く論じるにも、みな陳腐で緩やかで少しも触るところのないものを選んで言った。ある人が問うと、恥じて謝し、責めを塞ぐだけですと答えた。
  • 加えて贈答が盛んに行われ、自強はとりわけ貪欲で卑しかった。四方から書と贈り物を届けるときは必ず封に「某物いくら、あわせて献ず」と記した。書の表書きに「併」の字がなければ開かなかった。子弟や親戚に賄賂を取り次がせ、仕官や陳情には必ず値を決めてから応じた。かつて人に、自強はただ死をもって師王に報いるだけだと語った。侂胄を「恩主」「恩父」と称し、蘇師旦を「叔堂」、吏の史達祖を「兄」と呼んだ。侂胄が姦悪で国を専らにしたのは、自強が表裏をなした功が多い。

開禧元年秋七月(1205年)

  • 庚申、詔して侂胄を平章軍国事とし、班を丞相の上に立たせ、三日に一度朝して都堂に赴いて事を執らせた。論者は、侂胄の肩書きは呂夷簡に比べれば「同」の字を省いているのでその体はいっそう尊く、文彦博に比べれば「重」の字を省いているので与るところが広いと言った。そこで三省の印はすべてその邸に納められた。
  • 侂胄は私邸に機速房を置き、はなはだしくは御筆を偽作して将帥を昇降させ、機要にかかわる事も奏禀せず、誰もあえて言わなかった。
  • 当時、侂胄は政を専らにして久しく、党与は内外に遍く、天子は上で孤立し、威は宮省に行われ権は宇内を震わせた。かつて山を鑿って池とし、太廟を見下ろし、宮闈の出入りに節度がなかった。孝宗がかつて政を思われた場所に平然と居り、老いた宮人はこれを見てしばしば涙を流した。顔棫は制を草して「聖の清を得たり」と言い、易祓は答詔を撰して「元聖」と褒めた。四方から投じ献ずる者は、伊尹・霍光・周公旦・召公奭でもその勲になぞらえるに足りないと言った。余嚞は九錫を加えるよう請い、趙師𢍰は平原府に官属を置くよう請い、侂胄はいずれも当然のこととして辞退しなかった。その愛妾はみな郡国夫人に封じられ、内宴のたびに妃嬪と交じって坐り、勢いを恃んで驕り、後宮はみな憎んだ。後に誅されて家を没収したとき、乗輿や御服の飾りが多くあった。その僭越と紊乱は極まっていた。