宋史紀事本末両朝の内禅(孝宗・光宗・寧宗/廟議・陵議を付す)(兩朝内禪(孝宗光宗寧宗/廟議陵議附))

淳熙十四年(1187)の高宗崩御から慶元六年(1200)の光宗崩御まで、孝宗・光宗の二代にわたる内禅と、それにともなう廟号・喪制・山陵の議論を追う。孝宗は三年の喪を行って光宗に譲位したが、光宗は李后と宦官の離間により重華宮への朝謁を欠き、群臣の諫言も容れずに孝宗の臨終に会えなかった。孝宗の崩御後、趙汝愚が韓侂胄・関礼を介して太皇太后の命を得、嘉王擴(寧宗)を立てた。

年表(30件)

孝宗淳熙十四年九月(1187年)

  • 癸卯、太上皇(高宗)が病んだ。

淳熙十四年冬十月(1187年)

  • 辛未、帝は朝を罷めて看病に侍り、赦を行った。
  • 乙亥、太上皇が德寿殿で崩じ、太上皇后を皇太后と改称するよう遺詔した。帝は号泣して身を打ち、宰臣の王淮らに、晋の孝武帝と魏の孝文帝は実際に三年の喪服を行った、それで政を聴くのに何の差し支えがあろう、司馬光の通鑑に詳しく載っていると語った。淮は、晋の武帝にはその意があったが、後に宮中では深衣と練冠を用いただけだと答えた。帝は、当時の群臣がその美挙を助けられなかったから光が論じたのだ、自ら古を作って何の害があろうと言った。
  • 辛巳、詔して、太上皇帝が至養の場を捨てられた、朕は三年の衰服を着ける、群臣は日をもって月に代える令に従え、有司に儀制を検討して報告させよとした。
  • 尤袤が礼を掌り、大行皇帝の廟号を高宗と定めた。翰林学士の洪邁だけが世祖と号することを請うた。袤は礼官の顔師魯らを率いて奏した。宗廟の制は、功ある者を祖とし德ある者を宗とする。太祖は大業を規創して宋の太祖となり、太宗は華夏を統一して宋の太宗となった。真宗から欽宗まで聖々相伝えて廟制は一たび定まり万世変わらない。礼において子は父に屈するのは尊びを示すためだ。太上は親しく徽宗の子である。子が祖となり父が宗となるのは昭穆の序を失う。論者は漢の光武を比するにすぎないが、光武は長沙王の後裔で布衣から起こり哀帝・平帝を継いだのではないから、その称に嫌いがない。太上の中興は光武と同じでも、実は徽宗の正統を継ぎ子が父を継いだので、光武の比ではない。将来、廟に祔るとき徽宗の下にいながら祖と称するのは、天にある霊が安んじないことを恐れる、と。
  • 詔して群臣に合議させたが、袤は初めどおりの議を上げ、邁の論はついに屈した。詔して礼官の議に従わせたが、衆論は紛々とした。折しも礼部と太常寺も同じく高宗を主張し、本朝の創業も中興もともに商丘にあったのだから、商の高宗に取るのはまことに証があると述べ、初めの議に従った。
  • 乙酉、百官が五度も表を上げて帝に内に還るよう請うたが許されなかった。戊子、帝は喪服のまま素輦に乗って内に還った。

淳熙十四年十一月(1187年)

  • 己亥、帝は初めて白布の巾と袍で延和殿で事を執った。朔望に德寿宮へ詣でるときは、元どおり喪服を着け杖をついた。あわせて詔して太子に議事堂で庶務を参決させた。
  • 左諭德の尤袤が太子に言った。大権の在るところは天下が争って趨るところで、きわめて恐るべきだ。殿下は事の大小を問わずすべて上の旨を仰いでから行い、情の厚薄を問わずすべて衆議に付してから定められたい、と。また、儲君の位は膳に侍り安否を問うにとどまり外事に与らない、撫軍・監国は漢から今まで多くは権宜から出たもので、事権が一つでなく動けば触れ合いが生じる、廟に祔ってから懇切に辞退して殿下の令德を明らかにされたいと述べた。
  • 庚子、皇太子が三度、参決を辞したが許されなかった。辛丑、帝が德寿宮に詣でて禫祭を行い、百官は喪服を脱いだ。甲辰、群臣が三度、表を上げて殿に出て政を聴くよう請うたが、廟に祔ってからにせよと詔した。

淳熙十五年春正月(1188年)

  • 丁酉朔、德寿宮の几筵に詣でて礼を行った。

淳熙十五年三月(1188年)

  • 庚子、大行太上皇に諡して聖神武文憲孝皇帝とし、廟号を高宗とした。翰林学士の洪邁の議を用い、呂頤浩・趙鼎・韓世忠・張俊を高宗の廟庭に配享した。秘書少監の楊万里は張浚に社稷の功があるとして配享を請うたが、聴かれなかった。
  • 丙寅、高宗を永思陵に仮に葬った。

淳熙十五年夏四月(1188年)

  • 壬申、帝が自ら虞主を迎え奉る礼を行った。以後、七虞・八虞・九虞・卒哭・奉辞もみな同様にした。
  • 丙戌、高宗の神主を太廟に祔した。詔して、朕は先に令を下して三年の喪服を着けようとしたが、群臣がたびたび殿に出て服を替えるよう請うたので、布素で内殿の事を執ってきた、廟に祔ってからという詔で勧めに従いはしたものの、典礼に稽えれば心は実は安んじない、制を終えるまで行ってこそ古に近い、この意を体して重ねて請うなと述べた。

淳熙十六年春正月(1189年)

  • 丙申、周必大と留正を左右の丞相とした。帝は高宗が崩じてすぐ太子に位を伝えようとし、かつて必大に、礼は宗廟の祀りより重いものはないのに、孟享はしばしば病で代参させている、孝は喪を執ることより大きいものはないのに、毎日、德寿宮に行けない、朕は退休しようと思うと語り、密かに紹興の伝位の親筆を必大に賜り、あらかじめ詔を草させて、もっぱら几筵に奉じて高宗の三年の制を全うすることとし、必大を首相に進めた。
  • 乙巳、皇太后が慈福宮に移り、德寿宮を重華宮と改めた。

淳熙十六年二月(1189年)

  • 壬戌、詔を下して皇太子に位を伝え、太子が即位した。帝は素服で重華宮に退居した。辛未、帝を尊んで寿皇聖帝、皇后を寿成皇后、皇太后を寿聖皇太后とし、大赦した。
  • 皇后に李氏を立てた。后は安陽の人で、慶遠節度使の李道の娘である。道が湖北の帥だったころ、道士の皇甫坦が人相を善くすると聞いて娘たちを出して拝ませた。坦は后を見て驚き、あえて拝を受けず、この娘は天下の母となると言った。坦は高宗に告げ、そこで恭王の妃に迎えられた。性は激しく妬み深く、かつて帝の側近を高宗と寿皇に訴えた。高宗は不快で、呉后に、この嫁は将種だ、自分は皇甫坦に誤られたと語った。寿皇もたびたび訓戒し、皇太后を手本とせよ、そうでなければお前を廃すると言った。后はその説が太后から出たものと疑って恨んだ。ここに至って后に立てられた。

淳熙十六年三月(1189年)

  • 己亥、子の趙擴を嘉王に進封した。李后の生んだ子である。

光宗紹熙元年春正月(1190年)

  • 丙辰、帝が重華宮に寿皇を朝した。

紹熙二年十一月(1191年)

  • 辛未、帝が太廟で祭事を行った。后が貴妃の黄氏を殺した。
  • もと帝は宦官と側近を誅そうとした。彼らは恐れて三宮を離間する謀を立て、帝は疑って自ら解けなくなった。折しも帝は心の病を得た。寿皇が良薬を手に入れ、帝が宮に来た折に授けようとした。宦官はそこで皇后に、太上が丸薬を一つ調合し、宮車が通るのを待って投じようとしている、万一のことがあれば宗社はどうなるのかと訴えた。李后は薬が実際にあるのを覗き見て恨んだ。
  • しばらくして内宴のとき、后は嘉王擴を太子に立てるよう請うた。寿皇が許さないと、后は、妾は六礼で聘られた身で嘉王は妾が自ら生んだ子だ、なぜいけないのかと言った。寿皇は大いに怒った。后は退いて嘉王を連れて泣きながら帝に訴え、寿皇に廃立の意があると言った。帝は惑わされ、そのまま寿皇に朝さなくなった。
  • ある日、帝が宮中で手を洗い、宮人の手の白いのを見て気に入った。後日、后が食物の箱を帝に送り、開けるとその宮人の両手だった。
  • ここに至って黄貴妃が寵を受けていたので、帝が太廟を祭って斎宮に宿ったとき、后は貴妃を殺し、急死したと報告した。
  • 壬申の冬至、郊で天地を合祭したが、暴風雨となり、黄壇の燭はすべて消えて礼を成せずに終わった。帝は貴妃の死を聞いたうえこの変事に遭い、震え恐れて病が重くなった。朝に出なくなり、政事の多くは后が決した。后はいっそう驕り恣になった。寿皇は帝の病が篤いと聞いて南内へ見舞いに行き、あわせて后を責めた。后の怨みはいっそう深まった。

紹熙三年春正月(1192年)

  • 乙巳朔、帝が病んで朝に出なかった。

紹熙三年三月(1192年)

  • 辛巳、帝の病がやや癒えて初めて延和殿で政を聴き、子の趙濤を安定郡王とした。
  • 帝は病を得てから、重華宮への朝夕の礼、誕辰や節序の参賀も、たびたび寿皇の伝旨で免ぜられていた。ここに至って宰輔・百官から布衣の士に至るまで、宮に参るよう請う者がきわめて多く、頭を打ちつけ裾を引いて号泣して諫める者さえあった。帝は悟って翻然と朝早く出発する意を示したが、結局は行かなかった。都の人はここから憂え始めた。

紹熙三年夏四月(1192年)

  • 戊午、帝が初めて重華宮に朝した。

紹熙三年五月(1192年)

  • 帝が病んで朝に出なかった。

紹熙三年十一月(1192年)

  • 丙戌の冬至、丞相の留正が百官を率いて重華宮に詣でて賀した。兵部尚書の羅点、給事中の尤袤、中書舎人の黄裳、御史の黄度、郎官の葉適らが上疏して帝に重華宮へ朝すよう請うたが従われなかった。
  • 秘書郎の彭亀年がさらに上言した。寿皇が高宗に事えて子の道を極め尽くされたのは、陛下が親しくご覧になったところだ。まして寿皇には今、陛下おひとりしかおられない。その拳々たる聖心は言わずとも分かる。宮に参る日に陛下が行くのを遅らせれば、寿皇はやむなく参内を免ずる旨を降さざるを得ない。これは陛下のために責めを人に代わって受け、人が陛下をひそかに議さないようにするためで、その心は陛下の来られるのを願わないのではない。 古来、人君が骨肉の間を処するに、多くは外臣と謀らず小人と謀る。だから互いの角逐は日々深く、疑いと隙は日々大きくなる。今日の両宮に万々そうしたことはないが、臣が憂えるのは、外に韓琦・富弼・呂誨・司馬光のような臣がなく、小人のなかにはすでに任守忠のような者がいることだ。陛下のご賢察を、と。
  • また述べた。陛下に宮に参って安否を伺う礼を欠かせているのは、みな側近の小人が離間する罪である。宰執と侍従はただ父子の愛を推して重華との調停ができるだけ、台諫はただ父子の義に仗って人主に責め望めるだけで、疑いと離間の根が固く抜けないことについては一言も及ばない。今、両宮を離間する内侍は一人ではないが、とりわけ陳源は寿皇の朝で重い罪を得ながら、近ごろまた登用された。外の人はみな離間の機は必ず源から始まると言う。速やかに威断を発してまず陳源を逐い、そのうえで鑾輿を進め、罪を負い過ちを引いて寿皇に謝し、父子を歓ばせられれば、宗社は永く保たれる。幸いではないか、と。
  • 亀年はまた書で趙汝愚を責めた。汝愚は入対して繰り返し諫め、帝の意はようやく悟った。汝愚はさらに嗣秀王の趙伯圭に調停と保護を託し、こうして両宮の情は通じ始めた。辛卯、帝は重華宮に朝し、皇后も続いて至り、くつろいで一日を過ごして帰った。都の人は大いに喜んだ。
  • この月、皇后が家廟に参拝して帰り、使臣の鄧従訓ら百八十人に恩を推した。

紹熙四年春正月(1193年)

  • 己巳朔、帝が重華宮に朝した。

紹熙四年三月(1193年)

  • 辛巳、趙汝愚を同知枢密院事とした。御史の汪義端は汝愚と隙があり、高宗の聖訓に宗室を宰執にしないとある、汝愚は楚王元佐の七世の孫だから用いるべきでないと上言した。汝愚も強く辞したが許されず、制を担当する学士に上意を諭させ、義端を黜けた。汝愚はそこで命を受けた。

紹熙四年五月(1193年)

  • 己巳、自ら礼部の進士に策問して礼楽刑政の要を問うた。陳亮は君の道と師の道で答え、あわせて述べた。臣はひそかに嘆じる。陛下は寿皇が政に臨まれた二十八年の間、一政一事として聖懐にないものがあったろうか。安否を伺い寝所を視る合間に、言葉を察し顔色を観てこちらからあちらを得た端緒はきわめて多く、その機要を得て施行に現されたはずだ。どうして月に四度の朝が都邑の美観であるだけであろうか、と。上はこれを得て大いに喜び、人の父子の間を善く処するものとして第一に抜擢した。

紹熙四年秋七月(1193年)

  • 壬午、趙汝愚を知枢密院事とした。

紹熙四年九月(1193年)

  • 庚午の重陽節、百官が寿を上って帝に重華宮へ朝すよう請うたが聴かれず、内侍の陳源を押班に召した。中書舎人の陳傅良は詞を草さず、しかも上疏して、陛下が重華宮に参られないのは、ただ誤って疑うところがあり、憂いを積んで病となったからにほかならない、臣はかつて陛下のお心に即して繰り返し論じ、ひそかに深く切実だと思い、陛下もお許しになった、それが途中で変じ、誤りを実とし端緒のない釁を開き、疑いを真として治らぬ病を成された。これは陛下が自ら禍を招かれるものだと述べた。
  • 給事中の謝深甫は、父子の至親は天理として明らかだ、太上が陛下を愛されるのは陛下が嘉王を愛されるのと同じだ、太上は高齢である、千秋万歳の後、陛下は何をもって天下に見えられるのかと述べた。帝は感じ悟り、急ぎ駕を命じて朝しに行こうとした。百官が列を作って待ち、帝が御屏まで出たところで、后が引き留めて中へ入れ、寒いから官家はまず酒を召せと言った。百僚と侍衛は顔を見合わせて何も言えなかった。傅良が進み出て帝の裾を引いて入られるなと請い、屏の後ろまで至った。后は叱って、ここをどこと心得る、秀才は首を斬られたいのかと言った。傅良は庭で痛哭した。后が人を遣って、これはどういう道理かと問わせると、傅良は、子が父を諫めて聴かれなければ号泣して従うのですと答えた。后はいっそう怒り、そのまま旨を伝えて帝を内に戻した。傅良は殿を下りてまっすぐ去った。詔して秘閣修撰に改められたが受けなかった。
  • そこで著作郎の沈有開、秘書郎の彭亀年、礼部侍郎の倪思、国子録の王介らがみな上疏して朝すよう請うたが従われなかった。折しも上が嘉王を召したとき、倪思は、寿皇が陛下に会いたいと思われるのは、陛下が嘉王に対されるのと同じですと述べ、上は顔色を動かした。
  • 当時、李后がしだいに政に与っていた。思は「姜氏、斉侯と濼に会う」の条を進講し、そこで奏して、人主が国を治めるには必ず家を斉えることから始まる、家を斉えられないのはその漸を防げないからだ、狎れなれしさに始まり恣な振る舞いに終わり、陰陽が位を易え内外の別がなくなり、はなはだしくは父子を離間するに至る、漢の呂氏、唐の武后・韋后は乱亡に至りかけた、魯の荘公だけのことではありませんと述べた。帝は粛然とした。趙汝愚は同席して経筵に侍り、退いて人に、これほど剛直だ、我が輩は及ばぬと語った。上は怒って思を知紹興府として出した。

紹熙四年冬十月(1193年)

  • 工部尚書の趙彦逾らが重華宮に上書し、会慶節には寿皇への朝を免ずる旨を降されないよう請うた。寿皇は、朕は秋の涼しくなって以来、皇帝に会いたいと思っている、卿らの奏疏はもう御前に進めさせたと言った。会慶節になっても帝はまた病と称して朝さず、丞相以下はみな上疏して自ら弾劾し、罷免を請うた。
  • 嘉王府翊善の黄裳は内侍の楊舜卿を誅すことを請うた。彭亀年は奏して、臣の官は人君の言動を記すのを職とするが、車駕が宮に参られず安否を伺われないことをこう書いたのがもう数十回になる、後世に示すべきものではないと述べ、また、陛下は誤って臣を嘉王府の講読官に充てられたが、それはまさに臣らに君臣父子の道を教えさせるためだ、臣は身をもって教えるものと言葉で教えるものがあると聞く、陛下は身で教えられ、臣は言葉で教える者だ、言葉が身ほど切実であろうかと述べた。
  • このとき太学生の汪安仁ら二百十八人も上書して重華宮に朝すよう請うたが、いずれも返答はなかった。

紹熙四年十一月(1193年)

  • 趙彦逾がまた力めて帝に重華宮へ朝すよう請い、帝は初めて朝しに行った。尚書左選郎官の葉適は、今後は宮に参る日に宰執と侍従にまず伺候させるべきだ、いずれ両宮の聖意に言いにくいことがあってもこれを通じて伝えられ、責任の所在も定まり、側近の小人が言葉を増減して疑惑を生じさせることもなくなると奏したが、聴かれなかった。

紹熙五年春正月(1194年)

  • 癸酉、寿皇が病んだ。

紹熙五年夏四月(1194年)

  • 寿皇の病がしだいに重くなり、群臣がたびたび帝に重華宮へ見舞うよう請うたが、いずれも返答はなかった。帝は皇后と玉津園に行幸した。兵部尚書の羅点が、まず重華宮に参られたいと請い、あわせて述べた。陛下は寿皇の子として四十余年、一言の隔てもなかった。ただ最初の郊祀のときのご不例で、寿皇が南内に来られて側近を責められたことから、以後、讒言と離間が生じ、憂いと疑いが起こった。臣が見るに、寿皇と天下とは互いに忘れて久しい。今、大臣は心を合わせて政を輔け、百官は法を奉じ理に循い、宗室・外戚・三軍・百姓はみな二心がない。離間する者があれば誅すのに躊躇は要らない。しかし深く籠って出られず、久しく子の道を欠かれれば、衆口が謗り、禍患が起ころうとする。慮らないわけにいかない、と。帝は、卿らが朕のために調停し保護してくれと言った。侍講の黄裳は、父子の親にどうして調停が要りましょうかと答え、点は、陛下がひとたび出られればすぐ晴れますと言った。帝がなお許さないので、点は講官を率いて重ねて述べた。帝は、朕の心も寿皇を思わないことはないと言った。点は、陛下が長く安否を伺うことを欠かれては、そのお心があってもどう明らかにできましょうと言った。
  • 起居舎人の彭亀年は続けて上疏して対を請うたが返答がなかった。帝が朝に臨むとき、亀年は列を離れず地に伏して額を打ちつけ、血が敷石を染めた。帝は、かねて卿の忠直は知っている、何を言いたいのかと言った。亀年は、今日の事で宮に参られること以上に大きなことがありましょうかと奏した。余端礼も、龍墀で額を打ちつけて忠誠を尽くす、臣子がここまでするのはやむを得ないからですと述べた。帝は、それは分かっていると言いながら、なお行かなかった。群臣の上疏が相次いだ。
  • 帝は癸丑の日に朝すことにした。期日になって丞相以下が宮門に入って待ったが、日が傾いても帝はまた病と称した。そこで群臣で斥け罷めることを請う者は百余人に上ったが、詔して許されなかった。秘書少監の孫逢吉らが重ねて上疏して請い、陳傅良は親王と執政一人を重華宮使に充てることを請うた。台諫は章を重ねて内侍の陳源・楊舜卿・林億年の離間の罪を弾劾し、追放を請うたが返答はなかった。

紹熙五年五月(1194年)

  • 寿皇の病が重くなり、ひと目、帝に会いたがってしきりに左右を見回した。陳傅良は帝が重華宮に参らないことから、辞令書を返上して城を出て罪を待った。丞相の留正らが宰執を率いて諫めると、帝は袖を払って立った。正が帝の裾を引いて諫め、羅点が進んで、寿皇の病勢はすでに危うい、今お会いにならなければ後悔しても及びませんと述べた。群臣は帝に従って福寧殿まで入ったが、内侍が門を閉じ、一同は痛哭して出た。
  • 二日後、正らがまた入対を請うと、帝は知閤門事の韓侂胄に旨を伝えさせ、宰執はみな出よと言った。正らはそろって出て浙江亭で罪を待った。寿皇はこれを聞いて深く憂えた。侂胄が、先の旨は宰執に殿門を出よというものだったのに、今は都門を出てしまった、自ら行って城に呼び戻したいと奏し、そこで正と趙汝愚らは邸に戻った。
  • 翌日、帝は羅点を召して入対させた。点は、先日は切迫して忠を尽くそうとして挙措が礼を失した、陛下は赦して誅されなかった、しかし裾を引くのは故事でもありますと述べた。帝は、裾を引くのはよい、だがどうして宮禁まで入ってきたのかと言った。点は辛毘の故事を引いて謝し、あわせて、寿皇にはただ一人の子しかおられない、すでに神器を託された以上、お会いになるのが遅いことだけを恐れておられますと述べた。従官および彭亀年・黄裳・沈有開が、嘉王を重華宮へ遣って見舞わせることを奏請し、許された。王が宮に至ると寿皇は感動した。

紹熙五年六月(1194年)

  • 戊戌の夜、寿皇が崩じた。享年六十八。その夕、重華宮の内侍が宰執の私邸に訃を告げた。趙汝愚は帝が疑って朝に出ないことを恐れ、その劄子を持ったまま上げなかった。翌日、帝が朝に出ると、汝愚は上申し、重華宮に詣でて礼を成すことを請い、帝は許した。ところが日が傾いても出て来なかった。
  • 大宗正丞の李大性が上疏して述べた。今日の事は顛倒し道理に背いている。まして金の使者の祭奠は北宮の素帷で引見すべきだ。そのときも出られずに済むのか。檀弓に、成の人に兄が死んでも喪服を着けない者があり、子皋が成の宰になると聞いてそこで喪服を着けたとある。成の人は、兄が死んだのに子皋のために喪服を着ける、と言った。成の人が子皋の来るのを畏れて初めて服を作ったのだから、子皋のためであって兄のためではないというのだ。陛下が使者の到来を待って喪を執られるなら、中外に譏りを残すことを恐れる。成の人どころではない、と。
  • そこで宰相が百官を率いて重華宮に詣でて発喪した。喪服を着けるにあたり、留正は汝愚と議して少傅の呉琚を介して寿聖太后に垂簾して暫く喪事を主宰されるよう請うたが、太后は許さなかった。正らは添えて奏し、臣らは連日、南内に赴いて対を請うても得られず、たびたび上疏しても返答がない、今、百官を率いて恭しく請おうとしているが、皇帝が出られなければ百官はともに宮門で慟哭し、人情が騒ぎ社稷の憂いとなることを恐れる、太后の旨を降して、皇帝は病があるので暫く宮中で喪服を着けることとされたい、ただ喪に主がないわけにいかず、祝文には孝子嗣皇帝と称するので宰臣が代行するわけにいかない、太后は寿皇の母であられるから祭礼を摂行されたいと請うた。太后は許した。

史論(史臣曰)

  • 高宗は天下を公とする心で太祖の後裔を択んで立て、孝宗という賢君を得た。聡明英毅で卓然として南渡の諸帝の第一と称される。即位の初め、恢復に意を鋭くしたが、高宗の命に背きがたく軽々に出師せず、しかも金国は平穏に治まって乗ずべき隙がなかった。それでも表を書に改めて敵国の礼を正し、歳幣を減らして隣好を定めた。金が宋を侮る心も、ここに至って以前とは違ってきた。だから世宗はいつも群臣に、銭穀を蓄え辺備を謹めと戒めた。帝が事をなそうとしていることを忌んだのである。惜しむらくは帝の用兵の志が遂げられずに終わったことだ。
  • 古来、人君が外の藩から入って大統を継ぎながら、宮廷の孝を尽くしえた者は帝のような例がない。喪を三年で終え、しかも群臣の請いを退けて力行された。廟号を孝宗とするのは、まことに恥じるところがない。

  • 乙巳、寿聖皇太后を太皇太后、寿成皇后を皇太后と尊んだ。

  • 丁未、葉適が留正に、帝が病んで喪を執られなければ、何と言って天下に謝するのか、今、嘉王は成長しておられる、あらかじめ立てて参決させれば疑いと謗りは解けると言った。正は従い、宰執を率いて奏し、皇子の嘉王は仁孝で早く成られた、早く儲位を正して人心を安んじられたいと述べたが、返答はなかった。六日を経てまた請うと、帝は「甚だ好し」と批した。翌日、宰執がともに旨を擬して進め、帝が自ら批して学士院に付し詔を降すよう請うた。その夕、御札が丞相に下って、事に当たること歳久しく、退いて閑にありたいと思うとあった。正はこれを得て大いに恐れた。

紹熙五年秋七月(1194年)

  • 辛酉、留正は朝の折に庭で倒れたふりをし、そのまま都門を出て表を上げて隠退を請い、あわせて、陛下は速やかに深いご明察に立ち返り、先の非を悟り、しだいに人心を収めて国祚を保たれたいと述べた。
  • もと正は初め、帝が病で喪を主宰できない以上、皇太子を立てて監国させ、政務に倦まれないうちにまた正統に戻すべきだと議していた。内禅を議するなら太子はただちに即位できる。ところが趙汝愚は太皇太后の旨で嘉王に位を譲らせることを請うた。正は、立儲の詔がまだ下っていないのに急にこれに及べば後日、必ず処しがたいと言い、汝愚と異にし、そこで五更に輿で逃げ去った。
  • 甲子、太皇太后が詔して嘉王擴に喪服を着けて即位させ、帝を太上皇帝、皇后を太上皇后と尊んだ。
  • 当時、留正が去って人心はいよいよ揺れた。折しも帝が朝に臨んで突然、地に倒れた。趙汝愚は憂え危ぶんで打つ手が分からなかった。徐誼が書で汝愚を責めて、古来、人臣は忠をなせば忠、姦をなせば姦であって、忠と姦が混じって済せたためしはない、公は内心では戦きながら外では座して観ようとしておられる、これが混じるということではないか、国家の安危はこの一挙にあると述べた。汝愚が策はどこから出るかと問うと、誼は、これは大事で憲聖太后の命によらねばならない、知閤門事の韓侂胄は韓琦の五世の孫で憲聖の妹の子だ、同郷の蔡必勝が侂胄と同じく閤門にいるから、必勝を通じて招けると答えた。
  • 侂胄が来ると、汝愚は内禅の議を伝えて侂胄を太后のもとへ請いに遣った。侂胄は親しい内侍の張宗尹を通じて奏したが、太后の許しは得られなかった。翌日また行ったがまた得られず、ためらって退こうとした。内侍の関礼が見かけて問い、侂胄は汝愚の意を詳しく述べた。礼は少し待つよう言い、入って太后に見えて泣いた。太后が理由を問うと、礼は、聖人(太后)は万巻の書をお読みですが、こんな時勢で乱が起こらずに済んだ例がありましょうかと答えた。太后が、それはお前の知るところではないと言うと、礼は、この事は誰もが知っております、今、丞相はすでに去り、頼みとするのは趙知院だけですが、その方も遠からず去るでしょうと言い、言葉と涙がともに落ちた。太后は驚いて、知院は同姓で他人とは事情が違う、それも去るのかと言った。礼は、知院がまだ去らないのは同姓のためだけでなく、太皇太后を恃みにできると思えばこそです、今、大計を定めようとして命を得られなければ、勢いとして去らざるを得ない、去ってしまえば天下をどうするのですと答えた。太后はそこで侂胄はどこかと問い、礼は、臣が留めて命を待たせておりますと答えた。太后は、事が順であればよい、よくやるよう伝えよと言った。礼は侂胄に報せ、あわせて、明朝、太后が寿皇の梓宮の前で垂簾して執政を引見されると伝えた。
  • 侂胄が復命したときはもう日暮れだった。汝愚は初めてその事を陳騤と余端礼に語り、急ぎ殿帥の郭杲らに命じて夜のうちに兵を分けて南北の内を守らせ、関礼には傅昌朝に密かに黄袍を作らせた。この日、嘉王は喪に加わらず、まもなく禫祭を行うことになっていた。汝愚は、禫祭は重事だ、王が出ないわけにいかないと言った。
  • 翌日の甲子、群臣が入り王も入った。汝愚は百官を率いて梓宮の前に詣で、太后が垂簾した。汝愚は同列を率いて再拝して奏し、皇帝は病でまだ喪を執れない、臣らは皇子の嘉王を太子に立てて人心を繋ぎたいと述べ、皇帝の批に「甚だ好し」の二字があったこと、続いて閑に退きたい旨の御筆があったことを挙げ、太皇太后の処分を仰いだ。太后は、御筆がある以上、相公は奉行すべきだと言った。汝愚は、この事は重大で天下に広まり史冊に書かれる、指揮を一通り議する必要がありますと言い、太后は承諾した。汝愚は袖から擬した太后の指揮を出して進めた。曰く、皇帝は病で今なお喪を執れず、かつて御筆で自ら退閑したいとあった、皇子の嘉王擴を皇帝の位に即かせ、皇帝を尊んで太上皇帝、皇后を太上皇后とする、と。太后は読み終えて、はなはだ善しと言った。
  • 汝愚は、今後、臣らに奏すべき事があれば嗣君の処分を仰ぎます、ただ両宮の父子の間に処しがたいことがあれば、太后のお取りなしをお願いしますと奏し、さらに、上皇の病がまだ癒えないところへ急にこの事を聞かれれば驚き疑われないともかぎらない、都知の楊舜卿に本宮を提挙させてその責を負わせられたいと奏した。そこで舜卿を簾前に召して面と向かって諭した。
  • 太后は汝愚に旨を皇子に伝えて即位させるよう命じた。皇子は固辞して、不孝の名を負うことを恐れると言った。汝愚は、天子は社稷を安んじ国家を定めることを孝とします、今、中外は人ごとに乱を憂えており、万一、変が生じれば太上皇をどこに置くのですと奏した。衆が皇子を扶けて素幄に入れ、黄袍を着せた。皇子はなお立ったまま坐らず、汝愚が同列を率いて再拝した。皇子は几筵に詣でて奠して哭し哀を尽くした。まもなく儀仗が立ち、百官の列が催され、皇子は喪服のまま出て重華殿の東廡の素幄に立ち、内侍が扶けて御座に登らせ、百官が起居の礼を行い、そのうえで禫祭の礼を行った。
  • 舜卿に南内へ行って八宝を請わせた。初めは渋っていたが、舜卿が皇子の即位を伝え奏すると、ようやく宝を出せた。汝愚は喪の場から留正を召し戻した。まもなく詔して寝殿を泰安宮として上皇を奉じた。民心は喜び中外は静まった。汝愚の力である。
  • 乙亥、侍御史の章頴らが内侍の林億年・陳源・楊舜卿を弾劾した。詔して舜卿の官を奪い、億年を常州に、源を撫州に居住させた。

紹熙五年冬十月(1194年)

  • 庚寅、泰安宮を寿康宮と改めた。

紹熙五年閏十月(1194年)

  • 庚申、祧廟を議するよう詔した。当時、孝宗を廟に祔するにあたり宗廟の代わる代わる毀つ制を議した。孫逢吉と曹三復はともに僖祖・順祖・翼祖・宣祖の四祖をあわせて祧り、祧った神主に帰すべき所を設けるよう請うた。もと太祖は真っ先に四祖の廟を尊んだが、治平年間に世数が遠くなったとして僖祖を夾室に遷すことを請うた。後に王安石らが、僖祖に廟があるのは稷や契と変わらないと奏し、旧に復するよう請うた。
  • ここに至って趙汝愚はもともと僖祖の祀りを復すことを是としておらず、侍従の多くもその説に従った。吏部尚書の鄭僑は、ひとまず宣祖を祧って孝宗を祔そうとした。侍講の朱熹は、夾室に納めるのは子孫の神主の下に子孫の夾室へ蔵めることになると述べ、あわせて廟制を擬して、物にどうして本なくして生じるものがあろうと述べた。廟堂はこれを上聞せず、僖祖・宣祖の廟室を毀ち撤して、改めて別廟を建てて四祖を奉じた。

紹熙五年十一月(1194年)

  • 辛亥、孝宗の三年の喪を行うよう詔した。それ以前、有司が日をもって月に代える制の外に漆紗と浅黄の制を用いることを請うた。当時、朱熹は経筵にあって奏した。漢の文帝が喪を短くしてから歴代これに因り、天子に三年の喪がなくなった。父に対してさえそうだから、嫡孫が承重する場合も推して知れる。人の紀は廃れ壊れ、三綱は明らかでなくなって千有余年、正しく改めえた者はない。寿皇聖帝は至性から、日をもって月に代える外になお通常の喪を執り、朝衣も朝冠もみな大布を用いられた。まさに書物に記して万世の法とすべきものだ。陛下は嫡系として大統を承け、承重の服は礼と律に定められている。寿皇がすでに行われた法に遵うべきなのに、一時の倉卒で詳しく議す暇なく漆紗と浅黄の服を用い、寿皇の行われた礼を挙げてまた墜とすことになった。臣はひそかに痛む。すでに過ぎたことは追って改められないが、殯を啓き柩を発するときには、礼として初喪の服を用いるべきだ、と。ここに至って三年の制に遵う詔が出て、中外の百官はみな涼衫で事を執った。熹の言を用いたのである。
  • 乙卯、孝宗を永阜陵に仮に葬った。それ以前、趙彦逾が孝宗の山陵を検分し、土が浅く薄くて下に水と石があると述べ、孫逢吉が改めて調べて別に吉兆の地を求めるよう請うた。詔して合議させると、朱熹が議状を上げ、寿皇の聖德と衣冠を蔵める所は広く名山を求めるべきで、偏って台史を信じて水泉と砂礫の中に委ねるべきではないと述べたが、返答はなかった。

寧宗慶元六年六月(1200年)

  • 乙酉、太上皇后の李氏が崩じ、慈懿と諡した。

慶元六年八月(1200年)

  • 辛卯、太上皇帝が崩じ、廟号を光宗とした。

史論(史臣曰)

  • 光宗は幼くして良い評判があり、儒雅を用いることを好んだ。即位の初め、権綱を統べ、寵臣を斥け、賦を薄くし刑を寛くして、見るべきものがあった。しかし宮闈が妬み激しく、宦官が入り乱れて画策し、驚き憂えて病を致し、孝養は日々怠り、孝宗の業は衰えた。