宋史紀事本末金人、江を渡って南侵する(金人渡江南侵)

建炎三年から四年にかけて、金の烏珠が大挙して長江を渡り江南を席巻した戦役。杜充が建康で降り、金軍は臨安・明州から海上まで高宗を追い、平江・潭州などを屠って北へ帰った。帰路、韓世忠が八千の兵で黄天蕩に四十八日間封じ込め、岳飛も牛頭山などで撃破したが、楚州では趙立が援軍を得られぬまま戦死し、城は陥ちた。

年表(9件)

高宗建炎三年六月(1129年)

  • 金の烏珠が燕雲・河朔の兵を大挙して南侵することを請い、金主の烏竒邁が許した。この月、磁州を陥れた。

建炎三年九月(1129年)

  • 金人が水軍を整えて海路から浙江をうかがおうとしているとの報せがあり、韓世忠を遣って圌山・福山を守らせた。

建炎三年冬十月(1129年)

  • 金の烏珠が兵を分けて南侵した。一隊は滁州・和州から江東に入り、一隊は蘄州・黄州から江西に入った。そして寿春を取り、光州を掠め、さらに黄州を陥れて守臣の趙令𤩰が戦死した。令𤩰は燕懿王の玄孫である。
  • 金人が江州を陥れた。当時、劉光世は江州にあって日々酒宴を開いており、金兵が渡江して三日たってもまだ気づかなかった。城下に迫られてようやく兵を率いて逃げ、南康へ向かった。知江州の韓梠は城を棄てて逃げ、金人は城に入って殺戮と掠奪をはたらき、そのまま大冶から洪州へ向かった。

建炎三年十一月(1129年)

  • 乙巳朔、金人が廬州を侵し、守臣の李会が城ごと降った。
  • 戊申、金の烏珠が和州を侵し、守臣の李儔が城ごと降った。
  • 己酉、烏珠が無為軍を陥れ、守臣の李知幾は城を棄てて逃げた。
  • 丁巳、金人が臨江を陥れた。戊午、臨江・撫州・袁州を陥れ、守臣はいずれも降った。
  • 庚申、金人が真州を陥れた。
  • 壬戌、金人が溧水を陥れ、県尉の潘振が戦死した。
  • 癸亥、金人が太平州を陥れた。
  • 甲子、杜充が統制の陳淬らを遣って馬家渡で金人と戦わせた。王𤫉が先に逃げ、陳淬ひとりが戦って戦死した。
  • 金兵が廬陵に至ると、太守の楊淵は城を棄てて逃げた。当時、胡銓は科挙受験者として薌城におり、壮丁を組織して郷里を守っていたが、自ら民兵を率いて城に入り固守し、ついにその城を全うした。
  • 辛未、烏珠が長江を渡って建康に入り、杜充は叛いて金に降った。当時、江浙は杜充を頼みにしていたが、充は日々誅殺ばかりを事とし、敵を制する方策もなかった。烏珠は李成と兵を合わせて烏江を攻めたが、充は門を閉ざして出なかった。統制の岳飛が泣いて諫め軍を動かすよう請うたが、充は従わなかった。烏珠は充に備えがないのに乗じ、馬家渡から渡河して太平を陥れ、長駆して建康に至った。充は長江を渡って真州へ逃げた。諸将は充の苛酷さを怨み、その敗北に乗じて害しようとした。充はこれを聞いて陣営に入れず長蘆寺に居た。烏珠が人を遣って、降れば張邦昌の故事のように中原に封じてやると説いたので、充は建康に戻り、守臣の陳邦之、戸部尚書の李梲とともに官属を率いて金の軍を迎え、烏珠の馬前に拝した。通判の楊邦乂ひとりが膝を屈することを拒み、血で衣の裾に大書して、趙氏の鬼となっても他国の臣にはならないと記した。烏珠は人を遣って官位で誘ったが、ついに屈せず、大いに罵って死を求めたので殺された。これが伝わると直秘閣を贈り、忠襄と諡した。
  • 癸酉、帝は杜充の敗北を聞き、呂頤浩に、事は切迫している、どうすべきかと問うた。頤浩はそこで海路に出る策を進め、敵兵は騎兵が多く舟に乗って襲うことはできまい、江浙は暑いから長くは留まらない、退いたところで両浙に戻ればよい、敵が出れば我は入り、敵が入れば我は出る、これが兵家の奇策だと述べた。帝はもっともとし、明州へ向かった。
  • 甲戌、韓世忠が鎮江から退いて江陰を守った。
  • この月、知徐州の趙立は諸路に勤王の兵を出させる詔を聞き、三万の兵を率いて行在へ向かった。金人が淮陰で趙立を待ち伏せると、麾下は徐州に戻って守るほうがよいと勧めた。趙立は憤って歯を噛みしめ、振り返る者は斬ると言い、そのまま衆を率いて進んだ。金人と遭遇して四十里を転戦し、楚州城下に至った。趙立は矢が両頬を貫いて口がきけなくなり、手で諸軍を指揮し、休息して落ち着いてからようやく矢を抜いた。論者は、燕山の役以来、南の兵にこれほどの激戦はなかったと言った。

建炎三年十二月(1129年)

  • 丙子、帝が明州に着いた。
  • 辛巳、金人が常州を攻めた。守臣の周杞は赤心隊官の劉晏を遣って迎え撃たせ、岳飛を迎えて宜興に移し駐屯させた。盗賊の郭吉は岳飛が来ると聞いて逃げて湖に入ったが、飛は王貴らを遣って追い破り、その衆をすべて降らせた。
  • 当時、烏珠は杭州へ向かおうとして広德軍を攻めた。岳飛はこれを聞き、広德の境まで迎え撃って六戦して全勝し、その将の王権を捕らえた。鐘村に駐軍したとき将士に糧がなかったが、飢えを忍んで民を騒がせなかった。折しも金がまた兵を遣って常州を攻めたので、飛は再び追撃して四戦して全勝した。こうして広德は援けを失い、金人は守臣の張烈を殺した。
  • 乙酉、烏珠は広德から独松関を通ったが、守備兵がいないのを見て配下に、南朝が弱兵数百でもここを守っていたら、自分はこうたやすく越えられなかったと言った。そのまま臨安を侵し、守臣の康允之は城を棄てて逃げた。銭塘県令の朱蹕は弓手と土軍を率いて前線で防ぎ戦い、二度も流れ矢に中りながらなお勇を奮って進み、力尽きて戦死した。
  • 烏珠は帝が明州にいると聞き、阿里・富勒琿に精騎を率いて浙江を渡って追わせた。己丑、帝は楼船に乗って定海県に泊まり、范宗尹と趙鼎を明州に留めて金の使者を待たせた。また張俊に、よく敵を防いで功を成せば王爵を加えると述べた。呂頤浩が従官以下は便宜に従って去らせるよう奏すると、帝は、士大夫は義理を知るべきで、扈従しないことがあってよいものか、それでは朕の行くところは盗賊の一行と同じだと述べた。そこで郎官以下の多くが護衛に従った。
  • 癸巳、帝の舟は昌国県に泊まった。
  • 戊戌、金人が越州を侵し、安撫使の李鄴が城ごと降り、金人は帕克巴に守らせた。衛士の唐琦は袖に石を隠して道端に伏し、帕克巴の外出を待って打ちかかったが当たらず、捕らえられた。帕克巴が詰問すると、唐琦は、お前の頭を砕こうとした、自分は死んで趙氏の鬼になるだけだと答えた。帕克巴は、人がこうであるなら趙氏がここまで落ちるはずもなかろうと言い、さらに、李鄴は帥でありながら城ごと降った、お前は何者でそこまでするのかと問うた。唐琦は、鄴は臣として不忠であり、手ずから斬れなかったのが恨みだ、あんな者を口にするのかと答え、鄴を振り返って、自分は月に石米をもらう身でも主に背かないのに、お前は国の厚恩を受けながらこの有様だ、人と言えるのかと言った。罵り続けて少しも屈しなかった。帕克巴は急ぎ殺させたが、死ぬまで口をやめなかった。

建炎四年春正月(1130年)

  • 乙巳、金人が明州を侵したが、張俊と守臣の劉洪道が撃退した。
  • 庚戌、金人が再び明州を侵し、張俊は兵を率いて逃げ去った。
  • 己未、金人が明州を陥れた。夜に大雨と雷電があり、勝ちに乗じて定海・昌国を破り、水軍で御座舟を襲ってきて三百里余り追ったが追いつかなかった。提領海舟の張公裕が大船を率いて撃退し、金人は引き揚げた。
  • 辛酉、帝は章安を発った。甲子、温州の港口に停泊した。
  • 当時、金人は江西の諸郡を破ったのち兵を率いて湖南を侵し、潭州を陥れた。将吏の王𤩽・劉玠・趙聿之が戦死し、向子諲は兵を率いて門を破って脱出した。金兵は大いに掠奪し、その城を屠って去った。
  • 丙子、金の烏珠が兵を率いて北へ帰った。臨安に至ると火を放って焼き掠め、輜重が陸路を通れないので秀州を経て北上した。
  • 庚寅、帝は温州に泊まった。当時、諸将に功がなかったので、翰林学士の汪藻が上言した。敵が来ても諸将は兵を擁して眺めるばかりで、陛下のために矢の一本も費やす労を取らなかった。ただ張俊が明州を守ってわずかに抗しただけだ。もう数日堅く守り、敵の再来を待って機に乗じ全力で分かれ戦っていれば、敵は不利を蒙って生涯懲りて再び南下しなかったろう。それなのに敵が数里も退かぬうちに慌てて逃げ去った。その行動は三歳の童子でも不可と分かる。敵は強情で、その鋒に触れないでさえ屠戮を恐れるのに、まして怨みを買って去らせておきながら、兵を増し守りを固めるどころか軍を返して城を空にして誘うようなことをした。先日の小勝がかえって莫大な禍となったのだ。案の定まもなく明州は残らず殺され生き残る者がなかった。明州一城の生霊を殺し、陛下に再び館頭への逃避行をさせたのは張俊である。さらに痛ましく思うのは、秋以来、陛下が宗廟社稷の大計のため敵の侵逼を恐れて朝夕心を砕き、片時も安んじられなかったことだ。建康・京口・九江はいずれも要害の地で重兵を置くべきだから、杜充に建康、韓世忠に京口、劉光世に九江を守らせ、王𤫉を杜充に属させた。その配置は行き届かないものではなかった。敵の騎兵が渡江したとき、杜充・世忠・王𤫉が力を合わせてその前を扼し、光世が後ろを衝いていれば、敵は逃げる暇もなかったろう。ところが世忠は八、九月のうちに鎮江の蓄えを一掃して残らず海船に積み、城郭を焼いて逃げる支度をした。杜充が危急に陥っても王𤫉と劉光世は平然と座視して一兵も出さず、ついに陥落に至った。今日の諸将は古の法では誅すべきだが、全員は誅せない。ただ王𤫉はもともと杜充に属し、充が前で敗れたのに救わなかった。これは赦せない。まず王𤫉を斬って天下に示し、他は順に厳しく貶降して功で罪を贖わせれば、国威も少しは振るい、敵も憚ることを知ろう、と。だが返答はなかった。
  • 辛卯、金人が秀州を陥れた。
  • 金の遊撃騎が平江に至ると、周望は太湖へ逃げ、守臣の湯東野は城を棄てて逃げた。烏珠は城に入って火を放ち掠奪し、死者は五十万人に上った。

建炎四年三月(1130年)

  • 壬子、金人が常州に入り、守臣の周祀は城を棄てて逃げた。
  • 丁巳、金人が鎮江に至った。もと韓世忠は前軍を青龍鎮、中軍を江湾、後軍を海口に置き、烏珠の軍が帰るのを待って撃とうとしていた。烏珠が秀州から平江へ向かったため事は成らず、そこで軍を鎮江に移して待ち構え、まず八千を焦山寺に駐屯させた。烏珠は渡ろうとして使者を送って挨拶し、あわせて戦う日を約した。世忠はこれを許し、諸将に、このあたりの形勝は金山の龍王廟に及ぶものがない、敵は必ずそこに登ってこちらの虚実をうかがうと言い、蘇德に百人を率いて廟中と岸の側に伏せさせ、江中で鼓の音が聞こえたら岸の兵がまず入り、廟の兵が続いて出て挟み撃てと戒めた。敵が来ると果たして五騎が廟へ向かった。廟の兵が先に鼓を鳴らして出て二騎を捕らえたが、三騎は鞭を振るって駆け去った。うち一人は紅の袍に玉の帯で、落馬しかけたが跳ね起きて逃れた。捕らえた者に問いただすと、それが烏珠だった。
  • やがて江中で数十合を交え、世忠は力戦し、妻の梁氏は自ら撥を執って鼓を打った。敵はついに渡れず、多くを捕虜にし、烏珠の婿の龍虎大王を捕らえた。烏珠は恐れ、掠奪したものをすべて返すから道を貸せと請うたが、世忠は許さず、名馬を加えても許さなかった。そこで鎮江から流れをさかのぼって西へ向かい、烏珠は南岸を、世忠は北岸を進み、戦いながら行った。世忠の大艦は金軍の前後数里に出て、拍子木の音が夜通し響いた。
  • 黄天蕩に近づくと烏珠はひどく窮した。ある者が、老鸛河の旧水路は今は埋まっているが、掘れば秦淮に通じると言った。烏珠はこれに従い、一夜で五十里の水路を成し、建康へ向かった。岳飛は牛頭山に伏兵を置いて待ち、夜に百人を黒衣で金の陣中に紛れ込ませて騒がせた。金兵は驚いて同士討ちを始めた。烏珠が龍湾に泊まると、飛は騎兵三百・歩兵三千で新城に迎え撃って大いに破り、烏珠は逃げ散った。
  • 達蘭が濰州から貝勒の太一に兵を率いて援けに来させたので、烏珠は引き返して北へ渡ろうとし、世忠と黄天蕩で対峙した。太一は江北に、烏珠は江南に軍を置いた。世忠は海船を進めて金山の下に泊め、あらかじめ鉄の綱に大きな鉤を通したものを力の強い者に持たせた。翌朝、敵の舟が喊声を上げて進むと、世忠は海船を二手に分けてその背後に出、綱を投げるたびに一艘ずつ引いて沈めた。烏珠は窮迫して会見を求め、哀れに請うた。世忠は、両宮を還し我が領土を返すなら互いに無事でいられると答えた。
  • 数日後、烏珠は再度の会見を求めたが言葉が無礼だったので、世忠は弓を引いて射ようとし、烏珠は急いで駆け去った。烏珠は海船が風に乗って帆を操り飛ぶように行き来するのを見て、配下に、南軍は船を馬のように使う、どうすればよいかと言い、船を破る策を募った。そこで王姓の閩の人が、舟に土を積んで平らな板を敷き、船板に穴を開けて櫂を通し、風がやんだのを見計らって出れば、海船は風がなければ動けない、そのうえ火矢でその篷を射れば攻めずとも破れると教えた。烏珠はこれを採り、白馬を殺して天を祭った。
  • 空が晴れて風がやむと、烏珠は小舟で江に出た。世忠は流れを断って撃ったが、海船は風がなくて動けない。烏珠は射手を軽舟に乗せて火矢を射させ、煙と炎が天を覆い、軍はついに大潰した。焼け死に溺れ死んだ者は数えきれず、世忠はやっと身一つで免れて鎮江に逃げ帰った。烏珠はそのまま江を渡り、六合県に駐屯した。この一戦で、世忠は八千の兵で烏珠の十万の衆を四十八日にわたって食い止め、最後には敗れた。それでも金人はこれ以後、再び長江を渡ろうとはしなかった。

建炎四年夏四月(1130年)

  • 江西を侵していた金人は烏珠の北帰を聞き、荊門から引き揚げた。統制の牛皋が密かに軍を出して迎え撃ち、宝豊の宋村で破った。
  • 金の達蘭が楚州を急に囲むと、趙立は城下の廃屋を壊して火を焚く池を作らせ、壮士に長矛を持たせて待たせた。金人が城に登ると鉤で引っかけて火の中に投げ込んだ。金人は決死の士を選んで突入させたが、これも打ち殺し、敵はやや退いた。ここに至って烏珠が北へ帰るにあたり、輜重のために楚州に道を借りようとしたが、趙立はその使者を斬った。烏珠は怒り、南北に二つの屯を設けて楚州の糧道を断った。

建炎四年九月(1130年)

  • 金人が楚州を攻めた。趙立は人を遣って急を告げ、朝廷は張俊を救援に遣ろうとしたが、俊は辞退して行かなかった。そこで劉光世に淮南の諸鎮を督して楚州を救わせた。海州の李彦光がまず兵を率いて至ったが、淮河を扼されて進めなかった。光世の諸将の王德・酈瓊も多くは命に従わず、岳飛だけがかろうじて援けたが衆寡敵しなかった。帝は趙立の奏を読み、書を送って光世を五度も促したが、光世はついに動かなかった。
  • 金人は外の援けが絶えたと知り、東城に進攻した。趙立が石段に登って見ていると、飛んできた矢が頭に中った。左右が駆け寄って助けようとすると、趙立は、自分はついに国のために賊を滅ぼせなかったと言い、言い終えて息絶えた。金人は趙立が死んだふりをしているのではと疑って動かず、十日余りたってようやく城は陥ちた。岳飛も泰州から兵を引き揚げた。