宋史紀事本末道学の顕彰と弾圧(道學崇詘)

紹興元年(1131年)に程頤へ直龍図閣を贈ったところから、淳祐元年(1241年)に周惇頤・張載・二程・朱熹を孔子廟に従祀するまでの百十年間。陳公輔・謝廓然・陳賈・林栗らが繰り返し程氏の学を禁じるよう請い、韓侂胄の代には「偽学逆党」の籍が作られて趙汝愚・朱熹以下五十九人が禁錮された。嘉泰二年に禁が緩み、李道伝・魏了翁の請いで諡と封爵が贈られ、理宗の代に道学は国学となった。末尾に周惇頤から朱熹・陸九淵に至る宋代道学の系譜と学説を付す。

年表(23件)

高宗紹興元年秋七月(1131年)

  • 丁亥、詔して程頤に直龍図閣を贈った。制詞の要旨は――周が衰えて聖人の道は伝わるところを得なくなった。世の学者が仁義道德の説を聞こうとしても、誰に求め誰に聴けばよいのか。頤は大業に心を潜め、高明にして自得の学は信ずるに足りて疑いがない。ところが浮薄で偽りの徒が、学問も文才も世に表すに足りないので、その名を借りて自らを売り、外には静穏を装いながら内実は奔走している。天下の士がその風を聞いて憎むようになったのは、重ねての不幸である。朕がこれを顕彰するのは、上の与するところがこちらにあってあちらにないことを明らかにするためだ――というものだった。

紹興六年十二月(1136年)

  • 左司諫の陳公輔が程氏の学を禁じるよう請い、許された。それ以前、崇寧以来、元祐の学術は禁錮されていたが、帝が渡江してからは程頤の学を再び尊んだ。ここに至って公輔が上疏し、今の世は程頤の説を取って伊川の学と呼び、こぞって従い、大言を唱えて、堯舜文武の道は仲尼に伝わり、仲尼から孟軻に伝わり、孟軻から頤に伝わり、頤が死んで伝わる者がなくなったと言う。狂った言葉や怪しげな語、みだりな説や卑しい論を、これが伊川の文だと言い、幅巾に大袖で高く見て大股に歩くのを、これが伊川の行いだと言う。伊川の文を師とし伊川の行いを行えば賢士大夫で、そうでなければ違うという。士習がこれで大いに壊れることを恐れる、禁止していただきたいと述べた。
  • そこで詔して、士大夫の学はひとえに孔孟を師とし、言行が相称って時用に済しうるようにせよ、臣僚の奏したところを中外に布いて朕の意を知らせよ、とした。当時ちょうど尹焞を召そうとしていた。焞は程頤の門人であり、公輔の意図は指すところがあったのである。

紹興七年五月(1137年)

  • 張浚が胡安国を薦め、帝が召した。安国は陳公輔が程頤の学の禁止を請うたと聞き、上疏して述べた。孔孟の道が伝わらなくなって久しい。頤の兄弟が初めてこれを明らかにし、そのうえで学んで至れることが分かった。今、学者に孔孟を師とさせながら頤に学ぶことを禁じるのは、部屋に入るのに戸を通らないようなものだ。 頤は易については理に因って象を明らかにし、体と用が一つの源であることを知り、春秋については行事に見て聖人の大用を知り、諸経や論語・孟子でもみなその微旨を発して德に入る方途を知った。狂言や怪語がどうしてその文であろう。孝弟は家に顕れ、忠誠は郷に動き、その道義でなければ一介も取らず与えなかった。高く見て大股に歩くことがどうしてその行いであろう。 嘉祐以来、西都には邵雍・程顥とその弟の頤があり、関中には張載があって、みな道德で世に名を成し、書を著し言を立てて、公卿大夫が敬い慕って師と尊んだ。ところが王安石や蔡京らが曲げて排斥したので、その道は行われなかった。礼官に故事を検討させて封爵を加え祀典に載せ、あわせて館閣に詔してその遺書を集め六経の羽翼とし、邪説が起こらないようにして道術を定められたい、と。
  • 疏が入ると、公輔は中丞の周秘、侍御史の石公揆とともに章を重ねて安国の学術は偏っていると論じ、安国はそのまま召命を辞退した。

孝宗淳熙五年春正月(1178年)

  • 侍御史の謝廓然が、有司に程頤と王安石の説で士を取らないよう戒めることを請うた。まもなく秘書郎の趙彦中も上疏し、科挙の文には定式がある、それなのに近ごろは性理の説を祖として浮ついた言葉で高ぶり合っている、士が道を信じ自ら守るには六経と聖賢を師とすれば足りるのに、別に洛学を立てて怪しげなことを飾り愚者を驚かせ、士風は日々弊れ人材は日々薄くなっている、執事に詔して聖朝の好悪の在り処を明らかに知らせ士風を変えられたいと述べ、許された。

淳熙十年六月(1183年)

  • 監察御史の陳賈が道学を禁じるよう請うた。それ以前、朱熹が浙東提刑として管内を巡って台州に至ったとき、知州事の唐仲友がその民に訴えられ、熹は弾劾して処断した。仲友は宰相の王淮と同郷でしかも姻戚だったので、淮はこれによって熹を怨み、妨げようとして吏部尚書の鄭丙に、近世の士大夫にいわゆる道学というものがあり、世を欺き名を盗んでいる、信用すべきでないと上疏させた。帝はすでにその説に惑わされていた。淮はさらに太府丞の陳賈を御史とした。
  • 賈は面奏してまず論じた。臣はひそかに、天下の士が聖人の道に学ぶところは同じでないことはないと考える。同じでありながら自分の学だけが人と違うと言うのは、必ずその名を借りて偽りを済すものだ。邪正の弁別は誠と偽にほかならない。表裏が相副うのを誠といい、表裏が相違うのを偽という。 臣が見るに、近世の士大夫でいわゆる道学というものは、その説は独りを慎むことを能とし、実践を高しとし、心を正し意を誠にし己に克ち礼に復ることを事とする。この類はみな学者がともに学ぶところなのに、その徒は自分だけがそれをなしうると言う。その行いをよく見ればまったくそうではない。名を借りて偽りを済すものに近くはないか。 陛下が中外に明詔してこの習いを痛切に改め、聴納と任命のたびにその人を考察し、斥けて用いず好悪の在り処を示されることを願う。そうすれば多くの士はなびいて風に向かい、言行と表裏がひとえに正から出て、あえて奇矯を弄んで治体を犯す者もなくなり、まことに国家無窮の福となる、と。朱熹を指したものである。帝は従った。これによって「道学」の名は世に禍を残した。
  • のち直学士院の尤袤は、程氏の学が賈に攻められたことについて帝に述べた。道学とは、堯舜が帝たり、禹湯文武が王たり、周公孔孟が教えを設けたゆえんのものだ。近ごろこの名を立てて士君子を誹っている。財に臨んで苟しくも得ないのが廉介、貧に安んじて道を守るのが恬退、言を択び行いを顧みるのが践履、身を行うに恥あるのが名節であるのに、すべて道学と目される。この名がひとたび立てば、賢人君子は世に出ようとして一歩踏み出しただけでその中に入れられ、誰も免れない。これが盛世にあるべきことか。名に循って実を責め、言を聴いて行いを観られたい。そうすれば人情も疑わしさに怯えずにすむ、と。帝は、道学とはなんと美しい名ではないか、ただ姦のために仮託され真偽が入り混じることを恐れるのだと言った。

淳熙十五年六月(1188年)

  • 朱熹を兵部郎官とした。それ以前、熹は周必大の薦めで江西提刑となり、入って奏事するとき、道で人が、正心誠意の論は上が聞き飽きておられる、決して重ねて言われるなと言った。熹は、自分が生涯学んだのはこの四字だけだ、どうして黙って我が君を欺けようかと答えた。入対すると、上は迎えて、久しく卿に会わなかった、卿も老いた、浙東の事は朕が承知している、今は清要の職に処し、二度と州県で煩わせないと言い、手厚く褒め諭し、そのまま兵部郎官とした。熹は足の病で祠禄を請うた。
  • 兵部侍郎の林栗は熹と易と西銘について論じて合わず、そこで論じた。熹にはもともと学術がなく、ただ張載と程頤の余りを窃んで浮誕の宗主となり、これを道学と称してみだりに自らを尊び、行く先々で門生数十人を連れ、春秋戦国の態を習い、みだりに孔孟が諸国を歴訪した風を望んでいる。治世の法で律すれば人を乱す筆頭である。今、その虚名を採って入奏させ、朝列に置いて順次登用しようとしているのに、熹は命を聞いた当初、道中でぐずぐずと引き延ばして高値を吊り上げ、門徒が代わる代わる政府に遊説し、風聞での任用が許されてようやく門に入った。すでに拝謁して旨を得て郎官に任じられながら、たちまち不満を抱いて何日も傲然として職に就こうとしない。これが程頤や張載の学の教えるところであろうか。熹を停職して、君に事えて無礼な者への戒めとされたい、と。
  • 帝は栗の言は行き過ぎだとしたが、大臣は栗の強さを畏れて深く論じようとせず、熹を元どおり江西提刑とした。周必大は、熹が殿上に上った日は足の病がまだ癒えず無理を押して対したと述べ、帝も、朕もその足を引くのを見たと言った。
  • 太学博士の葉適が上疏して述べた。栗が熹を弾劾した辞を始終照らし合わせても、一つとして事実がない。ただその私意を発しただけで、その欺きを忘れている。とりわけその中の「道学」の一語は利害のかかるところが熹一人にとどまらない。昔から小人が忠良を害するには必ず指す名があり、名を好むとし、異を立てるとし、党を植えるとした。近ごろはまた「道学」という項目を創り、鄭丙が唱え陳賈が和し、要職にある者が密かに受け渡している。士大夫で少しでも潔く身を修めることを慕う者を見れば、たちまち道学の名を負わせ、善をなすことを瑕とし学を好むことを咎として、指さして進めないようにする。そこで賢士は怯え、中程度の者は志を解き、声を消し影を滅し、德を汚し行いを穢してこの名を避ける。かつて王淮が台諫と表裏をなして密かに正しい人を廃したのは、まさにこの術を用いたものだ。栗は侍従でありながら陛下の德意と志慮を通じることができず、かえって鄭丙・陳賈が密かに受け渡した説を襲用し、道学を大罪として言葉を作り上げ、熹一人を逐うだけならまだ大した害はないが、これ以後、実のない浮言と讒言が横行し、善良が禍を受け、何が起こるか分からないことを恐れる。陛下が紀綱の在り処を正し、欺きが形をなす前に絶ち、横暴を挫いて善類を扶け、剛断を奮って公言を慰められることを願う、と。疏が入っても返答はなかった。詔して熹を元どおり江西へ赴かせたが、熹は強く辞して赴かなかった。

光宗紹熙元年二月(1190年)

  • 殿中侍御史の劉光祖が入対して述べた。近世は是非が明らかでなく邪正が互いに攻め、公論が立たず私情が交々起こる。これはまことに道の消長、時の否泰であり、実に国家の禍福と社稷の存亡がかかっている。恐るべきことだ。 本朝の士大夫の学術は最も古に近い。もとより国を強くする術があったわけではないが、国勢は尊く安らかで根本は深く厚かった。咸平・景德の間は道が皇極に至り、治は太和を保った。慶暦・嘉祐に至って盛んになった。不幸にも熙寧・元豊の邪説に壊され、正しい士は疎んじられ棄てられ、小人が招かれた。幸い元祐の君子が起って救ったが、末流は大きく分かれ、事故は反覆した。紹聖・元符の際、群凶が志を得て綱常を絶滅させた。その論はすでに勝ちその勢いはすでに成り、崇寧・大観以下は言うまでもない。 臣が初めて着任したころ、道学を譏り貶す説があると聞いたが、実際には朋党の分かれを見なかった。その後、外の憂いで六年、都を離れ、二つの議がそれぞれ甚だしくなって一朝に攻め合うことを憂えていた。臣が戻ってみると、その事は果たして現れていた。道学を憎むことから朋党が生じ、朋党が生じることから忠諫を罪とするに至った。忠諫を罪とするなら、紹聖とどれほど違うのか。 陛下の即位の初め、進退はみな人の言によっており、初めから好悪の私はなかった。どうして偏党を主とされよう。それなのに一年のうちに斥け逐うことが紛々として、忠を納れる言はしばしば名を売る挙とされる。事勢がここに至れば、黙って従うのが宜しいことになる。黙従が風をなして、国家は何を頼るのか。 臣は将来の禍を息めたいので、繰り返し述べることを憚らない。聖心が豁然として永く皇極の主となられ、是非がこれによって定まり、邪正がこれによって別れ、公論がこれによって明らかになり、私意がこれによって熄み、道学の譏りがこれによって消え、朋党の跡がこれによって滅びれば、生霊の幸い、社稷の福である。そうでなければ、激し合い勝ち合い、転々反覆して禍は窮まりない。臣は轅を止める所を知らない、と。帝はその章を下し、読んだ者は涙を流した。

寧宗慶元元年六月(1195年)

  • 右正言の劉德秀が道学の真偽を考核するよう請い、許された。
  • それ以前、上が嘉王府にあったころ、黄裳が嘉王府翊善だった。光宗が、嘉王の学問が進んだのはみな卿の功だと諭すと、裳は謝して、もし德を進め業を修めて古の先王の跡を追わせようとお思いなら、天下第一等の人物を尋ねねばなりませんと述べた。光宗が誰かと問うと、裳は朱熹と答えた。直講の彭亀年が、魯の荘公がその母を制しえなかった件を講じ、母は制せないが侍御や僕従は制すべきだと述べた。上が誰の説かと問うと、朱熹の説だと答えた。以後、講義のたびに必ず熹の説はどうかと問うた。
  • 上が即位すると、宰相の趙汝愚が真っ先に熹を薦め、熹は潭州から召されて煥章閣待制兼侍講となった。熹は道中で側近にすでに権を執る者があると聞き、ただちに奏して、幸進の門がひとたび開けばその弊は二度と塞げないと述べた。着任してからは講義のたびに誠意を積んで上の心を動かすことに努め、上もしだいに嘉して容れた。
  • 熹はさらに上疏して極言した。陛下は即位してまだ一月も経たないうちに宰臣を進退させ台諫を移し替えられたが、いずれも陛下の独断から出たものだ。中外はみな左右の者が権柄を窃んでいると言っている。臣は主の威が下に移り、治を求めてかえって乱れることを恐れる、と。当時は韓侂胄が権を執っており、熹の意は侂胄を指していた。侂胄はこれによって深く恨み、俳優に高い冠と広い袖で大儒の真似をさせて上の前で戯れさせ、折を見て、熹は迂遠で用いられないと述べた。そのまま内々の指示を出して熹の経筵を罷め宮観に任じた。
  • 熹が去ると侂胄はいっそう憚らなくなった。その党はさらに、およそ自分たちと異なる者はみな道学の人だと言い、密かに姓名を書き出して渡し、順次斥け逐わせた。またある者は、道学と目したところで何の罪になろう、「偽学」と名づけるべきだと言った。こうして偽学という項目ができ、善良な人々はみな安んじられなくなった。
  • ここに至って德秀が上言した。邪正の弁別は真と偽に過ぎない。口では先王の言を語りながら行いは市井の人もしないことをする者は、王業を興すにあたって必ず斥けるべきだ。昔、孝宗は恢復に意を鋭くし、まず実を核べることを務め、言行の違う者はその姦を深く知らないことがなかった。陛下が孝宗を法とし、真偽を考核して邪正を弁じられたい、と。詔してその章を下し、博士の孫元卿・袁燮、国子正の陳武はみな罷められた。司業の汪逵が劄子を上げて弁じたが、德秀は逵を狂言としてこれも斥けた。

慶元元年秋七月(1195年)

  • 御史中丞の何澹が上疏して述べた。紹興年間、諫臣の陳公輔がかつて、程頤と王安石の学にはいずれも同調に流れる弊があると言った。高宗は自ら筆を執って、学者は孔孟を師とすべしと記された。臣は陛下が高宗の言をもって天下を励まし、天下がみな孔孟を師とし、学に志ある者が互いに標榜して衆に指さされることのないようにし、また同門だからといって庇い合うこともないようにされることを願う。是は是とし非は非とし、朝廷もただ是に従い善を取り、彼此異同の別を設けず、言を聴いて行いを観、名に因って実を察し、真を録して偽を去る。そうすれば人は励むことを知り、あえて偽りを飾って売り込む者もなくなり、士風は純になり国是は定まる、と。上はこれを是とし、朝堂に掲示するよう詔した。
  • まもなく吏部郎官の糜師旦がまた真偽の考核を請うて左司員外郎に遷され、また張貴模という者が太極図を論難して賞せられ抜擢された。何澹はさらに上疏し、朝にある臣は、大臣がその邪な行跡をよく知っていても報復の禍を招くのを恐れて公にできない、大臣に明詔して去るべき者を去らせられたいと述べた。

慶元二年二月(1196年)

  • 端明殿学士の葉翥を知貢挙とした。翥は劉德秀とともに、偽学の首魁は匹夫の身で人主の権柄を窃み天下を動かした、だから文風は改まらない、語録の類をすべて廃棄されたいと奏した。だからこの科の取士では、少しでも義理にかかわる者はことごとく落とされ、六経・論語・孟子・中庸・大学の書は世の大禁となった。
  • 淮西総領の張釜が上言し、近ごろ偽学が盛んに行われたが、陛下の聖明で斥け罷められたおかげで天下はみな心を洗って先日の習いを繰り返そうとしない、在位の臣に明詔して上下ともに堅く守って変えず、偽りの言と偽りの行いが隙に乗じて入り込み、すでに定まった規模を壊すことのないようにされたいと述べた。そこで釜を尚書左司郎官とした。

慶元二年八月(1196年)

  • 道学の禁を重ねて厳しくした。当時、中書舎人の汪義端が唐の李林甫の故事を引き、偽学の党はみな名士だからことごとく除くべきだと述べた。帝はかなりその非を知っており、台諫・給事中・中書舎人が論奏するにあたって旧事に及ぶ必要はない、平正を務めて朕の中正を建てる意に副えと詔した。
  • 詔が下ると韓侂胄とその党はみな怒った。劉德秀はそこで御史の張伯垓・姚愈らとともに上疏し、今後、旧来の姦悪の徒が勢いを増して悔い改めないとき、臣らが言わなければ陛下の用人を誤らせる、先日のように国事を壊してから言ったのでは臍を噬む悔いしかない、この章を下して中外に告げ、旧来の姦悪の徒に朝廷の紀綱がなお存することを知らせて放縦させないようにされたいと述べ、許された。これ以来、侂胄とその党の攻撃はいよいよ急になった。
  • 太常少卿の胡紘が上言した。近年、偽学が猖獗して不軌を図り、上皇を動揺させ聖德を誣い、あわや大乱に至るところだった。二、三の大臣と台諫が死力を出して排したから、元凶は命を落とし群邪は跡を潜めた。ところが御筆に偏りを救い中正を建てるという説が出て以来、ある者は天意を誤解し急いで迎合して調停の議を唱え、先日の偽学の姦党を順次用いて、後日に報復されないことを願おうとしている。かつての建中靖国の事は戒めとすべきだ、と。そこで偽学の党について宰執は任用の推挙を差し止める詔が出た。
  • 大理司直の邵褎然が、三十年来、偽学が公然と行われ、科挙の場の権はことごとくその党に帰していると述べ、大臣にその学を審察させるよう請うた。詔して偽学の党には京内の官職を与えないこととした。
  • まもなく論者がまた偽学の禍を論じ、元祐の調停の説を鑑としてその根源を杜ぐよう請うたので、詔して監司・帥守が推挙し改官させるときは、奏牘の前に偽学の人でない旨を明記させることとした。折しも郷試があり、漕司は事前に家状を取るにあたって「偽学ではない」と書かせた。撫州推官の柴中行だけは漕司に申し出て、自分は幼いころから易を学び程氏の易伝を読んだ、これが偽学に当たるかどうか分からない、もし偽とされるなら考査を受けたくないと述べた。士論はこれを壮とした。

慶元二年十二月(1196年)

  • 秘閣修撰の朱熹の官を削った。熹は家居していたが、累朝の知遇の恩を蒙り、しかもなお従臣の職名を帯びている以上、義として黙っていられないとして、封事数万言を草し、姦邪が主を蔽う禍を陳べようとした。子弟や門生が代わる代わる諫めて必ず禍を招くと言ったが、熹は聴かなかった。蔡元定が筮竹で決するよう請い、遯の同人に之く卦を得た。熹は黙って草稿を取って焼き、そのまま六度奏して職名を強く辞したが、詔して元どおり秘閣修撰に充てられた。
  • 当時、台諫はみな韓侂胄が引き入れた者で、騒然として熹を奇貨としようと争ったが、先に口火を切る者はなかった。胡紘は世に出る前、建安に熹を訪ねたことがある。熹は学生をもてなすのに粗末な飯だけで、紘にも別扱いをしなかった。紘は不快で、人に、あれは人情ではない、鶏一羽と一斗の酒くらい山中でも欠くまいと語った。ここに至って監察御史となると、勇んで熹を撃つことを自任し、材料を探したが得られず、一年がかりで章疏を練り上げた。折しも太常少卿に改められて実現しなかった。
  • 沈継祖という者があり、小役人だったころ熹の論語・孟子の語を採録して自ら売り込んだことがあり、ここに至って程頤を追論したことで御史となった。紘は疏の草稿を渡し、継祖はこれで富貴が得られると思い、こう論じた。熹は張載・程頤の余りを剽窃し、菜食して魔に事える妖術に寄せて後進を煽り、大言と誕妄を張り、私に品評を立て、四方の行義なき徒を集めて党を増やし、形を潜め跡を隠すこと鬼のごとく魅のごとくである。少正卯の誅を加え、君を欺き世を誣い行いを汚し名を盗む者への戒めとされたい。その徒の蔡元定は熹を助けて妖をなした、別州に編管されたい、と。詔して熹の職を落として祠禄を罷め、元定を道州に流した。まもなく選人の余嚞が上書して熹を斬って偽学を絶つことを請うたが、謝深甫がその書を地に投げ捨てたので難を免れた。

慶元三年十一月(1197年)

  • 知綿州の王沇が上疏し、偽学の籍を置き、今後は偽学の推挙・関陞・刑法・廉吏・自代の対象となった者はみな省部に姓名を記させ、閑職を与えるよう請い、許された。
  • こうして偽学逆党として罪を得て籍に載った者は、宰執では趙汝愚・留正・周必大・王藺の四人、待制以上では朱熹・徐誼・彭亀年・陳傅良・薛叔似・章頴・鄭湜・楼鑰・林大中・黄由・黄黼・何異・孫逢吉ら十三人、その他の官では劉光祖・呂祖倹・葉適・楊芳・項安世・李𡹅・沈有開・曾三聘・游仲鴻・呉猟・李祥・楊簡・趙汝讜・趙汝談・陳峴・范仲黼・汪逵・孫元卿・袁燮・陳武・田澹・黄度・張体仁・蔡幼学・黄灝・周南・呉柔勝・王厚之・孟浩・趙鞏・白炎震ら三十一人、武臣では皇甫斌・范仲壬・張致遠ら三人、士人では楊宏中・周端朝・張道・林仲麟・蒋傅・徐範・蔡元定・呂祖泰ら八人、合わせて五十九人だった。

慶元四年五月(1198年)

  • 諫議大夫の姚愈がまた上言した。近世、危険を冒して僥倖を求める徒が道学の名を唱えて愚俗の耳目を塞ぎ、権臣が力を尽くしてその説を主として死党を結んだ。陛下はその罪魁の顕著な者を追放するにとどめ、他は一切問われなかった。全うさせようという意は至れり尽くせりである。それなのに習いの深い者は悪に居直って悔い改めず、日々怨みを抱いて自らを元祐の党籍になぞらえている。特に明詔を降して天下に告げ、中外に邪正の実を明らかに知らせ、姦偽の徒が疑わしさに紛れて名を盗み世を欺かないようにされたい、と。帝は従って詔を下して戒飭した。

慶元六年三月(1200年)

  • 朱熹が没した。葬られようとしたとき、右正言の施康年が、四方の偽学の徒が信州に集まって偽師の葬を送ろうとしている、集まれば妄りに時人の長短を談じるか、みだりに時政の得失を議するかだ、守臣に取り締まらせられたいと述べ、許された。

嘉泰二年二月(1202年)

  • 偽学の党禁を緩めた。当時、韓侂胄はすでに先の事に厭き、張孝伯が、党禁を緩めなければ後に報復の禍を免れないと言い、侂胄はもっともとして、この令が出た。

嘉定四年十二月(1211年)

  • 著作郎の李道伝が上奏して述べた。孔孟が没して正学は明らかでなくなった。漢唐にも儒者がなかったわけではないが、聖門の大学の道については、語っても近づかず、近づいても真でなく、理を窮め尽くせず義を精しくし尽くせず、事に施して当を得きれなかった。だから千数百年の間、時に随って功名を成した臣はあっても、その天資と力量の限りを尽くしたにすぎない。治が古に及ばないのはこのためだ。 本朝に至って河洛の間に大儒が並び出、こうして孔孟の学は再び世に明らかになった。用いられ方はまだ究まらなかったが功はすでに多い。近世の儒者はまたその説を得て推し明らかにし、択ぶことはいよいよ精しく語ることはいよいよ詳しくなり、学ぶ者が己を修め物に接し君に事え民に臨む道は、本末精粗ともほとんど余すところがない。まことにこの学がいっそう行われれば、人材は多くなり朝廷は正しくなり天下は治まる。 かつて権臣がこの学を禁じ、十数年の間に士気は日々衰え、士論は日々卑しくなり、士風は日々壊れ、識者はこれを憂えた。今、その禁は除かれたが、除いた旨をまだ天下に明示していない。臣はひそかに、当世の先務でこれより要なるものはないと考える。 今ここに、家に入っては親に順い、出ては友に信あり、上には君を欺かず、下には民を欺かず、義として進めないときは苟しくも進んで終身の操を易えず、義として生きられないときは苟しくも生きて本心の德を害するに忍びない、そういう人がある。この種の人を中外に満たせれば、平生は任せられ緩急には恃める。陛下の願われるところではないか。この種の人がみな天資で知って行うわけではなく、学ばなければならない。であれば学術で人材を成すことこそ今日の最も要なる務めではないか。 臣は陛下が特に明詔を出してこの学を崇尚し、先日の禁が誤りだったことを明言され、天下に聖意の在り処を明らかに知らせられることを願う。君臣上下が同じ心となれば、感応の機は影や響きより速い。この詔がひとたび下れば、必ず奮い立って陛下の育成の意に副う者が出る。 臣は、学は知を致すより急なるものはなく、知を致すには読書より大なるものはなく、読むべき書は聖人の経を出ず、経のうち先にすべきは大学・論語・孟子・中庸の篇より要なるものはないと聞く。故侍講の朱熹に論語・孟子の集註、大学・中庸の章句と或問があり、学者が伝えている。いわゆる択ぶこと精しく語ること詳しいものはここにある。臣は陛下が有司に詔してこの四書を取って太学に頒ち、諸生に順に誦習させ、通貫して染み込んでから順次、諸経に及ばせ、天下の人材を教育して国家の用に供することを求められんことを願う。 臣は、紹興年間に従臣の胡安国がかつて朝廷に、邵雍・程顥・程頤・張載の四人を春秋の釈奠で孔子廟に従祀させるよう請おうとしたと聞く。淳熙年間には学官の魏掞之も、王安石父子を祀るのをやめて程顥・程頤兄弟を祀るべきだと述べた。その後、安石の子の雱を罷める詔は出たが、他は行われなかった。儒者は互いに論じて、さらに推し上げて二程の師である周敦頤に及ぼすべきだと言う。臣は陛下が有司に詔して安国と掞之のかつて述べたところを検討して行わせ、上は聖朝が儒を崇め学を正す意を彰らかにし、下は学者に宗とすべきところを示されんことを願う。その益はきわめて大きく、かかわるところはきわめて重い。ただ祀典の欠を補うだけのことではない。陛下が臣の言を迂遠とされず、まことに禁を除く詔を下し四つの書を頒ち諸儒の祀を定められ、この三事が行われれば、人心は興り起こって、天下の才が日ごとに盛んになり、天下の治が年ごとに加わるのが見られよう。そうならなければ、臣は妄言の罪に伏したい、と。折しも枢密府に道学を喜ばない者があり、実施には至らなかった。

嘉定九年春正月(1216年)

  • 潼川府路提点刑獄の魏了翁が状を奏して述べた。臣がひそかに見るに、故虞部郎中の周惇頤はかつて合州の僉書判官となり、州の事はその手を経なければ吏はあえて決せず、苟しくも下せば民は従おうとしなかった。蜀の賢人君子で喜んで称えない者はない。その遺風は今なお消えず、士は競って学を講じ、民は風に向かうことを知り、春秋の祭祀は永く絶えない。臣は着任してすぐ吏を遣ってその祠に幣を供えさせた。退いてなお思うに、これは惇頤が一方に施し行事に現れたことの一、二にすぎない。 そもそも周が衰え孔孟が没してから、秦漢魏晋隋唐を経て、学者に宗主とするところがなく、支離散漫として帰るところを得なかった。醇厚質朴な者は暗誦と訓詁に滞り、俊敏な者は記誦と詞章に溺れた。理を言えば清虚寂滅に帰し、事を論じれば功利と智術を尚び、民を誣い世を惑わし、肌骨に染み込んで救いようがなくなった。 惇頤ひとりが百世の下に奮い、造化の奥を窮め探り、図を建て書を著し、幽を闡らかにし秘を抉り、人の日用常行の際に即して学者に理を窮め性を尽くす帰着を示した。その遺言を誦える者は、初めて洙泗の正統を明らかに知り、世にいう学が俗な師に滞るか異端に沈むかで、学ぶに足りないものだと知った。 そこで河南の程顥・程頤が親しくその伝を得て、聖学はいよいよ大いに振るった。三人とも当時は大いに用いられなかったが、往聖を嗣ぎ来哲を啓き、天理を発して人心を正し、孔孟の絶学を本朝に独り盛んにさせた。功用のかかるところ、治理のかかるところはまことに小さくない。臣は陛下が、まず惇頤に特に美諡を賜られることを望む。表彰し風化を励ますうえでの補いは小さくない、と。詔して太常に議を定めさせた。

嘉定十三年(1220年)

  • 周惇頤に元、程顥に純、程頤に正と諡を追贈した。魏了翁と任希夷の請いによる。

理宗宝慶三年春正月(1227年)

  • 詔して述べた。朕は朱熹の集註した大学・論語・孟子・中庸を見るに、聖賢の蘊奥を発揮して治道に補いがある。朕はまさに志を励まして学を講じ、遥かにその典型を懐い、深く嘆じ慕っている。特に熹に太師を贈り信国公に追封する、と。

宝慶三年三月(1227年)

  • 朱熹の子の工部侍郎の朱在が入対して人主の学問の要を述べた。帝は、卿の亡父の中庸の序はこれを詳しく述べている、朕は読んで手放せない、同時代に生きられなかったのが恨みだと言った。

紹定二年九月(1229年)

  • 朱熹を徽国公に改封した。鄒国公・兗国公の例による。

淳祐元年春正月(1241年)

  • 甲辰、詔して述べた。朕は思う。孔子の道は孟軻の後、その伝を得なかった。我が朝に至って周惇頤・張載・程顥・程頤が真に見て実に践み、深く聖域を探って、千載の絶学に初めて帰趨ができた。中興以来はさらに朱熹が精しく思い明らかに弁じ、折衷し融会して、大学・論語・孟子・中庸の書の本末を洞徹させ、孔子の道はいっそう世に大いに明らかになった。朕は五臣の論著を見るたび啓発されることが多い。今、学に臨む日も近い。学官に命じて従祀に列させ、朕が儒の先達を崇め奨める意に副えよ、と。
  • まもなく、王安石は天変は畏るるに足りず祖宗は法とするに足りず人言は恤むに足りずと言った万世の罪人であり、孔子に従祀すべきでないとして黜けた。
  • 丙午、周惇頤を汝南伯、張載を郿伯、程顥を河南伯、程頤を伊陽伯に封じた。
  • 戊申、太学に臨んで孔子を謁し、そのまま崇化堂に出て、祭酒の曹觱に礼記の大学篇を講じさせた。諸生には恩を推して帛を賜り、道統十三賛を製して国子監に賜って諸生に示し、さらに自ら朱熹の白鹿洞学規を書いて賜った。

宋代の道学の系譜

  • 按ずるに、宋の世の道学の伝は周惇頤に始まる。惇頤はこれを程顥とその弟の頤に授け、その学は初めて盛んになった。同時代の張載と邵雍は顥兄弟と実に師友の間柄で、言を立てるところはそれぞれ一家をなしたが、仁義道德に浸っている点では、同じくすることを求めずして自ずと異ならなかった。程氏の門人では謝良佐・游酢・楊時・尹焞が最も著名である。楊時はこれを羅従彦に伝え、従彦は李侗に伝え、朱熹は侗に学んだ。熹が出て、程氏の伝えた学は初めて余すところなく明らかになった。熹と同時代で志を同じくし道を合わせたのが張栻と呂祖謙、論を異にしたのが陸九齢の兄弟である。今、惇頤以下について師友の淵源の由来をおおよそ採り、一代の道脈の大略を示す。

周惇頤

  • 周惇頤は字を茂叔といい、道州営道の人である。若いころから古を信じ義を好み、名節をもって自らを砥礪した。自らを奉ずることはきわめて質素で、粥にも事欠くことがあったが、それでも大らかに意に介さなかった。黄庭堅はその人品がきわめて高く、胸中は洒落として光風霽月のようだと称え、名を取ることに廉く志を求めることに鋭く、福を求めることに薄く民の心を得ることに厚く、身を養うことに乏しく孤独な者にまで及ぼし、世に迎合することに疎く千古に友を尚ぶと評した。
  • 読書を好み、林や谷に心を寄せ、人事に窘められず世故に拘られず、師伝によらずして黙して道体に契った。かつて『太極図説』を著し、天理の根源を明らかにし万物の始終を究めた。その説に曰く――無極にして太極。太極が動いて陽を生じ、動が極まって静となり、静にして陰を生じ、静が極まってまた動く。一動一静が互いにその根となり、陰に分かれ陽に分かれて両儀が立つ。陽が変じ陰が合して水火木金土を生じ、五気が順に布かれて四時が行われる。五行は一つの陰陽であり、陰陽は一つの太極であり、太極はもと無極である。五行の生においてはそれぞれその性を一つにする。無極の真と二五の精が妙に合して凝り、乾道は男を成し坤道は女を成す。二気が交感して万物を化生し、万物は生々して変化は窮まりない。ただ人だけがその秀を得て最も霊である。形が生じ神が知を発し、五性が感じ動いて善悪が分かれ、万事が出る。聖人はこれを中正仁義で定め、静を主として人極を立てる。だから聖人は天地とその德を合わせ、日月とその明を合わせ、四時とその序を合わせ、鬼神とその吉凶を合わせる。君子はこれを修めて吉、小人はこれに悖って凶である。だから「天の道を立つるを陰と陽といい、地の道を立つるを柔と剛といい、人の道を立つるを仁と義という」といい、また「始めに原ね終わりに反る、故に死生の説を知る」という。大いなるかな易や、これぞ至れるものだ――と。
  • また『通書』四十篇を著して太極の蘊奥を明らかにした。序を書いた者は、その言は簡約で道は大きく、文は質朴で義は精しく、孔孟の本源を得て学者に大いに功があると評した。
  • 程顥と程頤が業を受けたとき、惇頤はいつも、孔子と顔回が楽しんだところ、何を楽しんだのかを尋ねさせた。顥はかつて、周茂叔に再びまみえてから、風に吟じ月を弄んで帰り、「吾は点に与せん」の意を得たと言った。侯師聖は程頤に学んで悟れなかったが、惇頤に会うと、惇頤は留めて寝台を並べて夜通し語り、三日たって帰した。程頤は驚き異として、周茂叔のところから来たのではないかと言った。人を啓発するのに巧みなことはこの類だった。学者は濂溪先生と称した。

程顥

  • 程顥は字を伯淳といい、河南の人である。資質がすでに人と異なり、そのうえ養い方に道があった。純粋なこと精金のごとく、温潤なこと良玉のごとく、寛やかにして節度があり、和やかにして流されず、胸中は洞然として見通しに隔てがなく、その德の美は形容の及ぶところではなかった。
  • 十五、六歳のころ周茂叔の道の論を聞いて科挙の学を厭い、慨然と道を求める志を抱いた。その要を知らず、諸家に広く渉り老荘と仏に出入りすること十年ほど、六経に返り求めてようやくこれを得た。性を尽くし命に至るには必ず孝弟に本づくことを知り、神を窮め化を知るには礼楽に通じることによると知った。異端の似て非なるところを弁じ、百代の未だ明らかでない惑いを解いた。秦漢以来、この理に至った者はなかった。
  • 孟子が没して聖学は伝わらなくなったとし、斯文を興起することを自らの任とした。その言に曰く――道が明らかでないのは異端がこれを害するからだ。昔の害は近くて知りやすく、今の害は深くて見えにくい。昔の人を惑わすのはその迷いと暗さに乗じたが、今の人に入り込むのはその高明に因る。自ら神を窮め化を知ると言いながら物を開き務めを成すに足りず、言えば周く遍らぬところがないようで、実は倫理の外にある。深く微かなところを窮め極めながら堯舜の道に入れない。天下の学は、浅陋で固滞でなければ必ずここに入る。いずれも正路の茨、聖門の塞ぎであり、これを闢いてこそ道に入れる――と。
  • 没すると文彦博がその墓に「明道先生」と題した。弟の頤が序して曰く――周公が没して聖人の道は行われず、孟軻が死んで聖人の道は伝わらなくなった。道が行われなければ百世に善き治はなく、学が伝わらなければ千載に真の儒はない。善き治がなくとも士はなお善き治の道を明らかにして人を淑くし後に伝えられる。真の儒がなければ天下は暗く行くところを知らず、人欲がほしいままになり天理が滅びる。先生は千百年の後に生まれ、遺された経から伝わらぬ道を得、斯文を興起することを自らの任とし、異端を弁じ邪説を闢いて、聖人の道を再び世に明らかに輝かせた。まさに孟子の後、ただ一人である。ただし学ぶ者が道について向かうところを知らなければ、誰がこの人の功を知ろう。至るところを知らなければ、誰がこの名が実に称うことを知ろう――と。

程頤

  • 程頤は字を正叔といい、幼いころから礼でなければ動かなかった。その学の要は、「涵養には敬を用い、学を進めるには知を致すにある」と言った。
  • かつて『顔子好学論』を作って曰く――聖人の門下に徒は三千あったが、独り顔子だけを学を好むと称した。詩・書・六芸を七十子が習って通じなかったわけではない。では顔子が好んだのは何の学か。学んで聖人に至る道である。聖人は学んで至れるのか。然り。学の道はどうか。天地は精を蓄え、五行の秀を得た者が人となる。その本は貞にして静、その未だ発しないときには五性が具わる。仁・義・礼・智・信である。形が生じると外物がその形に触れて中に動く。中が動いて七情が出る。喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲である。情が熾んになっていよいよ蕩けば、その性は損なわれる。だから覚った者はその情を約して中に合わせ、その心を正しその性を養う。これを「性を情とす」という。愚かな者は制することを知らず、その情をほしいままにして邪僻に至り、その性を損なって亡う。これを「情を性とす」という。 およそ学の道は、その心を正しその性を養うだけである。中正にして誠ならば聖である。君子の学は必ずまず心に明らかにし、養うところを知ってから力めて行い、その至りを求める。いわゆる「明より誠にす」である。だから学ぶには必ずその心を尽くし、心を尽くせばその性を知り、性を知って反って誠にすれば聖人である。だから洪範に「思うことを睿という、睿は聖を作す」という。誠にする道は道を信じることの篤きにある。道を信じることが篤ければ行うことが果断になり、行うことが果断なら守ることが固くなる。仁義忠信は心を離れず、慌ただしいときも必ずここに、躓き倒れるときも必ずここに、出るも処るも語るも黙するも必ずここにある。久しくして失わなければ、居ることが安らかになり、立ち居振る舞いが礼に中り、邪僻の心は生じるところがなくなる。 だから顔子の事としたところは、「礼に非ざれば視るなかれ、礼に非ざれば聴くなかれ、礼に非ざれば言うなかれ、礼に非ざれば動くなかれ」であり、仲尼がこれを称して「一善を得れば拳々服膺して失わず」と言い、また「怒りを遷さず過ちを弐びせず、不善あれば知らざることなく、知れば再び行うことなし」と言った。これがその好むことの篤さ、学ぶことの道である。視聴言動はみな礼にかなっていた。聖人と異なるところは、聖人は思わずして得、勉めずして中り、従容として道に中るのに対し、顔子は必ず思ってから得、必ず勉めてから中った点である。だから顔子と聖人との隔たりは一息だという。 孟子は「充実してかつ光輝あるをこれ大といい、大にしてこれを化するをこれ聖といい、聖にして知るべからざるをこれ神という」と言った。顔子の德は充実して光輝ありといえる。至らなかったのは、守っていたのであって化していなかったからだ。その好学の心に年を貸せば、日ならずして化していただろう。だから仲尼は「不幸にして短命にして死せり」と言った。聖人に至れなかったことを傷んだのである。化すとは、神に入って自然に思わずして得、勉めずして中ることをいう。孔子が「七十にして心の欲するところに従って矩を踰えず」と言ったのがそれである。 ある人は、聖人は生まれながらに知る者だ、今、学んで至れるというのに証があるかと言う。然り。孟子は「堯舜はこれを性のままにし、湯武はこれに反った」と言った。性のままにする者は生まれながらに知る者、反る者は学んで知る者である。後の人はこれを解せず、聖は本より生知で学んで至れるものではないとし、こうして学の道は失われた。己に求めず外に求め、博聞強記と巧みな文と麗しい詞を工夫とし、その言葉を華やかにしても道に至る者はまれである。今の学は顔子の好んだところと異なっている――と。
  • 頤の著したもので成書となったのは易伝だけである。尹焞は、頤は践み行うことがみな易であり、伝を作ったのはそれをそのまま書き記しただけだと言った。その自序に曰く――易とは変易である。時に随って変易し道に従うものだ。その書たるや広大にして悉く備わり、性命の理に順い、幽明の故に通じ、事物の情を尽くして、物を開き務めを成す道を示す。聖人が後世を憂えることは至れりといえる。古を去ること遠いが遺経はなお存する。しかし前の儒者は意を失って言を伝え、後の学者は言を誦えて味を忘れた。秦以来、伝はなかったといえる。予は千余載の後に生まれ、この文が埋もれ晦いことを悼み、後人に流れに沿って源を求めさせようとした。この伝を作ったゆえんである。 易には聖人の道が四つある。言をもってする者はその辞を尚び、動をもってする者はその変を尚び、器を制する者はその象を尚び、卜筮する者はその占を尚ぶ。吉凶消長の理と進退存亡の道は辞に備わる。辞を推し卦を考えれば変を知れる。象と占はその中にある。君子は居れば象を観てその辞を玩び、動けばその変を観てその占を玩ぶ。辞を得ながらその意に達しない者はあるが、辞を得ずしてその意に通じられた者はない。至って微なるものは理、至って著しきものは象である。体と用は一つの源、顕と微に隔てはない。会通を観てその典礼を行えば、辞に備わらぬところはない。だから善く学ぶ者は、言を求めるのに必ず近きから始める。近きを易しとする者は言を知る者ではない。予が伝えるのは辞である。辞によって意を得るのは人にかかっている――と。
  • 游酢と楊時が頤に学んだ。ある日、頤が坐して目を閉じており、長くたって気づき、二人がまだここにいたのか、日も暮れた、宿へ行けと言った。二人が門を出ると雪は一尺余り積もっていた。その師道の尊厳はこのようだった。

張載

  • 張載は字を子厚といい、鳳翔の人である。幼くして父を失い、学ばないものがなく、兵を談じることを好んだ。康定の用兵のとき、慨然と功名を自負して上書し、范仲淹に謁した。仲淹は一目でその器の大きさを知り、成就させようとして、儒者にはもとより名教がある、なぜ兵を事とするのかと告げ、中庸を読むよう勧めた。載はその書を読んで愛したが、なお足りないとし、さらに仏老の書を訪ね、返って六経に求めた。嘉祐の初め、京師で二程に会い、道学をともに語って渙然と自ら信じ、我が道は自ら足りている、何を外に求めようかと言い、そのまま異学をすべて棄てて純一になった。
  • 熙寧年間に召されたが事によって辞して帰り、南山の下に室を築き、粗末な衣と菜食で専心して学を治めた。人を知って天を知らず、賢人たることを求めて聖人たることを求めないのが秦漢以来の学者の大弊だとした。だから終日、一室に端坐し、左右に書物を置き、俯いて読み仰いで思い、得るところがあれば書き留め、あるいは夜中に起き坐って燭を取って書いた。道に志し思いを精しくして片時も息まなかった。
  • かつて定性の学を程顥に問うた。顥は書で答えて曰く――お尋ねの「性を定めて動かずにいられず、なお外物に累せられる」件について。定というのは、動いても定まり静かでも定まり、送迎がなく内外がないことだ。もし外物を外とし、己を引いてそれに従うなら、己の性に内外があるとすることになる。性が外の物に随うとするなら、外にあるときには何が内にあるのか。これは外の誘いを絶とうと意図しながら、性に内外がないことを知らないのだ。すでに内外を二本とするなら、どうしてすぐに定を語れよう。 天地の常は、その心が万物に普くして無心であること、聖人の常は、その情が万事に順って無情であることだ。だから君子の学は、廓然として大公、物来って順応するに如くはない。易に「貞なれば吉、悔い亡ぶ、憧憧として往来すれば朋、爾の思いに従う」という。もし外の誘いを取り除くことに拘れば、東で滅ぼしても西で生じる。日が足りないだけでなく、その端は窮まりなく取り除けない。 人の情はそれぞれ蔽われるところがあるので道に適えない。おおむね患いは自ら私すること、智を用いることにある。自ら私すれば有為をもって迹に応じられず、智を用いれば明覚をもって自然とできない。今、外物を憎む心で物なき地を照らそうとするのは、鏡を裏返して照らそうとするようなものだ。易に「その背に艮まりその身を獲ず、その庭を行きその人を見ず」といい、孟子も「智を悪む所以は、その鑿するがためなり」と言った。外を非として内を是とするより、内外をともに忘れるほうがよい。ともに忘れれば澄み切って事はなくなる。事がなければ定まり、定まれば明らかになり、明らかになれば物に応じることが何の累となろう。 聖人の喜びは物が喜ぶに当たるから喜び、聖人の怒りは物が怒るに当たるから怒る。つまり聖人の喜怒は心に繋がらず物に繋がる。であれば聖人がどうして物に応じないことがあろう。どうして外から来るものを非として、内にあるものを是として求められよう。今、自ら私し智を用いる喜怒で、聖人の喜怒の正しさを見て、どう思うのか。 人の情で発しやすく制しがたいものは怒りが最も甚だしい。ただ怒ったときにたちまちその怒りを忘れて理の是非を観られれば、外の誘いが憎むに足りないことも分かり、道についても半ば以上は思い至れる――と。載はこれを得て大いに喜んだ。
  • 載の著したものに西銘と正蒙があり、西銘は当時の儒者に最も服された。その言に曰く――乾を父と称し坤を母と称す。予はここに小さく、混然として中に処る。故に天地に塞つるものは吾がその体、天地を帥いるものは吾がその性。民は吾が同胞、物は吾が与なり。大君は吾が父母の宗子、その大臣は宗子の家相である。高年を尊ぶのはその長を長とするゆえん、孤弱を慈しむのはその幼を幼とするゆえん。聖はその德を合わせた者、賢はその秀でた者である。およそ天下の疲れ病み残り疾み、孤独で鰥寡の者はみな吾が兄弟で、艱難に遭いながら訴えるところのない者である。これを時に保つのは子の翼うこと、楽しんで憂えないのは孝に純なることである。違うのを悖德といい、仁を害するのを賊という。悪を済す者は不才、その形を践む者は肖た者である。化を知れば善くその事を述べ、神を窮めれば善くその志を継ぐ。屋漏に愧じないのは辱めなきこと、心を存し性を養うのは怠らぬこと。旨酒を悪んだのは崇伯の子(禹)の養いを顧みたこと、英才を育てたのは頴封人の類に及ぼしたこと。労を弛めずして喜ばせたのは舜の功、逃れるところなく烹られるのを待ったのは申生の恭しさ、その受けたものを全うして帰したのは曾参、勇んで従い令に順ったのは伯奇である。富貴と福沢は吾が生を厚くするもの、貧賤と憂戚は汝を玉にして成らせるものだ。生きては吾は順って事え、没しては吾は寧んじる――と。
  • 楊時がかつて程頤に、西銘は体を言って用に及んでいない、その流れはついに兼愛に至るのではないかと問うた。頤は答えて、西銘は理を推して義を存し、前の聖人が発しなかったところを広げたもので、性善と養気の論と功を同じくする、どうして墨氏の比であろうと言った。西銘は理は一つで分は殊なることを明らかにする。墨氏は本が二つで分がない。本が二つの弊は、私に隔てられて仁を失うこと。分がない弊は、兼愛して義がないこと。分が立って理の一なるを推し、私が勝つ流れを止めるのが仁の方である。別なく兼愛に迷って父なきの極みに至るのは義の賊である。子はこれを並べて同じとした。過ちだ。しかも人に推して行わせようとするのが本来の用なのに、逆に及んでいないというのは、おかしくはないか、と。

邵雍

  • 邵雍は字を堯夫といい、范陽の人である。若いころ学に篤く、堅苦刻厲で、冬に炉を用いず夏に扇を用いず、枕席に就かないこと数年に及んだ。かつて、学者の患いは好悪が先に心に成り、その私智を挟んで道に求めることにある、そうすれば好むところに蔽われて真を得られないとした。だからその求めるところは四方万里の遠きに及び、天地陰陽の屈伸消長の変に通じないものがなかったが、必ず聖人に折衷した。象数に深く、先を見、黙して識ったが、それを自ら名としたことはなかった。その学は純一で雑ならず、居て安く行って成り、平易渾大で圭角を見せなかった。自得は深かった。程顥は初め父に侍って雍と知り合い、終日、議論して退いて嘆じ、堯夫は内聖外王の学だと言った。
  • 雍は自ら『無名公伝』を著して曰く――無名公は冀方に生まれ豫方に老いた。十歳で里人に学を求め、里人の情を尽くして、己の滓は十のうち二、三が去った。二十で郷人に学を求め、郷人の情を尽くして、己の滓は十のうち三、四が去った。三十で国人に学を求め、国人の情を尽くして、己の滓は十のうち五、六が去った。四十で古今に学を求め、古今の情を尽くして、己の滓は十のうち八、九が去った。五十で天地に学を求め、天地の情を尽くして、己の滓は求めても去るものがなくなった。 初め里人はその偏屈を疑って郷人に問うと、この人は人とよく群れる、どうして偏屈と言えようと言った。次に郷人はその節操のなさを疑って国人に問うと、この人はみだりに人と交わらない、どうして節操がないと言えようと言った。次に国人はその狭さを疑って四方の人に問うと、この人は器ならず、どうして狭いと言えようと言った。次に四方の人もこれを疑って古今の人に質したが、始終ともにできる者はなかった。さらに天地に考えたが、天地は答えなかった。このとき四方の人は迷乱して二度と知りえず、そこで無名公と号した。無名とは名づけられないという意味である。 およそ物に形があれば器とでき、器とできれば名づけられる。ではこの人には体がないのか。曰く、体はある。体があって迹がない者である。この人には用がないのか。曰く、用はある。用があって心がない者である。そもそも迹があり心がある者は知りうる。迹がなく心がない者は鬼神でさえ知りえない。名づけられず、まして人においてをや。だからその詩に「思慮未だ起こらざれば鬼神も知るなし。我に由らずして更に誰に由らんや」という。万物を造りうるのは天地、天地を造りうるのは太極である。太極は知りうるだろうか。だから強いて名づけて太極という。太極とは、名なきをいうのであろう――と。

謝良佐

  • 謝良佐は字を顕道といい、上蔡の人である。初め程顥に会って学を受けることきわめて篤く、後にまた程頤に事えた。頤はかつて良佐を指して朱公掞に、この人は切に問い近く思う学をなしていると言った。
  • ある人が良佐に、太虚は尽きることがないのに心には止まるところがある、どうして一つに合わせられるのかと問うた。良佐は、心に止まるところがあるのは用いるからだ、用いなければ何の止まるところがあろうと答えた。「子は用いないのか」と問うと、「そうだ。聖人ならば用いない」と答えた。かつてこの言葉を発して伊川の一言に二十年も壊されたと言い、こう語った。以前、伊川に会ったとき、伊川が近ごろの事はどうかと問うたので、天下、何をか思い何をか慮らんと答えた。伊川は、それはそのとおりだがこの理を発するのが早すぎると言った。もう一度、当初この言葉を発したときはどうだったかと問われ、事を見てその折には他念がなく、物に接しても応じられたと答えた。それならなぜ一言で転じられたのかと問われ、そう見えても透らぬところがあった、当初もし彼の一言に救い上げられなければ禅家に入っていただろうと答えた。伊川はまことに人を鍛えるのが上手で、言ってからまた、ちょうど工夫のしどころだと言った、と。

游酢

  • 游酢は字を定夫といい、建陽の人である。初め文学で当時に名を知られ、程頤は一目見てその資質は道に適うと言った。当時、程顥は扶溝県を知り、兄弟はまさに道学を明らかにすることを自らの任として庠序を設け邑人の子弟を集めて教えており、酢を召して学事に当たらせた。酢は喜んで従い、その微言を得て、そこで従来の学をすべて棄てて学んだ。
  • 呂居仁は、定夫は後に禅を学んだと言った。居仁がかつて書で問うと、酢は答えて、仏書の説くところは世の儒者もまだ深く考えていない、以前、伊川が、自分が攻めるのは迹だと言うのを聞いたが、迹はどこから出るのか、要するにこの事は自ら至ってこそ同異を弁じられる、そうでなければ口舌で争いがたいと述べた。

尹焞

  • 尹焞は字を彦明といい、洛陽の人である。程頤に学んだ。頤が人を教えるのはもっぱら「敬もって内を直くする」を本としたが、焞だけがよくこれを力行した。かつて、伊川が人を教えるのはただ専ら敬をもって内を直くさせることだ、この理を用いれば百事をあえて軽々に行わず、みだりに作らず、屋漏に愧じない、久しく習えば自然に得るところがあると言った。以前、先生が涪陵から帰った日に会いに行き、ある日、易を読んで「敬もって内を直くす」のところに至ったとき、「習わずして利あらざるなし」というのは、そこにはもう当てはめも計較もないのですかと問うた。先生は深く同意し、しかも、そうと見て取るのは容易ではない、なお涵養すべきで、軽々に説いてはならないと言った、と語った。

楊時

  • 楊時は字を中立といい、将楽の人である。初め進士に及第して官を得たが、二程の学を聞いてすぐ従学に赴いた。程顥は時に会ってきわめて喜び、いつも、楊君は最もよく分かると言った。帰るとき門まで送り、坐客に、吾が道は南せりと言った。
  • 時は帰って何年も閑居し、経書に浸り師説を推し広め、深く探り力めて求めてその趣を極め、涵養は広大で、あえて軽々に自ら振る舞わなかった。学者は亀山先生と称した。

羅従彦

  • 羅従彦は字を仲素といい、南剣の人である。初め博羅の主簿となり、楊時が程氏の学を得たと聞いて慨然と慕った。時が蕭山令となると、従彦は徒歩で学びに行き、時に会って三日で驚いて汗が背を浸し、ここに至らなければ危うく一生を空しく過ごすところだったと言った。学業を終えて帰り、山中に室を築いて仕官の意を絶った。学者は豫章先生と称した。
  • 従彦はかつて人と士の行いを論じて言った。周公と孔子の心は人に道を明らかにさせるものだ。まことに道を明らかにできれば、周公と孔子の心を深く自得できる。三代の人材は周公と孔子の心を得て道を明らかにした者が多かった。だから死生や去就を寒暑や昼夜の移り変わりのように見て、忠義を行うことが容易だった。漢唐に至ってはただ経術と古文を尚び、周公と孔子の心を失い、道を明らかにする者はまれになった。だから死生や去就を万鈞九鼎のように重く見て、忠義を行うことが難しくなった、と。また、士が朝に立つには正直と忠厚を本とすべきだ、正直なら朝廷に過失なく、忠厚なら天下に嗟き怨みがないと言った。その議論の醇正はこの類だった。

李侗

  • 李侗は字を愿中といい、剣浦の人である。初め羅従彦に学を受けた。従彦は静中に喜怒哀楽の未だ発しない前の気象を看て、いわゆる中を求めさせた。久しくして天下の理を包み尽くして貫き通し、順に融け解けてそれぞれ条理を得た。退いて山中に居り世故を謝絶すること四十年。後進に接して答え問うのに倦まなかった。かつて、学の道は多言にあるのではない、ただ黙坐して心を澄まし天理を体認すれば自ずと見えると言った。学者は延平先生と称した。

朱熹

  • 朱熹は字を元晦といい、新安の人である。父の朱松は籍溪の胡憲、白水の劉勉之、屏山の劉子翬の三人と親しかった。松は病が篤くなったとき、熹にこの三人を父として仕え学を受けるよう命じた。子翬はかつて熹に、自分は易で德に入る門を得た、いわゆる「遠からずして復る」が自分の三字の符だと告げた。
  • まもなく熹はさらに李侗に学を受けた。侗もまた父の友である。熹は、李先生に会ってから学問が初めて平実になり、以前、仏老の説に従事していたのがみな誤りだったと知ったと言った。侗が人に与えた書に曰く――元晦は初め謙開善のところで工夫を積んできたので、いずれも内面で体認している。今は論難して儒者の道筋がよく見え、その誤りの箇所を指せる。羅先生以来、こういう者はなかった。しかも他事はなく、ひたすらここに心を潜めている。初め学を講じたときは道理に縛られていたが、今はしだいに日用の処で融け解け、一意に工夫している。ここで熟していけば体と用が合う。この道理はすべて日用の処で熟することにある。静かな処にあって動く処にないのなら、それは違う――と。
  • 熹は生涯、書に読まぬものなく、義理に究め尽くさぬものがなかったが、その綱領と枢要は中庸の未発の一語にあり、前後にわたって張栻と最も詳しく論じた。その言に曰く――人の一身の知覚と運用は心のなすところでないものはない。だから心はもとより身に主たるもので、動静語黙の隔てがない。その静かなとき、事物がまだ至らず思慮がまだ萌さず、一性は渾然として道理が全く具わる。いわゆる中である。これが心の体であり寂然として動かないものだ。その動くとき、事物が交々至り思慮が萌して七情が代わる代わる用いられ、それぞれ主とするところがある。いわゆる和である。これが心の用であり、感じて遂に通ずるものだ。 しかし性は静かでありながら動かずにいられず、情は動きながら必ず節がある。これが心が寂然として感通し、周流し貫徹して体と用が始めから離れないゆえんである。 ただ人にこの心があっても不仁であればこの心の妙を著せず、人が仁を欲しても敬でなければ仁を求める功を致せない。心は一身に主たるもので動静語黙の隔てがない。だから君子は敬についても動静語黙を問わずその力を用いる。未発の前、この敬はもとより存養の実に主たるものであり、已発の際、この敬はまた常に省察の間に行われる。存するときは思慮がまだ萌さずして知覚は昧まない。これが静中の動であり、復の卦が天地の心を見るゆえんである。発するときは事物が紛糾しても品節を誤らない。これが動中の静であり、艮の卦が「その身を獲ず、その人を見ず」というゆえんである。静中の動に主たるものがあるから、寂かでありながら感じないことがなく、動中の静を察するから、感じながら寂かでないことがない。寂かにして常に感じ、感じて常に寂か。これが心が周流貫徹して一息も不仁でないゆえんである。であれば君子が中和を致して天地が位し万物が育つゆえんはここにあるだけだ。身に主たるもので動静語黙の隔てがないものが心であり、仁は心の道、敬は心の真である。これが上下に徹する道であり聖賢の本統である。これに明らかであれば、性情の中と中和の妙は一言で尽くせる――と。
  • 熹の門人の黄幹は熹の行状を書いて曰く――道の正統は人を待って後に伝わる。周以来、道を伝える責を任じ統の正しきを得た者は数人にすぎず、この道を明々と著せた者は一、二人にとどまる。孔子の後、曾子と子思がその微かなところを継ぎ、孟子に至って初めて著れた。孟子の後、周・程・張子がその絶えたところを継ぎ、先生に至って初めて著れた。千有余年の間、孔孟の徒がこの道を推し明らかにしたものが灰燼と欠落、離析と穿鑿、蠹壊の後に扶持し植え立てられた功は偉大だったが、百年もたたぬうちに乱れはいっそう甚だしくなった。先生が出て、周以来の聖賢が相伝えた道は一朝にして豁然として日が中天にあるように明らかに現れ、斯文を墜ちようとするところから起こし、後裔を無窮に覚らせた。天地とともに敝れても構わない――と。

張栻

  • 張栻は字を敬夫といい、広漢の人である。栻は聡明で早く成り、父の張浚が愛して、幼いころから教えたのは仁義忠孝の実でないものはなかった。長じて胡宏(仁仲)に程氏の学を問うた。宏は一目でその大器を知り、ただちに孔門の仁を論じた切実な旨を告げた。栻は退いて思い、得るところがあったようで、書で宏に質した。宏は喜んで、聖門に人ありと言った。栻はいっそう自ら奮い励み、古の聖賢をもって自ら期し、『希顔録』一篇を作って朝夕に観て自ら警めた。人となりは表裏が洞然として、義に従うに勇み、少しの滞りも吝しみもなかった。朱熹はいつも、自分の学は銖を積み寸を累ねて成ったが、敬夫は大本が卓然として先に見えていた者だと言った。
  • 栻はかつて、学は義利の弁別より先なるものはないと言った。義とは本心のなすべきところであって自ら已めることができないものであり、何かのためにするものではない。ひとたび何かのためにすれば、みな人欲であって天理ではない、と。学者は南軒先生と称した。

呂祖謙

  • 呂祖謙は字を伯恭といい、婺州の人である。その学は家庭に本づき、中原の文献の伝を承けた。長じて汪応辰・林之奇・胡憲に従い、張栻・朱熹を友とした。学は関中・洛陽を宗とし、傍らに載籍を稽え、心は平らかで気は和やかで、奇を衒わなかった。
  • 若いころは短気だったが、ある日、孔子の「躬自ら厚くして薄く人を責む」の言を誦えて、突然、平生の憤りが氷解するのを覚えた。朱熹はかつて、学は伯恭のようであってこそ気質を変化させられると言った。その講じ画するところは物を開き務めを成すためのもので、病に臥してからも任重く道遠しの志は衰えなかった。家を治める法はみな後世の法とするに足りた。
  • 祖謙はかつて朱熹への書に、学ぶ者は専心致志し、利の源を絶ち、凝り集め蓄えて初めて収拾がつくと述べ、また張栻への書に、従来の病痛は、嗜欲が薄かったためにかえって克ち治める工夫を経る機会を欠き、思慮が少なかったためにかえって操り存し澄まし定める力を欠き、積み蓄えが厚くないのに発用が急で、涵泳が足りないのに談説が余ることだと述べた。自ら克ち治めることはこのようだった。学者は東萊先生と称した。

陸九淵

  • 陸九淵は字を子静といい、金谿の人である。若くして異なる資質があり、三、四歳のとき父に侍って、事物に出会うたび必ず問うた。ある日、突然、天地はどこで窮まるのかと問い、父は笑って答えなかった。そこで深く思って寝食を忘れた。かつて書を読んで「宇宙」の二字に至り、突然、大いに悟って、宇宙内の事はすなわち己の分内の事、己の分内の事はすなわち宇宙内の事だと言った。また、宇宙はすなわち吾が心、吾が心はすなわち宇宙だ、千万世の前に聖人が出てもこの心を同じくしこの理を同じくし、千万世の後に聖人が出てもこの心を同じくしこの理を同じくする、東海に聖人が出てもこの心を同じくしこの理を同じくし、西・南・北の海に聖人が出てもこの心を同じくしこの理を同じくすると言った。
  • もと九淵の兄の九韶が、朱熹に書を送って太極図説を論じ、正しくないものを曲げて庇っては結局、病根になると述べ、太極の上にさらに「無極」の二字を加えるべきではないと主張した。熹は答えて、無極と言わなければ太極は一物と同じになって万化の根本たりえず、太極と言わなければ無極は空寂に沈んで万化の根本たりえないと述べ、また、無極とは形がないというだけ、太極とは理があるというだけだと言った。九韶は納得せず、濂溪を誹ってやまなかった。
  • そこで九淵が改めて熹に書を送ってその弁を申べた。要旨は――易の大伝に「形而上なる者、これを道という」といい、また「一陰一陽これを道という」という。一陰一陽がすでに形而上なのだから、まして太極はどうか。極とは中である。無極と言えば中がないと名づけることになる。どうして無極の字を太極の上に加えてよいのか。無極の二字は老子から出たもので、聖人の書にはない――というものだった。
  • 熹は答えて曰く――大伝はすでに「形而上なる者、これを道という」と言い、さらに「一陰一陽これを道という」と言う。これがどうして本当に陰陽を形而上とするものであろう。まさに、一陰一陽は形気に属するが、一陰一陽たらしめるものこそ道体のなすところだと示すためだ。だから道体の至極をいえば太極といい、太極の流行をいえば道という。名は二つでも実は二体ではない。 周子が無極といったのは、まさにそれが方所なく形状なく、物のある前にありながら物のある後にも立たぬことがなく、陰陽の外にありながら陰陽の中を行かぬことがなく、全体を貫き通じてどこにもないところがなく、しかも初めから声や臭いや影や響きとして言えるものがないからだ。今、無極を深く誹るのは、太極に形状があり方所があるとするものだ。陰陽をそのまま形而上とするのは、道と器の分に暗いものだ。さらに「形而上なる者」の上に「まして太極は」という語を置くのは、道の上に別に一物があってそれが太極だとするものだ。老子の「無極に復帰す」は無窮の意で、周子の言う意味とは違う――と。
  • 九淵はついに熹の言を是とせず、重ねて書いて弁じ、言葉はいっそう激しくなった。熹は答えて、およそ弁論は心を平らかにし気を和らげ、繰り返し精しく詳しく、実の是を求めてこそ帰着がある、そうできずに慌ただしく急迫のうちに支離で軽率な言葉をほしいままにして憤懣不平の気を吐くのでは、どうして君子長者の意といえよう、そうでないと言われるなら、我は日々に邁き月々に征く、各々聞くところを尊び各々知るところを行うまでで、必ず同じくすることは望めない、と述べた。
  • 熹はまた、子静兄弟の気象はきわめてよいが、その病は講学をすべて廃してもっぱら践履に努め、しかも践履の中で人に注意を促し省察させて本心を悟らせようとする点にある、これが病の大きなものだ、要するにその操持は謹厳質実で表裏が二つでなく、実に人に優るところがある、惜しむらくは自信が過ぎ、規模が狭く、人の善を取らず、異学に流れて自ら気づかないことだと言った。

蔡元定

  • 蔡元定は字を季通といい、建陽の人である。生まれつき聡明だった。父の蔡発は群書を博覧し、程氏の語録、邵氏の経世書、張氏の正蒙を元定に授けて、これが孔孟の正脈だと言った。元定はその義に浸り、長じて弁析はいよいよ精しくなった。西山の絶頂に登り、書に読まぬものなく、事に究めぬものなく、義理は大本を洞見し、図書・礼楽・制度に精妙でないものはなかった。洪範解・大衍詳説・律呂新書を著して世に行われた。
  • 経世書を論じて曰く――元・会・運・世の数は大きくて見えず、分・釐・糸・毫の数は小さくて察せられない。数えうるのは歳・月・日・辰によって知るものだ。一世に三十歳あり、一月に三十日ある。だから歳と日の数は三十。一歳に十二月あり、一日に十二辰ある。だから日と辰の数は十二。歳・月・日・辰の数から上へ推せば元・会・運・世の数を得、下へ推せば分・釐・糸・毫の数を得る。三十と十二を繰り返し掛け合わせて三百六十となる。だから元・会・運・世・歳・月・日・辰の八つの数はみな三百六十である。三百六十に三百六十を掛けて十二万九千六百となる。だから元に十二万九千六百歳、会に十二万九千六百月、運に十二万九千六百日、世に十二万九千六百辰、歳に十二万九千六百分、月に十二万九千六百釐、日に十二万九千六百毫、辰に十二万九千六百糸がある。いずれも天地の自然であって、智を仮り力を尽くして求めたものではない。天地の運行、日月の行度、気朔の盈虚、五星の伏見・遅速・屈伸、交食の浅深の数もみなこれによる。 漢以来、暦数で家をなしたのは太初暦と大衍暦だけである。太初は四千六百六十七歳を元とし八十一を分とした。大衍暦は一百六十三億七千四百五十九万五千二百を元とし三千四十を分とした。いずれも付会と牽合であり、これで天地の数を求めて差がないはずがない――と。
  • 元定が道州に流されたとき、郡県の逮捕はきわめて急だったが、元定は顔色一つ動かさず、末子の蔡沈と徒歩で道に就いた。熹と従学の者百余人が蕭寺で餞別し、坐客は歎じ、涙を流す者もあった。熹がひそかに元定を見ると平生と変わらない。そこで喟然として、友朋の相愛の情と季通の挫けぬ志、両方が得られたといえると言った。衆はゆっくり行くべきだと言ったが、元定は、天に罪を得たのだ、天に逆らえようかと言った。杖と履で子の沈とともに三千里を行き、脚は血を流したが、少しも言葉にも顔にも出さなかった。
  • 舂陵に着くと、遠近から学びに来る者が日々増え、州の士で席の下に趨って講説を聴かない者はなかった。元定を愛する者が生徒を謝絶すべきだと言うと、元定は、彼らは学びに来るのだ、どうして拒むに忍びよう、禍患があるとしても門を閉じ穴を塞いで避けられるものではないと言った。
  • 諸子に書き送って訓じて曰く――独り行くときも影に愧じず、独り寝るときも衾に愧じるな。自分が罪を得たからといってその志を懈るな――と。道中で一年余りたって没した。