宋史紀事本末金、遼を滅ぼす(金滅遼)
女真完顔部が遼の辺境の一小部から興り、烏古鼐・和哩布・英格・烏雅舒を経て阿固達に至り、逃亡者阿蘇の引き渡しを口実に挙兵して寧江州・出河店で遼軍を破り、大金を建国するまでと、黄龍府・東京・上京・中京・西京・燕京を次々に陥として遼主延禧を追い詰め、ついに宣和七年(1125年)に延禧を捕らえて遼を滅ぼすまでを記す。残った耶律達実は西へ走って西遼を建てた。熙寧七年(1074年)からの五十年余りを扱う。
年表(19件)
- 神宗
- 熙寧七年1074年遼の女真部節度使の烏古鼐が死に、子の和里布が継ぐ
- 哲宗
- 元祐七年1092年和哩布が死に、弟の頗拉淑が節度使を継ぐ
- 紹聖三年1096年頗拉淑が死に英格が継ぎ、赫舎哩部の阿蘇が叛いて遼に訴える
- 徽宗
- 崇寧元年1102年阿固達が遼の叛将蕭哈里を討ち、遼兵与しやすしと知る
- 崇寧二年1103年英格が死に、兄の子の烏雅舒が節度使を継ぐ
- 政和二年1112年頭魚の宴で阿固達が舞を拒み、遼主に疑われる
- 政和三年1113年烏雅舒が死に、弟の阿固達が自ら都貝勒と称する
- 政和四年1114年阿固達が遼に叛して寧江州を取り、出河店で遼軍を大破する
- 政和五年1115年阿固達が帝を称し、国号を大金・建元を収国とする
- 政和六年1116年金が高永昌を殺し、遼の東京の州県を手に入れる
- 政和七年1117年金が顕州を抜き、乾・懿ら七州が金に降る
- 重和元年1118年遼で大飢饉が起こり、人が人を食う
- 宣和元年1119年遼の冊立する「東懐国皇帝」の号を阿固達が受けない
- 宣和二年1120年冊礼の議が絶え、金主が自ら遼の上京を攻め落とす
- 宣和三年1121年耶律伊都が叛いて金に降り、金が遼の中京へ侵攻する
- 宣和四年1122年金が中京・西京を取り、遼では耶律淳が立ち、燕京も陥ちる
- 宣和五年1123年金主阿固達が部渚濼で死に、弟の烏竒邁が即位する
- 宣和六年1124年遼主が耶律達実の諫めを退けて出兵し、金に敗れて山陰へ走る
- 宣和七年1125年遼主延禧が応州で捕らえられ海浜王に落とされ、遼が滅ぶ
神宗熙寧七年(1074年)
- 十二月、遼の女真部節度使の烏古鼐が死に、子の和里布が跡を継いだ。
- 女真の由来。その先は古の粛慎氏で、代々混同江の東、長白山・鴨緑水の源に住み、南は高麗、北は室韋、西は渤海鉄甸に接し、東は海に臨んだ。後漢は伊埒、元魏は烏済、隋唐は黙爾根と呼び、姓は挐、また完顔氏と号し、諸部の中では最も弱小であった。唐の貞観年間に黙爾根が入朝し、中国が初めてその名を知った。開元年間には酋長が来朝して勃利州刺史に任ぜられ、黒水部が置かれて部長を都督とし、朝廷は長史を置いて監督させた。五代に至って初めて女真と称し、族は六部に分かれ、黒水部があった。南にいて遼の戸籍に入る者を熟女真、北にいて籍に入らぬ者を生女真といい、のち遼主宗真の諱を避けて女直と改めた。また黄頭女真というのもあり、その人々は愚直で勇猛、和勒博と呼ばれた。東は沫江の北、寧江の東、方千余里の地で、自ら豪侠を推して酋長とし、契丹の東北隅に僻在した。
- 宋との交渉。太祖建隆二年に馬を貢し、三年・四年にも使者を遣わして馬を貢し、以後絶えなかった。太宗淳化二年、首領の伊勒錦らが、契丹が中国への朝貢を怒って海岸に三柵を置き各柵に兵三千を配して貢路を断ったと訴え、共に三柵を平らげたいと乞うたが、太宗は詔で慰撫するだけで兵は出さなかった。真宗大中祥符三年、契丹が高麗を征して女真の地を通ったとき、女真は高麗と兵を合わせてこれを拒んだ。天禧三年にも使者を遣わしたが、天聖以後は契丹に属して入貢しなくなった。
- 烏古鼐は諸部を服属させた。遼の五国烏延部節度使の巴延穆爾が遼に叛き、遼が討とうとしたとき、烏古鼐は遼軍が深く入って自国の要害を知られるのを恐れ、「彼は計略で取れる。兵を用いれば険阻に逃げ込み、年月をかけても平らげられない」と告げた。遼が従うと、烏古鼐は襲って巴延穆爾を捕らえ遼主に献じた。遼主は召見して手厚く賜与し、生女真部節度使に任じた。ここから官属・紀綱が次第に整った。ただし印を受けず遼の戸籍にも入らなかった。部内にはもと鉄がなく、隣国から甲冑を売りに来る者があれば高値で買い取り、鉄を多く得て弓矢を作り器械を備え、兵勢がやや振るった。前後して帰属を願う者が多かった。
- このころ五国穆延部の舎音貝勒がまた遼に叛き、烏古鼐が討って舎音を敗走させた。烏古鼐は遼の辺将に会って戦功を述べようとする途中で死に、子の和哩布が節度使を襲った。
哲宗元祐七年(1092年)
- 四月、遼の女真部節度使の和哩布が死に、弟の頗拉淑が継いだ。和哩布には十一子があり、長子を烏里雅蘇、次いで阿固達・烏竒邁・舎音・烏色・烏哲・阿庫納・実黙・察喇・烏塔といった。和哩布は病が重くなると弟の英格を呼び、「烏雅舒は柔和だ。もし契丹の事を処理させるなら阿固達がよい」と言って死んだ。同母弟の頗拉淑が節度使を襲った。和哩布は厳格で智略に富み、戦いに甲を着けたことがなかった。襲位の当初は内外が離叛したが、敗を転じて功とし、弱を変じて強とし、和諾克・薩達克・烏春・烏木罕を破って基業を大きくし、官属を置いて諸部を統べた。その長官はみな貝勒と称した。
紹聖三年(1096年)
- 二月、生女真節度使の頗拉淑が死に、弟の英格が継ぎ、兄和卓の子の薩哈を国相とした。赫舎哩部の阿蘇に叛意があり、英格が召し出したところ、阿蘇は部人の穆都哩と兵を挙げて抗した。英格が自ら討って阿蘇城に至ると、阿蘇は遼に訴え、遼は使者を送って攻撃を止めさせた。英格は和卓を残して阿蘇城を守らせ、引き揚げた。
徽宗崇寧元年(1102年)
- 十月、遼将の蕭哈里が叛いて女真の阿克展部に逃げ込み、族人の烏塔噶を女真に遣わして共同挙兵を約そうとしたが、節度使の英格はこれを捕らえた。遼主は英格に哈里討伐を命じ、英格は千余の兵を集めた。兄の子の阿固達は「これだけの兵があれば何事も図れる」と言った。そこで混同江に陣した。それまで女真の甲兵は千に満たなかったのである。哈里を追う遼兵は数千いたが討ち取れず、英格は「遼軍は退け、我々だけで哈里を取る」と言い、阿固達に戦わせてこれを殺し、その党を大破して哈里の首を遼に献じた。遼主は大いに喜んで厚く賜った。英格はこれ以来、遼兵くみしやすしと知って驕慢になった。
崇寧二年(1103年)
- 十月、生女真部節度使の英格が死に、兄の子の烏雅舒が継いだ。この頃、高麗が再び女真と通好した。女真はもと高麗に属していたが久しく往来がなかった。たまたま女真に行った高麗の医者が帰国して、黒水部の女真は部族が日ごとに強く兵も精悍だと報告したので、高麗王は使者を遣わし、以後往来が絶えなくなった。
政和二年(1112年)
- 二月、遼主が春州に赴き、混同江で釣魚した。国境外の生女真の酋長で千里内にいる者は慣例で参朝した。頭魚の宴たけなわのころ、遼主が酋長たちに順に舞うよう命じたが、阿固達だけは辞退し、ただ突っ立って直視したままであった。遼主が再三諭しても従わなかった。後日、遼主はひそかに北院枢密使の蕭奉先に「阿固達の跋扈ぶりはこの通りだ。辺事にかこつけて誅すべきではないか。さもなくば必ず後患を残す」と語ったが、奉先は「粗野な者で礼義を知らぬだけ。大きな過ちもないのに殺せば帰順の心を傷つけます。仮に異心があっても、あんな小国に何ができましょう」と答え、遼主は思いとどまった。
- 阿固達の弟の烏竒邁・尼瑪哈・瑚実らはかつて遼主の狩りに従い、鹿を呼び虎を刺し熊と組み打ちしたので、遼主は喜んで官爵を与えた。阿固達は帰って、遼主が自分の異心を知ったと疑い、また遼主が酒色に耽って国政を顧みないのを見て、兵を挙げてまず近隣の部族を併せた。女真の卓克算・阿固察がこれを拒むと、阿固達はその家属を捕らえた。二人は咸州に逃げて訴え、詳衮司が北枢密院に送ったが、蕭奉先は平常事として報告した。遼主は咸州に送って詰問し自新させよと命じ、その後たびたび阿固達を召したが応じなかった。ある日、阿固達は五百騎を率いて咸州に突入し、吏民を驚愕させた。翌日、詳衮司に出向いて卓克算らと法廷で対決したが屈せず、係の役所に送られて取り調べを受けると、一夜で逃亡した。そして遼主に「詳衮司が自分を殺そうとしたので留まれなかった」と訴え、以後は召しても来なくなった。
政和三年(1113年)
- 十二月、生女真節度使の烏雅舒が死に、弟の阿固達が自ら都貝勒と称した。遼の使者の伊実布が「なぜ喪を告げぬのか」と問うと、阿固達は「喪があるのに弔いもせず、それを罪とするのか」と答えた。
政和四年(1114年)
- 十月、女真の阿固達が遼に叛き、寧江州を取った。遼主は狩猟と酒色を好んで政事を怠り、毎年使者を海上に遣わして名鷹「海東青」を買わせたが、その道筋が生女真を通るため、使者は貪欲に際限なく徴発し、女真は苦しんだ。また阿蘇が遼に亡命した後、烏雅舒が再三その引き渡しを求めても遼主は応じなかったので、阿蘇を口実に次第に鷹の買い付け使を拒むようになった。阿固達が襲位すると蒲嘉努・実古納らを遣わして阿蘇を求めたが、遼主は許さなかった。実古納は帰って遼主の驕慢と綱紀弛緩のさまを詳しく報告した。
- 阿固達は配下に要衝を固めさせ、城堡を築き武器を修めた。遼主が侍御の伊実布を遣わして詰問すると、阿固達は「我らは小国。大国に仕えて礼を欠いたことはない。大国は徳沢を施さず逃亡者を庇う。これで小国を撫育できるか。阿蘇を返せば朝貢は元通り、さもなくば築城はやめぬ」と答えた。伊実布が帰ると、遼主は渾河以北の諸軍を発して東北路統軍司を増強した。阿固達はこれを聞き、「遼は我が挙兵を知って諸路の軍を集めている。先手を打たねば制される」と言い、薩哈の子の尼瑪哈らと所属諸部の兵を集め、尼楚赫・羅索・棟摩らを将とし、博勒和に伊蘭路の烏古訥の兵を徴発させた。
- 九月、阿固達は羅和城に進み、諸部の兵が埒里水に集まって二千五百人を得た。遼の罪を数えて天地に告げていわく、「代々遼国に仕えて職貢を怠らず、烏春・烏木罕の乱を定め蕭哈里の衆を破ったのに、功は顧みられず侮りを加えられ、罪人の阿蘇は再三請うても返されぬ。いま遼の罪を問う。天地よ照覧あれ」。諸将に棍を伝えて誓わせ、遼の境に至って渤海軍と遭遇した。耶律色実が落馬したところを阿固達が射殺した。阿固達の子の鄂特本が数騎とともに遼の包囲に陥ると、阿固達は救援に向かい、兜を脱いで戦った。傍らから射かける者があったが、阿固達は振り向いて一矢で倒し、配下に「敵を尽くすまでやめるな」と言った。衆は勇気百倍し、遼軍は総崩れとなり、踏み殺された者が十中七八に及んだ。薩該は別部にあってこれを聞き、尼瑪哈と古新を遣わして祝賀し、帝を称するよう勧めたが、阿固達は「一戦勝っただけで大号を称しては、人に浅く見られる」と退けた。
- 軍を進めて寧江州に迫り、塹を埋めて攻めた。寧江の兵が東門から出撃したが、阿固達は迎え撃って皆殺しにした。遼の統軍司が報告したが、遼主は慶州で鹿狩り中でまるで意に介さず、海州刺史の高仙寿に応援させただけであった。十月朔、寧江州は陥ち、遼の防禦使の薬太師努が捕らわれた。阿固達はひそかに彼を放って遼人への招諭に使い、兵を引いた。
- 女真の制度。部民に徭役はなく、壮者はみな兵となり、平時は漁猟し、事あれば徴発された。歩騎の武器も糧も自弁である。部長を貝勒といい、出兵時には明安・穆琨と称した。明安は千夫長、穆琨は百夫長にあたる。衆を率いて降ってきた者にも明安・穆琨の名を授けた。
- 十一月、遼主は寧江州陥落を聞いて群臣に諮った。漢人行宮副部署の蕭図薩温は「女真は小さいが人は勇敢で射に長ける。我が兵は久しく訓練を欠き、強敵に遭って少しでも不利になれば諸部の心が離れて手がつけられなくなる。いまは諸道の兵を大挙して威圧するに如くはない」と述べたが、北院枢密使の蕭達爾丹は「それでは弱みを見せるだけ。滑水以北の兵を出せば防げる」と言った。そこで司空の蕭嗣先を東北路都統、蕭托卜嘉を副とし、契丹・奚軍三千と中京の禁兵ら七千を発して出河店に屯させた。
- 阿固達は迎え撃つべく進み、混同江に着かぬうちに夜を迎えた。床に就いた阿固達は、誰かに三度頭を支えられるような感覚で目覚め、「神明が我に警告した」と言って鼓を鳴らし松明を挙げて進発した。夜明けに混同江に着くと、遼兵はちょうど氷の道を壊しているところで、阿固達は壮士十人を選んで追い払い、全軍で渡って岸に上がり遼兵と対峙した。折しも大風が起こって砂塵が天を覆い、阿固達は風に乗じて奮撃、遼兵は潰走して将士の多くが死に、免れた者はわずか十七人であった。枢密使の蕭奉先は蕭嗣先の兄で、弟が罪に問われるのを恐れ、「東征の敗軍が行く先々で略奪している。大赦を出さねば徒党を組んで害をなす」と奏した。遼主が従ったので、嗣先は免官だけで済んだ。以来、諸軍は「戦えば死ぬだけで功はなく、退けば生きて罪もない」と言い合い、士に闘志がなく、敵に遭えば潰走した。阿固達は沃稜濼の東で遼の蕭迪里を襲って大いに殺獲した。遼人はかねて「女真の兵は万に満ちれば敵しがたい」と言っていたが、このとき初めて万に達したという。
- 十二月、遼の賓・祥・咸の三州および鉄驪部が叛いて女真に降った。鉄驪王の奚和哩布はまもなく逃げ帰った。
政和五年(1115年)
- 正月壬申朔、女真の完顔阿固達が帝を称し、国号を金とした。たびたび遼に勝った後、弟の烏竒邁が将佐とともに帝位に即くよう勧めたが許さず、阿里罕・普嘉努・尼瑪哈らが重ねて言い、ここに至って鉄州の降人の楊朴の策を用いて皇帝を称した。阿固達は言った、「遼は賓鉄を国号とし、その堅さに因んだ。だが賓鉄は堅くとも結局は変じ壊れる。金だけは変ぜず壊れぬ。金の色は白く、完顔は白を尚ぶ。まして居るところは安春水のほとりだ」。国号を大金、建元を収国とし、名を旻と改め、祖の堪布以下を帝と追尊した。烏竒邁を安班貝勒、薩哈と舎音を烏赫哩貝勒とした。その国語で尊大な者を安班、国相の総理を烏赫哩という。舎音も阿固達の弟、薩哈は烏古鼐の孫。尼瑪哈はまたの名を尼堪といい、これも国語である。
- 遼主が僧の嘉努に書を持たせて金に和議を申し入れ、属国となるよう求めた。阿固達は薩喇に返書させ、「叛人の阿蘇を返し、黄龍府を別の地に移せば、その後で議そう」と伝えた。
- 金主は自ら遼を攻め、黄龍府に向かい益州に迫った。州人が逃げて黄龍府に籠もったので、金は残った民を取って引き揚げた。遼は都統の鄂爾多、左副統の蕭伊実、右副統の耶律張嘉努、都監の蕭色仏哷に騎兵二十万・歩卒七万を率いさせて守らせ、屯田して持久の計とした。金主はこれを聞いて達嚕噶城に向かい、高所に登って遼兵を望み、雲が連なり水が注ぐような有り様を見て左右に言った、「遼兵は心が二つで臆病だ。多くとも恐るるに足りぬ」。高地に陣を敷き、摩囉歓が右翼で遼の左軍に先駆けして退かせ、羅索・尼楚赫が遼の中堅を衝いて陣を破り力戦し、尼瑪哈が中軍で助けた。遼兵は敗れ、金兵は勢いに乗じて営まで追い、日が暮れたので包囲した。夜明けに遼軍は包囲を破って出たが、金人は阿嚕岡まで追撃し、遼の歩卒は全滅、数千の農具も金の手に落ちた。遼は屯田しつつ戦い守る計であったため、農具まで失ったのである。
- 三月、遼が張嘉努ら六人に書を持たせて金に遣わしたが、なお阿固達を名で呼び捨てて降伏を期待する文面だった。金主は無礼として五人を留め、張嘉努だけを返し、返書でも遼主を名指しして降伏を促した。
- 六月、遼が再び使者を金に遣わすと、金主は使者の蕭錫喇を留めて返さなかった。
- 八月、遼主は詔して親征し、蕃漢の兵十余万を率いて長春路に出た。蕭奉先を御営都統、耶律卓諾を副とし、精兵二万を先鋒とし、残りを五部に分けて北の駱駝口へ出し、別に漢の歩騎三万を南の寧江州へ出し、数か月分の糧を発して女真必滅を期した。
- 九月、金主が遼の黄龍府を攻めようとして混同江に至ったが、渡る舟がなかった。金主は一人に赭白の馬で先導させて浅瀬を渡らせ、「わが鞭の指す方へ進め」と言い、諸軍が続いて渡った。水は馬の腹までであった。渡り終えてから渡渉点を測らせると、底知れぬ深さであった。こうして黄龍府を陥とし、蕭錫喇を遼に返して「叛人の阿蘇を返せば直ちに兵を退く」と伝えた。
- 遼軍が混同江を渡ったとき、副都統の卓諾は耶律淳の妃の弟の蕭迪里、その甥の蕭延留らと将士を誘って逃げ帰り、耶律淳を擁立しようと謀った。淳は興宗の孫である。かつて昭懐太子が罪を得たとき、道宗は淳を太子に立てようとしたが群臣が諫めてやめた。遼主の即位後は寵遇が厚く、父の和隆烏を太叔と号し、淳を越王に封じて東京留守とした。卓諾が蕭迪里を遣わして謀を告げると、淳は「これは小事ではない。主上には諸王がおり立てるべき者がある。北南面の大臣が来もせぬのに、なぜお前がそんなことを言う」と言い、ひそかに拘束させた。ほどなく遼主の行宮から実達爾・伊遜らが書を持って来て卓諾の謀を詳しく伝えた。淳は迪里らを斬り、その首を携えて単騎で広平に赴き待罪した。遼主は従来どおり遇した。卓諾は淳が応じないと知ると、麾下を率いて上京の府庫の財物を奪い、祖州で党を集めて太祖廟に遼主の悪行を告げ、州県に檄を移し、渤海の群盗数万を結んで広平の行宮に迫った。破れずに北の降虜山へ向かったところ、順国女真の阿固察が三百騎で一戦して勝ち、貴族二百余人を捕らえて斬り晒した。逃れた者はみな女真に走った。卓諾は使者を装って女真に奔ろうとしたが巡邏に捕らえられ、縛られて遼主のもとに送られ、市で腰斬された。
- 十二月、金主は遼主の親征を聞き、衆を集めて刀で顔を切り、天を仰いで慟哭して言った、「そもそも汝らと兵を起こしたのは、契丹の残忍に苦しんで自ら国を立てようとしたからだ。いま天祚が自ら来た。人ごとに死戦せねば当たれまい。いっそ我が一族を殺して汝らが降り、禍を転じて福とせよ」。諸軍は拝して「ここまで来た以上、ただ命に従うのみ」と答えた。金主は師を率いて迎え撃った。遼主は自ら駝門に至り、駙馬の蕭特黙らが騎兵五万・歩卒四十万を率いて沃稜濼に至った。金主は鴨緑に進んで臣下と謀り、「遼兵は七十万と号し、その鋒は当たりがたい。我が軍は遠来で人馬も疲れている。ここに留まり、深く溝を掘り塁を高くして待つべきだ」と言った。折しも遼の糧輸送責任者を捕らえ、遼主が卓諾の反乱のため西へ帰って二日になると知った。諸将が油断に乗じるよう請い、呼岱巴岡で遼主に追いついた。金主は「彼は多勢、我は寡勢。兵を分けてはならぬ。中軍が最も堅い。主はそこにいよう。中軍を破れば目的は達せられる」と言い、右翼に先に戦わせ、左翼を合わせて攻めた。遼兵は大潰し、屍が百余里に重なった。輿輦・帳幕・兵器・軍資その他の宝物・馬牛は数えきれぬほど鹵獲された。蕭特黙は営を焼いて逃げ、金主も引き揚げた。
政和六年(1116年)
- 正月、遼の東京留守の蕭保先は厳酷で渤海人が苦しんでいた。その月の朔の夜半、悪少年十数人が酒に乗じて刀を持ち塀を越えて府に入り、保先を刺殺した。戸部使の大公鼎は乱を聞くと留守を代行し、副留守の高清明とともに奚・漢の兵千人を集めて一味を捕らえて斬り、民を安撫した。裨将で渤海人の高永昌は当時兵三千を率いて八甔口に屯していたが、遼の政治の衰えと金の強盛を見て、渤海人と戍卒を誘って遼陽に入り占拠した。十日のうちに遠近が呼応して兵八千を得、僭号して隆基元年とした。遼主は蕭罕嘉努と張琳を遣わして討たせた。
- 四月、金人が高永昌を攻めて殺し、遼の東京の州県を取った。永昌は初め金に援けを求め、力を合わせて遼を取りたいと言った。金主は呼実布を遣わして「共に遼を取るのはよいが、東京の近地を勝手に占拠して大号を僭称するのはよくない。帰順するなら王爵を授けよう」と伝えたが、永昌は従わなかった。金主は鄂囉に諸軍を率いさせて攻めさせ、遼将の張琳らと遭遇してこれを破り、瀋州を取った。永昌は大いに恐れて衆を率いて金を拒み、活水で遭遇したが、金軍が渡ると永昌の軍は戦わずして退き、北の遼陽城下に至った。翌日、永昌は全軍で戦って再び大敗し、五千騎で長松に逃げた。遼陽の人の托卜嘉が永昌を捕らえて献じ、金主が殺した。こうして遼の東京の州県と南路の遼籍の女真はみな金に降った。金主は鄂囉を南路都統、沃楞を知東京事とした。
- 六月、遼が耶律淳を元帥とした。
政和七年(1117年)
- 八月癸亥、遼主は燕から陰凉河に至り、遼東の人を募って兵とし、女真への復讐に当てさせて「怨軍」と号した。全八営・二万八千余人で衛州の蒺藜山に屯し、渤海鉄州の人の郭薬師らを帥とした。
- 十二月、遼の耶律淳が金の咸州都統の烏楞古に書を送って和議を諮った。烏楞古が金主に報じると、金主はなお薩喇と阿蘇の引き渡しを条件とした。淳の軍が蒺藜山に至ると、烏楞古と知東京事の沃楞らが顕州を攻め、遼の怨軍帥の郭薬師を襲い破り、進んで淳と戦った。淳は敗走し、烏楞古は哈喇展陂まで追って顕州を抜いた。こうして乾・懿・豪・徴・成・川・恵の七州がみな金に降った。
- 遼東鉄州の人の楊朴が金主に、「古来、英雄が国を開くには必ずまず大国の封冊を求めるものです」と言い、金主は従って遼に封冊を求める使者を遣わした。使者が遼に着いた頃、遼東の諸州では盗賊が蜂起して民を掠めて食にしており、枢密の蕭奉先らは遼主に許すよう勧めた。
重和元年(1118年)
- 十二月、遼で大飢饉が起こり、人が人を食った。
宣和元年(1119年)
- 三月、遼が使者を遣わして金の阿固達を「東懐国皇帝」に冊立したが、阿固達は受けなかった。もと遼が耶律訥格を金に遣わして和を議したとき、金主は返書で「兄として朕に仕え、歳貢を納め、中京・上京・興中府の三路の州県を返し、親王・公主・駙馬・大臣の子孫を人質とし、使者と元の信符ならびに宋・夏・高麗との往復の書詔表牒を返すなら応じよう」と述べた。その後、訥格が再び来たとき、金は呼図克衮を同行させて遼に遣わし、人質と上京・興中府所属の州県の要求を取り下げ、歳幣の額も減らしたうえで、「必ず兄として我に仕え、冊立には漢の儀を用いよ。できぬなら使者をよこすな」と告げた。遼主は従い、七度も使者を遣わして冊礼を議し、金は烏凌阿賛謨を遣わして冊を迎えさせた。ところが冊が金に届くと、そこには兄事の語がなく、また大金と称さず「東懐」という、小邦がその徳を懐かしむという意味の語で、侮りを含んでいた。そこで金は再び賛謨を遣わして冊の体式の誤りを責め、先の書で定めたとおりでなければ従えぬとした。
- 八月、金が女真文字を作った。金にはもと文字がなく、契丹人・漢人を捕らえて初めて契丹文字・漢字を知った。金主は古新に命じ、漢人の楷書に倣い契丹字の制度に合わせて自国語を写す女真字を作らせて行用させた。のちに女真小字も作り、古新の作を大字と呼んだ。
宣和二年(1120年)
- 三月、遼が再び使者を金に遣わして冊礼を議したが、金は許さなかった。先に遼は蕭実訥哷に冊の草案を持たせて金に遣わし、金は烏凌阿賛謨に冊の副本を持たせて遼に返した。遼は金が定めた「大聖」の二字が先世の称号と同じであるとして実訥哷を遣わして再議させた。金主は怒って臣下に言った、「遼人はたびたび敗れては和を求めるが、虚辞を飾って時を稼ぐ計にすぎぬ。進兵を議すべきだ」。そこで咸州路統軍司に軍旅を整え武器を修めさせ、四月に進撃することとし、色克に兵千を残して鎮守させ、棟摩には残りの兵で渾河に集結するよう命じた。和議はこれで絶えた。
- 五月、金主は自ら遼の上京を攻めた。遼の使者の蕭実訥哷と宋の使者の趙良嗣を従え、降人の瑪延に詔を持たせて城中に速やかな降伏を諭させた。遼主はちょうど呼図哩巴山で狩りをしていたが、金の挙兵を聞いて耶律博碩布らに精兵三千を選ばせて援軍とした。金主は進攻に際して実訥哷と趙良嗣に「わが用兵を見て去就を占うがよい」と言い、城に臨んで督戦した。諸軍が鬨の声を上げて進み、朝から巳の刻までに棟摩らが麾下を率いて先登し外城を抜いた。留守の托卜嘉が城を挙げて降り、良嗣らは觴を挙げて寿を祝し万歳を唱えた。金主は帰還した。
宣和三年(1121年)
- 二月、遼の都統の耶律伊都が叛いて金に降った。遼主には四子があり、長子は趙王実訥哷、次は晋王阿嘍罕、次は秦王定、次は許王寧。晋王は文妃蕭氏の生んだ子で人望が厚かった。女真が兵を起こして境内の郡県の半ばを失っても遼主は遊猟をやめず、忠臣の多くは疎んじられた。文妃が歌を作って諷諫すると遼主は恨みを含んだ。枢密使の蕭奉先は元妃の兄で秦王・許王の伯父にあたり、国人が晋王を推すのを見て秦王が立てぬことを恐れ、ひそかに計った。文妃の姉は耶律達哈拉に、妹は耶律伊都に嫁いでいた。ある日、姉妹がそろって軍前に会したのに乗じ、奉先は人を使って「文妃が駙馬の蕭昱および伊都・達哈拉らと謀り、晋王を立てて遼主を太上皇に祭り上げようとしている」と誣告させた。遼主は蕭昱・達哈拉らを誅し文妃に死を賜った。軍中にいた伊都はこれを聞いて大いに恐れ、千余騎を率いて叛き金に降った。
- 遼主は蕭哈瑪爾らに追討させたが、諸閭山県に至って哈瑪爾らは相談した、「主上は蕭奉先を信じ、奉先は我らを歯牙にもかけぬ。伊都は宗室の豪傑、奉先の下風に立つまい。伊都を捕らえれば、いずれ我らも伊都と同じ目に遭う。逃がして帰り、追いつけなかったと言うに如くはない」。伊都は金に至り、金主は引見して咸州都統司に詔した、「伊都が来て遼国の実情がはっきりした。すでに親征を決した。軍を整えて時期を待て」。
- 十一月、金が遼の中京に侵攻した。耶律伊都が金に奔った後、金の尼瑪哈が金主に「遼主は徳を失い中外の心が離れている。この隙に中京を襲い取るべきです。天の時も人の事も失ってはなりません」と述べた。金主はもっともとしたが、群臣は寒気を理由に反対した。金主は聞かず、尼瑪哈の計を用い、舎音を内外諸軍の都統、普嘉努・尼瑪哈・鄂特本・斡里雅布・富勒呼らを副とし、耶律伊都を郷導として遼の中京大定府に向かわせた。
宣和四年(1122年)
- 正月、金が遼の中京を落とし、続いて澤州を下した。遼主は鴛鴦濼で狩りをしていたが、伊都が羅索を導いて急に迫ったので大いに憂えた。枢密使の蕭奉先は「伊都は王子班の末裔。今回の挙は甥の晋王阿嘍罕を立てるためです。社稷のためなら一子を惜しまず、罪を明らかにして誅せば、戦わずして伊都は退きましょう」と言った。折しも耶律薩巴らが阿嘍罕擁立を謀って発覚したので、遼主は枢密使の蕭達爾丹らに「叛く者は必ずこの子を名分にする。除かねば安泰は得られぬ」と諮った。達爾丹が唯々と応じたので、遼主は人を遣わして阿嘍罕を縊り殺させた。逃亡を勧める者もあったが、阿嘍罕は「取るに足りぬわが身のために臣子の節を失えようか」と言って死についた。遼主は三日素服し、耶律薩巴らは皆誅された。阿嘍罕はもとより人望があり、諸軍はその死を聞いて涙を流さぬ者はなく、これにより人心は瓦解した。
- 伊都は金兵を導いて遼主の行宮に迫り、遼主は衛士五千余騎を率いて鴛鴦濼から雲中へ走り、伝国璽を桑乾河に落とした。
- 三月、金の尼瑪哈が北安州で遼の奚王を破って城を抜いた。古新を遣わして近辺を略取させ、遼の護衛の実訥哷を捕らえて遼の上下が離心していると知り、舎音に「遼主は窮迫している。機会を逃せば図りがたい」と伝えた。舎音は決しかねたが、鄂特本が勧めて従った。舎音は青嶺、尼瑪哈は瓢嶺から出て、羊城濼で落ち合うことにした。遼主は雲中にあって金兵を憂えたが、蕭奉先はなお「女真は我が上京を攻められても、巣穴を遠く離れることはできまい」と言っていた。金軍が嶺西に出ると聞いて遼主は白水濼に向かった。尼瑪哈が精兵六千で襲い、行営に迫った。遼主は策も尽き、軽騎で夾山に入った。ここに至って奉先の不忠を悟り、「お前ら父子が私をここまで誤らせた。殺しても何になろう。ただ軍心の憤りが我に及ぶのを恐れる。もう随行するな」と怒った。奉先は下馬して泣きながら拝して去ったが、数里も行かぬうちに左右の者が父子を捕らえて金軍に送った。金人は長子の昻を斬り、奉先と次子の昱を械につないで金主のもとへ送ったが、途中で遼軍に奪い返され、ともに死を賜った。蕭達爾丹も免れぬと悟って絶食して死んだ。
- 丙子、遼人が秦晋国王の耶律淳を帝に立てた。遼主が雲中に走ったとき、南府宰相の張琳、参知政事の李処温が耶律淳とともに燕京を守っていた。処温は遼主が夾山に入って命令が通じなくなったと聞き、族弟の処能と子の李奭とともに、外は怨軍を頼み内は都統の蕭幹と結んで淳の擁立を謀った。処温が張琳を誘って告げると、琳は「摂政ならよいが、即位はいけない」と言った。処温は「今日のことは天意人心すでに定まっている。変えられようか」と言い、琳も逆らえなかった。そこで諸大臣の耶律達実・左企弓・虞仲文・曹義勇・康公弼と、蕃漢の百官・諸軍・父老数万人を集めて淳の府に赴き、唐の霊武の故事を引いて即位を勧めた。淳は許さなかったが、李奭が赭袍を持ち出して着せかけ、百官に拝舞・山呼させた。淳は驚いて再三辞したが、ついに受けた。群臣は尊号を「天錫皇帝」とし、建元して天福とし、妻の蕭氏を徳妃とした。妃は布延の娘である。処温に守太尉、張琳に守太師を加え、他の謀議者にも官を授けた。怨軍を常勝軍と改め、軍事はすべて達実に委ねた。遼主を遠隔で湘陰王に降格し、燕・雲中および上京・遼西の地を領した。遼主の手に残ったのは沙漠以北の西南・西北路の両招討府と諸蕃族だけであった。淳は宋に使者を遣わして歳幣を免じて好を結ぼうとし、金にも表を奉って附庸となることを乞うたが、金は答えなかった。耶律達実は遼の太祖の八世孫で、契丹文字と漢字に通じ騎射に長け、進士に及第して翰林学士承旨まで累進した。遼では翰林を林牙といったので「達実林牙」と称された。
- 金人が遼の西京大同府を攻め、遼の耿守中が救援に赴いた。尼瑪哈・摩囉歓・鄂特本らが相次いで至り、尼瑪哈は麾下を率いて中央を衝き、残る兵を下馬させて側面から射させた。守忠は大敗して全滅し、西京西路の州県・部族はみな金に降った。
- 四月、金が遼の東勝州を取り、阿蘇を捕らえて金に送った。金人は杖を加えたうえで釈放した。
- 六月、遼の耶律淳が病に臥した。遼主が天徳・雲内・朔・武・応・蔚などの州に檄を飛ばし、諸蕃の精騎五万を合わせて八月に燕へ入ると約し、また人を遣わして淳を慰問し衣裘・茶薬を求めたと聞いて、淳はひどく驚き、北南面の大臣に議させた。李処温・蕭幹らは秦王定を迎えて湘陰王(遼主)を拒む説を唱えたが、南面行営都部署の耶律寧だけは「天祚が本当に諸蕃の兵で大挙して燕を奪えるなら、それは天数がまだ尽きぬということ。拒めましょうか。そうでないなら、秦王と湘陰王は父子です。子を迎えて父を拒む道理がありましょうか」と言った。処温らは寧が軍心を乱すとして殺そうとしたが、淳は「彼は忠臣だ。殺してよいものか。天祚が本当に来るなら、私は死ぬだけだ。どんな顔で会えよう」と言った。
- やがて淳は自らの病が癒えぬと悟り、ひそかに処温に蕃漢馬歩軍都元帥を授け、後事を託そうとした。蕭幹らが宰執を召して議したとき、処温は病と称して出ず、ひそかに勇士を集めて備え、「密旨を奉じて他変に備える」と偽った。淳が死ぬと、蕭幹らは淳の妻を皇太后として軍国を主らせ、遺命により遠隔で秦王定を帝に立てた。蕭后は称制して徳興と改元し、淳に孝章皇帝と諡し、廟号を宣宗として燕西の香山に葬った。蕭后が聴政すると、蕭幹は后の命で処温を召したが、多難の折なので直ちには誅さず、元帥の劄子を取り消すにとどめた。処温父子は禍を恐れ、南は童貫と通じて蕭后を挟んで土地を献じようとし、北は金と通じて内応しようとした。事が露見して后が問い質すと、処温は擁立の功を陳べた。后は「秦晋国王を誤らせたのはお前たち父子だ。何の功があろう」と言い、以前の罪悪数十を数え上げた。処温は答えられず、死を賜った。子の李奭は臠切りにされて磔にされた。家を没収すると銭七万緡と、それに見合う金玉宝器があり、いずれも宰相となって数か月の間に取ったものであった。
- 夏の主が李良輔に兵三万を率いさせて遼を救ったが、金将の鄂囉・羅索が宣水で破り、野谷まで追撃した。折しも澗水が急に増水し、夏人で溺死した者は数えきれなかった。
- 八月、金の阿固達が石輦駅で遼の延禧(天祚帝)を襲い、延禧は敗走した。遼主は西京と沙漠以南を失って額森穆延に奔っていた。金の舎音は斡里雅布を通じて金主に「いま雲中は平定したばかりで諸路には遼兵がなお数万おり、新たに降った民の心も固まっておりません。諸将は行幸を望んでいます」と言上した。金主は従い、やがて遼主が天漁濼にいると聞いて自ら精兵一万を率いて襲った。普嘉努・斡里雅布が兵四千で先鋒となり昼夜兼行して石輦駅で遼主に追いついたが、到着できた軍士はわずか千人であった。遼兵二万五千がちょうど営塁を築いていた。普嘉努が諸将と議したとき、耶律伊都は「我が軍はまだ集まらず人馬も疲れている。戦うべきではない」と言ったが、斡里雅布は「遼主に追いついたのに急いで戦わず、日が暮れて逃げられては追いつけぬ」と言い、開戦した。白兵戦となり遼兵が幾重にも包囲し、副統軍の蕭迪里が軍中に君臣の義を諭したので士卒は決死で戦った。遼主は斡里雅布の兵が少ないので必ず敗れると見て、妃嬪とともに高台に登って観戦した。伊都が遼主の麾蓋を指して諸将に示すと、斡里雅布らは騎兵で駆けつけた。遼主は望み見て大いに驚いて逃げ、遼兵は潰えた。斡里雅布らが戻ると、金主は「遼主は遠くへ行っていまい。急ぎ追え」と言った。斡里雅布は鄂勒哲依駅まで追い、遼主は輜重を棄てて逃げ、蕭特烈が捕らえられた。
- 十二月、金が遼の燕京を落とした。金主は三道に分けて燕を攻めた。遼の蕭后は五度も金に表を上って秦王定の擁立を求めたが金主は許さなかった。遼人は精兵で居庸関を守ったが、金兵が関に至ると崖の石が自ら崩れて戍卒の多くが圧死し、遼人は戦わずして潰えた。金兵は関を越えて南下し、遼の統軍都監の果禄らが金に款を通じた。金主は燕京に至って南門から入り、尼楚赫・羅索を城上に並べ、自身は城南に陣した。遼の宰相の左企弓、参政の虞仲文・康公弼、枢密使の曹義勇・張彦忠・劉彦宗らが表を奉じて金の陣営に赴いて謝罪した。金主は皆を許して旧職を守らせ、左企弓らを遣わして燕京の諸州県を安定させた。蕭徳妃と蕭幹は古北口から天徳へ向かった。こうして遼の五京はすべて金の手に帰した。
宣和五年(1123年)
- 正月、遼の知北院枢密事の奚和哩布が箭笴山で奚国皇帝を自称し、天復と改元した。奚・漢・渤海の三枢密院を置き、東西節度使を改めて二王分司とした。遼主は都統の耶律瑪格に討伐を命じた。
- 二月、遼主は四部族へ奔った。蕭徳妃が来謁したが、遼主は怒って殺し、耶律淳を庶人に落として、その党は赦した。蕭幹は奚へ奔った。
- 四月、金は鄂囉を都統、斡里雅布を副として、陰山の遼主を襲わせた。居庸に至って耶律達実を捕らえた。鄂囉は斡里雅布・尼楚赫・羅索らに兵三千で道を分けて遼主を襲わせたが、青塚の手前で泥濘に阻まれた。斡里雅布は達実を縄で繋いで郷導とし、まっすぐ遼主の営に向かい、鄂囉の大軍も続いた。当時、遼主は応州に行っており、子の秦王定・許王寧および諸妃女と従臣がみな捕らえられ、輜重万余乗をことごとく失った。ただ太保の特黙格が遼主の次子の梁王雅里と長女の特哩を連れて乱に紛れて出、遼主の軍に合流して免れた。鄂囉の兵は埽里門に至り、書を送って遼主を招いた。遼主は金城から来たが、金人が鹵獲品を持って東へ去ったと聞き、兵五千余を率いて白水濼で邀撃した。斡里雅布は千余の兵で破り、遼主は逃げた。金人は遼主の長子の趙王実訥哷を捕らえ、二十余里追撃して従馬をことごとく獲、別に遼の牧馬一万四千匹・車八千乗を獲た。遼主は人に兎紐の金印を持たせて偽って降伏を請いつつ、西の雲内へ走った。斡里雅布はまた書を送って遼主を招き、後晋の石重貴が北へ遷された故事を引いて諭した。遼主は返書して弟または子となることを乞い、土地の下賜を求めたが、斡里雅布は許さなかった。
- 五月、夏主の李乾順が使者を遣わして遼主を自国に迎えたいと請い、遼主は従った。中軍都統の蕭迪里らが強く諫めたが聞かず、河を渡って金粛軍の北に宿営した。人心は動揺して手のつけようがなく、迪里はひそかに耶律元直に「情勢はこの通り、億兆の心は離れた。今こそ我らが節を尽くす秋だ。早く手を打たねば社稷はどうなる」と語り、ともに遼主の第二子の梁王雅里を奪って西北部へ走り、三日後に帝に立てて神暦と改元し、迪里を枢密使、特黙格を副とした。
- 奚の和哩布が配下に殺された。
- 金が夏に使者を遣わした。斡里雅布は天徳に向かい、夏が遼主を迎え護っていると聞いたが、遼主はすでに河を渡った後だった。そこで夏に書を送って遼主を捕らえて送るよう求め、割地を約した。
- 八月、金主の阿固達は燕京を去ったのち病み、尼瑪哈を都統、普嘉努・鄂囉を副として雲中に駐屯させて辺を備えさせ、自身は帰途、部渚濼で死んだ。烏赫哩貝勒の舎音らが阿固達の弟の安班貝勒烏竒邁を推して即位させ、名を晟と改め、天会と改元した。阿固達に大聖武元皇帝と諡し、廟号を太祖とした。舎音を安班貝勒、鄂特本を烏赫哩貝勒として輔政させた。鄂特本は阿固達の庶長子である。
- 十月、遼の雅里が死に、蕭迪里らが耶律珠拉を帝に立てた。珠拉は興宗の孫である。
- 十一月、遼の珠拉と蕭迪里が乱兵に殺された。
宣和六年(1124年)
- 正月、夏が巴爾公亮を遣わし、遼に仕えた礼をもって金に称藩し、あわせて土地を受けたいと請うた。尼瑪哈は承制して、下寨以北・陰山以南・伊蘇実喇部・図嚕濼の西の地を与えた。以後、両国の使者の往来は絶えなかった。
- 七月、遼主延禧が再び河を渡って図魯卜部に居た。耶律達実が金から帰ってくると、遼主は「私がいるのに、なぜ淳を立てたのか」と責めた。達実は答えた、「陛下は全国の勢を擁しながら一度も敵を拒めず、国を棄てて遠く逃れ、民を塗炭に落とされました。淳を十人立てたところで、みな太祖の子孫です。他人に命乞いをするよりましではありませんか」。遼主は答えられず、酒食を賜って赦した。
- 金が遼主の営を襲い、遼主は北へ走った。瑪克実という者が遼主を自分の部に迎え、篤く仕えたので、遼主は烏克題埒部に至ることができた。遼主は耶律達実と瑪克実の兵を得て天助があると思い、再び出兵して燕雲を回復しようと謀った。達実は「以前は全軍がありながら戦備を怠り、国を挙げて金のものにしてしまいました。国勢がここまで来て、なお戦を求めるのは策ではありません。兵を養って時を待つべきで、軽々しく動いてはなりません」と諫めた。遼主は聞かず、金人と戦って敗れ、山陰に走った。
宣和七年(1125年)
- 正月、遼主延禧は夏に奔ろうとしたが、党項の舒和倫が人を遣わして自分の地へ来るよう請うたので、天徳に向かい沙漠を過ぎた。金兵が突然現れ、遼主は徒歩で逃れ、従者の馬に乗ってようやく脱した。途中で糧が尽き、従者は氷雪を噛んで飢えを凌いだ。天徳を過ぎ、夜に民家に泊まろうとして「偵察の騎兵だ」と偽ったが、その家は正体を知って叩頭し跪いて号泣した。そこにひそかに泊まり、党項へ向かって舒和倫を西南面招討使とし軍事を総べさせた。
- 二月、遼主は応州の新城の東六十里で金将の羅索らに捕らえられ、連れ去られた。
- 八月、延禧は海浜王に落とされ、遼は滅んだ。
- 遼の耶律達実が奇爾瑪勒で帝を称した。達実は遼主を諫めて容れられなかったので、北院枢密の蕭伊実を殺して自ら王を称し、衆を率いて西へ走り、哈屯城を経て北庭都護府に駐まった。西辺の七州十八部を集めて興復の事を諭し、精兵一万余を得て、官吏を置き排甲を立て器械を備えた。また回鶻王の伯勒格に書を送って道を借りたいと言うと、伯勒格は書を得るとすぐ邸に迎え、子孫を人質として附庸となることを願い、境外まで送った。行く先々で敵対する者には勝ち、降る者は安んじ、兵は万里を行き、帰服する国は数か国、獲た牛羊駝馬は数えきれなかった。塔什干に至ると、西域諸国が兵十万を挙げて「呼拉哈」と号して拒み戦った。達実は自軍を三軍に分けて進撃して大破し、屍が数十里に横たわった。塔什干に九十日駐屯すると回回国王が降って方物を貢いだ。さらに西へ進んで奇爾瑪勒に至り、群臣がともに達実を帝に冊立し、延慶と改元して「天祐皇帝」と号し、妻の蕭氏を昭徳皇后とした。これが西遼である。