宋史紀事本末順昌・柘皋の勝利(順昌柘皋之捷)

金が和議を破って南下した紹興十年から十一年にかけて、劉錡が順昌の孤城に拠って烏珠の大軍を破り、翌年には張俊・楊沂中・王德らと柘皋で烏珠の鉄騎を大破するまでの二年間。劉錡は舟を沈めて退路を断ち、破敵弓と長斧で鉄浮図・拐子馬を砕いた。しかし濠州の救援に失敗し、詔によって三軍は鎮所へ引き揚げ、以後出撃しなかった。

年表(5件)

高宗紹興十年二月(1140年)

  • 劉錡を東京副留守とした。

紹興十年五月(1140年)

  • 劉錡が順昌で金人を大破した。もと錡は東京へ赴くにあたり、配下の王彦の八字軍三万七千と殿司の兵三千を率い、臨安から長江をさかのぼり淮を越えて渦口に至った。ちょうど食事をしていたとき突風が座の幕を吹き飛ばした。錡は、これは敵の兆しで暴兵を意味すると言い、その場で行程を倍にして進むよう命じた。
  • 金人が盟を破って南下したと聞き、錡は将佐とともに舟を捨てて陸を行き、先に三百里を進んで順昌に至った。城中に東京はすでに降ったとの諜報があった。知府の陳規が錡に会って計を問うと、錡は、城中に糧があるならあなたと共に守れると答えた。規が米が数万斛あると言うと、錡は、それでよいと言い、規と議して兵を収めて入城し守禦の計を立てた。
  • 当時、八字軍は汴に駐屯する予定だったので、みな家族を連れていた。錡が諸将に計を問うと、諸将はみな、金兵には敵わない、精鋭を殿軍とし歩騎で老幼を守って流れを下り江南へ帰るべきだと言った。錡は、自分はもともと留守司の官として赴任するところだった、東京は失われたが幸い全軍でここに至り、守れる城がある、どうして棄てられよう、自分の意は決まった、去ろうと言う者は斬ると述べた。
  • ただ部将の許清、あだ名を夜叉という者だけが奮い立ち、太尉は汴京の副守を命じられ、軍士は老幼を連れて来た、今、避けて逃げるのはたやすいが、父母妻子を棄てるのは忍びない、共に連れて行けば敵が翼を広げて攻めてくる、どこへ逃げられよう、それより力を合わせて一戦し、死中に生を求めるほうがよいと言った。議は錡と一致し、錡は大いに喜んだ。
  • 錡は舟に穴を開けて沈め、去る意のないことを示し、家族を寺に置き、門に薪を積んで守る者に、もし不利になればすぐ我が家を焼け、敵の手に辱められてはならないと戒めた。諸将に分けて諸門を守らせ、斥候を明らかにし、土地の者を募って間諜とした。こうして軍士はみな奮い立ち、男は防戦に備え、女は刀剣を研ぎ、争って叫び躍り、平生は人が我ら八字軍を侮ったが、今日こそ国家のために敵を破り功を立てようと言った。
  • 当時、守備は何一つ頼れるものがなかった。錡は城上で自ら督励し、偽斉が作った癡車の車輪と轅を城上に埋め、民家の扉を取って周囲に立てて遮蔽とした。城外の民家数千戸はすべて焼いた。六日でおおむね終えたところで、敵の遊撃騎がすでに潁河を渡って城下に至り、城を囲んだ。
  • 錡はあらかじめ城下に伏兵を置いて敵将二人を捕らえ、問いただすと、韓将軍が白沙窩に陣を置き城から三十里だと言った。錡は夜に千余人を遣って撃たせ、連戦してかなりの敵を殺した。
  • まもなく金の三路都統の葛王烏禄が三万の兵で龍虎大王と兵を合わせて城下に迫った。錡が諸門を開かせると、金人は疑って近づけなかった。もと錡は城に沿って羊馬垣を築き、垣に穴を開けて門としていた。ここに至って許清らとその垣を遮蔽として陣を敷いた。金人が放つ矢はみな垣の端から城に届くか、垣の上に当たるだけだった。錡は破敵弓に神臂の強弩を添え、城上や垣の門から敵を射て当たらぬことがなかった。敵がやや退くと歩兵で迎え撃ち、河に溺れ死ぬ者は数知れず、その鉄騎数千を破った。
  • 順昌が囲まれて四日、金兵はいよいよ増え、李村に砦を移した。城から二十里である。錡は驍将の閻充に壮士五百を募らせて夜襲させた。その夕は雨になりそうで稲光が四方に走り、辮髪の者を見つけるたびに討ち取った。金兵は十五里退いた。
  • 錡はまた百人を募って向かわせた。枚を含むよう請う者があったが、錡は笑って、枚は要らないと言い、竹を折って市中の子どもが遊ぶような笛を作らせ、一人一つ持たせて合図とした。まっすぐ金の陣営を犯し、稲光で照らされたときは奮って撃ち、稲光がやめば身を潜めて動かなかった。敵の衆は大いに乱れ、百人が笛を吹く音がすると集まったので、金人はいよいよ実体をつかめず、夜通し同士討ちをして屍が野に満ち、老婆湾まで退いた。
  • 烏珠は汴でこれを聞き、ただちに騎兵を急がせ、十万の衆を率いて援けに来た。錡が諸将を集めて計を問うと、すでにたびたび勝ったのだからこの勢いに乗じて舟を仕立て全軍で帰るべきだと言う者があった。錡は、朝廷が十五年も兵を養ったのはまさに緩急のためだ、まして敵の鋒をくじいて軍声はいま振るっている、たとえ衆寡が釣り合わなくとも進むのみで退きはしない、しかも敵の陣営は近く、烏珠も来る、我が軍がひとたび動いて背後を突かれれば前功はすべて無になる、敵が侵入して両淮が乱れ江浙を震撼させれば、平生の報国の志がかえって誤国の罪となると述べた。衆はみな感動して奮い、太尉の命に従うと言った。
  • 錡は曹成ら二人を募り、お前たちを間諜に遣る、成功すれば重く賞する、ただ自分の言うとおりにすれば敵は必ずお前たちを殺さないと諭した。斥候の騎兵に加えておき、敵に遭ったら馬から落ちたふりをして捕らわれ、敵の帥に自分のことを問われたら、太平の世の辺帥の子で音楽と芸妓を好み、朝廷は両国が講和したので東京を守らせて安楽をさせているだけだと答えよ、と言い含めた。二人は果たして敵に遭って捕らえられ、烏珠の問いに言われたとおり答えた。烏珠は喜んで、この城は容易に破れると言い、鵝車や砲具を置いたまま用いなかった。
  • 翌日、錡が城に登ると二人が来るのが見えた。縄で引き上げると、敵が曹成らを枷に繋いで帰し、枷に文書一巻を結んであった。錡は軍心を惑わすことを恐れ、その場で焼いた。
  • 烏珠は城下に至って諸将が軍を損なったことを責めた。諸将はみな、南朝の用兵は昔とは比べものにならない、元帥が城に臨めば自ずと分かると答えた。錡は耿訓に書を持たせて戦いを約させた。烏珠は怒り、劉錡ごときがどうして自分と戦えようか、我が力でお前の城など靴の先で蹴り倒すだけだと言った。訓は、太尉は太子と戦うことを請うだけでなく、太子はきっと黄河を渡る勇気がないと申している、浮橋を五つ献じるので渡って大いに戦われよと言った。烏珠は承知し、翌日、府の役所で会食すると令を下した。
  • 夜明けに錡は果たして潁河に五つの浮橋を架け、あわせて潁の上流と草むらに毒を入れ、軍士に、渇き死んでも河の水を飲むなと戒めた。敵は長勝軍を用いて厳しく陣を敷いて待ち、首領たちがそれぞれ一隊を率いた。衆は先に韓将軍を撃つよう請うたが、錡は、韓を撃って退けても烏珠の精兵にはなお当たれない、法としてまず烏珠を撃つべきだ、烏珠がひとたび動けば他は何もできなくなると述べた。
  • 当時は酷暑で、敵は遠来で疲れ、昼夜甲を脱がず、人馬は飢え渇き、水草を口にした者はたちまち病んで困憊していた。錡の士気には余裕があり、軍は交替で休んでいた。朝の涼しいうちは兵を按じて動かず、未・申の刻になって敵の力が尽き気が萎えたころ、突然、数百人を西門から出して交戦させ、まもなく数千人を南門から出し、喊声を上げず鋭い斧で犯せと戒めた。統制官の趙樽と韓直は身に数本の矢を受けながら戦いをやめず、士は決死で闘い、その陣に入って刀と斧を乱れ打ちして敵を大敗させた。その夕、大雨が降って平地の水は一尺余りたまり、翌日、烏珠は営を払って去った。錡が兵を遣って追い、死者は数万に上った。
  • 大戦のとき、烏珠は白い袍を着て鎧馬に乗り、牙兵三千で督戦した。その兵はみな重い鎧を着け、鉄浮図と号し、鉄の兜をかぶって周りに長い錣を垂らし、三人一組を革の索で繋いでいた。一歩進むごとに拒馬でその後ろを塞ぎ、人が一歩進めば拒馬も進んで、退くことができないようにしていた。官軍は槍でその兜を払い落とし、大斧でその腕を断ち首を砕いた。敵はさらに鉄騎を左右の翼に分け、これを拐子馬と号した。いずれも女真の兵で長勝軍と呼び、もっぱら堅陣を攻めさせ、戦いが酣になってから用いた。挙兵以来向かうところ敵なしだったが、ここに至って錡の軍に討たれた。
  • 辰の刻から申の刻まで戦って敵が敗れると、錡は拒馬の木で遮って少し休ませた。城上では鼓の音が絶えず、飯と羹を出して戦士を平時のように坐らせて食べさせた。敵はなびいて近づけなかった。食べ終わると拒馬の木を撤して深入りして敵を斬り、また大破した。棄てられた屍と斃れた馬の血肉が折り重なり、車馬・武具は山のように積み上がった。烏珠が平生強さの頼みとしていたものは十のうち七、八を失った。陳州に至って諸将の罪を数え、韓常以下をみな鞭打って汴に戻った。
  • まもなく洪皓が金から密奏して、順昌の勝利に金人は震え恐れて魂を失い、燕の重宝や珍器をすべて北へ移し、燕以南を棄てる意向だと伝えた。だから論者は、このとき諸将が心を合わせて道を分けて追討していれば烏珠を捕らえ汴京を回復できたのに、王師が急ぎ引き揚げて自ら機会を失ったのは実に惜しいと言った。

紹興十一年春正月(1141年)

  • 乙卯、金の烏珠が寿春を侵した。もと烏珠は敗れてから京城・亳州に留まり、許州・鄭州の間を出入りし、両河の軍を徴発して旧部と合わせ十余万で再挙を謀っていた。秦檜が諸軍を召し還したと聞き、兵を挙げて寿春を攻め落とし、さらに淮を渡って廬州を陥れた。

紹興十一年二月(1141年)

  • 癸酉、張俊と楊沂中に淮西へ赴くよう詔した。当時、烏珠は合肥から歴陽へ向かい、遊撃騎は長江に達していた。張俊が王德を渡江させると、德は、淮は江の覆いだ、淮を棄てて守らなければ唇亡びて歯寒しというものだ、敵は数千里の遠来で糧道は決して続かない、渡り切らないうちに撃てば気勢を奪えるが、遅れて落ち着かせれば淮は我が有でなくなると述べ、そのまま采石を渡った。俊は軍を督して続き、江中に宿した。そのとき淮はすでに失われていた。德は、明朝は歴陽で会食しようと言い、果たしてその夜に和州を奪い、朝には俊を迎え入れた。烏珠は退いて昭関に駐屯した。
  • 乙亥、金人がまた来て和州を争ったが、張俊が破った。丙子、王德が含山で金人を破った。癸未、王德と田師中が含山と昭関を回復した。甲申、崔皋が舒城で金人を破った。
  • 丁亥、楊沂中と劉錡が柘皋で烏珠の軍を大破した。もと劉錡は太平から渡江して張俊・楊沂中と合流したが、廬州はすでに陥ちていた。錡は関師古とともに東関の険に拠って敵を遮り、兵を清渓に出して二度戦っていずれも勝った。烏珠は柘皋の地が平坦で使いやすいとして駐軍したので、錡は兵を進め、石梁河を挟んで陣を敷いた。河は巣湖に通じ幅は二丈。錡は薪を引かせて重ねて橋とし、たちまち完成させ、甲士数隊を橋の向こうへ渡らせ、槍を横たえて坐らせ、人を遣って張俊・楊沂中の軍と合流を図った。
  • 翌日、沂中および王德・田師中・張子蓋の諸軍がそろって着いたが、俊だけが遅れた。錡は諸将と軍を三手に分けて並び進み、渡河して撃つことにした。師中は俊の到着を待とうとしたが、德は、事には機会がある、何を待つのかと言い、錡とともに馬に乗って先に敵を迎えた。沂中が続いた。
  • 烏珠は鉄騎十余万を二つに分けて道を挟んで陣を敷いた。德は、賊の右陣が堅い、まずそこを撃つべきだと言い、軍を指揮して渡河し、真っ先にその鋒を犯した。ある首領が甲を着けて馬を躍らせて出てくると、德は弓を引いて一発で射殺し、勝ちに乗じて大喝して駆けた。諸軍も鼓を打ち喊声を上げて続いた。金人が拐子馬を両翼として進むと、德は衆を率いて激戦した。沂中は、敵は弓矢を恃んでいる、こちらにはそれを屈する手があると言い、一万人に長い斧を持たせて壁のように進ませ、敵はついに大敗した。
  • 德と錡らが追撃し、東山でまた破った。敵は望み見て驚き、あれは順昌の旗印だと言い、逃げて紫金山を保った。この一戦で将士九百人を失ったが、金人の死者は万を数えた。
  • まもなく烏珠が自ら兵を率いて店歩で迎え撃ったが、沂中らがまた破り、勝ちに乗じて追撃して廬州を回復した。

紹興十一年三月(1141年)

  • 乙巳、張俊・楊沂中・劉錡が詔を奉じて軍を戻した。数里も行かないうちに、金人が濠州を急攻しているとの諜報が入った。俊はそこで沂中と錡を呼び戻して黄連埠で合流し、ともに救援に向かった。濠州まで六十里の所で、濠州の南城はすでに陥ちていた。
  • 俊が諸将を召して謀ると、沂中は戦おうとしたが、錡は、もともと濠州を救いに来たのに濠州がすでに失われた以上、軍を退いて険に拠り、じっくり後の計を立てるほうがよいと述べ、諸将もみな善しとした。三帥は鼎の脚のように陣を置いた。
  • 敵兵はもう去ったと言う者があったが、錡は俊に、敵が城を得てすぐ退くのは必ず謀がある、兵を厳しくして備えるべきだと述べた。俊は聴かず、しかも自ら功を立てようとして、錡には行くなと命じ、沂中と王德に神勇の歩騎六万を率いてまっすぐ濠州へ向かわせた。陣がまだ定まらないうちに城中から煙が上がり、金人の伏騎一万余が両翼に分かれて出た。沂中が德を顧みてどうすると問うと、德は、自分は小将だ、どうして事を議せようと答えた。沂中が鞭で軍を指して「那回」と言うと、諸軍はそれを退却の令と取り、潰えて南へ走り、紀律を失った。金人が追撃して死者は多かった。韓世忠が軍を率いて城下に至ったが、これも不利で退いた。
  • 沂中は滁州に入り、俊の軍は宣化に入り、錡の軍は藕塘に入った。食事をしていたところへ俊が急に来て、敵兵がもう近い、どうするかと言った。錡が楊宣撫の兵はどこかと問うと、俊は、すでに敗れて戻ったと答えた。錡は俊に恐れるに及ばないと言い、歩兵で防ぐから宣撫はご覧になっていればよいと請うた。錡の麾下はみな、二人の大帥の軍はもう退いた、我が軍だけが苦労して戦うことはないと言った。錡は、順昌では孤城で近くに助けとなる民もなく、率いる兵は二万に満たなかったがそれでも勝てた、まして今は地の利を得て鋭い兵もあると述べ、三つの伏兵を置いて待った。
  • ほどなく俊が錡に、諜報は誤りだった、戚方の殿軍だっただけだと告げ、そろって鎮所へ戻った。俊は建康へ、錡は太平へ、沂中は臨安へ帰り、烏珠も淮を渡って北へ去った。これ以後、三軍は再び出撃しなかった。