宋史紀事本末金人、劉豫を立てる(金人立劉豫)

建炎二年から紹興七年まで、金が劉豫を傀儡の斉帝に立て、やがて廃するまでの十年。劉豫は済南で金に降り、達蘭・高慶裔の後押しで大斉皇帝に立てられて汴に都し、陝西まで領して南侵を繰り返した。韓世忠が大儀鎮で、楊沂中が藕塘でその軍を破ると、金は劉豫を見限り、紹興七年閏十月に烏珠が汴を襲って廃した。岳飛と韓世忠はこの機の北伐を請うたが容れられなかった。

年表(24件)

高宗建炎二年春正月(1128年)

  • 劉豫を知済南府とした。豫は景州の人で河北提刑を務めていたが、金人が南侵すると官を棄てて真州へ逃げた。張慤が推薦して済南の知事に起用された。当時、山東で盗賊が起こっていたので、豫は赴任を渋り東南の一郡に替えてほしいと請うたが、執政は許さず、豫は憤って任地へ去った。

建炎二年十二月(1128年)

  • 庚申、金人が東平府を陥れ、さらに済南府を攻めた。劉豫は子の劉麟を出して戦わせたが、敵は兵を放って幾重にも囲んだ。郡の副官の張東が兵を増して救援に来て敵を退けた。達蘭が人を遣って利で誘うと、豫は済南の驍将の関勝を殺し、百姓を率いて金に降ろうとした。百姓が従わなかったので、豫は縄で城を下りて達蘭のもとへ帰した。

建炎三年三月(1129年)

  • 金人が京東の諸郡を陥れ、劉豫を知東平府とし、金の境である旧黄河以南を豫に統べさせ、豫の子の劉麟を知済南府とした。

建炎四年九月(1130年)

  • 戊申、金が劉豫を斉の帝に立てた。もと金主は帝が東南へ移ったと聞き、尼瑪哈を南伐に遣るにあたり、宋を平らげたら張邦昌のような藩屏を立てて援けよと諭していた。烏珠が北へ帰ると、衆議は折可求と劉豫のどちらでも立てられるとした。豫は重宝を達蘭に贈って自分を立てるよう請い、達蘭が承知して尼瑪哈に言ったが、尼瑪哈は許さなかった。高慶裔が説いて、我が家が兵を挙げたのはもともと両河を取るためで、汴京を得たときに張邦昌を立てた、今、河南の州郡の官制を変えていないのは邦昌の故事に倣うつもりだからではないか、元帥はなぜ早く建議して恩を他人に帰させるのかと述べた。尼瑪哈は従い、使者を遣って豫の管轄下に誰を立てるべきか諮らせた。衆がまだ答えないうちに、豫の同郷の張浹が豫を立てるよう請い、議は定まった。達蘭が上申し、金は高慶裔と知制誥の韓昉に璽綬と宝冊を持たせて、豫を大斉皇帝に立てた。代々子として仕える礼を修め、金の正朔を奉じ、丞相以下の官を置いた。
  • 豫は即位して大名府に都し、張孝純を丞相、李孝揚を左丞、張東を右丞、鄭億年を工部侍郎、李儔を監察御史、王瓊を汴京留守、子の麟を提領諸路兵馬兼知済南府、弟の劉益を北京留守とし、母の翟氏を皇太后、妾の銭氏を皇后に冊立し、翌年を阜昌元年と改めた。
  • 朝廷はこれを聞き、豫のもとで偽官に就いた者でも、その家族が東南にいる場合はみな手厚く撫恤した。博州判官の劉長孺が書で豫に正統へ復るよう勧めると、豫はこれを囚えた。

紹興元年六月(1131年)

  • 劉豫が宿州に招討司を置き、宋から逃れた者を誘った。

紹興元年十二月(1131年)

  • 金が陝西の地を劉豫に与え、こうして中原はすべて豫の領となった。

紹興二年夏四月(1132年)

  • 庚寅、劉豫が汴に移った。豫は汴に至ると祖先を帝と尊び、宋の太廟に安置した。この日、暴風が旗を巻き上げ屋根瓦を震わせたので、士民は大いに恐れた。
  • 当時、河南・山東・陝西にはみな金の軍が駐屯していた。劉麟は郷兵十余万を登録して皇太子府の軍とし、河南に分けて置いた。汴京には砂をさらう官を置き、両京の墓はほとんど掘り尽くされ、賦税は苛酷で民は生きるすべがなかった。
  • それ以前、襄陽鎮撫使の柔仲が上疏して劉豫の罪を正すよう請うた。朝廷はまもなく柔仲に京城の応援軍馬の節制を兼ねさせ、情勢を量って豫に陥れられた州郡を回復させ、あわせて河南の翟興、荊南の解潜、金州・房州の王彦、德安の陳規、蘄州・黄州の孔彦舟、盧州・寿州の王亨に互いに応援させることとした。まもなく柔仲は部下に殺された。
  • 翟興は進んで伊陽山に駐屯した。豫はこれを憂え、人を遣って王爵を約束して招いた。翟興は偽の詔を焼き、その使者も殺した。豫はそこで密かに翟興の麾下の楊偉と結んで図り、楊偉は翟興を殺してその首を持って豫に降った。

紹興二年十二月(1132年)

  • 李横が陽石で劉豫の兵を破り、勝ちに乗じて汝州へ向かうと、偽斉の守の彭玘が城ごと降った。

紹興三年春正月(1133年)

  • 庚申、李横が潁順軍を破り、偽の守の蘭和が降った。壬戌、長葛で偽斉の兵を破った。
  • 甲子、李横が兵を率いて潁昌府に至った。偽斉の安撫の趙弼が固く守ったが、横が急攻して落とし、趙弼は逃げ、潁昌を回復した。

紹興三年二月(1133年)

  • 統制の李吉が伊陽で劉豫の将の梁進を破り、その場で討ち取った。

紹興三年三月(1133年)

  • 劉豫は李横が潁昌に入ったと聞いて金に援けを求め、金は烏珠を差し向けた。豫も将の李成に二万の兵を率いさせ、京城の西北の牟駞岡で迎え撃たせた。李横は敗れ、潁昌はまた陥ちた。

紹興三年夏四月(1133年)

  • 劉豫が虢州を陥れ、統制官の謝皋を捕らえた。皋は腹を指して、これが自分の赤心だと言い、自ら心臓をえぐって死んだ。
  • 水軍都統制の徐文が衆を率いて叛き、劉豫に降った。文は膂力が人並み外れ、五十斤の刀を振るって向かうところ敵なく、衆は徐大刀と呼んだ。功によって淮東浙西沿海水軍都統制となったが、諸将は妬んで叛意ありと讒言した。朝廷が兵を遣って襲わせたので、文は部下の海船六十艘と官軍四千余を率い、明州から海に出て塩城に至り、豫に降った。あわせて、沿海に備えがなく両浙は襲えると告げた。豫は大いに喜び、文を知萊州として、その衆を率いて通州・泰州を侵させた。

紹興三年五月(1133年)

  • 朝廷が韓肖胄と胡松年を偽斉に遣った。劉豫が臣下の礼で会おうとしたので、肖胄は答えかねたが、松年は、ともに宋の臣だと言って長揖して拝さなかった。豫は屈させられず、そこで帝の意向がどこにあるかを問うた。松年は、どうしても故地を回復されるおつもりだと答え、豫は大いに気を落とした。
  • 詔して李横らに軍を鎮所へ戻させ、辺境の兵が斉を侵すことを禁じた。金と和議を進めるためである。

紹興三年十一月(1133年)

  • 金人が李永寿と王翊を遣ってきた。永寿らは驕り高ぶり、豫のもとから逃れた者や、西北の士民で流れ寓している者を返すよう請い、さらに長江を境として豫の領を増やすよう要求した。翰林学士の綦宗礼は、豫父子は金人を頼みにしており、しかも永寿らは豫のところから来たのだから、長江を境とする請いは必ず豫から出たものだ、その奸謀は我が領土をうかがうことにある、使者が往来すれば人心はきっと緩むから、将帥を戒めて厳しく備えさせるべきだと述べた。

紹興四年夏四月(1134年)

  • 熙河路総管の関師古が左要嶺で劉豫の兵と戦って敗れ、賊に降った。洮州・岷州の地はすべて豫のものとなった。

紹興四年九月(1134年)

  • 劉豫が子の劉麟に金兵を率いさせて侵入した。もと金主の晟は尼瑪哈と南侵を議したが、折しも帰還した烏珠が不可を力説し、江南は低湿で今は兵馬が疲れ糧の蓄えも足りず、成功はおぼつかないと述べた。尼瑪哈は、都監は安逸を貪っているだけだと言い、金主は議がまとまらないので取りやめた。
  • ここに至って豫は岳飛が襄陽・鄧州を回復したのを聞いて恐れ、金に出兵を乞うた。晟は鄂爾多と達蘭に渤海・漢の軍五万を調えて豫に応じさせ、烏珠は地の険易を知るとして前軍を率いさせた。豫は子の麟と甥の劉猊にそれぞれ兵を率いさせ、道を分けて南侵した。騎兵は泗州から滁州を攻め、歩兵は楚州から承州を攻めた。

紹興四年冬十月(1134年)

  • 丙子、韓世忠に揚州駐屯を命じた。もと金兵が淮を渡ったとき、世忠は承州から退いて鎮江を守っていたが、ここに至って詔を受けて感泣し、主上がこれほど憂えておられるのに臣下がどうして生きていられようと言い、軍を渡して揚州に進駐した。
  • 当時、張浚は福州にあり、金と斉が必ず力を合わせて東南をうかがうと考えていたが、朝廷はすでに和議を議していたので、上疏してその情勢を極言した。兵が来ると、帝はその言を思い起こした。折しも趙鼎が親征を勧め、帝は従った。
  • 喩樗が趙鼎に、天子が江に臨めば士気は百倍する、しかし公はこの挙が万全と見るのか、それとも一擲を試すのかと問うた。鼎は、中国は年来退避して振るわず敵の驕りは増すばかりで、義としてこれ以上屈することはできない、だから主上に行幸を勧めた、事が成るかどうかは自分の予知できるところではないと答えた。樗は、それなら帰路を考えておくべきだ、張德遠には重い声望がある、江淮・荊浙・福建の宣撫を任せて諸道の兵を闕へ赴かせれば、その来路がそのまま朝廷の帰路になると述べた。鼎はもっともとして帝に申し上げ、張浚を召し還した。
  • 戊子、韓世忠が揚州に至り、統制の解元に承州を守らせて金の歩兵を待たせ、自らは騎兵を率いて大儀に至り、敵の騎兵に当たった。木を伐って柵とし、自ら帰路を断った。折しも魏良臣が金への使者として通りかかったので、世忠は炊事を片づけ、平江へ移屯せよとの詔があったと偽った。良臣が急いで去ると、世忠は良臣がもう境を出たと見計らって馬に乗り、軍中に自分の鞭の指す方を見よと命じ、軍を大儀へ向け直した。五陣を敷き、伏兵を二十余か所に置き、鼓が聞こえたら起って撃つよう約した。
  • 良臣が金軍に着くと、金の前将軍の鼐爾貝勒が官軍の動きを問い、良臣は見たままを答えた。貝勒は大いに喜び、兵を率いて江口に至り、大儀まで五里に迫った。別将の托卜嘉が鉄騎を率いて五陣の東を過ぎたとき、世忠が小旗を振って鼓を鳴らすと伏兵が四方から起こった。旗の色は金人のものと交じって出たので金軍は乱れ、官軍は次々に進んだ。世忠は背嵬軍にそれぞれ長い斧を持たせ、上は人の胸を突き下は馬の足を斬らせた。敵は甲を着けたまま泥濘に落ち、世忠が精騎を指揮して四方から踏みにじり、人馬ともに斃れた。こうして撻不野ら二百余人を捕らえた。世忠が遣った董攸も天長の鵶口橋で金人を破った。
  • 己丑、金人が承州を攻めた。解元は州の北門で敵に遭い、水軍を置いて河を挟んで陣を敷き、一日に十三度戦って決しなかった。世忠が成閔に騎兵を率いて援けに行かせ、また大戦して多くを捕らえた。世忠は自ら淮まで追い、金人は驚き潰えて互いに踏み合い溺死する者が多かった。
  • 捷報が届くと群臣は祝賀に入った。帝は、世忠は忠勇だ、必ず功を成すと知っていたと述べた。沈与求は、建炎以来、将士が金人を正面から迎え撃ったことはなかった、今、世忠が連勝したのはその功が小さくないと述べた。論者はこの一戦を中興の武功の第一とした。
  • 金と斉の兵が日々迫ると、群臣はまた帝に他所へ行幸して百司を散らし避けるよう勧めた。張浚は、避けてどこへ行くのか、進んで防ぐほかないと述べ、趙鼎は、戦って勝てなければ去っても遅くないと述べた。帝はそこで、朕は二聖が遠くにおられるので身を屈して和を請うたのに、あちらはまた侵略をほしいままにする、朕は六軍を統べて江に臨み決戦すると言った。沈与求もこれを強く後押しした。鼎は喜び、年来退き怯えたので敵の志は驕った、今、聖断で親征されれば将士は必ず奮い、成功は間違いない、自分も微力を尽くして国に報いたいと述べた。
  • そこで孟庾を行宮留守とし、百司のうち軍事に関わらない者は便宜に従って兵を避けさせ、張俊を浙西江東宣撫使、王𤫉を江西沿江制置使とし、胡松年を江上に遣って諸将と会して進兵させ、劉光世は軍を建康へ移した。後宮は温州から海路で泉州へ向かった。
  • 劉光世は人を遣って趙鼎にほのめかし、相公はご自身で蜀に入られればよい、なぜ他人のために患いを引き受けるのかと言った。韓世忠もまた、趙丞相は本当に思い切ってやる人だと言った。鼎はこれを聞いて帝の意が変わることを恐れ、折を見て、陛下は十年も軍を養われた、用いるのはまさに今日です、少しでも退き渋れば人心は離散し、長江の険ももはや頼めなくなりますと述べた。
  • 帝は臨安を発ち、劉錫と楊存忠が禁兵で扈従した。平江に泊まると、帝は江を渡って決戦しようとした。鼎は、賊は遠来で速戦を利とする、すぐに鋒を争うのは策ではない、まして豫自身は来ていない、陛下がどうして逆賊の小僧と勝負を決められようと述べ、取りやめとなった。

紹興四年十一月(1134年)

  • 壬子、詔を下して劉豫の逆罪を六軍に明らかにした。豫の僭逆以来、朝廷は金への配慮から大斉という名で呼んでいたが、ここに至って初めてその罪を鳴らして六軍を励ました。
  • 己未、張浚を知枢密院事として江上で軍を視察させた。もと浚は召命を受けて到着し、趙鼎に会うとその手を執って、今回の措置はいずれも人心に適っていると述べた。鼎は笑って、喩子才の功だと答えた。改めて浚を知枢密院事に任じ、浚は命を受けるとその日のうちに江上へ赴いて視察した。
  • 当時、達蘭と烏珠は十万の兵を擁して渡江決戦の日を約していた。浚は長駆して江に臨み、劉光世・韓世忠・張俊を召して議し、将士は浚を見て勇気百倍した。浚は諸将を配置し、自らは鎮江に留まって節制した。

紹興四年十二月(1134年)

  • 壬辰、金と斉の兵が合わせて廬州を囲んだ。守臣の仇悆は城に拠って固守し、岳飛に救援を求めた。飛は牛皋と徐慶を遣った。皋は着くと遠くから金将に、牛皋はここにいる、お前たちはなぜ犯すのかと呼ばわった。衆は驚いて戦わずに潰えた。飛が皋に、必ず追え、去らせてまた来られては益がないと言ったので、皋は三十余里追撃し、金人は踏み合い斬られて死ぬ者が数知れなかった。
  • 金兵が淮から引き揚げた。達蘭は泗州に、烏珠は竹墪鎮に駐屯したが、韓世忠に扼され、書と贈り物で戦いを約してきた。世忠は麾下の王愈と二人の伶人を遣り、橘と茶で返礼し、あわせて張枢密がすでに鎮江におられると告げた。烏珠が、張枢密は嶺南に貶されたはずなのになぜここにいるのかと言うと、王愈は浚の下した文書を出して見せた。烏珠は顔色を変え、帰る気になった。折しも雨と雪で糧道が通じず、野に掠めるものもなく、馬を殺して食い、蕃漢の軍はみな怨んだ。さらに金主の晟が重病と聞き、夜のうちに引き揚げた。烏珠らが去ると、劉麟と劉猊も輜重を棄てて逃げた。

紹興六年春正月(1136年)

  • 韓世忠は劉豫が淮陽に兵を集めていると聞き、軍を率いて淮を渡り、符離のそばを通って北上し城下に至ったが、賊に囲まれた。戈を振るって囲みを破って出、矢一本も失わなかった。呼延通は金将の雅哈貝勒と組み合って戦い、その喉をつかんで捕らえた。勢いに乗じて襲うと金人は敗れ去り、そのまま兵を進めて淮陽を囲んだ。
  • 賊は囲まれたら一日につき一つの烽火を上げ、六つそろえば援けが来る約束をしていた。烏珠と劉猊がそろって兵を率いて来た。世忠は張俊に援けを求めたが、俊は世忠に自分を軽んじる気配があると見て応じなかった。世忠は陣を敷いて敵に向かい、人を遣って、錦の衣に葦毛の馬で陣前に立っているのが韓相公だと告げさせた。危ういと言う者もあったが、世忠は、こうしなければ敵を誘い出せないと言った。敵は果たして来たが、その導きの騎兵二人を殺すと引き揚げた。世忠は楚州に戻り、淮陽の民で従って帰属した者は万を数えた。

紹興六年夏四月(1136年)

  • 劉豫が唐州を陥れた。

紹興六年九月(1136年)

  • 岳飛が将を遣って唐州で劉豫の兵を破った。

紹興六年冬十月(1136年)

  • 丁酉、劉麟と劉猊が道を分けて淮西を侵した。もと劉豫は張浚が江上で諸将を会し、自分の逆罪を掲げて進兵し討とうとしていると聞き、金に急を告げ、先に出師して南侵するので援軍を乞いたいと請うた。
  • 金主の亶が諸将と相談すると、富勒呼が述べた。先帝が豫を立てたのは、疆を開き境を保って我らが民を安んじ兵を休められるようにするためだった。今の豫は進んで取ることも守ることもできず、兵と禍が連なって終わりがない。その請いに従えば、勝てば豫が利を収め、負ければ我らが害を受ける。まして一昨年は豫のために出師して江上で不利を蒙った。なぜ許すのか、と。金主はそこで豫の請いを許さず、烏珠に兵を率いて黎陽で隙をうかがわせた。
  • そこで豫は郷兵三十万を徴発し、三道に分けて侵入した。麟は中路の兵を率いて寿春から合肥を侵し、猊は東路の兵を率いて紫荊山から渦口に出て定遠を侵し、孔彦舟は西路の兵を率いて光州から六安を侵した。
  • 当時、張俊・劉光世・楊沂中・韓世忠・岳飛はそれぞれ諸州に分屯していて、長江の上下流には兵がなかった。趙鼎は深く憂えて張浚に書を送り、俊と沂中にともに合肥を保たせようとした。浚は同意し、沂中と張宗顔らを分けて防がせ、あわせて沂中を濠州へ向かわせて張俊と合流させ、沂中には、主上は統制を厚遇しておられる、時を逃さず功を立てよと言った。
  • 折しも辺境の報せが日ごとに急になり、張俊は盱眙を棄てようとし、劉光世は廬州を捨てようとして、いずれも賊の勢いを誇張して報告した。浚は書で二将を戒め、賊豫の兵は逆をもって順を犯すもので、討ち除かなければ国は立たない、平生の養兵は何のためかと述べ、今日の事は進んで戦うのみで退いて保つことはないとした。
  • 劉麟が合肥に迫ると、趙鼎は、いま賊が淮を渡った以上、急ぎ張俊を遣って光世の軍と合わせ淮南の賊を掃討し、そのうえで去就を議すべきだと述べ、帝は善しとした。ただ俊と光世では任に堪えないと危ぶみ、岳飛に全軍を挙げて東下するよう命じ、あわせて手札を浚に下して、俊・光世・沂中らを江の守りに戻させようとした。
  • 浚は上言した。諸将が渡江すれば淮南はなくなり、長江の険を賊と共有することになる。淮南の駐屯こそ長江を屏蔽するものだ。賊が淮南を得て糧を現地で得て運べば、そこを本拠とする。江南をどうして保てよう。今はまさに兵を合わせて襲うべきで、必ず勝てる。ひとたび退く意を見せれば大事は去る。まして岳飛が動けば襄陽・漢水に急があったとき何を頼りにするのか。朝廷が中央から専断して諸将に様子見をさせないでいただきたい、と。帝は自ら書いて浚に答え、卿の識見が高く慮りが遠くなければここまで思い至るまいと述べた。これで異論はやんだ。
  • 沂中の兵が濠州に着いたとき、光世はすでに廬州を捨てて采石へ向かおうとしており、淮西は大いに動揺した。浚はこれを聞き、呂祉を光世の軍へ急派して、一人でも江を渡る者があればその場で斬って晒すと諭させた。光世はやむなく廬州に戻り、沂中・俊らと呼応した。
  • 劉猊の軍は淮東に至って韓世忠に阻まれ、定遠へ向かった。劉麟は淮西から三つの浮橋を架けて渡り、濠州と寿州の間に泊まった。張俊が兵で防いだ。猊は衆を率いて定遠を侵し、宣化へ向かって建康を侵そうとした。沂中は二千の兵で進んで防ぎ、越家坊で猊の前鋒と遭遇して破った。猊は孤軍で深入りして官軍に襲われることを恐れ、合肥へ向かって麟と合流してから進もうとした。
  • 藕塘で沂中がまた遭遇した。猊は山に拠って陣を敷き、矢が雨のように降った。沂中は急襲し、統制の呉錫に精兵五十を率いてその軍に突入させた。猊の衆は潰乱し、沂中は大軍を放って乗じ、自らは精騎でその脇を衝き、賊は破れたと大喝した。賊の衆が驚いて見回すうちに、張宗顔が泗州から来て背後から撃ち、張俊の大軍もまた李家湾で戦った。賊は大敗し、屍が野を覆った。猊は参謀の李愕に頭を寄せて、いま見た髯の将軍の鋭さは当たるべからざるものだった、やはり楊殿前だったと言い、数騎とともに逃げ去った。沂中が馬を躍らせて叱ると、残る衆はみな怖れて降った。
  • 麟は順昌で猊の敗北を聞き、砦を払って去った。沂中と王德が勢いに乗じて麟を南寿春まで追って戻った。孔彦舟も光州の囲みを解いて去った。
  • 当時、岳飛は曹成を破り楊么を平らげてから六年、いずれも盛夏に軍を動かしたため眼病を得ており、このころにはひどくなっていた。それでも召命を聞くとその日のうちに出発したが、着かないうちに麟は敗れた。帝は趙鼎に、劉麟の敗北は喜ぶに足りない、諸将が朝廷を尊ぶことを知ったのが喜ばしいと語り、飛には、敵兵はすでに淮を去った、卿は進発に及ばないと札を賜り、飛は軍を戻した。
  • 金人は劉豫の敗北を聞いてその顛末を詰り、豫を廃する意を抱き始めた。

紹興七年閏十月(1137年)

  • 金人が汴を襲い、劉豫を捕らえて廃した。もと豫は尼瑪哈と高慶裔のおかげで立てられたので二人を特に厚遇し、烏珠や諸将の多くはそれを恨んでいた。豫の兵が藕塘で敗れると金人は豫を廃そうとし、尼瑪哈が死ぬと、岳飛が間諜に蠟書を持たせ、豫と共に烏珠を誅する約束をしたように装った。烏珠は書を得て大いに驚き、馳せて金主に告げ、豫を廃する意はいっそう固まった。
  • 折しも豫が劉麟を太子に立てることを請うと、金主の亶は、追って河南の百姓に諮ろうと答えた。豫は気を落としながらも、日々使者を遣って出兵と南侵を乞い続けた。金は太原に元帥府を建て、豫の兵をすべてその節制に従わせ、蘇泊を左都監として太原に駐屯させ、托卜嘉を右都監として河間に駐屯させ、さらに陳州・蔡州・汝州・亳州・潁州・許州の諸郡に分けて守らせた。
  • ここに至って尚書省が豫の治国は取るに足りないと奏し、金主は達蘭と烏珠に南侵と偽って豫を襲わせた。汴に近づくと人を遣って劉麟を呼び、渡河して議事すると告げた。麟が二百騎で武城に至ると、烏珠は騎兵を指揮して両翼から捕らえ、そのまま汴へ駆け込んだ。
  • 豫はちょうど講武殿で射をしていた。烏珠は三騎を従えて東華門に突入し、馬を下りて豫を迫り出させ、その手を執って宣德門まで連れて行き、無理に痩せ馬に乗せ、抜き身の刃で挟んで金明池に囚えた。翌日、百官を集めて詔を宣し、豫を責めて廃した。その詔には「お前に一国を建てさせて八年になるが、なお兵を駐めて労を強いるばかりだ、国を置いて何になろう」といった言葉があった。
  • そのうえで鉄騎数千で宮を囲み、小校を遣って町々を巡らせ、今後はお前たちを軍に徴発せず免行銭も取らない、人らしくない者はお前たちのために叩き殺す、お前たちの旧主の少帝をお迎えするよう請う、と宣言させた。これで人心はやや安んじた。
  • そして汴に行台尚書省を置き、張孝純を権行台左丞相、呼沙呼を汴京留守、李儔をその副とし、諸軍はすべて農に帰らせた。
  • 豫が二人の帥に哀れみを乞うと、達蘭は、昔、趙氏の少帝が京を出たとき百姓は頭に灯を点し腕を焼いて号泣した、今、お前が廃されて憐れむ者は一人もいない、なぜ自らを責めないのかと言った。豫は言葉に詰まり、家族とともに臨潢へ移された。
  • 岳飛は劉豫が廃されたこの機に乗じて備えのないところを衝き、長駆して中原を取るよう奏し、韓世忠も上疏して機は失えない、全軍で北討することを請うたが、いずれも返答はなかった。