宋史紀事本末燕雲を回復する(復燕雲)

童貫が遼から連れ帰った馬植(趙良嗣)の献策に始まり、宋が海路で金と結んで遼を挟撃し、燕雲の故地を回復しようとした顛末を記す。种師道・宇文虚中・宋昭らの反対を王黼らが押し切ったが、宋軍は白溝・盧溝で二度大敗し、燕京は金の手で落ちて、歳幣と代税銭を払って空城六州を受け取るにとどまった。さらに平州の張㲄を受け入れて殺し、糧二十万石を渡さなかったことが金の出兵の口実となる。政和元年(1111年)から童貫が広陽郡王に封ぜられる宣和七年(1125年)までを扱う。

年表(8件)
  • 徽宗
  • 政和元年1111年童貫が遼から馬植を連れ帰り、趙良嗣として燕を図る議が始まる
  • 重和元年1118年馬政を海路で金に遣わし、遼への挟撃を約させる
  • 宣和元年1119年金主が国書による通好を求め、安堯臣が北伐の非を上書する
  • 宣和二年1120年趙良嗣が金と挟撃を約し、燕京は宋、中京は金が取ると定める
  • 宣和四年1122年童貫が伐燕して白溝・盧溝で大敗し、金が燕京を落とす
  • 宣和五年1123年金が誓書とともに燕京・六州を返すが、残るのは空城のみ
  • 宣和六年1124年糧二十万石の引き渡しを拒み、金が大いに怒る
  • 宣和七年1125年燕の境を回復した功として童貫を広陽郡王に封じる

徽宗政和元年(1111年)

  • 九月、端明殿学士の鄭允中と宦官の童貫を遼に遣わした。童貫は西羌で功を立てて以来、遼も図れると考え、使者となって偵察することを願い出た。鄭允中を遼主の生辰を賀する正使、童貫を副使とした。ある者が「宦官を副使にするとは、国に人がいないのか」と言うと、徽宗は「契丹は童貫が羌を破ったと聞いて会いたがっている。その国情を偵察させるのは善策だ」と答えて派遣した。
  • 十月、童貫が遼の李良嗣を連れ帰り、秘書丞に任じて趙姓を賜った。燕の人の馬植はもと遼の大族で光禄卿にまで昇ったが、行いが汚く家内も乱れて人に相手にされなかった。童貫が遼に使いして盧溝を通ったとき、馬植は夜に随行の吏に会い、燕を滅ぼす策があると申し出て童貫に会った。童貫は語り合って大いに感心し、ともに帰国させて姓名を李良嗣と改め、朝廷に推薦した。馬植は献策していわく、「女真は遼人を骨髄まで恨んでおり、天祚は荒淫で道を失っている。本朝が登州・莱州から海を渡って女真と好を結び、共に遼を攻める約束をすれば、その国は図れます」。議者は、祖先以来この航路はあったが、諸蕃に接するため商人の船車の通行を禁じて百余年になる、いま急に開くのは中国の利ではあるまい、と言って取り合わなかった。徽宗が召して問うと、馬植は「遼国は必ず滅びます。陛下が旧民の塗炭の苦しみを思い、中国の往昔の疆域を回復し、天に代わって乱を伐てば、王師が一たび出れば必ず壺漿を捧げて迎えましょう。万一、女真が志を得てからでは事は同じになりません」と答えた。徽宗は嘉して容れ、趙姓を賜って秘書丞とした。燕を図る議はここから始まった。

重和元年(1118年)

  • 二月、武義大夫の馬政を海路で金に遣わし、遼への挟撃を約させた。建隆年間に女真が自国の蘇州から海を渡って登州に馬を売りに来た旧航路がなお残っていた。この頃、漢人の高薬師が海を渡って来て、女真が建国してたびたび遼軍を破っていると告げた。登州守臣の王師中が報じ、蔡京・童貫に議させ、王師中に人を募って高薬師らとともに馬の買い付けの詔を持たせて遣わしたが、到達できず戻った。徽宗は改めて童貫に人選させ、馬政を高薬師とともに海路で金へ遣わした。馬政は金主に「主上は貴朝が契丹の五十余城を攻め落としたと聞き、通好して共に弔伐を行いたいと望んでおられます。お許しあれば後に使者を遣わして議しましょう」と述べた。金との通好はここに始まる。

宣和元年(1119年)

  • 正月、金主は尼瑪哈と議し、渤海人の李善慶、女真の薩敦に国書と北珠・生金などを持たせ、馬政に同行させて修好させた。詔して蔡京らに遼挟撃の意を諭させたが、善慶らは唯々と応じるばかりであった。十余日ののち、馬政を趙有開とともに詔と礼物を持たせ、善慶らとともに海を渡って報聘させたが、登州まで来て趙有開が死んだ。折しも間諜が、遼がすでに金主を帝に封じたと報じたので、馬政の派遣を中止し、平海軍の校尉の呼慶に善慶らを送らせて帰した。金主は呼慶を帰す際、「私はすでに遼の数路を得た。帰って皇帝に会い、本当に好を結びたいなら早く国書を示せ。なお詔を用いるなら決して従いがたい、と伝えよ」と語らせた。
  • かつて高麗が医者を求めたので徽宗は二人の医者を送っていた。この頃帰国して奏した。「高麗の館では医を厚くもてなし、日夜引き出しては用兵・布陣・防禦の方法を見せ、こう言いました。『天子が女真と組んで契丹を図ろうとしていると聞くが、契丹が存続すればなお中国の辺境の守りになる。女真は新興で、交わってはならぬ。早く備えるがよい』」。徽宗は聞いて不快であった。
  • 安堯臣が上書した。「陛下は即位の初めに詔して言を求められ、諤々の士が忠を尽くしましたが、佞人が陛下を誤らせて誹謗の罪を科し、陛下に諫めを拒む謗りを負わせました。そのため近年、天下は口を閉ざし言うことを憚っております。いま宦官が権臣と結んで北伐を唱えているのに、宰執以下ひとりとして陛下に諫言する者がありません。臣の考えでは、燕雲の役を起こせば辺境の紛争が開き、宦官の権が重くなれば皇綱は振るいません。かつて秦の始皇の長城、漢の武帝の西域、隋の煬帝の遼東の役、唐の明皇の幽薊の失敗はあの通り。周の宣王の玁狁討伐、漢の文帝の北辺の備え、元帝が賈捐之の議を容れたこと、光武が臧宮・馬武の謀を斥けたことの成功はこの通りです。太祖は乱を撥めて正に反し、自ら甲冑を着けられ、当時の将相大臣はみな天下を取った功臣でした。勇略智力で幽燕を下せなかったはずがありましょうか。ただ、あのわずかな地は契丹が必ず争うところで、わが民を再び戦禍に苦しめるのを忍びなかったのです。真宗の澶淵の役でも、戦って勝ってから和を容れられました。これも本を固めて民を休ませるためです。いま童貫は蔡京と深く結び、ともに趙良嗣を迎えて謀主とし、平燕の議を立てました。臣が恐れるのは、後日、唇亡びて歯寒く、辺境に乗ずべき隙が生じ、金人が鋭を蓄えて隙を窺い欲を逞しくすることです。これこそ臣が日夜寒心する所以。伏して願わくは祖宗の積み重ねの艱難を思い、歴代君臣の得失に鑑み、辺境の隙を塞ぎ、旧好を守ることに努め、金人に中国を窺う間隙を与えず、上は宗廟を安んじ、下は生霊を慰められますよう」。徽宗はもっともとし、また言路が久しく塞がっていたので賞を示して導くべきだとして承務郎に補した。しかし後にはついに奸謀に押し切られた。

宣和二年(1120年)

  • 二月乙亥、趙良嗣を金に遣わした。呼慶が金から帰って金主の言を伝え、その書を持ってきて、改めて使者を遣わして通好するよう請うたためである。当時、童貫はひそかに燕を図る内意を受けており、右文殿修撰の趙良嗣を遣わすことを建議した。表向きは馬の買い付けを名目としたが、実は遼を攻めて燕雲の地を取る約束であった。
  • 八月、金人が来て遼攻めと歳幣を議し、馬政を返礼に遣わした。趙良嗣が金主に「燕はもと漢の地です」と述べ、挟撃して金が中京大定府を、宋が燕京析津府を取ることを求め、金主が許して歳幣を議した。金主は手紙を良嗣に渡し、金兵は平地松林から古北口へ、宋兵は白溝から挟撃する、そうでなければ応じられぬと約し、貝勒を良嗣に同行させてその意を伝えさせた。徽宗は馬政に返書させた。文面は「大宋皇帝、書を大金皇帝に致す」とし、遠く使者を寄せて書を示されたので、契丹討伐は約定どおりとし、すでに童貫に兵を率いて呼応させ、双方の兵は関を越えぬこと、歳幣の額は遼への額と同じとすること、契丹の講和には応じぬこと、を約した。

宣和四年(1122年)

  • 三月、金人が来て挟撃を約し、童貫を河北・河東路宣撫使として辺境に屯兵させ呼応させた。もと熙河鈐轄の趙隆は不可を極言していた。童貫が「君が力を貸してくれれば格別の任官があろう」と言うと、趙隆は「隆は武夫。どうして恩賞を求めて祖宗二百年の好誼を破れましょう。いずれ紛争が起これば万死しても謝しきれません」と答え、童貫は不快であった。鄭居中も強く反対し、蔡京に「公は大臣でありながら両国の盟約を守れず、みだりに事端を作る。まことに廟算ではない」と言った。蔡京が「主上が歳幣五十万を厭われるからだ」と言うと、居中は「公は漢代の和戎と用兵の費えを思わぬのか。百万の生霊を肝脳塗地させるのは、実に公のせいだ」と言い、議はいったん止んだ。その後、金がたびたび遼兵を破ると童貫はまた挙兵を乞うたが、居中は「災いに乗じて動くべきではない。自滅を待てばよい」と言った。折しも睦州の賊(方臘)が平らいだばかりで、徽宗も用兵を悔いていた。ところが王黼ひとりが言った、「中国と遼は兄弟の国とはいえ、百余年の間、彼が辺を開き我を侮ったことは多い。弱きを併せ昧きを攻めるのは武の善き常道。いま燕雲を取らねば、女真が強くなって中原の故地は二度と我が物になりません」。徽宗はついに兵を治める決意を固めた。王黼は三省に経撫房を置いて辺事を専管させ、枢密院を通さなかった。天下の丁夫を調べて頭数で銭を取り立て、六千二百万緡を得て充てた。王黼はまた童貫に「太師が北へ行かれるなら、私も死力を尽くしましょう」と書き送った。折しも耶律淳の自立を聞き、童貫に兵十五万を率いて北辺を巡り金に呼応させ、あわせて幽燕を招諭させた。蔡攸を副とし、三策を与えた。燕人が喜んで受け入れるなら旧疆を回復するのが上策、耶律淳が款を納めて称藩するのが中策、燕人が服さぬなら兵を留めて辺を巡るのが下策とした。
  • 中書舎人の宇文虚中が上書した。「臣が聞くに、用兵の策はまず強弱虚実を計り、彼を知り己を知って万全を図るものです。いま財用の多寡を論じるに、宣撫司の蓄えだけを見て財用に余りありとし、辺境諸郡の帑蔵が空虚で兵糧が続かぬことは省みません。士卒の強弱を論じるに、宣撫司の駐屯兵だけを見て精鋭だと言い、辺境諸郡の兵が訓練を欠き武備が損じていることは論じません。そもそも辺境に敵に応ずる備えがなく、軍府に数日の糧もなければ、孫子・呉子が生き返っても挙兵はできません。これが我が方に万全の策がないということです。用兵の道は、攻めを防ぐのは易く人を攻めるのは難く、城を守るのは易く城を攻めるのは難い。守る者は内にあり攻める者は外にあり、内にある者は主人として常に安楽、外にある者は客として常に労苦。安楽な者は必ず安全、労苦な者は必ず危うい。いま宣撫司の兵はおよそ六万、辺境で使えるのは数千に過ぎません。契丹の九大王耶律淳は知略が集まり、平素から士心を得ており、国主も委任して疑いません。いま急に燕城の下へ進兵すれば、契丹が西山から軽兵で我が糧道を断ち、営州・平州から重兵で我が陣営を圧し、糧道が続かぬところに耶律淳が衆心を励まして堅城に籠もれば、我が方こそ危うい。これが彼にも必勝の道がないということです。我に万全の策なく、彼にも必勝の道がない。この一挙は安危存亡に関わるもの、軽々しく議してよいものでしょうか。  しかも中国と契丹は講和して百年を超えました。その間、彼が貪欲を示したといっても関南十県を求めた程度、傲慢だといっても中国の使者への礼を少し欠いた程度です。女真に侵食されて以来は本朝を慕って一切恭順です。いまその恭順な契丹を扶植し救って我が藩屏とせず、遠く海を越えて強悍な女真を引き入れて隣国とする。彼はすでに百戦百勝の勢いを頼んで驕り高ぶり、礼義で服させることも言葉で諭すこともできません。中国と契丹が兵を交えてやまず、勝負も強弱も決せぬのを見て、卞荘子が二虎を争わせた説を持ち出し、兵を率いて古北口を越え、荒々しい衆を手中にし、契丹の君臣を縛り上げ、朔漠に雄拠したうえ、貪欲がやまずに疆域を越えて中華を凌ぐでしょう。百年の怠惰の兵で新鋭無敵の軍に当たり、寡謀で慎重、久しく安逸に慣れた将で血肉の林に角逐する。巧拙は謀を異にし勇怯は勢を異にします。臣は中国の辺患に安寧の期がないことを恐れます。  たとえば万金の産を持つ富人が貧士を隣として、併呑して住まいを広げようとし、強盗を引き入れて『彼の住まいの半分をお前にやる、彼の蓄えは全部お前が取れ』と謀り、強盗が従って貧士が亡んだとして、万金の富があっても日々すぐ隣の強盗に窺われ、一夜たりとも枕を高くして眠れましょうか。愚見ながらこれこそ的確な喩えと思います。願わくは陛下、祖宗創業の艱難を思い、百年の盟好を念い、臣のこの章を下して百官に廷議させ、もし臣の言に採るべきものがあれば、詔を降して将帥を還らせ、辺境の隙を生じさせず、中国の衣冠礼義の風俗が永く昇平を見られますよう」。書は三省に下されたが、王黼は読んで激怒し、他の事にかこつけて集英殿修撰に落とし、督戦をいよいよ急がせた。北方の事はここから収拾がつかなくなった。
  • 五月乙亥、蔡攸を河北・河東宣撫副使として童貫とともに兵を率いさせた。蔡攸は幼稚で事に習熟せず、功業は手に唾して得られると考えていた。出発の挨拶のとき、二人の美しい嬪が徽宗の側に侍っていたのを指して「臣が功を成して帰ったら、これを賞に賜りたい」と請うたが、徽宗は笑って咎めなかった。
  • 五月庚辰、童貫が高陽関に至り、知雄州の和詵の計を用いて黄榜と旗を降ろし、民を弔い罪を伐つ意を述べ、豪傑で燕京を献ずる者があれば節度使に任ずると布告した。都統制の种師道に諸将を監督して進兵させた。师道は諫めた、「今日の挙は、たとえば盗賊が隣家に入ったのを救わず、かえって乗じて家財を分け取るようなもの。よろしくないのでは」。童貫は聞かず、兵を二道に分け、师道が東路の兵を総べて白溝へ、辛興宗が西路の兵を総べて范村へ向かった。癸未、耶律淳はこれを聞いて耶律達実・蕭幹に防がせた。师道が白溝に宿営すると、遼人が喚声を上げて進み、蘭溝甸で前軍統制の楊可世を破り、士卒に多くの死傷が出た。师道はあらかじめ各人に大棍を持たせて自衛させていたので大敗は免れた。丁亥、辛興宗も范村で敗れた。
  • 六月己丑、种师道が雄州に退いて守り、遼人は城下まで追撃した。徽宗は敗報を聞いて大いに恐れ、詔して兵を還らせた。遼の使者が来て言った、「女真が本朝を攻めるのは南朝にとっても好ましくないはず。いま一時の利を狙って百年の好を棄て、新興の隣を結んで後日の禍の基を作る。これを得策と言えましょうか。災いを救い隣を憐れむのは古今の通義。大国よ、お考えあれ」。童貫は答えられなかった。种师道は改めて和を許すよう請うたが、童貫は答えず、ひそかに「师道が賊を助けた」と弾劾した。王黼は怒り、师道を右衛将軍に落として引退させた。
  • 七月、王黼は耶律淳の死を聞き、再び童貫・蔡攸に兵を治めさせ、河陽三城節度使の劉延慶を都統制とした。
  • 九月戊午、朝散郎の宋昭を除名した。宋昭は上書して、遼を攻めてはならぬ、金と隣してはならぬ、いずれ金は必ず盟を破って中国の患いとなる、と極言し、王黼・童貫・趙良嗣らの誅殺を乞い、さらに「両国の誓いは、盟を破る者は禍が九族に及ぶとあります。陛下は孝で天下を治めておられるのに、列聖の霊を忘れられますか。陛下は仁で天下を覆っておられるのに、河北の民を塗炭に置いて肝脳を塗れさせるに忍びますか」と述べた。王黼は大いに憎み、除名して勤めを止め、広南に編管した。
  • 九月己未、金人は童貫の挙兵を聞き、宋が直ちに燕を取って歳幣が得られなくなることを恐れ、特古斯・烏頁爾らを遣わして進軍時期を議した。徽宗は趙良嗣を遣わして返答させ、初めの約に背かぬと伝えた。
  • 九月己卯、遼将の郭薬師が涿州・易州を挙げて降った。薬師は遼の常勝軍の帥として涿州に留守していたが、蕭后が立って蕭幹が政を専らにしたため国人に二心が多かった。薬師は部下に「天祚は国を失い、女の政は綱紀が立たぬ。宋の天子が重兵で境を圧している。いまこそ男児が金印を取る時だ」と言い、部下八千人を率いて二州を挙げて降った。童貫は受け入れて報告し、恩州観察使を授け、兵を劉延慶の指揮下に入れた。
  • 十月、燕京を燕山府と改め、涿州・易州など八州にもすべて新しい名を賜った。
  • 十月癸巳、童貫は劉延慶・郭薬師に兵十万を率いさせて雄州から出し、郭薬師を郷導として白溝を渡らせた。延慶の軍は規律がなく、薬師は「いま大軍が隊を組んで進むのに備えを設けていない。敵が伏兵を置いて邀撃し、首尾が応じなくなれば、砂塵を見ただけで潰走します」と諫めたが聞かれなかった。良郷に至って遼の蕭幹が拒み、延慶は戦って敗れ、塁を閉じて出なくなった。薬師は「幹の兵は一万に足りぬ。いま総力で我らを拒んでいる以上、燕山は必ず手薄です。奇兵五千を得て倍速で襲えば城は取れましょう」と言い、延慶の子の光世に別働隊を後詰めとするよう請うた。延慶は許し、大将の高世宣・楊可世を薬師とともに兵六千で夜半に盧溝を渡らせた。夜明けに常勝軍の帥の甄五臣が五千騎で迎春門を奪って入り、薬師らが続いた。人を遣わして蕭后を諭したが、后はひそかに蕭幹に知らせ、幹は精甲三千を挙げて燕に戻り市街戦となった。光世は約を破って来ず、薬師は援けを失って敗れ、可世とともに馬を棄てて城壁を綱で降りて脱出し、死傷は半ばを超え、世宣は戦死した。
  • 延慶は盧溝の南に陣していたが、幹は兵を分けて糧道を断ち、糧の護送将の王淵を捕らえた。そして漢軍二人を捕らえて目隠しし、帳中に留め、夜半に偽って語り合った、「我が軍は漢軍の三倍、勝てる。左右両翼に分け、精兵で中央を衝き、左右翼が呼応する。火を挙げるのを合図に皆殺しにせよ」。そう言ってひそかに一人を逃がして報告させた。延慶はこれを信じ、翌朝、火の手が上がるのを見て敵が来たと思い、営を焼いて逃げた。士卒は踏み殺され、屍が百余里に及んだ。幹は追撃して涿水まで来て去った。熙寧・元豊以来の軍需の蓄えはほとんど尽き、雄州に退いて守った。燕の人は宋の無能を知り、賦や歌詩を作って嘲った。薬師は帰ってなお安遠軍承宣使に進んだ。
  • 十一月戊寅、金人が来て燕の地について議した。
  • 十二月戊子、趙良嗣を再び金に遣わした。もと朝廷と金の約は、石晋が契丹に賂した故地を求めるだけであった。ところが平州・営州・灤州の三州は晋の賂ではなく、劉仁恭が援けを求めて契丹に献じたものだということに気づかず、後になって王黼が悔いてこれも併せて得ようとしたが金主は承知しなかった。趙良嗣が金に赴くと、金主は普嘉努に、宋が出兵の期日を違えたことを責めさせ、「いまや元の約は問わぬ。特別に燕京と薊・景・檀・順・涿・易の六州を与える」と言わせた。良嗣は「元の約は山前・山後の十七州。それがこれでは信義はどこにあるのか」と四度も抗弁したが、金人は従わなかった。良嗣は金の使者の李靖とともに帰り、山前六州だけを許すという回答を伝えた。徽宗は改めて良嗣に李靖を送らせ、あわせて営・平・灤の三州を求めさせた。
  • 十二月庚寅、郭薬師に武泰節度使を加えた。
  • 十二月辛卯、金が遼の燕京を落とした。童貫は再度の伐燕が成功せず、罪を得るのを恐れて、ひそかに王瓌を金に遣わし、約定どおりの挟撃を求めた。金主は三道に分けて進み、燕を落とし、騎兵に趙良嗣を送らせ、あわせて遼の捕虜を届けた。

宣和五年(1123年)

  • 正月戊午、金が使者を遣わし、趙良嗣が再び金に赴いた。良嗣は燕で金主と燕京・西京の地について議した。金主は「宋がどうしても平州・灤州などを欲しがるなら、燕京も渡さぬ」と言い、返書を先に良嗣に示した。「燕京は本朝の兵力で攻め落としたのだから、その租税は本朝に納めるべし」とあったので、良嗣は「租税は土地に随うもの。土地を与えて租税を与えぬことがありましょうか」と言った。尼瑪哈は「燕京は我らが得たのだから我らに帰すべきだ。早く渡さぬなら、涿州・易州の軍を速やかに引き揚げ、我が疆に留まるな」と言った。そこで李靖らを良嗣とともに来させた。李靖は参内後、王黼に会った。王黼は「租税は約にない。主上は交好のよしみで銀絹をもって充てたいとのお考えだ」と言った。李靖は昨年分の歳幣も請い、徽宗はこれも特に許した。そこで良嗣を李靖とともに再び遣わした。
  • 正月辛酉、王安中を知燕山府、郭薬師を同知府事とした。金が燕を返すというので朝廷は守る帥臣を選ぶことになり、左丞の王安中が自ら行くことを請い、王黼が徽宗に薦めて、安中を慶遠軍節度使・河北河東燕山府路宣撫使・知燕山府とし、郭薬師を検校少保・同知府事とした。詔して薬師を入朝させ、礼遇は厚く、立派な邸宅と姫妾を与え、水上の遊芸を催して見せ、貴戚大臣に代わる代わる宴を設けさせた。後苑の延春殿でも召見した。薬師は庭下で拝し、泣いて「臣は燕にいて趙皇(宋帝)は天上にあるかのように聞いておりました。今日、龍顔を拝せようとは思いもよりませんでした」と言った。徽宗は深く褒めて燕の守りを委ねると、「死をもって尽くします」と答えた。さらに天祚帝を捕らえて燕人の望みを絶つよう命じると、薬師は顔色を変えて言った、「天祚は旧主です。国が破れて逃れたので臣は降りました。陛下が臣に他所で命を捧げよと仰せなら辞しませんが、旧主に手向かえというのは陛下にお仕えする道ではありません。どうか他の者にお命じください」。そして雨のように涙を流した。徽宗は忠と見て、着ていた珠の袍と金の盆二つを賜った。薬師は退出して配下に「これは私の功ではない。お前たちの力だ」と言い、盆を切り分けて配った。検校少傅を加えて燕山府路の鎮に帰した。
  • 三月己未、使者を金に遣わした。趙良嗣は燕に至って金主に「本朝は大国に譲ってきたことが多い。平州・灤州の一件くらい聞き入れられぬのか」と言ったが、金主は「平州・灤州は辺鎮にするつもりだ。渡せぬ」と答えた。次に租税を議すると、金主は「燕の租は六百万。そのうち百万だけ取る。それが嫌なら涿州・易州の旧疆と常勝軍を返せ。こちらは兵を率いて辺を圧するまでだ」と言った。良嗣は「本朝は自らの兵で涿州・易州を下したのに、そんな言い分は理に合わぬ」と言い、御筆で十万から二十万まで許されているが勝手に増やせぬと述べた。金主は良嗣を帰して報告させ、「半月過ぎても来なければ、私は兵を率いて行く」と言い渡した。当時、左企弓が金主に詩を献じて「君王よ、燕を棄てよという議に耳を貸されるな。一寸の山河は一寸の金」と詠んだため、金人は初めの約を破って要求をやめなかった。良嗣が帰った後、金は遼主が故地回復を謀っていると聞き、盧溝以北の橋をすべて断ち宿舎を焼いて備えた。
  • 良嗣は雄州まで来て金の書を早馬で奏上した。その大意は、「貴朝の兵は挟撃を果たさず、我が力だけで燕を下した。ゆえに租税を留める。いま燕の管内の年租は六百万貫。良嗣らは御筆で二十万までと称し、それ以上は専断できぬという。平州・灤州などは許した限りに入らぬ。もし侵求に努めるなら信義を全うしがたい。なお速やかに境を越えた兵を引き揚げよ」というものだった。王黼は功を急ぎ、良嗣を雄州から再び行かせ、遼への旧歳幣四十万のほかに毎年、燕京の代税銭百万緡を加えることを許させた。また境界の画定、正旦・生辰の慶賀使の派遣、榷場での交易を議した。金主は大いに喜び、尼楚赫らに誓書の草案を持たせて来させ、燕京と六州の返還を約したが、山後の諸州と西北一帯の連なる山川は許与の限りに入れなかった。徽宗は意を曲げて従い、盧益・趙良嗣らに誓書を持たせて遣わした。涿州に至ると金の古新らがまず書を取って見て、字画が丁寧でないと言って書き直させた。盧益は「主上が親書されたのは大国を尊崇する意を示すためです」と述べたが、金人は聞かず、汴京まで戻して数度も書き直させた。金人はさらに、近ごろ燕人の趙温訊らが南朝へ逃亡したので、まず返さねば燕地の引き渡しは議せぬと言った。良嗣は宣撫司に諭して温訊を縛って金に送らせた。着くと尼瑪哈は縄を解いて登用した。金人はまた糧を求め、良嗣は二十万石を約した。
  • 四月癸巳、金人が楊璞を遣わして誓書と燕京・六州を返した。平・営・灤の三州は、結局、石晋が契丹に賂した地ではないという理由で含まれなかった。
  • 四月庚子、童貫・蔡攸に燕へ入って引き渡しを受けさせた。このとき燕の職官・富民・金帛・子女はすべて金人に掠め去られ、残るのは空城だけであった。尼瑪哈はなお涿州・易州の割譲だけで済ませようとしたが、金主は「海上の盟は忘れてはならぬ。私が死んだら好きにせよ」と言った。乙巳、童貫らは、燕城の老幼が出迎え香を焚いて寿を称えたと奏した。庚戌、徽宗は両河と燕雲に曲赦を下し、即日の凱旋を命じた。
  • 五月庚申、王黼を太傅、鄭居中を太保とした。癸亥、童貫を徐豫国公に進封し、蔡攸を少師とした。王黼は天下の財を尽くして北征し、得たものはわずか七つの空城であったが、百官を率いて賀表を奉り、燕雲回復の故をもって宰執がみな進位し、王黼が三省の事を総治することとなり、玉帯を賜った。趙良嗣を延康殿学士とした。鄭居中は自ら功なしとして受けなかった。
  • 六月丙戌、遼の張㲄が平州を挙げて帰順した。遼主が西山に走ったとき、平州で軍が乱れて節度使の蕭迪里を殺した。張㲄が乱を鎮めたので州民が推して州の事を執らせた。耶律淳が死ぬと、㲄は遼の滅亡を見越して壮丁五万・馬千匹を登録し、兵を練って備えた。蕭徳妃が時立愛を知平州として送ったが、㲄は拒んで入れなかった。金人は燕京に入ると康公弼に㲄の人となりを尋ねた。公弼は「㲄は狂妄で謀に乏しい。何ができましょう。疑わぬ姿勢を示すべきです」と答え、金人は㲄に臨海軍節度使を加えて引き続き平州を知らせた。その後、尼瑪哈がまず平州を下して張㲄を捕らえようとしたが、公弼は「兵を加えれば叛かせるだけです」と言い、自ら偵察に行くと申し出た。㲄は「契丹の八路のうち七路まで降り、いま平州だけが残っています。異心など持てましょうか。甲を解かぬのは蕭幹に備えるためです」と言い、公弼に厚く賄って帰らせた。公弼は尼瑪哈に「彼は憂うるに足りません」と報告した。そこで平州を南京に昇格させ、㲄に試中書平章事・判留守事を加えた。
  • ここに至って金は遼の宰相の左企弓・虞仲文・曹義勇・康公弼と燕京の富豪・大家を東へ移住させた。燕の民は道に流離して苦しみに堪えなかった。平州を通ったとき城に入って㲄に言った、「左企弓は燕を守れず、我らをこんな流離に至らせました。公はいま巨鎮に臨み強兵を握っておられます。遼に忠を尽くして我らを故郷に帰らせてください。人心もひとえに公を頼みとしています」。㲄は諸将を集めて議し、皆が言った、「天祚の兵勢が再び振るい、漠南に出没していると聞きます。公が義に拠って勤王し、天祚を奉迎して興復を図り、まず左企弓らの叛降の罪を責めて誅し、燕の民をすべて帰して生業に復させ、平州を宋に帰属させれば、宋が受け入れぬはずはありません。平州は宋の藩鎮となりましょう。後日、金人が兵を加えても、内は平州の衆を用い、外は宋の援けを頼めます。何を恐れましょう」。㲄は翰林学士の李石にも尋ね、同意を得た。
  • そこで㲄は張謙に五百余騎を率いさせ、留守の令と偽って左企弓・虞仲文・曹義勇・康公弼を召し、灤河の西岸で企弓らの十罪を数え上げてみな縊り殺した。㲄はなお遼の保大三年の年号を用い、天祚の像を描いて朝夕拝し、事は必ず告げてから行い、遼の官秩を称した。燕の人に生業に復するよう布告し、常勝軍に占められていた恒産はすべて返した。燕の民は帰れることになって大いに喜んだ。李石は名を安弼と改め、もと三司使の高党とともに燕京に至って王安中を説いた、「平州は形勝の地、張㲄は総練の才、金人を防いで燕の境を安んずるに足ります。招き入れて、西で天祚を迎えたり北で蕭幹と結んだりさせぬのが得策です」。安中は深く容れ、安弼を汴に遣わして報告させた。徽宗は同知燕山府の詹度に手紙を下し、羈縻するにとどめよと命じたが、詹度は㲄に内附を促した。㲄は張鈞・張敦固に書を持たせて降伏を請うた。王黼は受け入れるよう勧め、趙良嗣は「国家は金と盟を結んだばかり。こんなことをすれば必ずその歓心を失い、後で悔いても及びません」と諫めたが、聞かれず、良嗣は五階を削られた。詔して安中と詹度に手厚く安撫させ、三年間の常賦を免じた。㲄はこれを聞いて計略が図に当たったと思った。
  • 七月、童貫が引退し、内侍の譚稹を両河燕山路宣撫使とした。童貫と蔡攸は燕から帰って徽宗の意に適わなくなり、王黼と梁師成がともに譚稹を推して童貫に代えて雲中の地の引き渡しに当たらせた。譚稹は太原に至り、朔州・応州・蔚州などの降人を募って朔寧軍とした。
  • 八月、遼の蕭幹が兵を率いて景州・薊州を破り、燕を攻めたが、郭薬師が戦って破り、幹は逃げて死んだ。金人が燕京を陥れた後、幹は奚王府で自ら帝を称し、国号を大奚とした。奚人が飢えたので、幹は盧龍嶺を出て景州を攻め破り、また石門鎮で常勝軍を破って薊州を陥れ、燕城を掠め、その鋒は鋭く、河を渡って京師を犯す勢いさえ見えた。人心は騒然として燕を棄てようと謀る者もあった。だが薬師がその衆を大破し、勝ちに乗じて盧龍を越えて追撃し、大半を殺傷した。幹は逃げたが、まもなく配下に殺され、首が京師に送られた。詔して薬師に太尉を加えた。
  • 十月、詔して平州を太寧軍とし、張㲄を節度使とした。金人は㲄の叛を聞いて棟摩に三千騎で攻めさせたが、㲄は営州で拒み、棟摩は兵が少ないので交戦せずに退いた。㲄はこれを大勝と偽って報告し、朝廷は㲄を節度使に任じ、銀絹数万を犒賞した。
  • 十一月、金の斡里雅布が平州を攻めて囲んだ。金人は棟摩が功なく帰ったので、改めて斡里雅布に棟摩を督して攻めさせた。折しも張㲄は朝廷の犒賜が届くと聞いて喜び、遠くまで出迎えに出た。斡里雅布は無備に乗じて襲い、城の東で戦って㲄は敗れ、夜に燕山へ逃げた。王安中は受け入れて匿った。平州都統の張忠嗣と張敦固は出て金に降ったが、金が使者を敦固とともに城中に入れて諭させたところ、城中の人は使者を殺し、敦固を都統に立てて門を閉じて固守した。
  • 詔して張㲄を殺し、首を函に入れて金に与えた。金人が叛者を匿ったことを責め、朝廷は初め引き渡す気がなかったが、金の督促がいよいよ急になった。王安中は㲄に似た者を選んで斬り、その首を渡したが、金は㲄でないと知り、兵で燕を攻めようとした。安中は、引き渡さなければ必ず兵端が開くと言い、朝廷はやむを得ず安中に縊り殺させ、その首と㲄の二子を金に送った。これを見て燕の降将と常勝軍の士はみな涙を流した。郭薬師は「金人が㲄を欲しがれば㲄を与える。薬師を求めれば薬師も与えるのか」と言った。安中は恐れて強く辞任を求め、詔して蔡靖を知燕山府事とした。これ以来、降将と兵は離反し、金はついにこれを口実に兵を起こしたという。
  • 金人が武州・朔州を返した。朝廷が山後の諸州を金に請うたとき、新たに即位した金主烏竒邁は許そうとしたが、雲中から来た尼瑪哈が金主に言った、「先帝は当初、宋と力を合わせて遼を攻めるつもりで燕地を許されました。宋人は盟の後、幣を加えて山西の諸鎮を求めましたが、先帝はその幣を辞して改めて盟を結び、逃亡者を匿わず辺民を騒がせぬと定めました。ところがいま宋は数路で叛亡者を招き入れ、こちらが再三、叛人の姓名を挙げて引き渡しを求めても童貫は返しません。盟から一年も経たぬのにこの有り様で、万世の約が守られると望めましょうか。しかも西辺はまだ安定せず、山西の諸郡を割いて渡せば、我が諸軍は屯拠の地を失い、経略しようにも持ちこたえにくくなります。与えぬようお願いします」。金主はそこで使者を遣わし、武州・朔州の二州だけを返した。

宣和六年(1124年)

  • 三月、金人が使者を宣撫司に遣わし、趙良嗣が約した糧二十万石を求めた。譚稹は「二十万石など容易に用意できるものか。良嗣が口約束しただけで当てにならぬ」と言って渡さなかった。金人はこれで大いに怒った。
  • 六月、金人が平州を落とし、張敦固を捕らえて殺した。
  • 詔して、燕雲回復以来、京都と両河の民が調達に苦しんでいるとして、京西・淮南・両浙・江南・荊湖・四川・閩広に免夫銭を納めさせ、一夫あたり三十貫とし、漕臣に期限を切って督促させ、違反者は軍法で処すこととした。また宗室・外戚・宰執の家、宮観・寺院にも一律に割り当てた。だが天下をあまねく取り立ててもわずか二千万緡しか得られず、四海の怨みを買っただけであった。
  • 八月、譚稹を罷めて、再び童貫に枢密院を領させ、両河燕山路宣撫使とした。金人は拓跋の故地である雲中二千里を夏に与え、宋には武州・朔州の二州だけを返した。ここに至って夏人が兵を挙げて武州・朔州の地界を侵し、譚稹が兵を出して防いだが、たびたび交戦しても夏軍は退かなかった。また金人は朝廷が張㲄を受け入れ糧を渡さなかったとして応州・蔚州を攻め、守臣を追った。朝廷は譚稹の処置の失当を責めて引退を命じ、童貫を代わりとした。
  • 当時、遼主の延禧は夾山にいた。徽宗はこれを誘い寄せようとして、まず蕃僧に御筆の絹書を持たせて意を通じた。延禧が帰順を承知すると、書を詔に改め、皇弟の礼で待遇し、位は燕王・越王の上とし、千間の邸宅と女楽三百人を与えると許した。延禧は大いに喜んだ。童貫の今回の派遣は、名目は譚稹に代わって山後の土地の引き渡しに当たることだったが、実は延禧の来降を約してこれを迎えに行くためであった。しかし延禧は中国が頼むに足りぬとして、ついに来なかった。
  • この月、燕雲回復を理由に天下に大赦した。

宣和七年(1125年)

  • 六月、童貫を広陽郡王に封じた。徽宗は「全燕の境を回復した者には土地を与え王爵を授ける」という神宗の遺訓を引いて、童貫を王に封じた。