宋史紀事本末苗傅・劉正彦の変(苖劉之變)

建炎三年三月、扈従統制の苗傅と劉正彦が、王淵の急な栄達と内侍康履の専横に憤って兵変を起こし、王淵と宦官を殺して高宗に譲位を迫り、皇子趙旉を立てて隆祐太后の垂簾とした事件。朱勝非が内から時を稼ぎ、張浚・呂頤浩・韓世忠・張俊・劉光世が勤王の兵を挙げて臨平で苗翊の軍を破り、一か月余りで帝は復位した。苗傅・劉正彦は閩へ逃れて捕らえられ、七月に処刑された。

年表(4件)

建炎三年三月(1129年)

  • 庚辰、朱勝非を尚書右僕射兼中書侍郎とし、張浚を平江に駐屯させた。辛巳、葉夢得を罷め、王淵を同僉書枢密院事、呂頤浩を江東安撫制置使とした。
  • それ以前、帝が長江を渡ったとき、劉光世が帝に見えて泣き、王淵は江上の海船を専管し、緩急に遅れは取らぬと常々言っていたのに、今、自分の部下の数万騎のうち二千余りが渡れなかったと訴えた。王淵はその言に憤り、江北都巡検使の皇甫佐を斬って言い逃れた。朱勝非が駆けつけて王淵を督したが、淵が手配を始めたときにはもう間に合わず、諸将の心を失った。ここに至って枢密の任命が下ると、諸将の間で不満の声が飛び交った。
  • 壬午、王淵に書類の進呈と署名を免ずる詔が出た。扈従統制の苗傅は代々の将家を自負しており、王淵が急に君寵を得て顕職に移ったことに内心憤って不平だった。劉正彦は大盗を招降した功に対し賞が薄いと恨んでいた。二人はそこで手を結んだ。
  • 当時、内侍の康履と藍珪が恩寵を笠に着て権を振るい、とくに康履はみだりに威福をほしいままにして諸将を侮っていたので、諸将は憎んでいた。折しも内侍が浙江に臨んで潮を見物し、幕を張って道をふさいだ。苗傅らは怒り、お前たちのせいで天子はここまで流離されたのに、まだこんなことをするのかと言った。中大夫の王世修も内侍の横暴を憎み、劉正彦に語った。正彦は、いずれ一緒に除こうと言った。
  • 王淵が枢密府に入ると、苗傅らはそれが内侍の口添えによると疑い、王世修と謀って、まず王淵を斬り、そのうえで宦官を殺すことにした。議が定まった翌日の癸未、劉光世が殿前都指揮使に昇り、百官が制の宣下を聴きに集まる日だった。苗傅と劉正彦は王世修に城北の橋の下に兵を伏せさせ、王淵が退朝するのを待って馬から引きずり下ろし、宦官と結んで謀反したと言いがかりをつけ、正彦が手ずから斬った。そのまま苗傅とともに兵を率いて行宮の門外へ至り、王淵の首を行闕に晒し、内侍百余人を手分けして捕らえて皆殺しにした。
  • 康履は宮中へ駆け込んで帝に報せ、帝は大いに驚いた。朱勝非が急いで楼上に赴き、苗傅らに擅殺の理由を問いただした。中軍統制の呉湛が門を押し開いて苗傅の一党を内へ引き入れ、苗傅らは国家に背いたのではなく天下のために害を除いただけだと奏した。知杭州の康允之は事の急なのを見て、帝に楼に出て諭すよう請うた。
  • 昼近くになって帝が楼に登ると、苗傅らは黄色い蓋を望み見てなお万歳を唱えて拝した。帝が欄に寄って苗傅らを呼び理由を問うと、苗傅は声を張り上げて答えた。陛下は宦官を信任され賞罰が公平でない。功のある軍士は賞されず、内侍の引き立てる者が官を得る。黄潜善・汪伯彦は国を誤ってこの有様なのに流された先はまだ近い。王淵は賊に遭って戦わず真っ先に渡江しながら、康履との縁で枢密に任じられた。自分たちは陛下の即位以来、功が多く賞は薄い。すでに王淵を斬り、外にいた宦官はみな誅した。さらに康履と曾択を誅して三軍に謝していただきたい、と。
  • 帝は、潜善・伯彦はすでに降黜した、康履と曾択も重く処分するから、卿らは営に帰れと述べた。苗傅は、天下の生霊が罪もなく肝脳を地にまみれさせているのは、ひとえに宦官が権を専らにしているからだ、康履と曾択を斬らなければ自分は営に帰らないと言った。帝はなお許さなかったが、時が過ぎても苗傅の兵は退かず、やむなく呉湛に康履を捕らえて渡すよう命じた。苗傅はその場で楼の下で康履を腰斬りにし、肉を切り刻み、首を晒して王淵の首と向かい合わせにした。
  • 帝はそこで苗傅を慶遠軍承宣使・御営使都統制、劉正彦を渭州観察使・副都統制とし、営に帰るよう諭した。すると苗傅らは進み出て、陛下は大位に即かれるべきではなかった、将来、欽宗が還られたらどう処されるのかと言った。帝は朱勝非に縄で楼から下りさせ、言葉を尽くして諭させた。苗傅は隆祐太后が同席して政を聴くことと、金へ使者を送って和議を議することを請い、帝は許して、隆祐太后に垂簾を請う詔を下した。
  • 苗傅らは詔を聞いても拝さず、皇太子を立てればよい、まして道君皇帝の先例もあると言った。勝非が戻って報せると、帝は、朕は退避してもよいが太后の手詔が要ると述べ、顔岐を遣って太后に楼に出るよう請わせた。
  • 太后が着くと、帝は柱の脇に立った。従官が坐すよう請うと、帝はもうここに坐るべきではないと言った。太后は輿に乗って楼を下り門を出、苗傅らに会って諭した。道君皇帝が蔡京・王黼を用いて祖宗の法度を改め、童貫が辺境の事を起こしたために金人を招き、今日の禍を育てたのだ。今上に何の関わりがあろう。まして皇帝にはもともと失德はなく、ただ黄潜善・汪伯彦に誤られただけで、二人はもう追放された。統制たちも知らぬはずはあるまい、と。苗傅らは、自分たちはどうしても太后に天下の主となっていただき、皇子を奉じて帝としたいと答えた。太后は、今、強敵が目前にある、一介の婦人が三歳の子を抱いて事を決めて、どうして天下に令せよう、敵国が聞けばいっそう侮りを増すではないかと言ったが、苗傅らは従わなかった。
  • 太后は勝非を顧みて、今日はまさに大臣の果断が要るのに、相公はなぜ一言もないのかと言った。勝非は戻って帝に、苗傅の腹心に王鈞甫という者がおり、二将は忠は余りあるが学が足りないと自分に語った、この言葉は後図の糸口になると述べた。帝はその場で座したまま詔を作り、皇子に位を譲り、太后に同席して政を聴くよう請うた。詔の宣下が終わると、苗傅らは軍を指揮して退いた。こうして皇子の趙旉が即位し、太后が垂簾して事を決した。その夕、帝は顕寧寺に移った。
  • 甲申、帝を尊んで睿聖仁孝皇帝とし、顕寧寺を睿聖宮として大赦した。張澂に中書侍郎を兼ねさせ、韓世忠を御営使司提挙一行事務、張俊を秦鳳副総管とし、その衆を分けて諸軍に属させた。
  • 丁亥、内侍の藍珪・曾択らを嶺南の諸州に分けて流した。苗傅は追いかけて殺した。
  • 戊子、王孝迪を中書侍郎、盧益を尚書左丞とし、苗傅に武当軍節度使、劉正彦に武成軍節度使を加え、呉湛に歩軍司を主管させ、王孝迪と盧益を大金国信使とした。朱勝非は、母后の垂簾では二人が同席して奏対するのが太平の世の先例だが、今日は事機に密を要するとして、臣僚が単独で奏対することを許すよう奏し、日ごとに苗傅の一党二人を殿上に引き入れてその疑いを解いた。太后は帝に、この人が宰相でよかった、汪伯彦・黄潜善が在位していたら事はとうに乱れきっていたと語った。苗傅らは帝を擁して徽州・越州へ移そうとしたが、勝非が禍福を説いて止めた。
  • 己丑、明受と改元した。赦書が平江に届くと、張浚は守臣の湯東野に命じて伏せて宣示させなかった。まもなく苗傅らの伝えた檄を得て、張浚は慟哭し、湯東野と提刑の趙哲を召して起兵して討つ計を謀った。
  • 当時、苗傅は張俊に三百人で秦鳳へ赴かせ、残りの兵を他の将に属させようとした。俊はその偽りを見抜いて受けず、軍士は騒然とした。俊は、張侍郎のもとへ行って決めようと諭し、部隊八千を率いて平江に至った。張浚は俊に会って事情を語り、抱き合って泣き、起兵して罪を問う決意を告げた。俊は泣いて拝し、これは侍郎が機略をもって進めるべきことで、乗輿を驚かせてはならないと述べた。
  • 赦書が江寧に届くと、呂頤浩は、これは必ず兵変だと言った。その子の呂抗も、主上は壮年であり、二帝が砂漠に塵をかぶって日々救出を待っているのに、幼い子に位を譲るはずがない、兵変であることは明白だと述べ、ただちに人を遣って張浚に書を届けた。折しも諫議大夫の張㲄の親しい謝嚮が姓名を変え粗末な身なりで商人を装い、徒歩で平江に赴いて張浚らに会い、城中の事を詳しく告げ、兵備を厳しく整えて声勢を大いに張り、重厚に構えてゆっくり進み、賊が自ら逃げるようにして三宮を驚かせないのが上策だと述べた。張浚は呂頤浩に威望があり大事を決断できると見て、返書して共に起兵することを約し、あわせて鎮江の劉光世に告げて兵を率いて合流させた。頤浩は書を得て、睿聖皇帝の復辟を請う上書をした。
  • 癸巳、張浚は節制司参議官の辛道宗に海船の手配をさせた。また苗傅らが中枢にいるので弁の立つ者を遣って説かせようと考え、布衣の馮轓に書を持たせて苗傅・劉正彦を説かせた。馮轓が杭州に着くと、張浚は張俊に兵を分けて呉江を扼させ、上疏して睿聖皇帝の復辟を請うた。苗傅らは張浚を礼部尚書に任じ、部隊を率いて行在に来るよう命じようと謀った。張浚は大軍がまだ集まっていないので公然と討賊を口にできず、張俊が急に戻ったので人心が動揺している、しばらく留まってその軍を撫すべきだと言い繕った。
  • 甲午、呂頤浩が勤王の兵一万を率いて江寧を発った。
  • 乙未、劉光世の部隊が丹陽で呂頤浩と合流した。
  • 丙申、韓世忠が塩城から散った兵を集め、海路で行在に赴こうとして常熟に至った。張俊はこれを聞き、世忠が来れば事は成ると言い、張浚に告げて書で招いた。世忠は書を得ると酒を地に注ぎ、あの賊どもとは共に天を戴かぬと誓った。平江に至って張浚に会い、慟哭して、今日の事は世忠が張俊とともに引き受ける、公は心配ないと言った。張浚は俊と世忠の将士を大いに労い、一同は感激し憤った。
  • そこで世忠に兵を率いて闕へ赴かせ、鼠を打つに器を忌むというとおり急いではならない、急げば別の変事が起こる、秀州へ向かって糧道を押さえ大軍の到着を待てと戒めた。世忠は平江を発って秀州に至ると、病と称して進まず、大いに戦具を整えた。苗傅らはこれを聞いて初めて恐れ、世忠の妻子を拘えて人質にしようとした。朱勝非は苗傅を欺いて、それより妻を遣って世忠を出迎えさせ慰撫すれば、平江の面々もいっそう安心すると言った。苗傅は従い、太后に申して世忠の妻の梁氏を安国夫人に封じ、世忠を迎えに行かせた。梁氏は疾駆して城を出、一昼夜で秀州の世忠と落ち合った。勝非は喜んで、あの二人の凶徒はまったく何もできぬと言った。
  • 張浚は再び馮轓を杭州へ遣り、劉正彦への返書に、古来、言葉が不順なのを乗輿を指斥すると言い、事が不遜なのを宮闕を震驚させると言い、廃立の事を大逆不道と言う、大逆不道の者は一族を誅される、今、建炎皇帝に失德は聞こえないのに、突然の譲位など聞くに耐えぬ、と書き送った。苗傅らは書を得て恐れた。
  • 辛丑、苗傅らは韓世忠を定国軍節度使、張俊を武寧軍節度使・知鳳翔府とし、張浚が社稷を危うくしようと謀っていると誣いて黄州団練副使に落として郴州に安置した。俊らはいずれも受けなかった。苗傅は苗瑀と馬柔吉を遣って重兵で臨平を扼させ、勤王の兵を防がせた。
  • 壬寅、呂頤浩が平江に着こうとしたので、張浚は軽舟で迎え、大計を諮った。頤浩は、かつて辺境を開くことを諫めて宦官の手にかかって死ぬところだった、漕運の任にあっては敵地に落ちかけた、今、事が調わなくとも一族が誅されて社稷のために死ぬまでのこと、痛快ではないかと述べた。張浚はその言を壮とした。まもなく劉光世の兵も到着した。
  • 癸卯、呂頤浩と張浚は中外に檄を伝えて苗傅・劉正彦の罪を数え、韓世忠を前軍、張俊をその翼、劉光世を遊撃とし、頤浩と浚が中軍を統べ、光世が兵を分けて殿を務めて討った。
  • 乙巳、太后が旨を下し、睿聖皇帝に兵馬の重事を処分させた。
  • 丙午、張浚を同知枢密院事、李邴と鄭瑴をともに同僉書枢密院事とした。張浚と呂頤浩は平江を発ち、丁未、呉江に泊まり、上疏して建炎皇帝の復位を請うた。苗傅・劉正彦らはこれを聞いて憂え恐れ、なす術を知らなかった。朱勝非は彼らに、勤王の師が進まないのは、こちらが自ら正統に復するのを待っているからだ、そうしなければ詔を下して百官と六軍を率い帝の還宮を請うことになる、公らはどこに身を置くのかと言った。そこで李邴と張守を召して百官の上章と太后の手詔を作らせ、苗傅・劉正彦に鉄券を与えた。苗傅らは百官を率いて睿聖宮に朝し、帝は慰労した。苗傅と正彦は手を額に当てて、聖天子の度量はこれほどかと言った。苗傅の一党の張逵は、趙氏は安泰だが苗氏は危ういと言った。

建炎三年夏四月(1129年)

  • 太后が詔を下して政を還し、帝が復位して、太后とともに前殿に出て垂簾した。詔して太后を尊んで隆祐皇太后とした。
  • 己酉、苗傅を淮西制置使、劉正彦をその副とした。庚戌、年号を建炎に戻し、張浚を知枢密院事、苗傅と劉正彦をともに検校少保とした。
  • 呂頤浩と張浚の軍が秀州に泊まった。頤浩は諸将に、今は正統に復したとはいえ賊はなお兵を握って中枢にいる、事が成らなければ必ず逆に悪名を我らに着せてくる、翟義と徐敬業を鑑とせよと諭した。
  • 進んで臨平に泊まると、苗翊と馬柔吉が山を背にして陣を敷き、流れの中に鹿角を立てて舟の通行を妨げていた。韓世忠は舟を捨てて力戦し、張俊・劉光世が続いた。苗翊の衆がやや退くと、世忠はさらに馬を降りて戈を執って前進し、将士に、今日は死をもって国に報いる、顔に数本の矢を受けていない者はみな斬ると命じた。士卒は競って命を尽くした。苗翊が神臂弩を引き絞って待ち構えたが、世忠は目を怒らせて大喝し刃を振るって突進した。苗翊の衆はたじろぎ、矢を放つ暇もなく敗走した。
  • 勤王の兵が北闕に入ると、苗傅と正彦は急ぎ都堂へ走って鉄券を取り、精兵二千を擁して湧金門を開き、夜のうちに逃げた。富陽・新城を侵して南の閩中へ向かおうとしたので、統制の王德と喬仲福が追った。
  • 辛亥、皇太后が簾を撤し、頤浩・浚らが入城した。韓世忠は自ら王世修を捕らえて吏に渡した。浚らが帝に見え、地に伏して涙を流し罪を待つと、帝は再三慰労し、浚に、先ごろ睿聖宮にいて両宮の間が隔てられていたころ、ある日、羹をすすっていて卿を貶すと聞き、思わず手を覆した、卿が謫されると聞いてこの事は誰が引き受けるのかと思った、と述べ、身に着けていた玉帯を解いて与えた。帝は世忠の手を握って慟哭し、中軍統制の呉湛は逆賊を助けた筆頭でありながらなお朕のそば近くにいる、まずこれを誅せるかと言った。世忠はただちに呉湛を訪ね、手を握って話しながらその中指をへし折り、王世修とともに市中で斬った。逆党の王元・左言・馬瑗・范仲熊・時希孟はみな貶された。
  • 癸丑、右相の朱勝非および執政の顔岐・王孝迪・張澂・路允迪・盧益が罷められた。もと朱勝非は帝に見えて、自分は変事に遭ったとき義として即座に死ぬべきだったが、生き延びてここまで来たのは今日の事を図るためだったと述べ、辞任を請うていた。帝が誰が代われるかと問うと、呂頤浩と張浚を挙げた。どちらが優れるかと問われると、頤浩は事務に練達だが粗暴、浚は事を好むが疎いと答えた。帝が浚は若すぎると言うと、勝非は、自分が召されたとき軍旅と銭穀をすべて浚に任せた、今回のことは実質浚が主導したと答えた。中丞の張守が、勝非は変事を予防できず賊を猖獗させたのだから罷めるべきだと論じたが、返答はなかった。ここに至って顔岐らとともに罷められた。
  • もと張浚が秀州にあって勤王の兵を挙げる議をしていたころ、ある夜ひとり坐しており従者はみな寝ていた。ふと一人が刃を持って燭の後ろに立った。浚は刺客と知り、静かに、苗傅と劉正彦がお前を遣って自分を殺させに来たのかと問うた。そうだと答えたので、浚は、それなら自分の首を取って行くがよいと言った。相手は、自分も書を読む者だ、どうして賊に使われよう、まして公はこれほど忠義な方だ、害するに忍びない、公の警備が厳しくないので後から来る者があるかもしれず、それを告げに来たのだと答えた。浚が金帛が欲しいかと問うと、笑って、公を殺す腕があれば財に困りはしないと答えた。それなら留まって自分に仕えるかと問うと、河北に老母がいるので留まれないと答えた。姓名を問うと俯いて答えず、衣を掲げて跳んで屋根に登った。屋根の瓦は音も立てず、折しも月明かりのなか飛ぶように去った。翌日、浚は死囚を取って斬らせ、夜に間諜を捕らえたと言った。浚は後に河北で探させたが見つからなかった。
  • 呂頤浩を尚書右僕射兼中書侍郎、李邴を尚書右丞、鄭瑴を僉書枢密院事とした。甲寅、劉光世を御営副使、韓世忠と張浚を御前左右軍都統制とした。勤王に加わった僚属・将佐はそれぞれ官を進められた。

建炎三年五月(1129年)

  • 韓世忠が、苗傅・劉正彦は精兵を擁して甌・閩にきわめて近い、巣窟を築かれたら容易には滅ぼせないと述べた。帝は世忠と劉光世に追討を命じた。世忠は衢州・信州から進んで浦城の魚梁駅に至り、賊と遭遇した。世忠が徒歩で戈を執って前進すると、賊は望み見て、あれは韓将軍だと叫び、みな驚いて潰えた。そこで正彦と苗傅の弟の苗翊を捕らえ、王德も苗瑀を捕らえ、馬柔吉を斬った。苗傅は逃げて建陽に入ったが、県人の詹標が捕らえて世忠に差し出した。いずれも枷をはめて行在へ送った。帝は自ら「忠勇」の二字を書いた旗を掲げて世忠に賜った。

建炎三年秋七月(1129年)

  • 辛巳、苗傅と劉正彦が処刑された。
  • 甲申、詔して、苗傅・劉正彦の変に際し要職にある大臣が身をもって社稷を守れなかったとして、朱勝非と顔岐をともに落職とし、張澂を衡州に居住させた。
  • 丁亥、皇太子の趙旉が没した。太子は建康への行幸に従う途中で病になり、宮人が地上の金の香炉を蹴って音を立てたのに驚き、動悸がして病が重くなり、ついに起きられなかった。もと張浚は、趙旉がかつて帝位を犯したとして除くことを議しており、ここに至ってついにその保母を巻き添えにして死に至らしめた。
  • 壬辰、范瓊が処刑された。もと汴京が破れ、二帝と宗室が北へ移されたのは多く范瓊の謀によるもので、さらに時に乗じて掠奪をはたらき、張邦昌の護衛にも付いた。ここに至って洪州から入朝したが、傲慢無礼で、しかも苗傅・劉正彦らの助命を請うた。帝はその威勢を恐れて御営司提挙一行事務とした。張浚は川陝へ赴くにあたり、枢密検詳文字の劉子羽と密かにこれを誅する謀を立てた。ある日、張俊に千の兵で長江を渡らせ、他の盗賊に備えるふうを装ってみな甲を着けて来させた。そのうえで范瓊と張俊、劉光世を都堂に召して議事とし、食事を出した。食べ終えても諸公は顔を見合わせて動かなかった。子羽は廊下に出て、瓊に気づかれるのを恐れて黄紙を取り、進み出て掲げて瓊に、瓊よ、下れ、勅がある、大理寺へ出頭して対決せよと命じた。瓊は驚いてなす術を知らず、子羽は左右に命じて輿に押し込み、俊の兵に守らせて獄へ送った。光世が出てその衆を撫し、瓊が包囲中に金に付いて二帝を北へ連れ去らせた罪を数え、誅すのは瓊ひとりだけだ、お前たちはもとより天子自らが率いる軍だと言った。一同は刃を投げ出して承知した。旨が下って御営の五軍に分属させ、瓊は獄で罪を認めて死を賜り、子弟はみな嶺南に流された。