宋史紀事本末群盗を平定する(平羣盗)
建炎元年から紹興五年まで、南渡後の江淮・湖湘・閩広に蜂起した群盗を平定していく九年間。李成・張用・曹成・劉忠・范汝為・鍾相楊太らが数万から十数万の衆を擁して州郡を占拠し、范宗尹の議で鎮撫使を置いて地を分けた。張俊・韓世忠・劉光世・王彦らが各地で討ち、とりわけ岳飛が馬進・李成・曹成・虔州の賊を破り、紹興五年に洞庭の楊太を八日で平らげて湖湘が定まった。
年表(29件)
- 高宗
- 建炎元年秋七月1127年李綱の議で潰兵を選別編制し、王淵らに江淮の群盗を討たせる
- 建炎二年春正月1128年孔彦舟が山東を掠めて南下し、王淵は張遇を招降する
- 建炎二年六月1128年張俊が秀州で趙叔近を殺し徐明を斬り、葉濃が福州を陥れる
- 建炎二年八月1128年李成が叛いて宿州を侵し、劉光世が光州でその衆を大破する
- 建炎二年冬十月1128年楊進が再叛して翟進が戦死し、翟興が京西北路招討使となる
- 建炎三年春正月1129年張用と王善が再叛し、京西から光州・寿州まで千里を占める
- 建炎三年夏四月1129年張浚が自ら高郵の薛慶の塁に入って諭し、薛慶が降る
- 建炎三年冬十月1129年李成が泗州を陥れて知泗州とされ、さらに滁州を陥れる
- 建炎三年十一月1129年桑仲が程千秋を破って襄陽に拠り、京西の諸城を手中にする
- 建炎四年二月1130年鍾相が楚王と称して天載と改元し、澧州を陥れる
- 建炎四年三月1130年孔彦舟が鍾相父子を捕らえて誅させ、一党の楊大が龍陽で衆を集める
- 建炎四年五月1130年范宗尹の議により翟興・李成らを鎮撫使として地を分け配置する
- 建炎四年秋七月1130年建州の范汝為が乱を起こし、辛企宗に討伐が命じられる
- 建炎四年十一月1130年王彦が金州の鎮撫使となり、長沙平で桑仲を破って房州を回復する
- 紹興元年春正月1131年李成が江州を長く囲むので、張俊を招討使、岳飛をその副とする
- 紹興元年三月1131年岳飛が馬進を破って斬り、張俊とともに李成を大敗させる
- 紹興元年五月1131年張用が岳飛の書に応じて降り、江淮がすべて平定される
- 紹興元年十二月1131年曹成が向子諲を捕らえて道州を陥れる
- 紹興二年春正月1132年韓世忠が五日で建州を破り、范汝為が焼死する
- 紹興二年閏四月1132年岳飛が八千の兵で桂嶺に登って曹成を破り、二万を招降する
- 紹興二年五月1132年韓世忠が曹成を招降し、戦士八万を得て行在へ送る
- 紹興二年九月1132年韓世忠が伏兵の計で蘄陽の劉忠を大破し、劉忠は劉豫に降る
- 紹興三年夏四月1133年楊太が大聖天王と号し、鍾相の子の鍾儀を太子に立てる
- 紹興三年六月1133年岳飛が虔州の賊を平らげ、屠城の密命に代えて首謀者のみを誅する
- 紹興三年冬十月1133年李成が襄陽・鄧州を侵し、京西の六郡を陥れる
- 紹興四年五月1134年岳飛が荊南制置使を兼ね、襄陽六郡の回復を恢復の基本と奏する
- 紹興四年秋七月1134年岳飛が李成を破って襄陽など六郡を回復し、屯田を建議する
- 紹興四年八月1134年官軍が鼎州で楊太に敗れ、岳飛が王𤫉に代わって討伐を命じられる
- 紹興五年六月1135年岳飛が筏と流木の計で洞庭の楊太を八日で破り、湖湘が平定される
高宗建炎元年秋七月(1127年)
- 都統制の王淵・劉光世・韓世忠・張俊に、江淮の群盗を手分けして討たせた。宣和の末から群盗が蜂起しており、ここに至って祝靖・薛広・党忠・閻僅・王存らはみな招安に応じて行在へ赴いた。
- 李綱は、今はその力を用いるべきときで、後漢の銅馬・緑林・黄巾のたぐいと同じだと述べた。ただしその部曲を動かさなければ叛きやすく、移せば疑いを生む。策をもって制し、従わせながらそれと気づかせないのがよい、と。そこで御営司に選別させ、潰えた兵で営に戻りたい者、良民で農に戻りたい者はみな許した。そうして解いた者は数万に上り、その他は新法で編制して諸将に分属させたので、叛き去る者はなくなった。
- ただし淮寧の杜用、山東の李昱、河北の丁順はいずれも数万の兵を擁し、拱州の黎駅と単州の魚台にも潰兵数千が乱を起こしていた。李綱は、招安すれば彼らは憚るところがなくなり平定は難しいと考え、王淵らを遣って手分けして討たせるよう申し上げた。まもなく劉光世が部将を遣って李昱を撃って斬り、王淵は杜用を殺し、丁順は河北招討司に赴いて働きで償った。盗賊はこれ以後やや衰えた。
建炎元年八月(1127年)
- 戊午、勝捷軍の校尉の陳通が杭州で乱を起こし、帥臣の葉夢得を捕らえ、転運判官の呉昉らを殺した。まもなく王淵に杭州制置盗賊使を兼領させて討たせた。
建炎元年冬十月(1127年)
- 丙戌、王淵が賊の趙万を誘い出して誅した。
建炎元年十一月(1127年)
- 軍賊の張遇が池州を陥れた。張遇はもと真定の軍校で、衆を集めて盗となり、淮西から長江を渡って水陸から進み、ここに至って池州を侵した。城に入って掠奪し、壮健な者を駆り立てて軍に加えた。守臣の滕祜は城を棄てて逃げた。
- 軍賊の丁進が寿春府を囲んだが、守臣の康允之が撃退した。
建炎元年十二月(1127年)
- 王淵が杭州の乱兵を討ち、陳通らを誅した。
- 丙寅、張遇が江州を侵した。辛巳、丁進が宗澤のもとへ赴いて降った。
建炎二年春正月(1128年)
- 東平の軍校の孔彦舟が、金兵が山東に来ると聞き、部隊を率いて住民を殺し掠め、家屋を焼き財物を奪い、南へ淮を渡って黄州を侵した。守臣の趙令𤩰が防いだ。
- 丁未、流亡した兵や潰兵で盗賊となった者にその罪を赦す旨を諭す詔を出した。
- 辛亥、王淵が張遇を招降し、その部隊一万を韓世忠に属させた。
建炎二年五月(1128年)
- 己酉、秀州の兵の徐明らが乱を起こし、守臣の朱芾を捕らえ、前の守の趙叔近を迎えて州事を執らせた。詔して御営中軍の張俊に討たせた。
建炎二年六月(1128年)
- 癸亥、建州の兵の葉濃らが乱を起こし、福州を侵した。乙丑、張俊が秀州に至って趙叔近を殺し、徐明を捕らえて斬った。甲戌、葉濃が福州を陥れた。
建炎二年秋七月(1128年)
- 甲申、葉濃が寧德県に入り、また建州に戻った。張俊に両浙提点刑獄の趙哲とともに兵を率いて討たせた。
建炎二年八月(1128年)
- 河北京東捉殺使の李成が叛いて宿州を侵した。詔して江淮制置使の劉光世に討たせた。光世は光州に至って李成の衆を大破し、二万余人を招降した。李成は逃げた。
建炎二年九月(1128年)
- 丁進が叛いてまた淮西を侵した。
建炎二年冬十月(1128年)
- 楊進がまた叛き、衆は数万に上って汝州・洛陽の間を掠奪した。翟進はこれを憂え、兄の翟興と撃つ謀を立てたがまだ果たさなかった。楊進が数百騎を遣って洛水を渡り翟進の陣を侵したので、翟進は敵が半ば渡ったところを撃ち、数十里追って鳴皋山に至り、賊の四つの砦を破った。ところが馬が驚いて堀に落ち、賊に殺された。賊は勝ちに乗じて官軍を大敗させた。詔して翟興を京西北路安撫招討使とした。劉正彦が丁進を撃って降らせた。
建炎二年十一月(1128年)
- 濱州の賊の蓋進が棣州を陥れ、守臣の姜綱之が戦死した。建州の賊の葉濃は降ったのちまた変を謀ったので、張俊が捕らえて斬った。
- 呉玠が史斌を襲って斬った。史斌は興元を囲んだが落とせず、兵を率いて関中へ向かった。義兵統領の張宗が史斌を誘って長安に戻し、ゆっくり図ろうとした。曲端は張宗に怒り、呉玠を遣って史斌を襲って斬らせ、自らは張宗を襲って殺した。
建炎三年春正月(1129年)
- 庚子、盗賊の張用と王善がまた叛いて淮寧を侵した。張用と王善は京西に駐まって数州にまたがり、京西から光州・寿州まで千里の地を占め、兵馬が絶え間なく連なって糧食を掠め、行く先々は空となった。
建炎三年二月(1129年)
- 帝が手詔を出し、盗を鎮め民を保つ要点を直学士の胡交修に諮った。交修は疏で答えた。昔の人は、甑に麦飯があり床に古綿があれば、蘇秦・張儀が説いても盗賊にはならない、凍え飢えて頼るものがなく、日々死に迫られてこそ、その身を盗賊に投げ棄てるのだと言った。陛下が寛大な詔を下して自ら改める道を開き、苛酷な取り立てを禁じて衣食の源を豊かにすれば、悔い改める者は互いに告げ合い喜んで帰り、改めない者も仲間が離れて吏や士に捕らえられ、盗は鎮まる。盗が鎮まれば民を保てる。沃野千里が盗賊の地に荒らされているが、そこは我らの稲田であり、弓矢を執り刀剣を帯びて牛を奪い墓を暴き白昼に盗みを働く者も、我らの田畑の民である。陛下がこれを撫して受け入れ田里に返し、急な徴収や過酷な取り立てで不逞の心を起こさせず、耕作と養蚕を時に従って行わせてそれぞれ生業に安んじさせれば、穀物も絹も使い尽くせぬほどになり財は豊かになる。財が豊かなら国は裕かになる。先ごろ翟興は西路と連携し、董平は南楚に拠り、その民を組織して農にも兵にもした結果、数年ならずして蓄えは満ち一方に雄視した。盗賊でさえこうなのだから、まして中興の二百郡の地をもって兵を強くし敵を防ごうというのに、翟興らのしたことができないはずがない、と。世はこれを名言とした。
建炎三年三月(1129年)
- 盗賊の邵青が泗州を掠めた。邵青はもと五丈河の船頭で、盗となって兵を集め、楚州・泗州を襲った。
建炎三年夏四月(1129年)
- 盗賊の薛慶が高郵に拠り、数万の衆を擁した。張浚はその蔓延を恐れて自ら招きに行くことを請い、慶の塁に入って朝廷の恩意を諭した。慶は感じ入って服し、そのまま降った。浚は留まってその衆を撫した。
建炎三年秋七月(1129年)
- 山東の盗賊の郭仲威が淮陽軍を掠めた。仲威はもと李成の一党で、李成が先に泗州のあたりにいたので、仲威は兵を率いて淮陽を囲み、四か月で城は陥ちた。仲威は入城して大いに掠め、壮健な者を取って軍に加えた。
建炎三年冬十月(1129年)
- 郭仲威が平江の守臣の周望に降った。
- 李成が淮北を掠め、泗州を陥れて知州の耿堅を殺し、その城に拠った。帝は詔を下して撫し諭し、李成を知泗州とした。李成はさらに滁州を陥れ、守臣の向子伋と官属はみな殺された。
建炎三年十一月(1129年)
- 淮の盗賊の劉忠は初め東京で兵を集め、蘄州から湖南へ転じ、舒州を陥れて通判の孫知微が戦死した。
- 京西制置使の程千秋は襄陽に軍を置き、大盗の曹端と桑仲を招降した。まもなく桑仲に異心があると疑い、曹端に図らせようとしたが、曹端と千秋の部隊はともに桑仲に敗れた。千秋は城を棄てて金州から蜀に入り、桑仲は襄陽を占拠して、京西の諸城はみな桑仲の手に落ちた。
建炎三年十二月(1129年)
- 孔彦舟が荊南を侵したので、詔で諭して降らせ、湖北捉殺使とした。
建炎四年二月(1130年)
- 金人が潭州を去ると群盗が大いに起こった。鼎州の人の鍾相はかつて邪法で衆を惑わしていたが、忠義を結集して賊を防ぐと称して集め、自ら楚王と称して天載と改元し、澧州を侵して陥れた。李成が舒州に入った。
建炎四年三月(1130年)
- 孔彦舟が盗賊の鍾相とその子の鍾子昂を捕らえ、檻に入れて行在へ送り、誅した。その一党の楊大がまた龍陽で衆を集めた。
- 己巳、盗賊の戚方が広德軍を陥れた。もと韓世忠が退いて江陰を守ったとき、潰兵の戚方らが鎮江へ向かい、知府の胡唐老を脅して部下ごと従わせようとした。唐老は怒って罵り従わず、殺された。
建炎四年五月(1130年)
- 翟興らを京湖・淮南の諸路の鎮撫使とし、地を分けて配置した。当時、京東西・荊湖南北・淮南の諸路で盗賊が蜂起し、大きなものは数万人で州郡を占拠し、朝廷は制しきれなかった。范宗尹が帝に、群盗はみな烏合の衆で、急げば死力を合わせて官軍に抗する、地を分けて配置し、盗に帰する所を与えれば、しだいに制せると述べた。帝はこれを善しとし、翟興らをそろって鎮撫使とし地を分けた。
- 翟興に河南府と孟州・汝州・唐州、趙立に楚州・泗州と漣水軍、劉位に滁州・濠州、趙霖に和州・無為軍、李成に舒州・蘄州、呉翊に光州・黄州、李彦先に海州・淮陽軍、薛慶に高郵・天長軍を与えた。まもなく陳規に德安府・復州・漢陽軍、解潜に荊南府・帰州・陝州・荊門・公安軍、程昌㝢に鼎州・澧州、陳求道に襄陽府・鄧州・随州・郢州、范之才に金州・均州・房州、馮長寧に順昌府・蔡州軍を授け、翟興には便宜に従って事を処すことを許し、顕功を立てさせて世襲を認めることとした。
- しかし李成や薛慶らは群盗の出であり、翟興・劉位は土豪、李彦先らはみな潰えた将で、統属もなく、急のときに援軍も送られなかったので、諸鎮はほとんど自ら守り切れなかった。まもなく陳求道が劉忠と戦って敗死した。さらに孔彦舟を辰州・沅州・靖州、郭仲威を真陽の鎮撫使とした。
建炎四年六月(1130年)
- 甲申、岳飛が広德で戚方を破った。丙戌、戚方が張俊に降った。
建炎四年秋七月(1130年)
- 建州の民の范汝為が乱を起こした。折しも食糧難で従う民が多く、州は兵を出して戦わせたが敗れ、賊の勢いは強まった。統制の李捧が捕らえに向かったが軍は大潰して逃げた。詔して福建安撫使の程邁に兵を合わせて討たせたが、そのとき汝為はすでに建陽を破っており、命を改めて神武副軍統制の辛企宗に討たせた。
建炎四年冬十月(1130年)
- 江東の賊の張琪が建康府を侵し、虔州の賊の李敦仁とその弟の李世雄が石城県を破り、鍾相・王善の残党の楊祝友がまた乱を起こした。
建炎四年十一月(1130年)
- 王彦を金州・均州・房州の鎮撫使とした。当時、各地で盗が起こり、加えて飢饉で食う当てがなく、蜀だけが富んでいたので、大盗はしばしばそこをうかがった。桑仲は均州・房州を陥れると、勢いに乗じて金州の白土関に直進した。衆は三十万と号した。桑仲は王彦の旧部下であり、文書を送って、公に対して手向かうつもりはない、道を借りて蜀に入り食を求めたいだけだと請うた。王彦は統領の閔立を先鋒として撃たせたが、賊の勢いは鋭く、立は戦死し、将士は色を失った。避けてはと言う者もあったが、王彦は叱って、枢密相の張公はいま関中・陝西で事を進めておられる、桑仲が金州を越えて梁州・洋州に至れば腹背に敵を受けて大事は去る、避けろと言う者は斬ると言った。そのまま兵を率いて長沙平へ向かい、水を阻み山に拠って伏兵を置いて待った。桑仲は官軍が少ないのを見て蟻のように取りついて戦った。王彦が旗を執って振ると、士は決死で闘い、桑仲は敗走した。王彦は士を休ませてから進撃し、白磧まで追って房州を回復した。
紹興元年春正月(1131年)
- 孔彦舟は武陵に拠り、張用は襄陽・漢水一帯に拠り、李成は江淮・湖湘の十余郡に拠って数万の兵を連ね、東南を席巻する意を抱き、符讖を多く作って中外を惑わし、長く江州を囲んだ。朝廷はこれを憂え、張俊を招討使、岳飛をその副とした。
- 李成が江州を陥れ、まもなくまた筠州を陥れた。
紹興元年三月(1131年)
- 張俊は李成の将の馬進が筠州にいると聞き、豫章が長江と湖の間にあることから急ぎそこへ向かい、入城して喜び、洪州を得た以上、賊を破るのは決まったと言った。馬進が洪州を侵して西山に営を連ねると、俊は兵を収めて人がいないように装った。一か月余りたって、馬進が大書した牒で戦いを挑むと、俊は細字の書状で答えた。馬進は俊を臆病と見た。
- 岳飛は、賊は貪欲で後ろを顧みない、騎兵で上流から生米渡を絶ち、不意を突けば必ず破れると述べ、自ら先鋒となることを請うた。俊は大いに喜び、楊沂中に生米渡を絶たせた。飛は厚い鎧を着けて馬を躍らせ密かに賊の右手に出て陣を突き、部隊がこれに続いた。馬進は大敗して筠州へ逃げた。飛が東城に迫ると、馬進は城を出て陣を敷いた。飛は伏兵を置き、赤い羅に「岳」の字を刺繍した旗を立て、騎兵二百を選んで旗に従って前進させた。賊は数が少ないと侮って迫ったところ、伏兵が起こって馬進は大敗して逃げた。飛は人を遣って、賊に従わない者はその場に坐れ、殺しはしないと呼ばわらせ、坐って降った者は八万人に上った。俊と沂中がさらに前後から挟撃し、賊は大潰した。馬進は残兵とともに南康へ逃げた。飛は夜に兵を進めて朱家山に至り、賊将の趙万を斬った。
- 李成は馬進の敗北を聞き、自ら十余万を率いて来た。飛は楼子荘で迎え撃って大破し、馬進を追って斬り、筠州を回復した。李成はさらに十万の衆で俊と河を挟んで陣を敷いた。沂中が夜に枚を含ませて渡河し、俊と挟撃して李成はまた大敗した。俊は勝ちに乗じて江州まで追い、李成は迫られて長江を渡って去り、蘄州へ逃げて偽斉に降った。まもなく興国軍などの群盗もみな逃げ散った。
紹興元年五月(1131年)
- 劉光世が都統制の王德に揚州を襲わせ、郭仲威を捕らえて行在へ送り斬った。仲威が淮南に拠って劉豫と通じようと謀ったためである。
- 辛亥、水軍統制の邵青が叛いて太平州を囲んだので、劉光世が招降した。
- 張俊が兵を率いて長江を渡り、李成を蘄州の黄梅県まで追って大敗させ、その数万の衆はみな潰えた。李成は北へ逃げて劉豫に降った。
- 張用がまた江西を侵した。岳飛は張用とともに相州の人だったので、書を送って、自分とお前は同郷だ、戦うなら出て来い、戦わないなら降れと諭した。用は書を得てそのまま衆を率いて降り、江淮はすべて平定された。張俊は岳飛の功を第一と奏し、詔して飛を右軍都統制に進め、洪州に駐屯して盗賊を抑えさせた。
紹興元年六月(1131年)
- 邵青がまた叛いて江陰の福山を侵した。海州鎮撫使の李彦先と中軍統制の耿進に水軍を率いさせ、劉光世と合わせて討たせた。
紹興元年冬十月(1131年)
- 邵青が一党を崇明沙に集めて江陰を侵そうとしたので、劉光世は王德に討たせた。德は旗を執って兵を指揮し、柵を抜いて突入し、青の衆は大潰した。翌日、残党がまた戦いを求めた。諜報で賊が火牛を用いると聞くと、德は笑って、それは古い手だ、一度は使えても二度は使えないと言い、全軍に弓を引き絞らせた。陣が交わるやいなや万の矢が一斉に放たれ、牛はみな引き返して駆け、賊の衆は殲滅された。邵青は自ら縛って命を請い、德は行在に差し出し、残党はすべて平らげられた。
紹興元年十二月(1131年)
- 盗賊の曹成が道州を陥れた。曹成は初め漢陽・鄂州を陥れ、攸県に駐屯した。湖東安撫の向子諲が招くと、曹成は命に従った。子諲は兵を遣って衡陽を扼し、これを図ろうとしたが援兵が来なかった。曹成は自分を扼したことに憤り、衆を擁して南下し、官軍はすべて潰えた。曹成は大いに掠奪し、子諲を捕らえて去った。
紹興二年春正月(1132年)
- 辛丑、韓世忠は范汝為が建州に入ったと聞き、建州は閩の嶺の上流にあり、賊が流れに沿って下れば七郡は血肉と化すと言い、急ぎ歩兵三万を率いて水陸から進み、鳳凰山に直行して五日で破った。汝為は自ら焼け死に、その二人の弟の岳と吉を斬って晒し、参謀の謝嚮・施逵および副将の陸必強ら五百余人を捕らえた。
- 世忠は初め建州の民を皆殺しにしようとしたが、李綱が福州から駆けつけて世忠に会い、建州の民には罪のない者が多いと述べた。世忠はそこで軍士を城上に留め、民に自ら申し出て区別させ、農民には牛と穀物を給し、商人には税を緩め、脅されて従った者は問わず、賊に付いた者だけを取って誅した。民は再び生を得たことに感じ入り、家ごとに祠を立てた。捷報が届くと帝は、古の名将でもこれ以上のことはあるまいと言った。世忠はそのまま江西・湖広の諸盗の討伐に進んだ。
紹興二年二月(1132年)
- 庚午、李綱を湖広宣撫使とし、あわせて岳飛らにともに曹成を討たせた。
- 丁丑、降った盗賊の崔増・李捧・邵青・趙延寿・李振・単德忠・徐文の部隊を七つに分け、御前忠鋭軍と名づけて歩軍司に属させ、枢密が旨を奉じなければ動かせないこととした。
紹興二年閏四月(1132年)
- 曹成が十余万の衆を擁し、江西から湖湘を経て道州・賀州に拠った。岳飛に権知潭州兼権荊湖東路安撫都総管を命じ、金字牌と黄旗を与えて曹成を招かせた。曹成は岳飛が来ると聞いて驚き、岳家軍が来たと言ってただちに逃げた。飛は賀州まで追って力戦し大破した。曹成は桂嶺から北蔵嶺まで砦を置いて隘路を押さえ、十余万の衆で蓬頭嶺を守った。
- 丙午、岳飛は八千の兵で桂嶺に登って曹成を破り、曹成は連州へ逃げた。飛は部将の張憲・徐慶・王貴に、曹成の一党が散り去ったところを追って殺せば脅されて従った者が憐れだ、放っておけばまた集まって盗となる、今はお前たちを遣ってその首領を誅し、その衆を撫させる、みだりに殺すなと言った。そこで張憲は賀州から連州へ、徐慶は邵州から道州へ、王貴は郴州から桂州へ向かい、招降した者は二万に上った。連州で飛と合流し、兵を進めて曹成を追い、曹成は邵州へ逃げ込んだ。
紹興二年五月(1132年)
- 韓世忠が曹成を招いて降らせた。世忠は范汝為を平らげたのち軍を永嘉に返し、休息するかに見えたが、突然、処州・信州を経て豫章に直行し、江辺に数十里も営を連ねた。群賊はその到来を予期せず大いに驚いた。世忠は董攸を遣って曹成を招いた。曹成はちょうど岳飛に追われていたので、衆を率いて降り、戦士八万を得て行在へ送った。
紹興二年六月(1132年)
- 孔彦舟が叛いて劉豫に降った。彦舟は横暴で法を守らず、朝廷が兵で捕らえようとしたので、部隊を率いて叛き去った。
紹興二年九月(1132年)
- 韓世忠が蘄陽で劉忠を大破した。世忠は豫章から長沙へ軍を移した。劉忠は数万の衆で白面山に拠り、砦を連ねていた。世忠は着くと賊と塁を接して、碁を打ち酒を張って壁を堅くして動かず、衆は意図を測りかねた。ある夕、世忠は蘇格と馬を並べて賊の陣営を突っ切った。誰何する者があったが、世忠はあらかじめ賊の合言葉を得ていて、その声に応じ、隅々まで見て出てきて、これは天の賜物だと喜んだ。夜に精兵二千を山の下に伏せ、諸将とともに営を払って進んだ。賊が迎え撃とうとしたときには伏兵がすでに中軍に駆け込み、望楼を奪って旗と蓋を立て、雷のような喊声を上げた。賊は振り返って驚き潰え、世忠は将士を指揮して挟撃し大破した。劉忠は逃げて劉豫に降った。
紹興二年十一月(1132年)
- 甲戌、李綱・劉洪道・程昌㝢・解潜に兵を合わせて湖の賊を討たせた。李綱が潭州に至ると、湖南の流民や潰兵で群れて盗となった者が数万人おり、綱はすべて平定した。
- 王彦は金州を守ってたびたび奇功を立て、蜀を守った。桑仲が死んだのち、大盗の王闢・董貴・祁守忠らがそろって兵を構えて蜀をうかがったが、彦はいずれも撃ち平らげた。
紹興三年夏四月(1133年)
- 詔して統制の王𤫉に兵を合わせて楊太を討たせた。当時、楊太の衆は日々増え、自ら大聖天王と号し、鍾相の末子の鍾儀を太子に立て、楊太以下がみな臣として仕えた。楊太は楊么ともいい、楚の人は年少者を「么」と呼ぶからである。
紹興三年六月(1133年)
- 己酉、岳飛が虔州から凱旋した。当時、虔州・吉州の盗賊が兵を連ねて循州・梅州・広州・恵州・英州・韶州・南雄・南安・建昌・邵武・汀州の諸州を掠め、帝はもっぱら岳飛に平定を命じた。
- 飛が虔州の固石洞に至ると、賊の彭友が全軍を挙げて雩都に迎え撃ちに来て、馬を躍らせて突進した。飛は兵を指揮して馬上のまま彭友を捕らえた。残党は固石洞に退いて守った。洞は高く険しく水に囲まれ、入り口は一筋の道だけだった。飛は騎兵を山の下に並べて弓を引き絞らせ、夜明けに決死の士を疾駆させて山に登らせた。賊の衆は乱れ、山を棄てて下りたところを騎兵が囲んだ。賊が命乞いをすると、飛は殺すなと命じて降伏を受け入れ、徐慶に方略を授けて諸郡の残る賊を捕らえさせ、すべて破って降らせた。
- 初め帝は隆祐太后が驚かされたことから、密かに飛に虔城を屠るよう命じていた。飛は首謀者だけを誅し、脅されて従った者を赦すよう請い、帝は許した。虔州の人はその德に感じ、像を描いて祠った。飛が入朝すると、帝は自ら「精忠岳飛」の字を書いて旗を作り与えた。
紹興三年冬十月(1133年)
- 李成が襄陽・鄧州を侵し、李横は荊南へ逃げ、李成はそのまま京西の六郡を陥れた。
紹興四年五月(1134年)
- 庚戌朔、岳飛に荊南制置使を兼ねさせた。当時、楊太は劉豫と通じて流れを下ろうとし、李成は襄陽に拠ったうえ、江西から陸路で浙江へ向かって楊太と合流しようとしていた。帝は飛にこれに備えさせた。朱勝非は、襄陽は国の上流であり急ぎ取らねばならないと述べた。飛もまた、襄陽など六郡は中原恢復の基本であり、今はまず六郡を取って心腹の病を除き、李成を遠く逃がし、そのうえで湖湘に兵を加えて群盗を殲滅すべきだと奏した。帝がこれを趙鼎に語ると、鼎は、上流の利害を知る者は飛に及ぶ者がないと述べ、この任命となった。飛は長江を渡り、流れの半ばで幕僚を顧み、賊を捕らえなければこの江は渡らないと言った。
紹興四年秋七月(1134年)
- 岳飛が襄陽など六郡を回復した。もと飛が郢に至ると、偽斉の将の京超は万人敵と号し、城に拠って飛を防いだ。飛が鼓を打って衆を登らせると、京超は崖から身を投げて死に、飛は郢州を回復して襄陽へ向かった。
- 李成が迎え撃ち、左手に襄江を臨んだ。飛は笑って、歩兵は険阻に利あり騎兵は平坦に利あるのに、李成は左に騎兵を江岸に並べ右に歩兵を平地に並べた、十万の衆でも何ができようと言い、鞭を挙げて王貴に、お前は長槍の歩兵でその騎兵を撃てと指示し、牛皋に、お前は騎兵でその歩兵を撃てと指示した。戦いが始まると、馬は槍に当たって斃れ、後続の騎はみな押されて江に落ち、歩兵の死者も数知れなかった。李成は夜に逃げ、飛は襄陽を回復した。
- 偽斉は李成の残兵を収め、兵を増して新野に駐屯させた。飛は別将の王万と挟撃して大敗させ、さらに牛皋に随州・郢州を、王貴と張憲に唐州・鄧州と信陽軍を回復させ、襄陽・漢水一帯はすべて平定された。飛は德安に駐屯を移し、軍声は大いに振るった。
- 捷報が届くと帝は喜び、朕はかねて飛の軍に紀律があると聞いていたが、これほど敵を破れるとは知らなかったと言った。飛はそこで奏した。金兵が愛するのは子女と玉帛だけで、その志はすでに驕り怠っている。劉豫は僭偽であり人心はついに宋を忘れない。精兵二十万で中原に直進すれば、故地の恢復は実に容易だ。襄陽・随州・郢州の地はいずれも肥沃で、屯田を行えば利は厚い。自分は糧が足りしだい長江を北へ渡って敵を討つ、と。当時は深入りの挙を重く見ていたが、屯田の議はこれ以来盛んになった。
紹興四年八月(1134年)
- 王𤫉が忠鋭統制の崔増らを遣って鼎州で楊太を討たせたが、水軍は敗れてみな戦没した。楊太は大水に乗じて兵を出し鼎州の社木寨を攻め破り、守将の許筌が戦死し、官軍の死者も多かった。そこで岳飛に清遠軍節度使を授け、王𤫉に代わって楊太を討たせた。飛はこのとき三十二歳で、中興の諸将のうち節度使になった者で飛ほど若い例はなかった。
紹興五年六月(1135年)
- 岳飛が洞庭で楊太を大破した。もと飛は楊太討伐の命を受けたが、部隊はみな西北の者で水戦に慣れていなかった。飛は、兵に定まった形はない、使い方次第だと言い、まず使者を遣って招諭した。賊の一党の黄佐は、岳節使の号令は山のようだ、戦えば万に一つも生きる道はない、降ったほうがよい、節使は誠実だから必ず自分をよく遇するだろうと言い、そのまま降った。
- 飛は上表して黄佐に武義大夫を授け、単騎でその部隊を巡視し、佐の背を撫でて、お前は逆順を知る者だ、功を立てられれば封侯など言うに足りない、お前をまた湖中に帰らせ、勝てそうな者は捕らえ、説けそうな者は招かせたいがどうか、と言った。佐は感じ入って涙し、死をもって報いると誓った。
- 当時、張浚が都督軍事として潭州に至った。参政の席益は飛が賊を弄んでいると疑い、上聞しようとしたが、浚は、岳侯は忠孝の人だ、兵には深い機略がある、軽々しく言うなと述べ、益は恥じてやめた。
- 黄佐が周倫の砦を襲って倫を殺し、飛はその功を上奏して武功大夫に進めた。統制の任士安は王𤫉の令に従わず、軍はそのために功がなかった。飛は士安を鞭打って賊の餌にさせ、三日で賊が平らがなければお前を斬ると言った。士安は出て、岳太尉の兵二十万が来たと言い触らした。賊は士安の軍だけなのを見て力を合わせて攻めた。飛は伏兵を置き、士安の戦いが急になったところで伏兵が四方から起こって賊を撃ち、賊は逃げた。
- 折しも朝旨で張浚を秋の防備のため召し還すことになった。飛は袖から小さな図を出して浚に示した。浚は来年に議そうとしたが、飛は、すでに計画は定まっている、都督が少し留まっていただければ八日で賊を破れると言った。浚がなぜそう容易に言うのかと問うと、飛は答えた。王四廂が官軍で水賊を攻めれば難しいが、飛が水賊で水賊を攻めれば易しい。水戦は我が短所、彼の長所であり、短所で長所を攻めるから難しい。敵の将を用い敵の兵を用いて、その手足の助けを奪い腹心の頼みを離し、孤立させたうえで官軍で乗ずれば、八日のうちに首領たちを捕虜にできる、と。浚は許した。
- 飛は鼎州へ向かった。黄佐が楊欽を招いて降らせると、飛は喜んで、楊欽は勇猛だ、これが降った以上、賊の腹心は潰えたと言い、上表して楊欽に武義大夫を授け、手厚く遇して、また湖中へ帰らせた。二日後、楊欽は全琮と劉詵を説いて降らせた。飛はわざと楊欽を罵り、賊が残らず降らないうちに何をしに来たと言って杖を加え、また湖に入らせた。その夜、賊の陣営を襲い、数万の衆を降らせた。
- 楊太は険を頼んで服さなかった。舟を湖に浮かべ、輪で水を蹴って飛ぶように走らせ、脇に撞き竿を備え、官軍の舟が向かうたびに砕いた。飛は君山の木を伐って巨大な筏を作り、諸方の入り江を塞ぎ、また腐った木と乱れた草を上流から流し、水の浅い所を選んで罵り上手な者を遣って挑発させ、進みながら罵らせた。賊は怒って追ってきたが、草木が積もって舟の輪が絡んで動かなくなった。飛が急襲すると、賊は入り江へ逃げ込んで筏に阻まれた。官軍は筏に乗り、牛の革を張って矢石を防ぎ、巨木を振るってその舟を突き、ことごとく壊した。楊太は術尽きて水に飛び込み、牛皋が捕らえて斬った。
- 飛が賊の塁に入ると、残る首領たちは驚いて、何という神業かと言い、そろって降りを請うた。衆はおよそ二十余万。飛は自ら諸砦を回って慰撫し、老幼は田に帰し、壮健な者を軍に編入した。果たして八日で捷報が潭州に届き、浚は、岳侯は神算だと嘆じた。黄誠は楊太の首を取り、鍾子儀と周倫を伴って浚のもとへ降り、湖湘はすべて平定された。
- もと楊太は洞庭に拠り、その険を恃んで陸で耕し水で戦い、楼船は十余丈もあって官軍は仰ぎ見るばかりで近づけなかった。飛はさらに大船を造ろうと図ったが、湖南運判の薛弼が飛に、それでは年月をかけても勝てない、しかも彼の長所は避けるべきで挑むべきではない、今は大旱で湖水が落ちている、舟の首領に重い賞金をかけて戦わず、筏を連ねて江路を断ち、上流に藁を流して彼の長所を封じ、精騎でその塁を直撃すれば、破壊は目前だと述べた。飛は善しとしてその策を用い、八日のうちに勝ちを決した。
- それ以前、楊太は自ら、陸から攻めれば湖に入り、水から攻めれば岸に登ればよいと考え、自分を犯せるのは「飛」が来たときくらいだと言っていた。ここに至って人々はその言葉を予言だと言った。