宋史紀事本末道教を崇める(道教之崇)

徽宗が道教に傾倒し、方士の王老志・王仔昔・林霊素を次々に寵愛して先生の号を与え、道階・道官・道学を設け、上清宝籙宮や玉清神霄宮を営んで国費を蕩尽していく経緯を記す。林霊素は徽宗を神霄玉清王の化身と説いて「教主道君皇帝」の号を作らせ、仏寺を宮観に改めさせるまで権を振るったが、驕慢が過ぎて皇太子の訴えにより失脚した。崇寧四年(1105年)から宣和二年(1120年)までの十六年間を扱う。

年表(9件)

徽宗崇寧四年(1105年)

  • 五月、信州龍虎山の道士張継元に「虚靖先生」の号を与えた。

大観二年(1108年)

  • 三月、金籙霊宝の道場儀範を全国に頒布した。

政和三年(1113年)

  • 四月、福寧殿の東に玉清和陽宮を建て、道像を安置した。そこは徽宗の生誕地であった。
  • 九月、方士の王老志に「洞微先生」、王仔昔に「通妙先生」の号を与えた。王老志は濮の人で、もと小役人。異人から丹を授かったといい、妻子を捨てて田間に草庵を結び、人の吉凶を占って的中が多かった。太僕卿の王亶が名を上奏し、道術に傾倒していた徽宗が召し出して蔡京の邸に住まわせた。かつて封書を献じたところ、中身は先年の中秋に喬・劉二妃と交わした睦言であり、徽宗はいよいよ信を置いた。朝臣が争って書を求め、初めは意味不明な文言も八九割は的中したという。門前は市を成したが、蔡京は行き過ぎを警戒して戒め、老志自身も慎み、上奏して交際を禁じさせ、翌年に死んだ。
  • 王仔昔は洪州の人。もと嵩山に隠れ、許遜に会って大洞隠書・豁落七元の法を得たと称し、人の未来を言い当てた。蔡京の推挙で召見され「冲隠処士」の号を賜り、符を篆して験があったので「通妙先生」に進封された。以後、道家の事は日ごとに盛んになり、仔昔への恩寵も増して、朝臣や外戚が彼を通じて取り入るようになった。
  • 中丞の王安中が上疏し、今後は山林の道術者を招く際に所属官庁に身元保証をさせ、宮中への出入りには経路を監視させ、臣下や庶民との往来の禁を厳重にすべしと請うた。あわせて蔡京の欺君・僭上・国を蝕み民を害する数件を挙げた。徽宗は喜んで容れた。ほどなく王安中が再び蔡京の罪を論じると、徽宗は「すぐにも卿の上奏どおりにしたいが、天寧節が近いので、それが過ぎたら卿のために蔡京を罷免しよう」と述べた。これを察知した蔡京は恐れ、子の蔡攸が宮中で日夜泣いて願い出たため、徽宗は王安中を翰林学士に遷して事を収めた。
  • 十一月癸未、圜丘で天を祀った。徽宗は大圭を執り、道士百人が儀仗を執って前を導き、蔡攸が執綏官を務めた。玉輅が南薫門を出たとき、徽宗が「玉津園の東に楼台が幾重にも見えるが、あれは何処か」と言うと、蔡攸はすかさず雲間に楼台殿閣が幾重にも見えると奏し、よく見れば地上数十丈の高さにあるという。さらに徽宗が「人影は見えるか」と問うと、蔡攸は道士や童子が幡幢・節蓋を持って雲間から次々に現れ、眉目まではっきり見えると奏した。そこで天神が降臨したとして詔で百官に告げ、その地に道宮を建てて迎真宮と名づけ、「天真降臨示現記」を作らせた。これにより神仙の事をますます信じるようになった。
  • 十二月癸丑、天下に道教の仙経を求める詔を下した。

政和四年(1114年)

  • 正月戊寅朔、道階を設けた。当時、王老志・王仔昔・徐知常らが寵を得ていたので、先生・処士などの号を賜い、位階は中大夫から将仕郎に準じて全二十六級とした。のちに道官二十六等も置き、諸殿侍宸・校籍・授経など、待制・修撰・直閣になぞらえた名称を設けた。

政和六年(1116年)

  • 正月、方士の林霊素に「通真達霊先生」の号を与えた。霊素は温州の人。若い頃は仏門にあったが師の笞罵を嫌って去り、道士となった。妖術幻術を能くし、淮泗の間を往来して僧寺で食を乞い、寺は難儀した。王老志が死に王仔昔の寵が衰えると、徽宗は左階道籙の徐知常に方士を尋ね、知常が霊素を挙げて召見となった。
  • 霊素は大言した。「天には九霄あり神霄が最高、その庁を府という。神霄玉清王は上帝の長子で南方を主り、長生大帝君と号す。陛下こそその人であり、すでに世に下られた。弟の青華帝君は東方を主って補佐する。仙官八百余名がおり、いま蔡京は左元仙伯、王黼は文華使、鄭居中・童貫らも皆その名がある。自分は仙卿褚慧で、帝君の治を助けるために下降した」。当時寵愛されていた劉貴妃を「九華玉真安妃」に当てたので、徽宗は内心大いに喜び、寵信を厚くして号を賜い、下賜は数え切れず、温州を応道軍と改めた。実際の霊素は取り立てて能があるわけではなく、わずかに五雷法をかじって風雷を呼び、雨乞いに小さな験があった程度であった。
  • 閏月丁未、林霊素の建言により道学を設け、元士から志士まで十三品とし、大比の年には襴襆の着用と受験を許した。また蔡京の言により古今の道教の事跡を紀・志にまとめさせ「道史」と名づけた。
  • 四月、上清宝籙宮に道士を集めた。もともと徽宗は嗣子がないのを憂えており、法籙符水で禁中に出入りしていた道士の劉混康が、京城の西北隅は堪輿の形勢に適い、少し高くすれば多男の祥があると建言した。そこで数仞の丘を築かせたところ、後宮に子が多く生まれ、徽宗は道教への信をさらに深めた。蔡攸は珠星璧月・跨鳳乗龍・天書雲篆の符があるなどと言って迎合し、林霊素の説と相まって上清宝籙宮が造営された。宮は禁中に密接し、山を築いて平地を包み、美木と清流をめぐらせ、館舎・台閣は良材を柱梁に用いて彩色を施さず、自然の趣を出した。上下に亭宇が数えきれぬほど建ち、徽宗はしばしば皇城に登って見下ろした。景龍門を開き、城上に複道を作って宝籙宮に通じさせ、斎醮に赴く道とした。
  • 九月辛卯朔、徽宗は玉冊・玉宝を奉じて玉清和陽宮に赴き、玉帝に尊号「太上開天執符御暦含真体道昊天玉皇上帝」を奉った。天下の洞天・福地に宮観を修建し聖像を造らせ、また地祇に「承天効法厚徳光大后土皇地祇」の徽号を奉り、宝冊の礼儀は上帝と同様とした。まもなく宮名を玉清神霄宮と改め、さらに神霄九鼎を鋳て上清宝籙宮の神霄殿に安置した。

政和七年(1117年)

  • 正月甲子、上清宝籙宮に道士二千余人を集め、林霊素に帝君降臨の事を説かせた。乙亥、徽宗が上清宝籙宮に行幸し、林霊素に道経を講じさせた。当時、道士には俸給があり、一観あたりの給田も数百千頃を下らなかった。大斎を設けるたびに緡銭数万を費やし、貧しい者は青布の頭巾を買って参加し、一日たらふく食べたうえに施しを三百得た。これを「千道会」といった。士庶にも霊素の講経を聴かせ、徽宗はその傍らに幄を設けた。霊素は高座に拠って下の者に再拝させて質問させたが、語る内容に格別のものはなく、しばしば滑稽卑猥な話を交え、上下が大笑いして君臣の礼もなかった。さらに吏民に宮へ参って神霄秘籙を授かるよう命じ、出世を望む朝士も雪崩を打って群がった。
  • 四月庚申、道籙院が章冊を奉り、徽宗を「教主道君皇帝」とした。もとは徽宗が道籙院に、「朕は上帝の元子で神霄帝君である。中華が西方の教(仏教)に覆われるのを憐れみ、上帝に願って人主となり天下を正道に帰さんとした。卿らは表を上って朕を教主道君皇帝と冊せよ」と諷したのによる。ただしこの称は道教の章疏の中で用いるにとどまり、政事には用いなかった。
  • 十二月、方士の王仔昔が獄死した。仔昔は傲慢で愚直、徽宗が客礼で遇したため宦官を奴僕のように扱い、また道士たちに自分を宗主とさせようとした。林霊素はこれを憎み、宦官の馮浩と組んで怨望の言ありと誣告し、下獄させて死なせた。
  • 戊辰、徽宗は天神が坤寧殿に降ったと言い、詔で百官に示し石に刻んで記録させた。もとより林霊素の言に惑い、宮観を天下に建て、青華帝君が白昼に壇に臨んだ、火龍神剣が夜に内宮へ降ったなどの話を作り、天神降臨に託して帝誥・天書・雲篆を作り、世を惑わし衆を欺くことに努めた。その説は荒唐無稽で検証しようもなかった。宦官や道士は気に入らぬことがあれば帝誥に託し、望みどおりにならぬことはなかった。ほどなく霊素に「通真達霊元妙先生」、張虚白に「通元冲妙先生」の号を加え、中大夫並みの待遇で出入りには先払いを付け、諸王と道を争うほどで、都の人は「道家の西府」と呼んだ。その徒で美衣美食する者は二万人近くに達した。
  • 元成節を立てた。青華帝君の誕生が八月九日とされたためである。

重和元年(1118年)

  • 八月辛酉、徽宗自ら註した「道徳経」を頒布する詔を下した。
  • 丙戌、太学と辟雍にそれぞれ内経・道徳経・荘子・列子の博士各二員を置く詔を下した。
  • 十月、道官二十六等・道職八等を置いた。

宣和元年(1119年)

  • 正月乙卯、寺院を宮観に改める詔を下した。林霊素は積年の恨みを晴らすため仏教を全廃しようとし、仏号を「大覚金仙」、その他を仙人・大士、僧を徳士と改め、服飾を変えて俗姓を名乗らせ、寺を宮、院を観、女冠を女道、尼を女徳と改めるよう請うた。まもなく徳士も道学に入り道士の法に従うことを許す詔が出た。
  • 六月甲申、荘周を「微妙元通真君」、列禦寇を「致虚観妙真君」に追封し、冊命を行って混元皇帝(老子)に配享した。

宣和二年(1120年)

  • 正月甲子、道学を廃し、林霊素を故郷へ帰した。霊素は初め道士の王允誠と組んで神怪の事を演出したが、後に競合を嫌って允誠を毒殺し、権を専らにした。都城が水害に遭ったとき、徽宗は霊素に厭勝を行わせたが、城上で歩虚を行っていたところ人夫らが棒を振り上げて打ちかかろうとし、逃げてかろうじて免れた。徽宗はこの頃から疎んじたが、霊素の横暴は改まらず、道で皇太子に会っても避けなかったため、太子が訴え出て徽宗は怒った。太虚大夫に落として故郷に追い返し、江端本を温州通判として監視させた。端本は住居が制を超えていると調べ上げ、楚州への移配を詔したが、命が下ったときには霊素はすでに死んでいた。遺奏が届いたので、なお侍従の礼で葬らせた。