宋史紀事本末陳亮の恢復の議(陳亮恢復之議)
隆興元年(1163年)から淳熙十五年(1188年)まで、布衣の陳亮が三度にわたって恢復の策を孝宗に献じた顛末。『中興論』では荊襄を重鎮として斉と秦を挙げる進取の道を説き、淳熙五年の上書では都を建業に移して金と絶ち、立国の本末を太祖の遺意に反すことを求めた。孝宗は心を動かしたが大臣に阻まれ、亮は誣告で二度も大獄に遭った。最後の上疏は皇太子に撫軍を命じることを請うたが、内禅の折で返答はなかった。
年表(3件)
- 孝宗
- 隆興元年十二月1163年陳亮が『中興論』を上って荊襄経営の策を説く
- 淳熙五年春正月1178年闕に詣でて三度上書し、建業遷都と立国の本末を論じる
- 淳熙十五年夏四月1188年東宮に撫軍大将軍を命じて金と絶つことを請う
孝宗隆興元年十二月(1163年)
- 婺州の人の陳亮が『中興論』を上った。当時、金人と和を約して中外は喜び、休息できることを幸いとしたが、亮だけは不可とし、解試に及第して京師に至った折に上言した。 臣は思う。海内が塗炭に沈んで四十余年、嘆き訴えるすべもない赤子を拯わずにはいられない。国家が凌辱された恥を雪がずにはいられない。陵寝を還さずにはいられない。領土を回復せずにはいられない。この三つは三尺の童子でも知っている。ただこれまでは彼の強さを畏れただけだ。韓信は、その道を反せば強きも弱くしやすいと言った。まして今の敵は凡庸で怯懦、政令は日々緩み、弓矢と鞍馬の長技を捨てて中原の華美な習いに走り、君臣の間は日ごとに怠惰に傾いている。古来、強弱の勢いが四、五十年変わらなかったためしはない。天の時に稽え人の事に照らせば、その変は遠くない。今この時に早く計らなければ、他の変が起こっても乗じようがない。万一、敵が懲りて賢明な主を立てるか、そうでなくとも豪傑が並び起こって業が他姓に帰せば、南北の患いはそこから始まる。 まして南渡から久しく、中原の父老は日々世を去っている。他国に生まれ育った者がどうして我らのことを知ろう。昔、宋の文帝が河南の故地を取ろうとしたとき、魏の太武は、自分は髪も乾かぬうちから河南が我が領土だと知っていた、どうして南朝の故地であろうかと言った。だから文帝は得てもまた失った。河北の諸鎮は唐の世が終わるまで職を奉じることを忠義とし、その習いに慣れその恩を受け、力を尽くして上国と敵対しながら自らが逆だと気づかなかった。これ以上たって恢復できなければ、中原の民は我らが誰なのかも知らなくなる。たとえ倍の力を用いても功は半分にも及ぶまい。俗な喩えで言えば、父祖が財産を人に質入れし、子孫が受け戻せないまま数十年たてば、時勢が一変して質を取った側が官に申し出て自分の元からの財産だと認めさせる。そうなれば我らはどうして質だと言って取り返せよう。今日の事をこれ以上緩められようか。 陛下は神武の資質を持ち、憂え勤め席を側めて、慨然と天下を平定する志を抱いておられる。もとより群議に惑わされてはいない。しかしなお人心が一つでないこと、天の時が順わないことを患い、賢者はひそかに憂え姦者はひそかに笑っている。なぜか。その道を反すことを思わないからだ。まことにその道を反せば政化が行われ、政化が行われれば人心が一つになり、人心が一つになれば天の時が順う。天が人に違うのではなく、人が自ら反省しないだけだ。 今なすべきことはこうだ。中書の事務を整理して大計を立て、六卿の権を重くして大綱を統べ、賢を任じ能を使って官曹を清め、老を尊び幼を慈しんで風俗を厚くし、進士の定員を減らして能を選ぶ科を設け、任子の制を改めて薦挙の実を重んじ、台諫を多く置いて朝綱を粛し、監司を精選して郡邑を清め、法を簡にし令を重んじてその源を澄まし、礼を崇め制を立ててその習いを斉え、綱目を立てて無駄な費用を節し、先にすべき務めを示して虚文を斥け、政令の条を厳しくして名実を照らし、吏の姦を懲らして賞罰を明らかにする。時に外郡の兵を選んで禁軍の数に充て、総司の余剰を調えて軍旅の蓄えを助け、守令を択んで戸口を殖やす。戸口が増えれば財は自ずと豊かになる。将材を択んで軍政を立てる。軍政が明らかなら兵は自ずと強くなる。大帥を置いて辺境を統べさせ、専任を委ねれば辺境の利は自ずと興る。文武を任じて辺郡を分掌させ、長く委ねれば辺郡の守りは自ずと固まる。武事を重んじて国家の勢いを振るい、直言を慰めて天下の気を作し、間諜を精しくして敵情を得、形勢に拠って中原の心を動かす。数か月もせず紀綱は自ずと定まり、二年もすれば内外は自ずと充実し、人心は自ずと一つになり、天の時は自ずと順う。行かないうちはともかく、ひとたび行けば民は自ずと帰す。なぜなら耳が同じく聴いて心が同じく服するからだ。動かないうちはともかく、ひとたび動けば敵は自ずと争う。なぜなら形が同じく趨いて勢いが同じく利するからだ。中興の功は足を上げて待てる。 そもそも攻守の道には必ず奇変がある。形を示せば敵は必ず従い、衝けば敵は救えず、禁じれば敵は動けず、乖かせれば敵は行き先を知らない。だから我は常に専らで敵は常に分かれ、敵には窮まりがあり我には窮まりがない。奇変の道は人の謀に本づくが、常に地形による。縦と横、長と短、緩急の相形、盈虚の相傾。これが人謀の措くところであり奇変の宿るところだ。 今、東西は数千里に連なって長蛇が道に横たわるようで、地形は等しく入り組みがない。攻守の道に他の奇変はない。今、朝廷は江を守った弊に鑑みて両淮に大きく城を築いた。慮りは深い。だが我が城の兵が守り切れると保証できようか。だから術を用いてその行き先を乖かせるに越したことはない。 進取の道を論じるなら、必ず東は斉を挙げ西は秦を挙げてこそ、大江以南と長淮以北はもとより我が腹中の物となる。斉と秦はまことに天下の両腕だ。しかし敵はそこを天設の険として固守している。だから必ず急所を打ち虚を衝き、形を格し勢いを禁じる道がなければならない。 ひそかに天下の大勢を観るに、襄陽・漢水は敵が手薄にしているところで、今日、事をなすべきところだ。京城と洛陽を控え、淮水・蔡州を睨み、荊楚を包み、呉と蜀を襟帯とし、沃野千里で耕すことも守ることもでき、地形は四方に通じて左にも右にも動ける。今まことに、德望が高く謀りが明審な重臣一人を命じて荊襄を鎮撫させ、軍民を和し、大信を布いて小利を争わず、守宰を慎んで択び、刑を省き斂を薄くし、要害に城を築き、大いに屯田を興させる。荊楚の奇才・剣客は昔から雄と称された。ゆっくり募って軍籍を充実させ、民俗は剽悍だから農閑期に武芸を習わせる。襄陽を重鎮とし、安州・随州・信陽および光州・黄州はすべて太祖が辺将に委任した法を用いて、州の兵を与えたうえで自ら募らせ、州の賦を与えたうえで自ら用いさせる。士を養って死力を得られるようにし、間諜を用いて敵情を得られるようにする。兵は少なくとも助けを多く建て、官は軽くとも重く権を仮す。城を並べて互いに援け、隣を和して鋭気を養い、機に触れて発する。 ひとたび金人が旧習に慣れて江淮を侵せば、荊襄の帥が諸軍を率いて進討し、唐州・鄧州の諸州を襲って取り、潁州・蔡州の間に兵を屯して必ずその後ろを断つ姿勢を示す。あわせて諸州に、城を移して築くこと、三受降城の法のように、呉軍の故城に依って蔡州を作り、唐州・鄧州を各々二百里の距離に置き、桐柏山に沿って固めさせる。兵を揚げて塁を衝き、堤を増し塹を深くし、土豪を招集して千家ごとに一堡を作り、雑耕の利を興して長く駐まる基とする。敵が来れば城に拠って固守し、奇を出して変を制する。敵が去れば城を並べて呼応し首尾を一つにする。間諜を精しくし斥候を明らかにし、諸軍を光州・黄州・安州・随州・襄州・郢州の間に進屯させ、前は諸州の援けとなり後ろは屯田の利による。 朝廷は都を建業に移し、行宮を武昌に築いて大駕が時に一度巡幸する。敵が我が意が京城・洛陽にあると知れば、京城・洛陽・陳州・許州・汝州・鄭州の備えは日々増し、東西の勢いは分かれる。そこで斉と秦の間に乗じられる。四川の帥が自ら大軍を率いて鳳翔の敵に当たり、驍将に祁山から出て隴右を断たせ、偏将に子午道から長安をうかがわせ、金州・房州・開州・達州の軍が武関に入って三輔を鎮めれば、秦の地は謀れる。山東の帰順者に豪傑を説かせて密かに内応させ、水軍が海路からその背を衝けば、彼が支え逃げ回るところへ大軍が二道から並び進んでその胸を刺す。斉の地も謀れる。 我は唐州・鄧州・上蔡に形を示しながら重ねて進もうとせず、坐して東西の後ろ盾となり、勢いは猿の腕のように伸縮する。彼はいよいよ我が意が京城・洛陽にあると疑い、こちらが重厚に構えて進まぬ姿勢を示せば、京城・洛陽の備えはいっそう厚くなり、我は必ず斉と秦で志を得る。斉と秦を撫定すれば、京城・洛陽はどこへ行けよう。これが急所を打ち虚を衝き、形を格し勢いを禁じる道である。 たとえ我が東西の挙を起こさなくとも、彼は必ず京城・洛陽を離れて軽々に江淮を侵せない。これも行き先を乖かせるということだ。また彼が力を合わせて唐州・蔡州に迫れば、淮西の軍が起こって東を禁じ、金州・房州・開州・達州の軍が起こって西を禁じる。形を変化させ敵を多方に牽制すれば、権は初めて我にある。 ただ荊襄の帥は必ず国家に純一で、功を貪り事を起こす心のない者を得てから委ねるべきだ。平生無事なら誠信を布いて敵の心を攻めようとし、いざ進取のときには便宜と利を見て止め、敵の勢いを禁じようとし、東西の軍が功を挙げれば諸将を制して重厚に構えて進まず敵の形を分けようとする。陸抗や羊祜の類でなければ誰にできよう。 国を伐つのは大事である。昔の人はこれを小児の歯を抜くのに喩え、必ず徐々に揺すってから抜けば歯は得られるが、一度に抜けば必ず児を損なうと言った。今、東南の力を尽くして大挙の勢いを成そうとしても、臣は、進取して志を得られるとは限らず、地を得ても守れるとは限らず、たまたま意に沿わなければ我が根本が揺らぐことを恐れる。これが国を謀る万全の道であろうか。だから臣は、攻守の間には必ず奇変があると言う。 臣は迂遠な人間で、天下の大計を明らかにするに足りない。ただ愚見の概略を『中興論』と名づけた。陛下の裁断を仰ぐ、と。返答はなかった。
- 亮は退いて永康に居り、学に励んで著述した。亮はかつて銭塘を見回して嘆息し、この城は水攻めにできると言った。土地が西湖より低いからである。
淳熙五年春正月(1178年)
- 丁巳、陳亮が闕に詣でて上書した。 臣は思う。中国は天地の正気であり、天命の鍾まるところ、人心の会するところ、衣冠礼楽の萃まるところ、百代の帝王が相承けてきたところである。中国の衣冠礼楽を提げて偏った一方に寓しても、天命と人心はなお繋がっているとはいえ、これで長く安んじて事なしとしてよいはずがない。天地の正気が塞がれて長く伸びなければ、必ずどこかで発する。天命と人心は、もとより偏方に長く繋ぎとめられるものではない。 国家二百年の太平の基は三代にもなかったものであり、二聖が北へ連れ去られた痛みは漢唐にもなかったものである。南渡の初め、君臣上下は心を痛め頭を痛め、彼と共には生きないと誓い、ついに敗走の余勢で百戦の敵に勝てた。ところが秦檜が邪議を唱えてこれを阻み、忠臣義士は南方で斥けられて死に、天下の気は萎えた。三十年余り、西北から流れ寓した者もみな東南で孫を抱き長く息をつき、君父の大讐は一切、念頭から消えた。金の亮が来なければ淮南でさえ戦とは何かを知らなかっただろう。まして故国の恥に憤って相率いて一矢を放つことなど望めようか。 丙午・丁未の変は今なお遠いこととされ、海陵(完顔亮)の禍は陛下の即位の前年である。ただ陛下だけが身を顧みず敵を滅ぼす志を立てられたのに、天下の人は無事のように安んじ、口では議し腹では誹り、陛下は功名を好んで後患を顧みないとした。陛下でさえその崇高な勢いをもってこれに勝てず、忍んで今日まで十七年になる。 昔、春秋の時、君臣父子が互いに殺し合う禍を世を挙げて安んじていたが、孔子だけは三綱が絶えれば人道は禽獣になるとして、あわただしく奔走し、義として一朝も安んじなかった。ついに遇うところなく、その志を春秋の書に発して、なお乱臣賊子を懼れさせた。今、世を挙げて君父の大讐を忘れている。これが人道として安んじられようか。学ぶ者に孔子の道を学ぶことを知らせるなら、陛下を有為へ導くべきで、決して安を偸ませて阻むべきではない。 南の軍が出ないまま今日まで何年になるか。奮い立てる豪傑が一人もいないはずがない。その勢いは必ずいつか発する。国家が起って承けなければ、必ず他に承ける者が出る。衣冠礼楽の旧と祖宗の積み重ねの深さを恃んで、天命と人心が坐したまま長く繋がると思ってはならない。春秋の末、斉・晋・秦・楚がみな衰え、呉と越が小国から起こって諸侯に覇した。黄池の会は孔子がひどく痛んだところで、中国に人なきことが明らかになった。王通は、帝王の德は黎民が懐く、三才はどうしてこれを捨てようかと言った。これは今の儒者がまだ講じていないところだ。 金の根はすでに久しく張っており、一挙に滅ぼせない。国家の大勢はまだ張らず、一朝に大挙できない。そして人情はみな和を通じることを便としている。臣は、和を通じるのは上下のその場しのぎを成し、妄言と凡庸の両方が売れる地を作るものだと考える。人情に便とされるのも道理だ。 和好が成ってから久しい。今日、方略を画している者は、後日それで坐して謀を巡らせるはずの者だ。今日、毬を打ち鵰を射ている者は、後日それで勝ちを決するはずの者だ。府庫が満ちているのはみな財、鎧兜が鮮やかなのはみな兵である。ひとたび戦端が開けばその実は露見する。なぜか。人材は用いてこそ能否が現れる。坐して有能な者は恃むに足りない。兵と食は用いてこそ盈虚が現れる。坐して満ちているものは恃むに足りない。 朝廷は一朝の無事を幸いとし、凡庸で狭量の人がみな格令を守り文書を回して陛下の命令を奉じ、陛下もその御しやすさと他心のないことを幸いとされる。ただそのために度外の士は棄てられて志を伸ばせず、月日は空しく過ぎて老いが至る。だから臣は、和を通じるのは上下のその場しのぎを成し、妄言と凡庸の両方が売れる地を作るものだと言う。 東晋の百年、南北は和を通じたことがない。だからその臣は東西に馳せて用いうる才が多かった。今は和好がひとたび通じなくなると、朝野の議論は常に敵兵が境にいるかのようで、和が得られないことだけを恐れる。陛下も和せざるを得なくなる。 昔、金人は草に居り野に処し、往来に常がなく、人に備えを分からせず、兵はいつでも出せた。今は城郭・宮室・政教・号令が一切、中国と変わらない。兵を点検し糧を集め、文書が往復して歳月がかかり、一方に警報があれば三辺が騒ぐ。これで毎年出師して我らを撹乱できようか。しかし朝野が常に敵兵が境にいるかのように構えるのは国家の福であり、英雄が天下を争う機とするところだ。執事者はなぜ和を急いでその心を怠らせるのか。 晋と楚が邲で戦ったとき、欒書は、楚は庸に克って以来、その君は日々国人を集めて、民の生きるのは易しくなく禍はいつ至るか分からない、戒め懼れて怠ってはならないと訓じ、軍にあっては日々軍の備えを点検して、勝ちは保てない、紂は百度勝って後がなかったと戒めていると言った。晋と楚が宋で兵を弭めたとき、子罕は、兵は不軌を威し文德を昭らかにするもので、聖人はこれで興り乱人はこれで廃れる、廃興存亡と昏明の術はみな兵に由る、それを除こうというのは偽りの道で諸侯を欺くものだと言った。人心は怠らせてはならず、兵威は廃してはならない。だから成王・康王の太平にも「四方を征し庭せざるを討ち」「六師を張皇にする」ことがあった。李沆が真宗が遼と和親するのを深く願わなかったのはこのためだ。まして南北が角逐する時に兵を廃して人心を怠らせ、君父の大讐を忘れて安んじさせ中国を度外に置き、いたずらに妄言と凡庸の徒を安楽にさせるとは、執事者の失策も甚だしい。 陛下はなぜ大義を明らかにして慨然と金と絶たれないのか。乗輿を貶し正殿を退き、痛切に自ら責め、必ず仇を復すと誓って群臣を励まし、天下の気を振るい、中原の心を動かす。兵を出さなくとも人心はあえて怠らなくなる。東西に馳せて人材が出る。盈虚を補い合って兵と食が現れる。狂妄の言は攻めずして息み、懦弱凡庸の者は退けずして日々退く。度外の士が起って、陛下の用いようとするままになる。これは雲が合し響きが応じる勢いで、坐して致せるものではない。 臣は陛下のために国家の立国の本末を述べて今日の大いに為す略を開き、天下の形勢の消長を論じて今日の大いに為す機を来させたい。お聴きいただきたい。 唐は肅宗・代宗以後、上が柄を失い、藩鎮が互いに雄長を競って土地人民をほしいままにし、甲兵と財賦を自ら用い、官爵も思いのままに命じた。人材もそれぞれ仕える先に心を尽くし、ついに君は弱く臣は強く、正統がたびたび易わる禍を成した。太祖が興ると四方は次第に平定され、藩鎮は手を拱いて約束に従った。列郡がそれぞれ京師に直達できるようにし、京官を権知として三年で交代させ、財は漕司に帰し兵はそれぞれ郡に帰した。朝廷が一紙を郡国に下せば腕が指を使うようで滞りがない。倉庫の小役人までみな朝廷が任命し、天下の勢いは一つになった。だから京師には常に重兵が置かれ、郡国にもそれぞれ禁軍があり、いずれも天子が自らその地を守るためのものだ。兵はみな天子の兵、財はみな天子の財、官はみな天子の官、民はみな天子の民である。紀綱は統べられ法令は明備で、郡県は一事も専断できない。士は尺度で取り、官は資格で進み、度外の奇才を求めず絶世の俊功を慕わない。天子は朝夕、上で憂え勤め、義理と廉恥で士大夫の心を繋ぎ、仁義と公恕で民の生を厚くする。天下すべてが規矩準縄の中に収まり、二百年の太平の基がここから立った。 しかし契丹はしだいに勢いを積んで中国と抗衡し、儼然と南北の両朝をなし、辺境は削られて安らかな年がほとんどなかった。澶淵の一戦がなければ中国の勢いはしだいに衰え、根本は厚くとも立たなかっただろう。だから慶暦の増幣は富弼が朝廷の大恥として、生涯その労を自ら誇らなかった。契丹が征令するのは主上の権能であり、天子が貢を供するのは臣下の礼である。契丹がついに中国に勝ったのは、その積み重ねに漸があったからだ。立国の初めから勢いは必ずここに至ることになっていた。 だから我が祖宗は廟堂を厳かにして大臣を尊び、郡県を寛くして守令を重んじ、法文の内では天下の富商巨室を苦しめず、格律の外では天下の英偉奇傑を容れて奨めた。いずれも立国の勢いを助け不虞に備えるためだ。慶暦の諸臣も中国の勢いが振るわないことに憤ったが、その要は群臣に争って説を出させ法令を改めさせることで、廟堂は軽くなった。按察の権を厳しくして功を求め事を起こし、郡県もまた軽くなった。立国の勢いを助けないどころか、かえって削り取った。章得象や陳執中がその事を阻まなくとも、自ら沮まずにいられようか。ただ旧例を破って序列によらず人を用い、農桑を勧め寛大を務めたのは因革の宜しきに適っていたが、その大要はすでに誤っていた。だから契丹が中国を卑しむ恥を洗えず、ついに神宗の大憤を発することになった。 王安石は法度を正すという説でまず聖意に合ったが、その実は、天下の兵をすべて登録して朝廷に統べさせ、別に教練を行って強くしようとし、郡県の財をすべて朝廷に入れて別に封樁を行って富ませようとしたものだ。青苗の政は富民が困らないことを恐れるかのようで、均輸の法は商賈が損をしないことを恐れるかのようだった。罪は大小を問わずたちまち獄を興し、士大夫は口を閉じて罪を畏れた。西北の両辺では内臣に経営させ、豪傑はその役に就くのを恥じた。いたずらに神宗に兵と財の数の多さを見せ、勇んで南征北伐させたが、ついに聖意に背き、天下の勢いは実は振るわなかった。 彼らは、本朝の立国の勢いがまさに、形式が細かすぎ事権が分かれすぎ、郡県が下で軽すぎて瑣末に流れて恃めず、兵と財が上に集まりすぎて重く鈍く動かしにくいことを患いとしていると知らなかったのだ。祖宗はただ先の四つを用いてその勢いを助けたのに、安石は余力を残さずそれを涸らした。立国の本末を知らない者は、まことに国を謀るに足りない。元祐と紹聖が一反一覆して、ついに金人の侵略の資となった。どうして中国を振るって遠人を威すことを望めよう。 南渡以来はおおむね祖宗の旧に遵い、多少の因革増損があっても軽重にかかわらない。趙鼎らでさえ変通の理を究めなかった。まして秦檜はことごとく取り除いて毀ち、恥を忍んで讐に仕え、一隅に太平を飾って欺いた。誅して余りある。 陛下は王業が一隅に屈していることに憤り、志を励まして復讐を図られたが、天下の兵を登録して強くし郡県の利を括って富ませることを免れなかった。百姓に恵みを加えられても富人に五年の蓄えはなく、税を重くされなくとも大商に巨万の蓄えはない。国勢は日々困窮している。臣は、名簿の兵と府庫の財が一日の用にも堪えないことを恐れる。陛下は早く朝し遅く退いて中興の功を期しておられるが、縄墨で人を取り、文法で事に臨み、聖断で中外を裁制されるので、大臣は位を埋めるだけで胥吏が坐して条令を行い、百司は責を逃れ、人材は日々卑小になる。臣は、文章の士や資格の官が度外の用に当たれないことを恐れる。 太祖が天下を経営した大略は、太宗でさえ用い尽くせなかった。今、その遺意が陛下に望みをかけていないはずがない。陛下がその意を推して行われれば、社稷数百年の基を開ける。まして故物を回復することなど。そうでなければ、維持の具はすでに尽き、祖宗の積み重ねも恃むに足りないことを恐れる。陛下がまことに臣に前で述べ尽くさせてくださるなら、今日の大いに為す略の処し方が必ず分かるはずだ。 そもそも呉と蜀は天地の偏った気であり、銭塘は三呉の一隅にすぎない。唐が衰えたとき銭鏐が巷の雄からその地に王となったが、それ以来、独立できず常に中国に事えて重みとした。我が宋が命を受けると、銭俶は一家を挙げて京師に入り自らその土を献じた。だから銭塘は五代を通じて兵禍が最も少なく、二百年の間に人物は日々繁盛して東南一となった。 建炎・紹興の間に行在の地となったとき、論者はすでに形勢を張って恢復を事とするには足りないと疑った。秦檜はさらに百司庶府を備えてそこで礼楽を講じたので、風俗はいっそう華美になり、士大夫も庭園や台榭を作って干戈の余りに生を楽しみ、上下は安逸に浸って銭塘は楽土となった。わずかな地はもともと万乗を容れるに足りないのに、五十年も抑え据えられ、山川の気も発し尽くして余りがない。だから穀・粟・桑・麻・糸・麻布の利は年ごとに減り、禽獣・魚鼈・草木の生は日ごとに衰えているのに、上下はそれを異としない。公卿将相はおおむね江浙・閩・蜀の人ばかりで、人材は日々凡庸になり、科挙の場の士は十万を数えても、文章に少し違いがあるだけで雄と称される。陛下が銭塘の耗れた気に拠り、閩浙の日々衰える士を用い、東南の安逸に慣れた脆弱な衆を鼓して北へ向かい中原を争おうとされる。臣はそれが難しいと知る。 荊襄の地は、春秋の時に楚がこれを用いて斉・晋を虎視し、斉・晋は屈服させられなかった。戦国の際には独り秦と帝を争えた。その後三百余年で光武が南陽から起こり、同時に事をともにした者にはしばしば南陽の旧知が多かった。さらに二百余年で三国が奪い合う地となり、諸葛亮はここから起って先主を輔け、荊楚の士は雲のように従い、漢氏は蜀で存続できた。周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜・陸抗・鄧艾・羊祜はみなこの地で名を顕した。さらに百余年で晋氏が南渡し、荊襄は常に東南で雄を占め、東南はしばしばこれを頼りに強かった。梁はついにこれで斉に代わった。 だがその気が発し尽くすと、隋唐以来は偏った地の下等の州となった。五代の際、高氏だけが常に諸国に臣事した。本朝の二百年間は荒れた地に落ち、北は許州・汝州に連なるが民の住まいは少なく、土産は乏しく、上国に姓名を通じられる人材は明けの星のようだった。建炎・紹興の際には群盗が出没して禍はとりわけ極まり、今に至っている。南北に分かれて争う地でありながら、しばしば用いるに足りないとされ、民の食は出るところがなく兵もここから進められない。論者はこれを憂えるが、その勢いが用いるに足りることを知らない。 その地は要するに偏方だが、偏方の気が五、六百年も発しないことはない。まして東は呉会に通じ、西は巴蜀に連なり、南は湖湘を極め、北は関中・洛陽を控え、左右に伸縮していずれも進取の機となりうる。今まことにその地を開拓し、その人を洗い清めてその気を発させて用い、関中・洛陽の気に接しうるようにすれば、中国と衡を争える。これも形勢消長の常数である。 陛下が慨然として都を建業に移し、百司庶府はみな草創に従い、軍国の儀はみな簡略に従い、さらに武昌に行宮を作って安居しない意を示し、常に江淮の軍を金人の侵入への備えとし、そのうえで士人のうち沈着で謀があり、開豁で他心のない者を精選して荊襄の任を委ね、その法文を寛くし、廃置を任せ、三、数年の間に撫し励ませば、国家の勢いは成る。 石晋が盧龍一道を失って開運の禍を成したのは丙午・丁未の歳である。翌年、太祖は郭太祖に従って征伐に加わり、ついに天下を平定した。その後、契丹は甲辰に澶淵で敗れ、丁未・戊申の間に真宗が東に封じ西に祀って太平を告げた。本朝の極盛の時である。さらに六十年、神宗はまさに丁未の歳に即位し、国家の事はここで一変した。さらに六十年の丙午・丁未がついに靖康の禍となった。天は独りその年に陛下を啓き、しかも陛下に北へ向かって復讐する志を啓かれた。今、丙午・丁未まで十年に近い。天道は六十年に一変する。陛下はその変に応じられずにいられようか。これこそ今日の大いに為す機で、その場しのぎで歳月を弄べない。 臣は不才ながら若いころから四方を馳せる志があり、たびたび行在に来た。人物は林のようだが、その議論はいずれも人の意を起こすに足りなかった。だから臣は陛下の大いに為す志が孤立していると知った。辛卯・壬辰の間、退いて天地造化の初めを窮め、古今沿革の変を考え、皇・帝・王・覇の道を推し極めて、漢・魏・晋・唐の長短の由来を得た。天と人の際は明らかに考えて知りうる。そこで初めて悟った。今の世の儒士で正心誠意の学を得たと自称する者はみな、しびれて痛み痒みを知らぬ人である。世を挙げて君父の讐に安んじながら、頭を垂れ手を拱いて性命を談じる。何を性命と言うのか分からない。陛下はこれに接しながら事を任せられない。臣はここに陛下の仁に服した。また悟った。今の世の才臣で富国強兵の術を得たと自称する者はみな、狂惑して喚き散らす人である。閑暇に立国の本末を講究せず、眉を揚げ気を伸ばして富強を論じる。何を富強と言うのか分からない。陛下はこれを察して用い尽くされない。臣はここに陛下の明に服した。 陛下は志を励まして仇を復そうとされ、天命に応えるに足り、仁愛に篤くて民心を結ぶに足り、しかも明は群臣の一偏の論を照らすに足りる。百代の英主である。それなのに凡庸を委任し小儒を籠絡して大いに為す歳月を引き延ばしておられる。臣は憤りに堪えず、賤しい身を忘れて愚見を献じる。陛下がまことに臣に前で述べ尽くさせてくださるなら、臣のささやかな願いだけでなく、天地の神と祖宗の霊が実にこれを聞き届けるだろう、と。
- 書が奏されると帝は色を変えて震え動き、朝堂に掲示して群臣を励まし、种放の故事によって召して殿に上らせ抜擢しようとした。左右の大臣はどうすべきか分からず、曾覿だけがこれを察して亮に会おうとした。亮は覿に知られるのを恥じて垣を越えて逃げた。覿は自分を訪ねなかったので不快になり、大臣もその直言と憚りのなさをとりわけ憎んで、そろって阻んだ。そこで都堂で審査する命が出た。宰相が上の旨を伝えて言いたいことを問うたが、亮はいずれも率直で少しも譲らず、また意見が合わなかった。
- 命を待つこと十日、亮は再び闕に詣でて上書した。皇帝陛下は志を励まして仇を復し、一隅に安んじることを肯んじられない。社稷に大功がある。しかし銭塘の浮薄な一隅に坐して中原を図るのは、その地ではない。東南の安逸に慣れた衆を用いて進取を行うのは、その人ではない。財が府庫に止まっては天下の有無を通じられず、兵が名簿に止まっては天下の勇怯を兼ねられない。だから引き延ばしの計が行われ、陛下の大いに為す志は怯えた。これが臣が忠憤に堪えず斎戒沐浴して書を裁して闕下に献じ、御顔を望み見て、国家の立国の本末を陳べ大いに為す略を開き、天下の形勢の消長を論じて大いに為す機を決したいと願うゆえんであり、太祖が天下を経画した本旨に合うことを務めるものだ。それなのに命を待って八日、まだ何も聞こえない。臣は、天下の豪傑が陛下の意向を測って、雲が合し響きが応じる挙が成らなくなることを恐れる、と。
- さらに上書して述べた。臣は勝手ながら、国家の維持の具は今日に至って尽き、太祖が天下を経画した大指はなお恃んで長久たりうると考える。その意を推して変通すれば、恢復は難事ではない。しかし変通の道には三つある。数十年を引き延ばせる策、百五、六十年の計となるもの、数百年の基を開けるものである。事勢は明白で効果の現れ方はまったく違う。陛下の聡明が百代を越えていなければ、決して一つ一つ聴き入れられるものではない。臣は大臣の前でこれを漏らそうとしないが、大臣が手を拱いて旨を伝えて問うので、大体として言える三事だけを取って答えた。 第一。二聖が北へ連れ去られた痛みは国家の大恥であり天下の公憤である。五十年余り、天下の気は消え萎えて、もう仇と恥を念うべきことも知らない。まさに主上と二、三の大臣がその気を奮い立たせてその憤りを吐き出させ、人ごとに私の仇に報いるようにさせるべきだ。これが春秋が「衛人、州吁を殺す」と書いた意である。 第二。国家の規模は天下に規矩準縄を奉じて事に従わせるものだ。群臣は過ちを繕うのに手一杯で、どうして四体を展べて度外の功を済す暇があろう。 第三。太祖は天下の士人を用いて武臣の任事に代えた。だから本朝は儒によって国を立て、儒道の振るいは前代に優る。今、天下の士は爛れて萎え、まことに厭うべきだ。まさに主上と二、三の大臣がその道を反して教え、その気を作して養い、事に臨んで才が乏しくならないようにし、才に随ってみな用に足るようにすべきだ。そうすれば立国の規模は太祖の本旨に背かず、東西に馳せて禍乱を定めるのに必ずしも武臣だけによらない。 臣が大臣のために論じたところはおおよそこうである、と。
- 書が上がると帝は官を与えようとしたが、亮は笑って、自分は社稷のために数百年の基を開こうとしているのに、これで一官を得てどうするのかと言い、急ぎ江を渡って帰った。
- 亮は日々落魄して酒に酔い、邑の狂士と飲んだ。酔って戯れに大言し、言葉が上を犯すものに及んだ。ある士が亮を陥れようとしてその件を告発した。刑部侍郎の何澹はかつて考試官として亮を落としたことがあり、亮は不平からたびたび澹を言葉で傷つけていた。澹は聞いて恨んでおり、そのまま告発状を上聞した。事は大理に下され、亮は肌が残らないほど笞打たれ、誣いられて不軌を認めさせられた。事が上聞されると、帝は亮だと知った。かつて密かに左右を遣ってその事情を調べさせていたので、奏が入って旨を仰ぐと、帝は、秀才が酔って妄言しただけだ、何の罪があるかと言い、その文書を地に投げ捨てた。亮はこうして免れた。
- まもなく亮の家僮が境内で人を殺した。折しも殺された者はかつて亮の父を辱めたことがあり、その家は亮の指図と疑って官に訴えた。僮は笞打たれて死んでは蘇ることを繰り返したが服さなかった。亮の父子も州の獄に囚われ、台官に亮の情状が重いと論じさせようとした。大理寺の丞相の王淮は帝が亮を生かしたがっていると知っており、辛棄疾と羅点は亮の才を高く買って力を尽くして援けたので、また死を免れた。
- 亮は豪俠を自負しながらたびたび大獄に遭い、帰家していっそう志を励まして読書し、学問はいよいよ博くなった。その学は孟子以後では王通だけを推し、かつて、義理の精微を研究し古今の同異を弁析し、心を微細に原ね理を分寸に較べ、積み重ねを工夫とし涵養を正しさとし、顔に和らぎ背に満ちるといった点では、諸儒にまことに恥じるところがある、しかし堂々の陣、正々の旗、風雨雲雷が一斉に発し、龍蛇虎豹が変じ現れて出没するように、一世の智勇を推し倒し万世の心胸を開拓することについては、自分にいささか一日の長があると言った。亮の意はおそらく朱熹や呂祖謙らを指したものである。
淳熙十五年夏四月(1188年)
- 陳亮が上疏して述べた。 非常の人があって初めて非常の功を建てられる。非常の功を求めながら、常才を用い常計を出し常事を挙げて応じるのでは、智者を待つまでもなく成らないと分かる。 秦檜が和で国を誤ること二十余年、天下の気は萎え尽きた。陛下が慨然と宇内を平らげる志を立てられてまた二十余年、天下の士は初めて向かうところを知った。宗廟社稷への功は臣の言い尽くせるところではない。高宗が高齢だったので、陛下は大挙して慈顔を驚かせることを望まれず、心を抑えて頭を垂れ孝養を尽くされた。聖孝の盛んなことは書物にもないほどだ。 今、高宗はすでに廟に祔された。天下の英雄豪傑はみな首を仰いで陛下の挙動を見ている。陛下はどうして二十年の間に天下の気を作したものを、一朝にしてまた萎えさせるに忍びられようか。 天下は坐して取れず、兵は常には勝てず、駆け回って動くのは高齢で德の尊い方に相応しくない。東宮は在れば監国、行けば撫軍という。陛下はなぜ今、東宮に撫軍大将軍を命じ、年ごとに建業を巡らせ、諸司を兼ね統べさせ諸将を残らず統率させ、長史・司馬を置いてその労を専らにさせられないのか。そして陛下は喪の余りに人材を運用し天下を調えて無窮の変に応じられよ。これが肅宗が広平王に命じた故事である。兵は出さなくとも聖意は震え動き、天下の英雄豪傑はなびいて向かうところを知る。そうなれば我らの駆け回る動きにも拠りどころができる。 臣は陛下のために天下の形勢を論じ、そのうえで江南は憂うるに足りず、和議は守るに足りず、敵は畏るるに足りず、書生の論は憑むに足りないことを申し上げたい。 呉会は晋人が都とすべきでないとしたところだが、銭鏐はここに拠って四隣に抗した。毗陵より外は保てなかったからだ。その地は南に浙江、西に崇山峻嶺、東北に大きな湖と湿地があり、松江と震沢が前に横たわる。戎馬百万があっても使いようがない。これが銭鏐が安んじた拠りどころであり、国家が六十年ここに都して外憂のなかった理由である。ただ海路だけが呉会に直達できるが、海路の険は舟に慣れた呉の者さえ畏れる。敵が軽装の軍で直行できようか。人の家国を破るのに軽装の軍だけで済むか。書生が江南は保ちがたいと言うのは、まことに女子どもの論である。 臣はかつて書物が恃むに足りないと疑い、一度、京口と建業に行って高きに登り四方を望み、天地が険を設けた意を深く識った。古今の論は尽くしていない。京口は三面に連なって大江が横たわり、江のほとりは目路千里、その勢いはおおむね虎が穴を出たようで、穴に居る虎ではない。昔の人は京口の酒は飲むべく兵は用いるべしと言い、北府の兵は天下の雄となった。地勢がそうであり人がよく用いたからだ。臣は采石には行っていないが、その地は京口と建業の手足として、必ず険に拠り前に臨む勢いがあり、わずかに自守するだけの地ではない。天がどうして南方を一江の外に限って中国と一つにさせまいとしようか。江のほとりの目路千里は、まさに謀夫勇士が四体を展べて中国と衡を争うためのものだ。 韓世忠は八万の兵を山陽に置き、老いた熊が道に立ちはだかるようで、淮東はそれで安眠できた。これが淮東を守る要法である。天下に変があれば長駆して用いればよい。もし一つ一つ塹を掘って守り、兵を分けて拠り、奇を出し険を設けること兎が巣を守るようにすれば、勢いは分かれ力は弱まり、かえって戎馬長駆の勢いを成すだけだ。だから二十年の間、次々に策を献じて聖慮を労しながら、ついに一つも成らず、成っても恃むに足りないのは、淮東の勢いをどう用いるかを知らないからだ。書生がすぐに長淮は守りがたいと言うのは、盲人に道を問う類である。 晋の永嘉から隋の開皇まで、南方では建業を都と定め、六姓を経て天下は三百余年分裂した。南の軍が北を謀ったのは幾度あったか知れないが、北の軍が南を謀ったのは数えるほどだ。南北が和を通じた時期はほとんどなかった。今日のように、北方を畏るべきとし南方を憂うべきとし、一日和がなければ君臣上下が朝に夕を謀れないほど危ぶむのは聞いたことがない。罪は書生が形勢を識らず、逆順曲直まで忘れていることにある。 高宗は金に父兄の仇があった。生きて報いられなければ死んで必ず子孫に望みをかけられたはずだ。どうして崩御の哀しみを仇に告げるに忍びようか。遺留・報謝の三使を続けて遣り、金帛と宝貨を千両単位で次々に送ったのに、金はわずか一使を寄こして小邦に臨むようだった。道で聞くところ、哀祭の辞は寂しく簡慢だったという。義士仁人は心骨に痛切である。陛下の聖明と智勇でこれに忍ばれるはずがない。思うに、執事の臣が万端に憂え畏れて陛下を誤らせているのだ。南方の女たちが機で寸尺の功を積んだものを年ごとに敵に送るだけでも痛みに堪えない。山沢から出る金や宝には限りがあり、敵に送るものには限りがない。十数年後には尽きるのではないか。陛下はなぜ翻然と大讐がまだ報いられていないことを思い、即位の初心を尋ね、大いにそれを吐き出して天下と新たに始められないのか。数千里の地を持ちながら人を畏れたという例は聞かない。劉淵・石勒・石虎・苻堅はみな夷狄の雄だったが、その世を終えることさえできなかった。阿骨打が興ってから今わずか八十年、中原の塗炭もまた六十年である。父子が互いに殺し合う禍が目の前にあるのに、南方の患いになると畏れているのは、誤りではないか。 陛下がもし大義を正すべきとし、撫軍の言を行うべきとされるなら、まず建業を経理してから臨まれるべきだ。今の建業は昔の建業ではない。臣はかつて石頭と鍾阜に登って眺めた。今の建業はまさに砂嘴の傍らにあるだけだ。鍾阜の支脈が隠れて下り、今の行宮はその平らな所に拠って城市の前に臨んでいるが、山に迫って切り立っている。これは必ず後世に山経を読んで宅地を相した者が定めたもので、江南の李氏がしたことであり、高きに拠り下に臨んで正気に乗じて用いる意ではない。本朝は至仁で天下を平らげ、険を恃んで固めとせず天下とともに守った。だからそのまま廃さなかっただけだ。 臣はかつて鍾阜の僧に問うたが、彼も、台城は鍾阜の側にあり、大司馬門はちょうど今の馬軍新営の傍らに当たると言えた。その地は高きに拠り下に臨み、東は平らな岡を巡らせて固めとし、西は石頭城を重んじ、玄武を帯びて険とし、秦淮と清渓を擁して阻みとする。だから王気に乗じて意のままに動けた。今の城のようでは侯景が数日で落とせる程度だ。曹彬が長干に登り、烏珠が雨花台に上ったとき、いずれも城市を見下ろし、一羽の飛鳥も逃れられなかった。臣はまた守臣に問うたが、今の城は作り替えるに及ばない、上に北方への志があるならここは単なる通り道にすぎないと言う。臣はその言葉が大きくても実は切実でないと疑う。その地に拠って将に命じ師を出して国を守るのに、正気に乗じて為すところがなければ、目前の経営の労は省けても、他日、得てまた失うことにならないとどうして言えよう。 たとえ今年は北挙を謀らずとも、建康を経理する計を立てて天下を震動させ金と絶てば、陛下の即位の初志も少しは伸びる。ただ非常の事は常人と謀れない。 陛下の即位の初め、喜怒哀楽・是非好悪は日月が天にあるように明らかで、雷が動き風が行くように、天下はまさに草が靡くようだった。ただそれが臆病に過ぎることがあったので、書生が文に拘り法を執ってその後を議し、真に志ある者はひそかに自ら奮い励んで聖意の在り処に適おうとしたのに、陛下はそれをご存じなかったのかもしれない。陛下は天下の士がみな御前に望むに足りないと見られ、書生の文に拘り法を執る説がしばしば当たるので、聖意もやや衰えた。 だから大事は必ず合議され、任命は資格による。才ある者は自由奔放だとして棄てられ、才なき者は平穏だとして用いられる。正しい言葉は迂闊だとして廃され、遜った言葉は柔らかで美しいとして容れられる。奇論は横議とされ、凡庸な論は典則があるとされる。陛下は雄心と英略をもってその間を上下に曲げて、ためらって前へ進まれず、翻然たる喜びを敢えて示されず、恥を忍んで仇に事えて赫怒を奮われない。朝に一人の才士を得ても、暮れには当路に不便だとして逐い、心では凡庸と知りながら、外には人の言がないからと留められる。喜怒哀楽を消し、是非好悪を混ぜ、優柔不断を仁とし、戒め諭すことを義とし、籠絡を礼とし、防ぎ止めることを智とされる。陛下は天から聡明を授かり英武は世を蓋うのに、どうしてこんなことをなさるのか。天下に制しがたい豪猾の姦があるわけでも、敵に方に興って止まらぬ勢いがあるわけでもないのに、なぜこれを用いる必要があろう。 喜怒哀楽と愛悪は、人主が天下を鼓し動かして用いる道具である。皇極に「作すことなかれ」というのは、その間に私意を加えないという意味であって、老荘の言う枯木死灰のように天下と嬰児になってこそ至治の極みだというのではない。 陛下は二十七年の間、時に晦ませて養い、天下に親を楽しませることを示されて天下はその孝に帰し、三年の喪を行って一つの誠を変えず、天下に哀しみを示して礼に従い、天下はその義に服した。陛下は一身の哀楽で天下を鼓して従わせられ、その効は影や響きのようだった。乙巳・丙午の間、敵に変故がなかったわけではないのに、陛下は喜びを表されないばかりか機密の臣にも漏らされなかった。近ごろの非常の変に際して敵の弔慰は疎略だったのに、陛下は怒りを表されないばかりか、その簡慢の文を秘されもしなかった。陛下が喜怒を天下に示されなければ、天下はどうして仇敵に安んじてはならないと知ろう。喜怒を棄てて天下を動かす機を失いながら事功が自ずと成ることを望むのは、目を閉じて歩こうとするようなものだ。 小臣が拝謁したとき、陛下が卓然としてその才を認められた者がある。外臣が公に奉じたとき、陛下が密かにその忠を念われた者がある。しかし用いられた者はすぐ去り、去った者は自ら進む道がない。これは陛下が天下に愛を示せないということだ。大臣が権を弄び、陛下はすでに道を塞ぐ者があると知られ、人を議する者に私が多く、陛下はすでに我を欺く者があると知られながら、除くにはその意を傷つけまいとされ、発するにはその失望と不満を恐れられる。これは陛下が天下に悪を示せないということだ。陛下が翻然と即位の初心を思われれば、どうして今日ここに至ろうと思われたか。 臣はなお陛下のために過ぎたことを歎き惜しむが、天が英雄を生むのに、その終わりを済さぬまま老いさせるはずがあろうか。長江大河は一たび注げば千里、まことに非常の人を得てともにすれば、六合を電のように掃くのも難しくない。 本朝は儒道で天下を治め格律で天下を守り、天下の人は経義が常制であり科挙が正路であることを知っている。法は自ら私を議せず、人は自ら智を用いず、二百年の太平はここから出た。ただ艱難と変故の際には、書生の智は議論を正すべきことは知っても事功が何かを知らず、節義を守るべきことは知っても形勢が何の用かを知らない。文法の中で身をよじって、一人として自ら抜け出せる者がない。陛下が非常の人を得てこの世をともにしようとされても、天下の誰が信じよう。 臣は戊戌の春正月丁巳に宗廟社稷の大計を極言した。陛下もその言に慨然と感じてくださったが、ついに一度も御前に望んでその微衷を披瀝できなかった。廷臣がみな憎んだからではなく、勢いがそうさせたのだ。臣が今、その言がわずかに験を得たからといって再び万死を冒して自ら述べるのは、まことに宗廟社稷の大計をこの時に決せずにいられないからだ。陛下が喜怒哀楽愛悪の権を用いて天下を鼓し動かし、臣のような者にも寸地を借りて前書の言を終えさせ、竹帛の間に名を寄せさせ、鄧禹に人を寂しいと笑わせないようにされ、そして陛下が雄心英略を発して四海の才臣智士とともにされるなら――天が英雄を生むのはおそらく偶然ではなく、帝王には自ずと真がある。区々たる小智の付会できるものではない、と。
- 大略は帝を激励して恢復させようとするものだったが、そのころ帝はまさに内禅しようとしていたので返答はなかった。これによって朝廷じゅうがそろって怒り、亮を狂怪とした。