宋史紀事本末岳飛、中原の回復を図る(秦檜が飛を害するを付す)(岳飛規復中原(秦檜害飛附))
紹興六年から十一年まで、岳飛が襄陽に拠って中原恢復を図り、郾城・潁昌に烏珠の拐子馬を破って汴京の間近まで迫りながら、十二の金字牌で軍を戻された経緯と、その後の獄死までを記す。秦檜は和議のために岳飛を忌み、烏珠の求めに応じて万俟卨らに弾劾させ、張憲・岳雲の誣告で獄を仕立て、紹興十一年の暮れに三十九歳の岳飛を殺した。
年表(11件)
- 高宗
- 紹興六年六月1136年張浚の議で岳飛が襄陽に駐屯し、中原をうかがう
- 紹興六年秋七月1136年王貴らが虢州を落とし、蔡州・唐州も破るが進取は許されない
- 紹興七年夏四月1137年淮西の帥の人選で張浚と衝突し、岳飛は喪に服して廬山へ帰る
- 紹興七年六月1137年岳飛が入朝して鎮所に戻り、上流への遷都と親征を奏する
- 紹興七年八月1137年酈瓊が呂祉を殺して四万を率い劉豫に降り、張浚は岳飛の言を悔いる
- 紹興八年二月1138年岳飛が増兵を請うが許されない
- 紹興九年春正月1139年岳飛が和議を不可として叙勲を辞退し、秦檜の恨みを買う
- 紹興十年五月1140年岳飛が京西で金人を破り、河南北諸路招討使となる
- 紹興十年閏六月1140年張憲が潁昌で韓常を撃ち、淮寧府・鄭州・西京などが回復される
- 紹興十年秋七月1140年郾城・潁昌に拐子馬を破り汴京に迫るが、十二の金字牌で軍を戻す
- 紹興十一年三月1141年岳飛が病を押して廬州を援けるが、まもなく秦檜に陥れられて獄死する
高宗紹興六年六月(1136年)
- 岳飛が進んで襄陽に駐屯した。当時、張浚は江上で軍を視察して諸大将を集めたが、大事を託せるのは韓世忠と岳飛だけだと評した。飛に襄陽に駐屯して中原をうかがわせ、それがもともと飛の志だと言った。飛は軍を京西に移し、宣撫副使に任じられて襄陽に司を置き、武昌へ赴いて軍を調えるよう命じられた。
紹興六年秋七月(1136年)
- 岳飛が王貴らを遣って虢州を攻めて落とし、糧十五万石を得、降る者は数万人に上った。張浚は、飛の措置は実に大きい、すでに伊水・洛水に至った以上、太行一帯の山砦にも呼応する者があるはずだと言った。果たして忠義社の梁興らが帰属した。
- 飛は楊再興を遣って長水まで兵を進め、偽斉の李成・孔彦舟と連戦して全勝し、蔡州に至ってその城を落とした。
- 当時、偽斉は唐州に駐屯していたので、岳飛は王貴・董先らを遣って攻め破らせた。飛はそこで中原へ進取することを奏したが許されず、王貴らを呼び戻した。
紹興七年夏四月(1137年)
- 岳飛が喪に服することを願い出て廬山へ帰り、張浚が張宗元にその軍を監督させた。それ以前、飛は鄂州から入朝して太尉に拝され、続いて宣撫使に任じられ、王德と酈瓊の兵を属させられた。帝は德と瓊に、飛の号令は朕が親しく行くのと同じと心得よと詔した。
- 飛は帝に見えてしばしば恢復の方略を論じた。上疏して、金人が劉豫を河南に立てたのは、中原を苦しめ、中国をもって中国を攻めさせ、その間に自らは兵を休めて隙をうかがうためだ、陛下がしばらく自分に兵を率いさせてくださるなら、京城と洛陽へ向かい、河陽・陝府・潼関に拠って五路の叛将を呼びかけ、叛将が帰順したうえで官軍を先に進めれば、劉豫は必ず汴を棄てて河北へ逃げ、京畿と陝西は残らず回復できる、そのうえで兵を分けて濬州・滑州へ進め両河を経略すれば、逆賊の豫を捕らえ偽斉を滅ぼせる、社稷長久の計は実にこの挙にあると述べた。帝は、こういう臣があるからには何の憂いもない、進退の機は朕が中央から掣肘しないと言い、さらに寝閣に召して、中興の事はひとえに卿に委ねると命じた。
- 飛が大挙を図っていたところ、秦檜が和議を主張して飛を忌み、德と瓊の軍を飛に属させなかった。
- 詔で飛を張浚のもとへ遣って議事させた。当時、浚は劉光世の兵権を奪うことを奏し、その軍を都督府に属させて六軍に分け、帥を置こうとしていた。浚が飛に、王德は淮西の軍が服している、都統としてはどうか、呂祉を督府参謀として統べさせようと思うと言った。飛は、德と酈瓊はもともと互いに譲らない、一朝にして德を上に据えれば必ず争う、呂尚書は軍旅に習わず、衆を服させるには足りないと答えた。浚が張俊や楊沂中はどうかと問うと、飛は、張宣撫は自分の旧主だが、粗暴で謀に乏しく、とりわけ瓊が服さない、沂中は德らと同格で、この軍を御せようかと答えた。浚は不機嫌になり、やはり太尉でなければ駄目ということかと言った。飛は、都督が正面から問われたので愚見を尽くしたまでで、軍を得たいなどと思ってはいないと答えた。
- 飛は浚と衝突すると、その日のうちに上章して兵権を解き喪に服することを求め、張憲に軍事を代行させ、徒歩で廬山へ帰った。浚は怒り、飛は兵の併呑ばかりを考えていると奏し、張宗元を権宣撫判官としてその軍を監督させた。
紹興七年六月(1137年)
- 岳飛が入朝し、また鎮所に戻った。帝がたびたび詔して飛に戻るよう促したので、飛はやむなく朝廷へ赴き罪を待った。帝は慰めて遣わした。張宗元が帰って、将は和し士は鋭く、人は忠孝を懐いている、みな飛の訓練と養成によるものだと述べ、帝は大いに喜んだ。
- 飛は鎮所に着いて奏した。先の寝閣でのご命令に、聖断はすでに固まったと誰もが思ったのに、なぜ今なお決しないのか。自分に兵を率いて討たせていただきたい。天道に順い人心に依れば、曲直が老壮を決め、逆順が強弱を決め、万全の効は必ず得られる。銭塘は海の隅に偏り武を用いる地ではない。速やかに上流に都し、漢の光武の故事に倣って自ら六軍を率いて往来し督戦されたい。そうすれば将士は聖意の向かうところを知り、人ごとに命を尽くす、と。返答はなかった。
紹興七年八月(1137年)
- 王德を淮西都統制、酈瓊をその副とした。瓊は德とはもともと同格で互いに譲らなかった。呂祉が朝廷に戻ると、德と瓊は書状を並べて都督府と御史台に訴え合った。そこで詔して德を建康に戻し、呂祉を廬州へ遣ってこれを節制させた。
- 祉が廬州に着くと、瓊はまた德を訴えた。祉は、もし君たちのほうが正しいとすれば、それは互いに大いに欺き合っていることになる、しかし張丞相は人が前へ進むのを喜ばれる、功さえ立てれば大きな過ちさえ大目に見られる、まして小さな遺恨など何ほどでもない、諸公のために弁じてやるから他の心配は要らないと諭した。瓊らは感泣し、事はやや収まった。
- ところが祉が密奏して瓊と統制の靳賽の兵権を奪うよう請うたところ、書吏がその内容を瓊に漏らした。瓊は人を遣って祉の出した使いを遮り、祉の言葉をすべて知って大いに怨み怒った。折しも朝廷が楊沂中を淮西制置使、劉錡をその副とし、瓊を行在へ召すと聞き、瓊は大いに恐れて叛くことを謀った。
- 朝、諸将が祉に拝謁したとき、瓊は袖から文書を出して中軍の張璟に示し、兵官たちに何の罪がある、張統制はこんなことを朝廷に報せたのかと言った。祉は大いに驚いて逃げようとしたが間に合わず、瓊に捕らえられた。璟および兵馬鈐轄の喬仲福、統制の劉永衡はみな殺された。
- 瓊はそのまま全軍四万を率いて淮を渡り劉豫に降り、祉を伴って北へ去った。淮まで三十里の所で祉は馬を下りて立ち、劉豫は逆賊だ、自分がどうして会えようと言った。衆が馬に乗せようとすると、祉は罵って、死ぬならここで死ぬと言い、さらにその衆に、劉豫は逆臣だ、軍中に英雄がいないわけでもあるまいに、酈瓊に付いて行くのかと諭した。衆はかなり心を動かされ、千余人が周りに立ったまま動かなかった。瓊は動揺を恐れて急ぎ馬を走らせ先に渡り、祉は殺された。
- これが伝わると、張浚は初めて岳飛の言に従わなかったことを悔いた。飛が酈瓊の討伐を請うたが許されず、江州に駐屯して淮南・浙江の援けとするよう詔された。
紹興八年二月(1138年)
- 岳飛が増兵を請うたが許されなかった。
紹興九年春正月(1139年)
- 岳飛は鄂州にあって金が河南の地を返すと聞き、上言して、金人は信じられず和好は頼めない、宰相の国を謀ることが善からず、後世の譏りを残すことになろうと述べた。秦檜はこれを恨んだ。
- 赦書が鄂州に届くと、飛は謝表に和議が不都合であるという意を込め、「全勝のうちに謀を定め、両河に地を収めることを期し、燕雲を手中にし、あくまで仇を復して国に報いたい」と述べ、天地に誓う心を記した箇所では、なお首を垂れて藩と称せよというのかという語があった。檜はいっそう怒り、こうして仇となった。
- 和議が成って例により爵賞が加えられ、飛には開府儀同三司が加えられたが、飛は強く辞退し、今日の事は危うくこそあれ安らかではなく、憂うべきで賀すべきではない、兵を訓練し士を励まして不虞に備えるべきで、功を論じ賞を行って敵に笑われるべきではないと述べ、三度詔されても受けなかった。帝が温かい言葉で褒め諭し、飛はようやく命を受けた。
- 折しも趙士㒟を諸陵に参拝させることになり、飛は軽騎で従って清掃に加わりたいと請うたが、実は隙を見て謀を破ろうとしたものだった。また、金人が事もないのに和を請うのは必ず内側に憂いがあるからで、地を返すと言いながら実はこちらに預けているだけだと奏した。檜は帝に申してその行を止めさせた。
紹興十年五月(1140年)
- 岳飛が京西で金人を破った。当時、金人が拱州・亳州を攻め、劉錡が急を告げたので、飛に急行して援けるよう命じた。飛は張憲と姚政を遣った。帝は札を賜り、施すべき方策は一切卿に委ねる、朕は遠くから測らないと述べた。
- 飛はそこで王貴・牛皋・董先・楊再興・孟邦傑・李宝らを分けて西京・汝州・鄭州・潁昌・陳州・曹州・光州・蔡州の諸郡を経略させ、また梁興に渡河させて忠義社を糾合し河東・河北の州県を取らせ、さらに兵を出して東は劉錡を、西は郭浩を援け、自らは軍を率いて長駆し中原をうかがった。出発にあたり密奏して、まず国本を正して人心を安んじ、そのうえで居を一所に定めず復讐の意を忘れていないことを示されたいと述べた。帝は奏を得てその忠を大いに褒め、少保・河南府路陝西河北路招討使を授け、まもなく河南北諸路招討使に改めた。
- まもなく遣わした諸将の李宝・牛皋らが相次いで京西で金人を破った。
紹興十年閏六月(1140年)
- 岳飛は統制の張憲を遣って潁昌で金の韓常を撃たせ、また淮寧府を回復した。郝晸は鄭州を、張応と韓清は西京を、楊遇は南城軍を、喬握堅は趙州を回復した。他の将も行く先々で勝ち、中原は大いに振るった。
- 河南兵馬鈐轄の李興が兵を集めて飛に応じ、伊陽など八県および汝州を回復した。金の河南尹の李成は城を棄てて逃げ、詔して李興を知河南府とした。飛はまた張応に李興と合流させて永安軍を回復させた。
紹興十年秋七月(1140年)
- 岳飛の大軍は潁昌にあり、諸将が道を分けて出戦し、飛は軽騎で郾城に駐まった。兵の勢いは鋭く、烏珠は大いに恐れた。折しも龍虎大王が議して、諸帥は相手にしやすいが飛だけは当たれない、その軍を誘い出して力を合わせ一戦すべきだと言った。中外はこれを聞いてみな恐れ、詔で飛に慎重に構えて自らを固めるよう告げた。飛は、金人の手はもう尽きたと言い、日々挑戦に出て罵らせた。
- 烏珠は怒り、龍虎大王・蓋天大王および韓常の兵を合わせて郾城に迫った。飛は子の岳雲に騎兵を率いてその陣を貫かせ、勝てなければ真っ先にお前を斬ると戒めた。数十合の激戦で賊の屍は野に散乱した。
- もと烏珠には精鋭の軍があり、みな重い鎧を着け革の索で三人ずつ繋いでいた。これを拐子馬と号し、官軍は当たれなかった。この一戦では一万五千騎で来た。飛は歩兵に麻札刀を持たせ、陣に入ったら上を見ずただ馬の足を斬れと戒めた。拐子馬は繋がっているので一頭が倒れると二頭が動けない。官軍が奮って撃ち、大破した。烏珠は大いに嘆き、海上で兵を挙げて以来これで勝ってきたのに、もう終わりだと言った。
- それでも兵を増して前進したが、飛は自ら四十騎で突撃して破った。烏珠はひどく憤り、十二万の軍を合わせて臨潁に泊まった。楊再興は三百騎で小商橋でこれに遭遇し、ただちに戦って二千人を殺し、万戸の撒八と千戸ら百人を討ったが、再興は戦死した。その屍を収めると、矢じりが二升も出た。飛は痛惜した。張憲が続いて至って再び戦うと、烏珠は夜に逃げ、十五里追撃した。
- 飛は子の雲に、賊はたびたび敗れたから必ず戻って潁昌を攻める、急ぎ王貴を援けよと言った。果たして烏珠が来た。貴は遊奕軍を、雲は背嵬軍を率いて城の西で戦った。雲は騎兵八百で真っ先に決戦し、歩兵が左右の翼に広がって続き、烏珠の婿の夏金吾と副統軍の尼瑪哈索貝勒を殺し、烏珠は逃げ去った。
- 梁興は飛の命で太行の忠義の衆と両河の豪傑を集め、垣曲で金人を破り、さらに沁水で破り、懐州・衛州を回復して、金人の山東・河北への道を断った。金人は大いに恐れた。飛は、梁興らが黄河を渡って人心が朝廷に帰ろうとしており、金兵はたびたび敗れて烏珠らは老幼を北へ去らせている、まさに中興の好機だと奏した。
- 飛は軍を進めて汴京まで四十五里に迫り、烏珠と塁を接して陣を敷き、驍将に背嵬軍五百を率いさせて奮撃し大破した。烏珠は汴京へ逃げ帰った。飛は陵台令に檄して諸陵を巡視し修繕させた。
- それ以前、飛は梁興らを遣って德意を広め、両河の豪傑や山砦を招き結んでいた。韋銓・孫謀らは兵を収めて堡を固め王師を待ち、李通・胡清・李宝・李興・張恩・孫琪らは衆を挙げて帰属した。金人の動静と山川の要害は一時に実情がすべて分かった。磁州・相州・開德・沢州・潞州・晋州・絳州・汾州・隰州の境ではみな日を期して兵を挙げ官軍と合流することとなり、掲げた旗は「岳」を旗印とした。父老や百姓は争って車を挽き牛を牽いて糧を運んで義軍に届け、盆を頭に載せ香を焚いて迎える者が道に満ちた。燕以南では金の号令が行われなくなった。
- 烏珠が兵を徴発して飛に抗しようとしても、河北では一人も従わなかった。烏珠は、自分が北方で兵を起こして以来、今日ほどの挫折はなかったと嘆いた。金の師である烏凌阿思謀はかねて狡猾で知られたが、部下を制しきれず、ただ軽々に動くな、岳家軍が来たらすぐ降れと諭すばかりだった。金の統制の王鎮、統領の崔慶、将官の李覬・崔虎・葉旺らはみな部下を率いて降り、禁衛の龍虎大王配下の竒徹や千戸の高勇の類までみな密かに飛の旗と榜を受けて北方から降ってきた。金の将軍の韓常は五万の衆を挙げて内附しようとした。飛は大いに喜び、配下に、まっすぐ黄龍府まで行って諸公と痛飲するのだと語った。
- 日を指して渡河しようとしていたところ、秦檜はまさに淮以北を線引きして棄てようとしており、台臣に軍を戻すよう請わせた。飛は、金人の鋭気は挫け、輜重をすべて棄てて急ぎ黄河を渡ろうとしている、こちらは豪傑が風に靡き士卒は命を尽くしている、時は二度と来ず機は軽々に失えないと奏した。檜は飛の志が鋭く曲げられないと知り、先に張俊と楊沂中らを帰還させ、そのうえで飛の孤軍を長く留めるべきではないとして軍を戻させるよう請うた。一日のうちに十二の金字牌が届いた。
- 飛は憤り嘆いて涙を流し、東に向かって再拝し、十年の努力が一朝にして廃されたと言った。飛が軍を戻すと、民は馬を遮って慟哭し、我らは香盆を捧げ糧草を運んで官軍を迎えた、それを金人はみな知っている、相公が去れば我らは生き残れないと訴えた。飛も悲しんで涙し、詔を取り出して示し、勝手に留まることはできないと言った。哭する声が野に響いた。飛は五日留まってその移住を待ち、従って南へ来る者は市のようだった。飛は急ぎ奏して漢水一帯の六郡の空き地に住まわせた。
- 烏珠が汴を棄てて去ろうとしたとき、ある書生が馬を叩いて、太子よ逃げてはならぬ、岳少保はまもなく退くと言った。烏珠は、岳少保は五百騎で我が十万を破った、京城は日夜その到来を待っている、どうして守れようと答えた。書生は、古来、権臣が内にありながら大将が外で功を立てられた例はない、岳少保でさえ免れないのに、まして功を成せようかと言った。烏珠は悟って留まった。飛が帰ると、得た州県はたちまちまた失われた。飛は強く兵権を解くことを請うたが許されず、まもなく廬山から参内した。帝が問うと、飛はただ拝謝するだけだった。
紹興十一年三月(1141年)
- 金の烏珠と韓常が龍虎大王と兵を合わせて廬州に迫った。帝は岳飛に援けを急がせ、その札は十七通に及んだ。飛は、金人が国を挙げて南下した以上その本拠は必ず空だ、長駆して京城と洛陽を衝けば、彼は奔命に疲れて座して弱らせられると奏した。
- 当時、飛は寒さと咳に苦しんでいたが、病を押して進んだ。しかも帝が敵を退けることを急いでいるのを慮り、自分が虚を衝けば必ず利を得るが、敵が近くにいて遠図の余裕がないとお考えなら、自ら蘄州・黄州へ赴いて攻守を議したいと奏した。帝は大いに喜んだ。軍が廬州に至ると金兵は風を望んで逃げ、飛は舒州に兵を戻して命を待った。
- 烏珠が濠州を破ったとき、張俊は黄連鎮に軍を止めて進めず、楊沂中は伏兵に遭って敗れた。帝は飛に救援を命じ、金人は飛が来ると聞いてまた逃げた。
- 当時、和議はすでに決していた。秦檜は飛が自分と異なるのを憂え、密奏して三大将を召し論功行賞することとした。韓世忠と張俊が着いても飛だけは遅れた。檜は参政の王次翁の計を用いて六、七日待ち、着いてから枢密副使を授けた。飛は強く兵権の返上を請い、詔で張俊とともに楚州へ行って辺防を措置し、韓世忠の軍を統べて鎮江へ戻って駐屯するよう命じられた。
- もと飛は諸将のうち年が最も若く、下級の校尉から身を起こしてたびたび顕功を立てたので、世忠と俊は面白くなかった。飛は身を屈して下手に出たが、俊はいっそう飛を妬んだ。淮西の役では、俊が行く先の糧不足を挙げて飛を怖じ気づかせようとしたが、飛は止まらなかった。帝が札を賜って褒め諭したなかに「輸送は困難なのに卿は顧みなかった」という語があり、俊は飛が漏らしたと疑い、帰朝すると逆に飛はぐずついて進まず糧不足を口実にしたと言い触らした。
- 世忠の軍を視察するにあたり、俊は世忠が檜に逆らっていると知っており、飛とともにその背嵬軍を分けようとしたが、飛は義として承知しなかった。俊は大いに不快だった。楚州の城に同行したとき、俊が城を修めて備えようとすると、飛は、力を尽くして恢復を図るべきで、どうして退いて保つ計を立てるのかと言い、俊は顔色を変えた。
- 折しも世忠の軍吏の景著が、二枢密が世忠の軍を分けたら事が起こりかねないと言った。檜は景著を捕らえて大理の獄に下し、扇動の罪で世忠を陥れようとした。飛は急ぎ書を送って檜の意図を告げ、世忠は帝に見えて自ら弁明した。俊はこれで飛をひどく恨み、飛が山陽を棄てるよう議したと言い触らし、さらに密かに飛が世忠に報せた件を檜に告げ、檜は大いに怒った。
- もと檜が趙鼎を追ったとき、飛は客に会うたびに嘆息した。また恢復を自らの任として和議に同調せず、檜の奏の「德に常の師なし、善を主とするを師とす」という語を読み、その欺瞞を憎んで、君臣の大倫は天性に根ざす、大臣でありながらその主を面と向かって欺けるものかと憤った。
- 烏珠は檜に書を送り、お前は朝夕和を請うが岳飛はいま河北を図っている、必ず飛を殺してこそ和せると言った。檜も、飛が死ななければ和議は結局阻まれ、自分に禍が及ぶと考えて、力を尽くして殺す謀を立てた。諫議大夫の万俟卨が飛と怨みがあったので、卨に飛を弾劾させ、また中丞の何鑄と侍御史の羅汝楫にも章を重ねて弾劾させた。おおむね、今春に金人が淮西を攻めたとき飛は舒州・蘄州あたりまで来ただけで進まず、俊とともに淮上で兵を按じ、さらに山陽を棄てて守らないと言った、というものだった。
- 飛はたびたび枢密の職を解くことを請い、まもなく両鎮の節度使に戻され、万寿観使として朝請に列した。
- 檜は志を遂げず、さらに張俊を誘って王貴を脅させ、王俊を誘って張憲が飛の兵権を返させようと謀ったと誣告させた。檜は人を遣って飛父子を捕らえ、張憲の件の証人とした。使者が至ると、飛は笑って、皇天后土がこの心を証してくれると言った。
- 初め何鑄に取り調べさせた。飛は衣を裂いて背を鑄に示すと、「尽忠報国」の四大字が皮膚の奥まで刺してあった。実状を調べても証拠はなく、鑄はその無実を明らかにした。次いで万俟卨に命じると、卨は、飛が張憲に書を送って偽の報告を上げさせ朝廷を動かそうとし、岳雲も憲に書を送って手配させ、飛に兵を返させようとした、その書はすでに焼いたと言い立てて誣いた。飛は二か月繋がれたが証拠は何も出なかった。ある者が卨に、台臣の弾劾が指した淮西の件で攻めよと教えた。卨は喜んで檜に告げ、飛の家を捜索して当時の御札を押収して隠して痕跡を消し、行軍の日付を取り混ぜて事実を作り、獄を仕立てた。年の暮れになっても獄は成らなかったが、檜は自ら小さな紙に書いて獄に渡し、その場で飛の死が報じられた。享年三十九。岳雲は市中で斬られ、家財は没収され、家族は嶺南に移された。幕僚の于鵬らで連座した者は六人。
- もと飛が獄にあったとき、大理寺丞の李若樸と何彦猷、大理卿の薛仁輔がそろって飛に罪はないと述べたが、卨はみな弾劾して退けた。宗正卿の趙士㒟が一族百人を懸けて飛を保証すると、卨はこれも弾劾し、士㒟は流されて死んだ。建州の布衣の劉允升は上書して飛の冤罪を訴えたが、大理寺に下されて死んだ。この獄を仕立てるのに与った者はみな昇進した。
- 獄が上申されようとしたとき、韓世忠は不平を抱いて檜のもとへ行き実状を問うた。檜は、飛の子の雲が張憲に書を送った件は「もしかするとあったかもしれない」と答えた。世忠は、「もしかするとあったかもしれない」の一言でどうして天下を服せようかと言った。
- 当時、洪皓は金国にあり、蠟書で急報して、金人が畏れ服しているのは飛だけで、父と呼ぶほどだと伝えていた。金人はその死を聞いて酒を酌み交わして祝った。
- 飛は母に仕えてきわめて孝行で、母が没すると三日水も口にしなかった。家には侍妾を置かなかった。呉玠はかねて飛に心服しており、着飾らせた美女を贈ったが、飛は、主上が朝から晩まで政務に苦心されているのに、大将が安楽にしていられる時かと言って受けなかった。若いころは酒豪だったが、帝が、卿がいずれ河朔に至ったら飲むがよいと戒めたので、以後まったく飲まなかった。帝が初め飛のために邸を営もうとすると、飛は、敵がまだ滅びないのにどうして家を構えられようと辞退した。ある人が天下はいつ太平になるかと問うと、飛は、文臣が銭を愛さず武臣が死を惜しまなければ天下は太平だと答えた。
- 軍が宿営するたびに将士に坂を駆け下り堀を跳ぶ訓練を課し、みな重い鎧を着けて習わせた。子の雲が坂を下って馬を躓かせると、怒って鞭打ち、大敵を前にしてもそうするのかと叱った。民から麻一筋を取って秣を束ねた兵があると、その場で斬って晒した。兵が夜に民家の近くに宿ったとき、門を開いて泊めようと言われても入る者はいなかった。軍の合言葉は「凍え死んでも家を壊さない、飢え死にしても掠めない」だった。
- 病んだ兵には自ら薬を調え、遠征する将には妻を遣ってその家を見舞わせ、戦死した者には哭してその遺児を養い、自分の子と娘を娶わせることもあった。恩賞はすべて軍吏に分け与え、少しも私しなかった。少数で多数を撃つのを得意とし、事を起こすときは統制をすべて召して謀り、謀が定まってから戦った。それゆえ勝ちこそあれ負けはなかった。突然敵に遭っても動じなかったので、敵は「山を撼かすは易く、岳家軍を撼かすは難し」と言い合った。
- 張俊が用兵の術を問うと、智・仁・信・勇・厳の一つも欠けてはならないと答えた。軍糧を調えるときは必ず眉をひそめ、東南の民力は尽きたと言った。賢を好み士を礼遇し、経史を読み、雅歌を口ずさみ投壺に興じ、慎ましく書生のようだった。しかし忠憤は激しく、議論は正しさを守って人に屈しなかった。ついにそれゆえ禍を得た。
史論(史臣曰)
- 西漢以来、韓信・彭越・周勃・灌嬰のような将は代々乏しくない。しかし文武を兼ね備え仁と智をあわせ施した宋の岳飛のような者は、一代にそう多くは見られない。史書は関雲長が春秋左氏の学に通じたと称するが、その文章は伝わっていない。岳飛は北伐して軍が汴梁の朱仙鎮に至ったとき、自ら表を作って詔に答えており、忠義の言葉が肺腑から流れ出て、まことに諸葛孔明の風がある。それが秦檜の手にかかって死んだ。飛と檜は勢い両立しえなかった。飛が志を得れば金への仇は復せ宋の恥は雪げたが、檜が志を得れば飛には死あるのみだった。昔、劉宋が檀道済を殺したとき、道済は獄に下されて目を怒らせ、自ら万里の長城を壊すのかと言った。高宗は中原を自ら棄てるに忍びたからこそ、飛を殺すにも忍びたのである。ああ、痛ましいことだ。