宋史紀事本末方臘の乱(宋江を付す)(方臘之亂(宋江附))

造作局の誅求と朱勔の花石綱に苦しむ民の怨みに乗じ、睦州清渓の方臘が朱勔誅伐を名目に挙兵し、「聖公」と号して睦州・歙州・杭州・婺州・衢州・処州を陥れて東南を震撼させた乱を記す。王黼が急報を隠したため蔓延したが、徽宗は北伐の議を止めて童貫・譚稹に十五万を率いさせ、韓世忠が幇源洞の巣穴を衝いて方臘を捕らえ、一年余りで平定した。あわせて同じころ張叔夜が海州で降した宋江の乱を付す。宣和二年(1120年)から翌年までを扱う。

年表(3件)

徽宗宣和二年(1120年)

  • 冬、睦州清渓の民の方臘が反乱を起こした。方臘は代々県の堨村に住み、左道に託して衆を惑わした。唐の永徽年間に睦州の女子の陳碩真が反乱を起こして「文佳皇帝」を称したことから、この地には「天子基」の伝承があり、方臘はそれに拠って自ら信じた。県内の梓桐・幇源などの洞はいずれも山谷の険阻な地にあり、人も物も多く、漆・楮・杉材が豊かで富商大賈の往来が盛んであった。方臘は漆園を持っていたが、造作局に何度も過酷な取り立てを受けて恨みを抱きつつ機を窺っていた。折しも朱勔の花石綱の煩わしさが家々の怨みを買っていたので、方臘は民の忍耐が尽きたのに乗じ、ひそかに貧民や遊民を集め、朱勔誅伐を名目に挙兵した。
  • 方臘は「聖公」と号し、永楽と建元し、官吏と将帥を置き、頭巾の色で階級を分け、紅から上へ全六等とした。弓矢も甲冑もなく、ひたすら鬼神の怪しげな話で人を煽り、家屋を焼き、金帛と子女を奪い、良民を脅して兵に加えた。人々は太平に慣れて戦を知らず、鉦や太鼓の音を聞くと手をこまねいて命に従った。十日と経たぬうちに兵は数万に達し、両浙都監の蔡遵・顔坦が討ったが、いずれも息坑で敗死した。
  • 十二月、方臘は青渓を陥れ、続いて睦州・歙州を陥れた。東南将の郭師中が戦死した。北へ桐廬・富陽の諸県を掠め、杭州に迫った。郡守の趙霆は城を棄てて逃げ、州は陥ちて制置使の陳建、廉訪使の趙約が殺された。六日にわたって火を放ち、死者は数えきれなかった。官吏を捕らえれば必ず手足を斬り刻み、肺腑を抉り、あるいは膏油で煮、矢を雨のように射かけ、あらゆる責め苦を尽くして怨みを晴らした。
  • 急報が京師に達したが、当時は北伐のために兵を集めている最中で、王黼は隠して奏上しなかった。そのため凶焰は日ごとに盛んになり、従う者も増え、東南は大いに震えた。淮南発運使の陳遘が「方臘の衆は強く東南の兵は弱い。京畿の兵と鼎州・澧州の槍牌手を調発し、急行させて蔓延を防いでいただきたい」と上言した。徽宗はこの上疏で初めて事態を知って大いに驚き、北伐の議を取りやめ、童貫を江淮荊浙宣撫使、譚稹を両浙制置使とし、禁軍および秦晋の蕃漢の兵十五万を率いて討たせた。

宣和三年(1121年)

  • 正月、方臘が婺州を陥れ、続いて衢州を陥れた。衢州守の彭汝方は捕らえられ、賊を罵って死に、賊はその城で虐殺を行った。
  • 二月、方臘が処州を陥れた。また部将の方七仏に六万の衆を率いさせて秀州を侵させたが、統軍の王子武が防ぎ、折しも大軍が到着して合撃し、九千の首を斬った。賊は退いて杭州に拠った。
  • 四月、童貫が兵を合わせて方臘を破り、方臘を捕らえて凱旋した。童貫と譚稹の前鋒が清河堰に至り、水陸から進んでたびたび方臘を破った。方臘は官舎・府庫・民家を焼いて夜に逃げ、清渓の幇源洞に戻った。諸将の劉延慶・王稟・王渙・楊惟忠・辛興宗・王淵らが相次いで到着し、陥落した城をすべて回復した。童貫らは兵を合わせて幇源洞の方臘を攻めた。方臘の衆はなお二十万あり、力戦して岩屋深くに三つの窟を構え、諸将はどこから入るか分からなかった。王淵の裨将の韓世忠がひそかに渓谷を行き、野の女に道を尋ねて抜け道を知ると、身を挺してまっすぐ進み、険を渡ること数里で巣穴を衝き、数十人を斬って方臘を捕らえて出た。辛興宗は洞口を封じていた兵で方臘を横取りして自分の功とし、方臘の妻子と偽相の方肥らも取り上げた。賊の衆は潰えた。方臘の乱は六州五十二県を破り、平民二百万を殺し、掠われた婦女で賊の洞から逃れ、裸で林に首を吊った者が百余里にわたって連なった。
  • 五月、御史中丞の陳過庭を黄州に安置した。過庭は睦州の賊が起こったのを受けて、「賊を招いたのは蔡京、賊を養ったのは王黼。二人を追放すれば賊は自ずと平らぎます」と上言し、さらに「朱勔父子はもと刑余の小人。権幸に取り入って官位を盗み、罪悪は積もっています。刑を正して天下に謝すべきです」と述べた。三人はこれを聞いて恨み、そのため貶された。
  • 八月、童貫に太師を加え、楚国公に封じた。方臘平定の賞である。方臘は処刑され、睦州を厳州、歙州を徽州と改めた。

宣和三年の宋江の乱(1121年)

  • 二月、淮南の盗賊の宋江が京東の州郡を侵し、海州に至って張叔夜がこれを破り、宋江は降った。宋江は盗として起こり、三十六人で河朔を横行し、十郡を転々と掠め、官軍は誰も鋒先に立ち向かえなかった。知亳州の侯蒙が上書して「宋江の才には人に過ぎたものがあろう。赦して方臘を討たせ、自ら罪を贖わせるに如くはない」と述べ、徽宗は侯蒙を知東平府としたが、赴任前に死んだ。次いで張叔夜を知海州とした。宋江が海州に迫ると、叔夜は間諜にその動きを探らせた。宋江はまっすぐ海浜に向かい、大船十余隻を奪って鹵獲品を積んでいた。叔夜は決死の士千人を募り、城近くに伏兵を置いてから軽装の兵を出して海辺で誘い出して戦い、あらかじめ海辺に隠した精兵に、両軍が交わったら火を挙げて船を焼かせた。賊はこれを聞いて闘志を失い、伏兵が乗じて副将を捕らえ、宋江は降伏した。