宋史紀事本末張浚、関中・陝西を経略する(張浚經略闗陜)
建炎三年から紹興四年まで、張浚が川陝宣撫処置使として関中・陝西を経略した五年余り。興元に幕府を置き、趙開に財政を、劉子羽を参議に、呉玠を大将に用いたが、建炎四年の富平の戦いで四十万の兵が潰え、関中・陝西は失われた。その後は和尚原などの険を扼して蜀を保ち、曲端を殺したことが恨みを買った。紹興二年に王似が副使となって浚は召還され、四年に弾劾されて福州に居住させられた。
年表(17件)
- 高宗
- 建炎三年五月1129年張浚が川陝宣撫処置使となり、中興は関中・陝西からと説く
- 建炎三年秋七月1129年張浚が建康を発つ
- 建炎三年冬十月1129年興元で兵を整え、趙開を随軍転運使として酒法・銭引を改める
- 建炎三年十二月1129年曲端を宣撫処置司都統制とし、劉子羽の推薦で呉玠兄弟を用いる
- 建炎四年夏四月1130年呉玠が彭原で敗れ、曲端が援けなかったことから両者に隙が生じる
- 建炎四年六月1130年浚が曲端の持久策を容れず、兵権を奪って万安軍に安置する
- 建炎四年秋七月1130年烏珠が陝西へ向かい、趙哲が鄜州、呉玠が永興軍を回復する
- 建炎四年九月1130年諸将の諫めを退けて富平で決戦し、趙哲の潰走から大敗する
- 建炎四年十一月1130年劉子羽の献策で興州に留まり、呉玠に和尚原の険を扼させる
- 紹興元年三月1131年金人が興州に迫り、浚は退いて閬州を保つ
- 紹興元年六月1131年呉玠を陝西諸路都統制とするが、残る地は五郡と二原のみとなる
- 紹興元年八月1131年呉玠・王庶の讒言により曲端を恭州の獄で殺し、軍士が憤り離れる
- 紹興二年五月1132年劉子羽を知興元府とする
- 紹興二年九月1132年朝廷が浚を疑って王似を川陝宣撫処置副使とする
- 紹興二年十二月1132年浚が兵権の返上を求め、召されて知枢密院事となる
- 紹興四年三月1134年辛炳らの弾劾で浚は福州居住、劉子羽は白州に安置される
- 紹興四年八月1134年趙鼎が川陝・荊襄の都督とされるが、宰相となって赴任は取りやめとなる
高宗建炎三年五月(1129年)
- 張浚を川陝宣撫処置使とした。帝が大計を問うと、浚は、中興は関中・陝西から始めるべきだと述べ、金人が先に陝西に入って蜀をうかがえば東南も保てないと憂え、自ら陝西と蜀の事に当たり、幕府を秦州に置き、別に大臣を遣って韓世忠とともに淮東を鎮め、呂頤浩に車駕を扈従させて武昌に来させて陝西へ向かう備えとし、あわせて張浚と劉光世を秦州と首尾を成すよう配することを請うた。帝はもっともとし、浚を宣撫処置使として便宜に任せ、黜陟を許し、沿江・襄漢の守臣と蓄えを議して行幸に備えさせた。
- もと浚の宣撫の議がまだ決まらなかったころ、監登聞検院の汪若海が、天下は常山の蛇の勢いのようなもので、秦・蜀が首、東南が尾、中原が背骨だ、今、東南を首としてどうして天下の背骨を起こせよう、恢復を図るなら必ず川陝によるべきだと述べた。浚は大いに喜び、行くことを決した。季陵が浚への委任が専断に過ぎると論じたが、旨に忤って職を落とされ祠禄に回された。
建炎三年秋七月(1129年)
- 庚子、張浚が建康を発った。
建炎三年冬十月(1129年)
- 壬辰、張浚が興元で兵を整え中原を図った。浚は上疏し、漢中はまさに形勢の地で、前は六路の軍を制し、後ろは両川の穀を控え、左は荊州・襄陽の財に通じ、右は秦州・隴州の馬を出す、中原に号令するには必ずここを基とすべきだと述べ、慎んで穀を蓄えて行幸を待つとした。
- 辛丑、張浚は趙開を随軍転運使として四川の財賦を統べさせた。開は浚に会い、蜀の民力は尽きており、わずかも加えられない、ただ専売の利だけはまだ余りがあるのに、貪欲な者が自分のものと称して隠している、怨みや罵りを恐れず断行してこそ一時の急を救えると述べた。浚は興復に意を鋭くしていたので任せて疑わなかった。
- そこで酒法を大きく改め、従来の請負の酒場に隔醸の設備を置いて官が管理し、麹と醸造具は官がすべて買い上げ、醸造戸には各自米を官へ持ち込んで自ら醸させ、一斛につき銭三十と頭子銭二十二を納めさせた。醸造の多寡は納める銭次第で数量の制限をしなかった。また秦州に銭引務を置き、興州で銅銭を鋳造し、官が銀と絹を売って民に銭引や銅銭で買わせた。民が官に納めるべき銭はすべて銭引での納入を認め、官の支出も同様とした。民はこれを便利とした。
- 当時、浚は重い任務を負い、十日ごとに労い月ごとに賞して士の死力を得ようとしたので費用は莫大だったが、すべて趙開が調達した。開は財政に知恵を尽くし、計算に遺漏がなく、支出は数えきれないほどでも資財は常に余裕があった。
建炎三年十二月(1129年)
- 甲申、張浚は制を承けて曲端を威武大将軍・宣撫処置司都統制とした。もと曲端が王庶を斬ろうとしたので朝廷は叛意を疑ったが、浚は一族百人を懸けて保証し、しかも敵とたびたび渡り合っておりその威名を借りたいとして、この任命となった。軍士は喜んで服した。
- 浚はまた劉子羽を参議軍事に招いた。子羽は涇原都監の呉玠とその弟の呉璘の才と勇を推薦し、浚は玠を統制、璘に帳前の親兵を掌らせた。
建炎四年夏四月(1130年)
- 金の羅索は陝州を陥れると長駆して潼関に入った。曲端は呉玠を遣って彭原で防がせ、自らは邠州に兵を擁して後詰めとした。金人が攻めてくると玠が撃退し、薩里罕は恐れて泣いた。羅索が軍を整えて再び戦うと玠の軍は敗れ、部将の楊晟が戦死した。曲端は退いて涇原に駐屯し、金は勝ちに乗じて邠州を焼いた。玠は端が援けなかったことを怨んで大いに罵り、二人の間に隙が生じた。羅索は端が全軍を退いたため、また夏に入ったので河東へ引き返した。
建炎四年六月(1130年)
- 癸酉、張浚が都統制の曲端を罷めた。浚は端を重用していたが、人の中傷が浸みて疑いを持たずにいられなくなり、張彬を渭州へ遣って探らせた。彬は端に、今は兵が集まり財も備わった、羅索は孤軍で我が境に深入りしている、諸路を合わせて攻めれば難しくないと言った。端は、彼の将士は精鋭で、しかも我が地で糧を得ている、こちらがかえって客の立場で、まだ勝てない、兵を按じて険に拠り、時おり分遣隊を出して耕作と収穫を妨げれば、彼は耕せず河東から糧を取らざるを得なくなり、そのとき我らが主となる、こうして一、二年たてば彼は必ず疲弊し図れる、万一軽々に動けば後の憂いは大きいと答えた。彬が戻って報告したが、浚は同意しなかった。
- 烏珠が江淮に留まっていると聞いて出兵して撹乱することを議したときも、端は、平原の広野は敵が突撃するのに好都合で、我が軍はまだ戦いに慣れていない、金人の新興の勢いとは鋒を争いがたい、兵を訓練し馬を養って境を保つべきで、十年後こそ図れると述べた。浚は先の疑いを重ね、彭原の敗北を理由に端の兵権を奪い、さらに海州団練副使に貶して万安軍に安置した。
建炎四年秋七月(1130年)
- 金の烏珠が兵を率いて陝西へ向かった。当時、張浚は金兵が淮上に集まったので東南がまた乱されることを恐れ、牽制しようと考え、道を分けて同州・鄜延から敵の虚を衝こうとした。烏珠はこれを聞き、六合から兵を率いて陝西へ向かった。金主も、羅索がもっぱら陝西を攻めながら落とした城邑がすぐまた守りを固めるので、その増兵の請いに応じ、鄂爾多にその軍を監督させた。
- 張浚が兵を遣って陝西の軍州を回復し、趙哲が鄜州を、呉玠が永興軍を回復し、その他の州県も多くは迎えて降った。
建炎四年九月(1130年)
- 癸亥、張浚は烏珠が来ると聞き、熙河の劉錫、秦鳳の孫偓、涇原の劉錡、環慶の趙哲の四経略および呉玠の兵を檄して召集した。合わせて四十万人、馬七万匹。劉錫を統帥として敵を迎え決戦しようとした。
- 王彦が諫めて、陝西の兵と将は上下の意思が通じていない、不利になれば五路をともに失う、しばらく利州・閬州・興元・洋州に駐屯して根本を固め、敵が境に入ったら五路の兵を檄して援けさせるほうがよい、万一勝てなくても大きな損失にはならないと述べたが、浚は従わなかった。劉子羽も不可を力説したが、浚は、自分がそれを知らぬわけではない、ただ東南の事が急で、こうせざるを得ないのだと答えた。呉玠と郭浩も、敵の鋒はいま鋭いから各自要害を守り、その疲れを待って乗ずべきだと述べたが、これも従わなかった。
- 軍は進んで富平県に泊まった。劉錫が諸将を集めて戦いを議すると、玠は、兵は利によって動く、今は地勢が不利で勝算が見えない、高台を選んで拠り、敵に勝ち目を与えないようにすべきだと述べた。諸将はみな、こちらは多く敵は少なく、しかも前には葦の茂る沼があって敵は騎兵を使えない、どうして移る必要があるかと言った。
- ほどなく羅索が兵を率いて急に至り、柴を積み土嚢を運んで沼を平らにして進み、諸営に迫った。錫らは力戦し、劉錡は自ら将士を率いて敵陣に迫り、多くを殺し捕らえた。勝敗が決しないうちに、敵の鉄騎が趙哲の軍を直撃した。他の将は救援が間に合わず、哲は部隊を離れた。将校たちは砂塵が上がるのを望み見て驚いて逃げ、諸将はみな潰えた。敵は勝ちに乗じて進み、関中・陝西は大いに震えた。
- 浚はそのとき邠州に駐まって督戦していたが、敗れて退いて秦州を保ち、趙哲を召して斬り、劉錫を合州に安置し、諸将にそれぞれ本路へ戻らせ、上書して罪を待った。これ以後、関中・陝西は回復できなくなり、論者は浚が軽々に軍を出して律を失ったことを咎めた。
建炎四年十一月(1130年)
- 金人が德順軍に入り、張浚は退いて興州を守った。当時、輜重は焼き棄てられ将士は散り、親兵千余だけが従い、人心は大いに沈んだ。夔州へ役所を移すよう請う者があったが、参軍事の劉子羽は叱って、小僧は斬るべきだと言い、こう述べた。四川は豊かで、敵が侵そうとして久しい。ただ川口に鉄山と桟道の険があるからすぐにはうかがえないだけだ。今、堅守しないで深入りを許し、こちらは夔峡の辺鄙な地に居れば、関中との連絡も絶え、進退の拠り所を失って悔いても及ばない。幸い敵はまだ掠奪をほしいままにしていて近郡に迫っていない。宣撫司はただ興州に留まり、外には関中の望みをつなぎ、内には全蜀の心を安んじるべきだ。急ぎ官属を関の外へ遣って諸将を呼び集め、散った兵を収め、隘路と険地に配置して壁を堅くし塁を固め、隙を見て動けば、先の過ちを補えよう、と。
- 浚はその言をもっともとしたが、参佐で行こうという者はいなかった。子羽が自ら命を奉ることを請い、単騎で秦州に至って諸々の逃げた将を召した。当時、諸将は宣撫司の所在を知らなかったが、命を聞いて大いに喜び、こぞって衆を率いて集まり、十余万人となって軍勢はまた振るった。
- 子羽はそこで、呉玠に兵を集めて鳳翔の大散関の東の和尚原で険を扼して敵の来路を断たせ、関師古らに熙河の兵を岷州の大潭に集めさせ、孫偓・賈世方らに涇原・鳳翔の兵を階州・成州・鳳州の三州に集めさせて蜀の入り口を固めるよう請うた。金人は備えがあると知って引き揚げた。
紹興元年三月(1131年)
- 金人が福津を破り、同谷を蹂躙して興州に迫った。浚は退いて閬州を保ち、張深を四川制置使として劉子羽とともに益昌へ向かわせ、王庶を利州・夔州制置使として陝西諸路を節制させ知興元府とした。
紹興元年六月(1131年)
- 張浚が呉玠を陝西諸路都統制とした。当時、関中・隴西の六路はすべて金に陥ち、残るのは階州・成州・岷州・鳳州・洮州の五郡と、鳳翔の和尚原、隴州の方山原だけだった。
紹興元年八月(1131年)
- 丁卯、張浚が前の威武大将軍の曲端を殺した。浚は富平で敗れてから端の言葉を思い起こし、召し還してやや官を復し、閬州に移して再び用いようとした。呉玠は端を恨んでおり、端が再起すれば必ず公に不利だと述べ、王庶もそれに乗じて離間した。玠はさらに「曲端謀反」の四字を手に書いて浚に示した。庶はまた、端がかつて柱に詩を題して「関中に向かって事業を興さず、かえって江上に来て漁舟を泛べる」と書いたと言い、乗輿を指斥するものだと述べた。
- 浚はそこで端を恭州の獄に送った。武臣の康随という者がかつて事で端に逆らい、端に背を鞭打たれて骨髄まで恨んでいた。浚は康随を提点夔路刑獄としたので、端はこれを聞いて、自分は死ぬのだと言い、天を呼ぶこと数声だった。端には鉄象という一日に四百里を駆ける馬があり、このとき鉄象よ惜しいと続けて呼んだ。逮捕に赴くと、康随は獄吏に縛らせ、口を塞ぎ火であぶって脅した。端は渇いて飲み物を求めると酒を与えられ、九竅から血を流して死んだ。陝西の士大夫で痛惜しない者はなく、軍士は憤り叛き去る者も出た。
- まもなく金人と再び富平で戦ったとき、浚の軍は端の旗を偽って掲げて敵を怖れさせようとしたが、金の羅索は端がすでに死んだと知っており、手を打って笑い、なぜ自分を騙すのかと言い、軍はまた敗れた。
紹興二年五月(1132年)
- 張浚が劉子羽を知興元府とした。
紹興二年九月(1132年)
- 丙戌、王似を川陝宣撫処置副使とした。張浚は関中・陝西で三年、新たに集めた兵を訓練して勢い盛んな敵に当たり、劉子羽を上賓とし、趙開に転運を任せ、呉玠を大将に抜擢した。子羽は慷慨で才略があり、開は財政に長け、玠は戦うたびに勝ったので、西北の遺民で帰属する者が多かった。それゆえ関中・陝西は失われても全蜀は安泰で、しかも形勢によって東南を牽制し、江淮もそのおかげで安らかだった。
- ところが朝廷は、浚が趙哲と曲端を無実で殺し、子羽・趙開・呉玠を用いたのは誤りだと疑い、王似を副使とした。浚はそこから安んじられなくなった。
紹興二年十二月(1132年)
- 甲辰、張浚を召して知枢密院事とした。浚は王似が来ると聞いて上疏し、兵権を解くことを求め、あわせて似は任に堪えないと論じた。呂頤浩は面白く思わず、朱勝非も旧怨から日ごろ浚を悪く言っていたので、召し還すことになり、盧法原を川陝宣撫副使として王似とともに司の事を執らせた。
紹興四年三月(1134年)
- 乙丑、張浚が臨安に着いた。浚は召されたものの、劉子羽らの軍が敗れたことを伏せてまだ発たなかった。王似と盧法原も閬州へ赴かなかった。まもなく詔で似と法原を鎮所へ赴かせ、浚と子羽・王庶・劉錫らはみな行在へ赴いた。
- もと辛炳が知潭州だったころ、浚は陝西から檄して兵を出させたが、炳は送らなかった。浚は弾劾を奏していた。ここに至って炳が御史中丞となり、殿中侍御史の常同らを率いて、浚は軍を失い地を失い、驕り高ぶって臣たる道に背いたと弾劾した。浚は職を落とされて祠禄となり福州に居住することとなり、劉子羽は白州に安置された。詔して王似を川陝宣撫使、盧法原と呉玠をその副とした。
- 折しも烏珠が関を攻めて呉玠に敗れた。法原はもともと玠と仲が悪く、玠は功を奏する際に法原が軍を出さなかったと訴えた。上が手詔で詰問したので、法原は憂え憤って没した。
紹興四年八月(1134年)
- 戊子、改めて趙鼎に川陝・荊襄の諸軍事を都督させた。鼎は器でないとして辞退したが、帝は、四川は豊かで天下の半ばを占める地だ、すべて卿に付す、黜陟も専断してよいと述べた。
- 鼎は便宜を条陳したが、また朱勝非に抑えられたので、上疏して述べた。先ごろ陛下が張浚を川陝に遣わされたとき、国勢は今の百倍だった。浚には天を補い日を浴させるほどの功があり、陛下には山を砥ぎ河を帯とする誓いがあり、君臣の相信じることは古今に二つとなかった。それでもついに物議を招いて追放された。軍を失い地を失ったことは確かにあったが、論者が言うほどではない。おおむね黜陟の典を専らにし制御されない権を受ければ、小人はその分に安んじず、爵賞は求めれば得られると思い、一つ意に沿わなければたちまち不満を抱く。当時は蜀の士が金を出し合って人を雇い闕に訴えさせるまでになり、無いことを有ることとされては、どう身を明かせよう。だから志ある士で国のために事を成そうという者はみな浚を戒めとしている。今、自分には浚のような功もないのにこの重責を負い、朝廷を遠く離れる。好悪是非がまた聡明の下で紛々と起こるのではと恐れる。臣の孤忠を憐れみ、手足を伸ばして働かせ、陛下の西を顧みる憂いを少しでも寛げさせてほしい、と。あわせて、自分が請うた兵は数千に満たず、半ばは老弱で、携える金帛もごくわずかだ、推薦した人の任命が下るや弾劾の筆が動く、日々陛下のおそば近くにいてもこれほど難しいのに、まして万里の外ではどうかと述べた。鼎はまもなく宰相となったので、赴任は取りやめとなった。