宋史紀事本末呉玠兄弟、蜀を保つ(吳玠兄弟保蜀)

紹興元年から三十二年まで、呉玠・呉璘兄弟が蜀の門戸を守り抜いた三十年余り。呉玠は富平の敗後に和尚原に拠って烏珠を大破し、饒風関・仙人関で薩里罕らの侵攻を防いで蜀を保ち、紹興九年に没した。弟の呉璘は畳陣の法で劉家湾に金軍を破り、金主亮の南侵に際しては德順など十三州を回復したが、和議のため軍を戻す詔が下り、回復地はすべて失われた。

年表(19件)

高宗紹興元年冬十一月(1131年)

  • 癸酉、金の烏珠が和尚原を侵し、呉玠とその弟の呉璘が大破した。玠は富平の敗北のあと散った兵を収めて和尚原を保ち、穀を蓄え兵器を整え柵を並べて死守の構えを取った。漢中に退いて蜀の入り口を扼し人心を安んじるべきだと言う者もあったが、玠は、自分がここを保てば敵は決してこちらを越えて進めない、それこそ蜀を保つことだと答えた。
  • 玠が原上にいると、鳳翔の民はその恩恵に感じ、こぞって夜のうちに秣と穀を運んで玠を助けた。玠が銀や絹で償うと民はいっそう喜び、運ぶ者は増えた。金人は怒って渭河に兵を伏せて待ち伏せて殺し、あわせて隣保連座を命じたが、民は禁を冒して変わらなかった。
  • 金将の摩哩は鳳翔から、烏嚕舍琿は階城から散関に出て、和尚原で合流する日を約した。烏嚕舍琿が期日より早く着いて北山に陣を敷き戦いを求めると、玠は諸将に陣を堅くして待たせ、交替で戦い交替で休ませた。金人は大敗して逃げた。摩哩が箭筈関を攻めていたところへ玠がまた将を遣って破り、二軍はついに合流できなかった。
  • 金人は海の隅から起こって連戦連勝に慣れていたが、玠と戦うたびに敗れたので、ひどく憤り、必ず玠を取ろうと謀った。そこで烏珠が諸帥の兵十余万を集め、浮橋を架けて渭水をまたぎ、宝鶏から連珠の営を連ね、石を積んで城とし、谷を挟んで官軍と対峙し、進んで和尚原に迫った。
  • 玠は弟の璘とともに強い弩を選び、諸将に交替で射させた。これを駐隊矢と呼び、連射が絶えず雨のように注いだ。敵がやや退くと奇兵で側面を撃ち、糧道を断った。敵が困って逃げると見て神坌に伏兵を置いて待ち、敵が来ると伏兵が起こって大いに乱れた。玠は兵を進めて夜襲し大破した。烏珠は流れ矢二本に中り、辛うじて身一つで免れ、急いで鬚を剃って逃げた。
  • もと金人が来たとき、玠と璘は散った兵数千で原上に駐まり、朝廷との連絡も絶えて人心は定まらず、玠兄弟を捕らえて北へ降ろうと謀る者もあった。玠はこれを知り、諸将を召して血をすすって盟い、忠義をもって励ました。一同は感泣して死力を尽くすことを願い、それゆえ功を成せた。

紹興三年春正月(1133年)

  • 乙丑、金人が金州を陥れた。当時、金人は長く蜀をうかがっていたが、呉璘が和尚原に駐屯して要衝を扼していたので思うようにならず、奇策で取ろうとした。そこで叛将の李彦琪を秦州に駐めて仙人関をにらませ、河池にいる呉玠の軍を釘づけにし、また遊撃騎を熙河に出して関師古を釘づけにした。薩里罕は商於から上津に直進して金州を攻めた。王彦は三千の兵で迎え撃ったが敗れ、蓄えを焼いて石泉に退いて守り、薩里罕は勝ちに乗じて進んだ。

紹興三年二月(1133年)

  • 辛卯、王彦が兵を率いて饒風関で呉玠と合流した。金人は長駆して洋州・漢中へ向かった。劉子羽は王彦の敗北を聞き、急ぎ田晟に饒風関を守らせ、人を遣って呉玠に救援を求めた。玠は河池から昼夜に三百里を駆けて饒風に至り、黄柑を敵に贈って、大軍は遠来だからせめて渇きを止めよと言った。薩里罕は大いに驚き、杖で地を打って、なぜそんなに早く来たのかと言った。
  • そのまま全力で仰ぎ攻め、一人が先に登れば二人が後ろから押し、先の者が死ねば後の者が代わって攻めた。玠の軍は弓弩を乱射し、大石を落として押し潰した。これが六昼夜続き、死者は山と積もった。敵はそこで決死の士を募り、間道から祖溪関を経て玠の背後に回り、高所から饒風を見下ろした。諸軍は支えきれず潰え、敵は洋州に入った。
  • 玠は子羽に退去を促したが、子羽は聞かず、玠を留めて定軍山を固守させようとした。玠は難色を示し、退いて興元の西県を保った。子羽も興元を焼いて大安の三泉県に退いた。
  • 己亥、薩里罕は興元に入り金牛鎮に至り、四川は大いに震えた。子羽の従う兵は三百に満たず、士卒とともに草の芽や木の皮を食い、玠に訣別の書を送った。玠は書を得ても動く気配がなかったが、その愛将の楊政が軍門で大声を上げ、節使は劉待制を見捨ててはならない、さもなければ我らも節使を捨てて去ると言った。玠はそこで間道から子羽と合流した。
  • 子羽は玠らに三泉を守らせようとしたが、玠は、関外は蜀の門戸であり軽々に棄てられないと言い、仙人関を守りに行った。子羽は潭毒山が切り立ってその上は広く平らで水があるので、そこに壁塁を築いた。塁がちょうど成ったとき金人はすでに営から十数里に迫っていた。子羽は胡床に坐って塁の入り口に構えた。諸将が泣いて、ここは待制のお坐りになる場所ではないと言うと、子羽は、自分は今日ここで死ぬのだと答えた。敵はまもなく引き揚げた。
  • 当時、張浚も潼川へ移って守ろうとしたが、子羽が、自分がここにいる以上、金人は必ず南へは行かないと書き送ったのでやめた。
  • 金兵が斜谷から北へ去ったので、子羽は武休で待ち伏せようとしたが間に合わなかった。薩里罕は鳳翔に戻ると、十人に書を持たせて子羽を招いた。子羽はみな斬り、一人だけ放して、自分に代わって敵に伝えよ、来たければ来るがよい、自分には死あるのみで招かれる筋合いはない、と言わせた。
  • もと子羽は金兵が来ると聞いて梁州・洋州の蓄えをあらかじめ移していた。金人は深入りして糧の補給が続かず、馬や両河で徴発した軍士を殺して食った。そこへ子羽と玠が腹背から挟撃したので死傷は十のうち五、六に及び、疫病も出て、衆を率いて引き揚げた。子羽と玠は兵を出してその後ろを衝き、金人は谷に落ちて死ぬ者が数知れず、輜重をすべて棄てて逃げ、抜け出せない残兵はみな降った。子羽は興元に戻った。
  • 金人の当初の謀は、玠が西辺にいると思って険を渡って東から来たものだった。玠が駆けつけたのは計算外で、三州に入りはしたが得るところは失うところに償わなかった。

紹興三年五月(1133年)

  • 丙子、王彦が金州を回復し、金人は均州・房州を棄てた。
  • 己卯、金牛の功を論じ、呉玠を利州路・階州・成州・鳳州制置使、劉子羽を宝文閣直学士、王彦を保大軍承宣使とし、諸将佐にもそれぞれ賞を与えた。

紹興三年十一月(1133年)

  • 乙亥、金の烏珠が和尚原を陥れた。そこで宣撫司は陝西の地を分け、秦州・鳳翔から洋州までを呉玠が主管して仙人関に駐屯し、金州・房州から巴州・達州までを王彦が主管して通州に駐屯し、文州・龍州から威州・茂州までを劉錡が主管して巴西に駐屯し、洮州・岷州から階州・成州までを関師古が主管して武都に駐屯した。

紹興四年三月(1134年)

  • 辛亥、呉玠・呉璘が仙人関で金の烏珠と戦って破った。それ以前、璘は和尚原を守っていたが補給が続かなかった。玠は金人が必ずまた深入りすると考え、しかもその地は蜀から遠いので、璘に仙人関の右手に別の陣営を築かせた。その地を殺金平といい、兵を移して守らせた。
  • ここに至って烏珠・薩里罕・劉夔が歩騎十万を率いて和尚原を破り、進んで仙人関を攻めた。鉄山から崖を削って道を開き、嶺に沿って東へ下った。玠は一万の兵で殺金平を守ってその衝に当たった。璘は武階の道から援けに入り、あらかじめ玠に書を送って、殺金平の地は広く、前陣が散漫で後陣が狭い、第二の隘路をいっそう整えて必死に戦う構えを示してこそ必勝を得られると述べた。玠は従って急ぎ第二の隘路を整えた。璘は包囲を冒して七昼夜転戦し、ようやく仙人関で玠と合流した。
  • 敵はまず玠の陣営を攻めたが、玠が撃退した。さらに雲梯で塁壁を攻めると、楊政が撞き竿でその梯を砕き、長矛で刺した。別の地を選んで守ろうと請う将もあったが、璘は刀を抜いて地に線を引いて諸将に示し、死ぬならここで死ぬ、退く者は斬ると言った。
  • 金軍は二手に分かれ、烏珠は東に、韓常は西に陣を敷いた。璘は精鋭を率いてその間に入り、左に回り右に絡み、急な所へ駆けつけて戦った。戦いが長引いて璘の軍がやや疲れると、急ぎ第二の隘路に拠った。金の新手が続いて至り、兵は重い鎧を着け鉄の鉤で互いに連なり、魚の列のように登ってきた。璘は駐隊矢で重ねて射させ、矢は雨のように降って死者は層をなしたが、敵はそれを踏んで登った。薩里罕は馬を止めて四方を見渡し、これで手に入ったと言った。
  • 翌日、西北の楼を攻めさせた。姚仲が楼に登って激戦し、楼が傾くと絹を縄にして引き戻した。金人が火攻めをかけると、仲は酒瓶で打ち消した。玠は急ぎ統領の田晟を遣り、長刀と大斧で左右から撃たせた。松明が明々と四方の山を照らし、鼓の音が地を動かした。
  • 翌日、大挙して兵を出し、統領の王喜と王武が精鋭を率い、紫と白の旗を分けて金の陣営に突入した。金の陣は乱れ、奮って撃ち、射た矢が韓常の左目に中った。金人はようやく夜に紛れて逃げた。玠は統制の張彦を遣って山砦を襲わせ、王俊を河池に伏せさせて帰路を扼し、また敗った。
  • この一戦では、烏珠以下がみな妻子を連れて来ていた。劉夔は劉豫の腹心で、蜀は図れると考えていたが、思うようにならず、玠はついに犯せないと見て、鳳翔に戻って拠り、兵に田を授けて長く留まる計とし、これ以後みだりに動かなくなった。

紹興五年春正月(1135年)

  • 呉玠が秦州を回復した。玠は敵が淮南を侵したと聞き、呉璘と楊政を遣って機に乗じて牽制させた。璘らは奇兵を出し、天水から秦州に至ってその城を抜いた。薩里罕は秦州が囲まれたと聞いて諸道の兵を集めて援けに来たが、政がまた撃退した。

紹興六年八月(1136年)

  • 癸卯、四川都転運使の趙開が罷められた。当時、呉玠は宣撫副使としてもっぱら戦守に当たり、財政の余裕は問わず、一切を軍の期日に合わせて開に調えさせた。開はたびたび補給が続かないと朝廷に訴え、自らも老衰を理由に弾劾して辞任を求めた。朝廷は双方を宥め、席益を制置大使として宣撫副使の上位に置き、州軍の兵馬はすべて大使司に属させ、辺防の重事は引き続き宣撫司に処置させた。
  • 益は四川に着くと軍用の銭をかなり流用したので、開はまた朝廷に訴え、さらにたびたび銭引を増発したが軍費はなお足りなかった。朝廷は開と益が協調しないので、開を行在へ召し、李迨を代わりとした。
  • 金人が陝西・蜀を侵して以来、開が補給を掌り軍用は欠けなかった。その後、財政の任は何度も替わったが、開の立てた仕組みを変える者はなかった。ただし茶・塩の専売や酒の課税、細かな絹布への徴収がそのまま蜀の常賦となったのは、開が先鞭をつけたものである。
  • 益はまもなく母の喪で去った。帝が胡交修に蜀を守れる者を問うと、交修は甥の胡世将を挙げ、世将を四川安撫制置使とした。

紹興九年春正月(1139年)

  • 己亥、呉玠を四川宣撫使とした。玠は金人と塁を接して十年近く、遠い補給が民を苦しめることを常に憂え、たびたび冗員を削り無駄な費用を節し、屯田を盛んにした。帝は玠の功が高いことから、和議が成るのに合わせて開府儀同三司・四川宣撫使を授け、陝西の階州・成州などの州もすべてその節制に従わせた。

紹興九年六月(1139年)

  • 己巳、呉玠が没した。玠の用兵は孫子・呉子に本づき、遠大な策を務めて目先の小利を求めず、それゆえ必勝を保てた。部下には厳しくも恩があり、大将の身でありながら最下級の兵まで思いを伝えられたので、士は喜んで死んだ。将佐の選任は功労と能力で高下と先後を決め、縁故や権貴に左右されなかった。富平の敗北以来、金人はもっぱら蜀を図ったが、玠が身をもってその衝に当たらなければ蜀はとうに失われていた。だから西の人々は玠を慕い、祠を立てて祀った。

紹興九年秋七月(1139年)

  • 乙巳、胡世将を四川宣撫副使とした。世将は着任すると諸将に、自分は騎射に習わず敵情にも通じていない、朝廷が自分を遣ったのは国家の故事に倣って文臣を制将としただけだ、軍事は一切、呉宣撫の規を改めず、それぞれ誠心を尽くして共に国事を済せばよいと述べ、諸将はみな服した。

紹興十年五月(1140年)

  • 詔して呉璘に陝西の諸軍を節制させた。当時、金人はまた盟約を破り、薩里罕が同州に入って永興軍へ向かい、陝西の州県は行く先々で迎えて降り、そのまま鳳翔に進んで拠った。もと関中・陝西を回復したばかりのころ、朝廷は軍を熙州・秦州・鄜延の諸路に分けて駐屯させていたが、薩里罕が鳳翔に至ると陝西の諸軍はみな敵の背後に取り残され、遠近は大いに震えた。

紹興十年六月(1140年)

  • 呉璘が扶風で金人を破った。もと胡世将は河池で急ぎ諸将を召して議した。呉璘と孫渥はすでにおり、楊政と田晟が続いて着いた。諸将は少し退いて清野し敵の鋒を挫くよう請い、孫渥は河池は守れないと述べた。璘は声を励まして退け、臆病な言葉で軍を沮む者は斬るべきだと言い、一族百人を懸けて敵を破ると請うた。世将はこれを壮とし、自分の居る幕を指して、世将はここで死ぬ覚悟だと言った。そこで諸将を分けて渭南に拠らせた。まもなく詔があって世将は蜀の入り口へ屯を移した。
  • 折しも金人が石壁砦を侵したので、璘は姚仲らを遣って撃退した。まもなく薩里罕が呼雅郎君に三千騎で璘の軍を衝かせたが、璘は統制の李師顔に驍騎で撃破させた。敵は先に扶風に城を築いており、敗れるとその城に入って守ったが、官軍が攻め落として三将と女真百七十七人を捕らえた。薩里罕はひどく怒って自ら百通坊で戦ったが、姚仲が力戦して破り、薩里罕は鳳翔に戻った。これによって金人は隴を越えられず、分屯していた軍は全軍で戻ることができた。
  • 閏六月、薩里罕は呉璘・楊政と渭河を挟んで陣を敷いた。璘が大虫嶺に兵を置くと、薩里罕は偵察して、よく戦う者は不敗の地に立つ、これは争いにくいと言い、引き揚げて邠州へ向かった。田晟が将を遣って青溪嶺で防ぎ、胡世将も王彦と楊従儀を分けて出し、たびたび戦って破った。薩里罕は鳳翔に戻って駐屯したが、まもなくまた出て涇州を攻めた。田晟は山に拠って陣を敷き、敵の陣がまだ定まらないうちに奮って撃ち破り、多くの兵馬を奪った。薩里罕は鳳翔に逃げ帰った。

紹興十一年九月(1141年)

  • 丙申、呉璘が劉家湾で金人と戦って大破した。癸亥、詔を受けて軍を戻した。
  • もと呉璘は兵を進めて秦州を抜いた。金の統軍の胡盞と蘇卜実が兵五万を合わせて劉家圏に駐屯した。璘が胡世将に撃つことを請うと、世将はどんな策かと問うた。璘は答えた。新たに立てた畳陣の法がある。戦うたびに長槍を前に置き、坐らせて立たせない。次に最も強い弓、次に強い弩を置き、膝をついて待たせる。次に神臂弓を置き、賊が近づいて百歩以内に入れば神臂弓が先に放ち、七十歩で強弓が一斉に放ち、次の列も同様にする。陣はすべて拒馬で限り、鉄の鉤で連ね、傷ついた者は交替させ、交替は鼓を合図とする。騎兵は両翼で前を覆い、陣が成れば騎は退く。これを畳陣という、と。世将は善しとした。
  • 諸将はひそかに、我が軍はここで殲滅されるのではと語ったが、璘は、これは古の束伍の令で軍法にもある、諸君が知らないだけだ、車戦の遺意を得たものでこれに勝るものはない、戦士の心が定まれば弓を引き絞っていられ、敵がいかに鋭くとも当たれないと述べた。
  • そのまま進んで劉家湾に泊まった。当時、和珍と蘇卜実は険に拠って固め、前は峻嶺に臨み後ろは臘家城を控え、璘は必ず軽々に犯せまいと考えていた。前日、璘は諸将を集めて攻め方を問い、姚仲が山の上で戦えば勝てると言い、璘はもっともとして戦いを求めた。敵はみな笑った。
  • 夜半、璘は姚仲と王彦に枚を含ませて渡河させ、峻嶺に登って坂の上を断たせ、二将が嶺に登りきってから火を放つよう約した。二将が嶺に着くと物音一つなく、軍はすでに並び終えており、万の松明が一斉に上がった。敵は驚愕して、これで負けたと言った。
  • 蘇卜実は謀に長け和珍は戦に長けて、二人の意見は分かれた。璘がまず兵で挑むと、和珍は果たして出て激戦した。璘は畳陣の法で交替に戦わせ、軽い裘で馬を止め急かして指揮した。士は決死で闘い、金人は大敗して降る者は一万人。和珍は逃げて臘家城を保ち、璘が囲んで攻め、城は今にも破れようとした。
  • ところが朝廷は和議を主としており、駅書で軍を戻すよう詔した。当時、璘は秦州を抜いて勢いは盛んで、陝西・河東の首領たちが争って帰属し、楊政も隴州を抜き岐山の麓の諸屯を破り、郭浩も華州を回復して陝州に入っていた。詔が届くと、璘は臘家城から兵を引いて河池に戻り、郭浩は延安に、楊政は鞏州に戻った。世将はただ嘆くばかりだった。

紹興三十一年五月(1161年)

  • 乙未、呉璘を四川宣撫使、王剛中を同処置軍事とした。当時、金主の亮が盟約を破ろうとしていると聞いたので、璘に備えさせたものである。

紹興三十一年八月(1161年)

  • 金の西道行営の図克坦喀齊喀が兵を率いて大散関を扼し、遊撃騎が黄牛堡を攻めた。守将の李彦堅が急を告げ、人心は騒然とした。制置使の王剛中は馬一頭で二百里を駆けて呉璘の陣営に至り、幕中の璘を起こして責め、大将は国と休戚を同じくする身だ、敵を前にしてどうして高枕で寝ていられるかと言った。璘は大いに驚き、ただちに殺金平へ駆けつけ、青野原に駐軍し、さらに内郡の兵を調えて道を分けて進ませ、方略を授けて黄牛堡を援けた。剛中はまた蠟書を張正彦に送って軍を出させ、西の軍は大いに集まった。李彦堅が神臂弓で射て金の軍を退けた。璘は別将の彭青を宝鶏の渭河に遣って夜に橋頭の砦を襲って破らせ、また劉海を遣って秦州を回復し、彭青に隴州を回復させた。金の軍が退くと、剛中は道を倍して駆け戻り、属官の李燾に、これは将帥の力だ、自分に何の功があろうと語った。

紹興三十一年冬十月(1161年)

  • 詔して呉璘に漢中へ出兵させ、璘は商州・虢州を回復した。

紹興三十二年二月(1162年)

  • 金人が虢州を侵したので、呉璘は将の楊従儀らを遣って攻めさせ、兵を分けて和尚原を守らせた。金人は宝鶏へ逃げた。璘は兵を遣って河源州および積石・鎮戎軍を回復し、さらに大散関を回復した。
  • 当時、璘は姚仲を遣って德順を攻めさせたが、四十日余りたっても落ちなかったので、李師顔に代えた。子の呉挺を遣って軍馬を節制させると、挺は瓦亭で敵と戦って大敗させ、その将の耶律紏堅ら百三十七人を捕らえた。
  • 金人が全軍で德順へ向かうと、璘は自ら赴いて督戦した。まず険に壁を築き、あわせて河を挟んだ戦場を整え、諸屯を巡視して命に従わない者を斬った。まず数百騎で敵を試すと、敵は鼓を一つ鳴らして精鋭が塁を空にして躍り出、璘の軍を衝いた。璘の軍はあらかじめ地形を整えていたので一人が百人に当たった。日暮れに璘は突然、某将は戦いに力を尽くしていないと呼ばわらせ、人はいっそう奮って敵と搏った。敵は大敗して塁に逃げ込んだ。夜明けに軍を再び出すと、敵は壁を堅くして動かなかった。折しも大風雪となり、金人は営を払って去った。八日で城は落ちた。璘が入城すると市は店を閉じなかった。さらに厳忠を遣って環州を取らせ、河池に戻った。姚仲らも蘭州・会州・熙州・鞏州などの州および永安軍を回復した。

紹興三十二年十二月(1162年)

  • 丙寅、詔して呉璘に軍を戻させた。当時、金は重兵で鳳翔を扼し、呉璘が新たに回復した十三州を争っていた。璘は急ぎ德順へ駆けて備え、まもなく金の札実結が十万の軍を率いて攻めてきたので、力戦して防いだ。
  • 折しも史浩が上言し、官軍の西討は東は宝鶏を越えるべきでなく、北は德順を越えるべきでない、兵が外に宿って川口から遠ざかれば敵は必ず襲うと述べた。朝廷はそこで三路を棄てようとした。虞允文はそのとき川陝宣諭使で、疏を上げ、恢復は陝西を先とするに越したことはない、陝西五路の新たに回復した州郡は德順の存亡にかかっている、ひとたび棄てれば蜀をうかがう道はいっそう増える、西和州・階州・成州の利害はきわめて重く、慮らずにはいられないと述べた。疏が上がると允文は罷められて知夔州とされ、璘に軍を戻す詔が下った。
  • 金人はその後ろに乗じ、璘の軍は三万三千と部将数十人を失った。営を連ねて痛哭する声が野に響いた。こうして秦鳳・熙河・永興の三路で新たに回復した十三州は、すべてまた金に取られた。