宋史紀事本末花石綱の役(花石綱之役)

徽宗の崇寧元年(1102)に童貫が蘇州・杭州に造作局を置いたことに始まり、蔡京の引いた朱勔が応奉局を領して江南の奇石名木を「花石綱」として運び、民は破産に追い込まれた。延福宮・万歳山と土木の営みは絶えず、宣和三年にいったん罷めながら方臘の平定後に応奉司が復置され、宣和四年(1122)に艮嶽が完成するまでのおよそ20年間の役の記録。

年表(6件)

徽宗崇寧元年三月(1102年)

  • 宦者の童貫に蘇州・杭州で局を置いて器用を造作させた。牙・角・犀・玉・金・銀・竹・藤の装画・糊塗・彫刻・織繡の工は巧みを尽くし、諸色の工匠は日ごとに数千人が役された。材料はすべて民に割り当てられ、民力は重ねて困窮した。

崇寧三年~四年(1104-1105年)・朱勔と花石綱

  • 三年二月、天下の坑冶の金銀をことごとく内蔵に納めさせた。
  • 四年十一月、朱勔に蘇杭応奉局および花石綱を蘇州で領させた。
  • もともと蔡京が蘇州を通ったとき、僧が寺の閣を建てようとして費用が巨万に及んだ。僧は「どうしてもこの縁を集めるなら、郡の人の朱冲でなければなりません」と言った。京はただちに冲を召して語った。数日して冲は京に寺に来て土地を測るよう請うた。着いてみると大木数千本がすでに庭に積まれていた。京はその能力を器量あるものと見た。
  • 一年余りして京が朝に還るとき、冲の子の勔を連れて来、その父子の姓名を童貫の軍籍にひそかに入れて、いずれも官を得させた。
  • 帝はそのころ花石に意を留めていたので、京は冲にそれとなく浙中の珍奇なものを密かに取って進めさせた。初めは黄楊三本を届けたが、帝は嘉した。後は年ごとに召して五、六品を貢がせた。ここに至って次第に盛んになり、船が淮と汴に相い連なるようになり、これを花石綱と号した。応奉局を蘇州に置き、勔にその事を総べさせた。
  • 勔は内帑を袋の中の物のように取り、取るたびに数十百万を計った。かくて巌を捜し藪を剔り、幽かに隠れたものも見逃さなかった。士庶の家に一石一木でも少しでも観賞に堪えるものがあれば、ただちに健卒を率いてその家に押し入り、黄色の封で標識をつけて御前の物と指し、これを護り視させた。少しでも謹まなければ大不恭の罪を着せた。
  • 運び出す際には必ず家を壊し壁を抉って出した。人は不幸にも一つでも変わった物があれば、みなこれを不祥として指し、ただ速やかに切り払えぬことを恐れた。この役に与った民は、中程度の家でも破産し、あるいは子女を売り払って必要に応じた。山を掘り石を車で運ばせ、督促は惨刻で、江や湖の測りがたい淵にあっても百計を尽くして必ず取ってからやめた。
  • 諸道の糧餉の綱を差し押さえ、傍らから商船を集め、貢ぐ物を掲げてその上に晒した。船人は勢いを恃んで貪り横暴で、州県を凌ぎ、道路の人は目で語るだけだった。勔の勢いは焼けつくばかりで、邪な人や汚れた輩が門を伺って奴のように仕えた。直秘閣から殿学士まで、望めば得られ、付かぬ者は踵を返すうちに罷めさせられた。当時、これを「東南の小朝廷」と言った。

大観四年~政和四年(1110-1114年)・延福宮

  • 大観四年閏八月、張閣を知杭州として花石綱を兼ね領させた。
  • 政和四年八月、延福宮を新たに作った。宮は大内の北、拱宸門の外にある。
  • もともと蔡京は宮室で帝に媚びようとし、内侍の童貫・楊戩・賈詳・何訢・藍従熙の五人を召し、それとなく禁中が狭く窮屈な状態を述べさせた。五人はそこで延福の旧名によって新たに作ることを請うた。五人は工役を分担し、力の及ぶかぎり、争って侈麗と高広を誇り尚び、それぞれ制度を作って旧を襲うことに努めなかった。完成すると延福五位と号した。東西は大内に配し、南北はやや劣った。東は景龍門に直し、西は天波門に抵り、その間に殿閣と亭台が相い望んだ。
  • 池を鑿って海とし、泉を疏いて湖とし、鶴の荘、鹿の砦、文禽・奇獣・孔雀・翡翠の諸柵は、蹄と尾を動もすれば千で数え、嘉花と名木は類ごとに集めて区別され、怪石と巌壑は幽かで勝れ、あたかも天が成したようで塵の境らしくなかった。完成すると帝は自ら文を作って記した。
  • その後さらに村居・野店・酒肆・青簾をその間に作った。年ごとに冬至の後は灯を放ち、東華門から北は夜も禁ぜず、市民の行商の店を移して道を挟んで居らせ、博打と群飲をほしいままにさせ、上元の後にようやくやめた。これを「先賞」といった。
  • ほどなくさらに旧城に跨って修築し、延福第六位と号した。あらためて城外に跨って濠を浚え二つの橋を作り、橋の下は石を畳んで固めとし、舟を引いて相い通じさせたが、橋の上の人や物は外を自由に通行して気づかなかった。これを景龍江と名づけた。江を挟んでみな奇花珍木を植え、殿宇が向かい合った。

政和七年(1117年)・御前人船所

  • 秋七月、提挙御前人船所を置いた。
  • 当時、東南の監司・郡官、二広の市舶はおおむね応奉があり、さらに旨を待たずただ物を都に送り、宦者と計らって献ずる者もあった。おおむね霊璧・太湖・慈渓・武康の諸石、二浙の奇竹と異花、海の産物、福建の茘枝・橄欖・龍眼、南海の椰子の実、登州・莱州の文石、湖湘の文竹、四川の佳い果木で、みな海を越え江を渡り、橋梁を毀ち城郭を鑿って至った。植えればみな生きて味も格別で、珍しい果実は健脚の飛脚に走らせ、甚だ遠くても数日で達し、色も香りも変わらなかった。
  • ここに至って蔡京はさらに「陛下には声色や犬馬の奉りがなく、尚ばれるのは山林の間の物、すなわち人の棄てるものです。ただ有司の奉行が行き過ぎて騒ぎを致しております」と言い、そこで提挙淮浙人船所を作ることを請い、内侍の鄧文誥に領させた。詔して、以後は必要があれば御前から降し、その数どおりに貢がせ、その他はみだりに進めることを許さぬこととした。民に便すると名づけたが、実は騒がせ害することは従来どおりだった。
  • 十二月、万歳山を作った。

宣和三年(1121年)・一時の中止と応奉司の再置

  • 春正月、童貫が詔を承けて蘇杭応奉局と花石綱を罷めた。
  • もともと帝は東南の事を童貫に付し、あわせて「急あれば御筆で行え」と言った。貫は呉に至って民が花石の騒ぎに困窮しているのを見、そこでその僚属の董耘に手詔を作らせて罪己し、諸応奉造作局を罷め、さらに御前花石綱の運搬と木石彩色などの場務を併せ罷めた。帝もまた朱勔の父子・弟・甥で職にある者を黜けた。呉の民は大いに喜んだ。
  • 閏五月、応奉司を復置した。方臘が平定されると、王黼が帝に「士大夫は姦を懐いて改めず、応奉を抑え損なわせ、みだりに譏り謗っております。特に応奉の一司を置いて、臣が専ら総領いたしたい」と言い、従われた。あわせて梁師成に内で総領させ、そこで諸応奉局を復し、発運の漕運の卒を奪って用い、戸部は敢えて詰らなかった。以来、四方の珍異の物はことごとく二人の家に帰し、尚方に入るのは十のうち一にすぎなくなった。

宣和四年十二月(1122年)・艮嶽

  • 万歳山が完成し、名を艮嶽と改めた。
  • 山は周囲十余里、そのもっとも高い一峰は九十歩、上に亭があって介という。東南に二つの嶺を分けて、まっすぐ南山に接する。
  • 山の東には蕚緑華堂・書館・八仙館・紫石巌・棲真嶝・覧秀軒・龍吟堂。山の南には寿山の両峰が並び峙ち、雁池と噰噰亭がある。山の西には薬寮・西荘・巣雲亭・白龍沜・濯龍峡・蟠秀・練光・跨雲亭・羅漢巌。さらに西には万松嶺があり、嶺の半ばに倚翠という楼があって、上下に二つの関を設け、関の下の平地に大きな沼を鑿った。
  • 沼の中に二つの洲を作り、東を蘆渚・浮陽、西を梅渚・雪浪亭という。西へ流れて鳳池となり、東へ出て雁池となり、中で二つの館に分かれ、東を流碧、西を環山という。巣鳳閣と三秀堂があり、東池の後ろに揮雪庁がある。
  • あらためて嶝道から上って介亭に至る。亭の左にはさらに極目亭と蕭森亭、右にはさらに麗雲亭がある。半山の北は景龍江を俯瞰し、江の上流を引いて山の間に注ぎ、西へ行って潄瓊軒となり、さらに石の間を行って煉丹・凝観・圜山亭となる。下は江のほとりを見下ろし、高陽酒肆と清澌閣が見える。北岸には勝筠庵・躡雲台・蕭閑館・飛岑亭がある。支流を分けて山荘とし、回渓とした。
  • さらに南山の外に小山を作って二里に横たわらせ、芙蓉城といった。巧妙を窮め極めた。景龍江の外の諸館舎はとりわけ精巧である。
  • その北はさらに瑤華宮が焼けたのに因ってその地を取って大きな池を作り、曲江池と名づけた。中に蓬壺という堂があり、東は封丘門で尽きる。その西は天波門橋から水を引いてまっすぐ西へ半里ほど、江はそこで南に折れ、また北に折れる。南に折れたものは閶闔門を過ぎて複道となり、茂德帝姫の宅に通ずる。北に折れたものは四、五里で龍德宮に属する。
  • 完成すると帝は自ら「艮嶽記」を作り、山が国の艮の位にあるからだとした。
  • もともと朱勔が太湖で高さ広さ数丈の石を取り、大船に載せ千人で挽き、城を鑿ち橋を断ち堰を毀ち閘を拆いて、数か月かかってようやく至った。折しも燕の地を得たので、「昭功敷慶神運石」と号して万歳山に立てた。さらに絳霄楼を作ったが、勢いは極めて高峻で、工芸の巧みを尽くした。
  • その後、宦官たちが築造をやめず、そこで山林と巌壑は日ごとにいよいよ高く深くなり、亭台楼観は数え切れなかった。さらに金の芝が万寿峰に生じたことから、名を寿嶽と改めた。
  • 諸々の大宦官が争って新しい趣向を出し、「土木はすでに宏麗である。ただ四方から貢がれた珍しい禽が園にあっても、みな馴れさせられぬのが心残りだ」と言った。市の人の薛翁は日ごろ鳥獣を飼い馴らして興行の芸としていたので、童貫に願い出てその仕事に就くことを請い、許された。
  • そこで日ごと輿と衛を集め、蹕を鳴らし黄蓋を張って遊ぶ形をとり、着けば大皿に肉の炙りと梁米を盛り、翁が禽の鳴き真似をしてその類を集めた。やがて十分に食わせ、飛び集まらせ、去来を任せた。一か月余りで園の禽が四方から集まり、鳴かずとも来るようになり、いよいよ馴れて鞭や扇の間に立っても畏れなくなった。そこで自らその局を「来儀所」と名づけ、四方の籠飼いの者を招き、官司を置いて総べさせた。
  • ある日、上がこの山に行幸した。清道の声を聞いて望み見て群がり翔ける禽が数万にも及んだ。翁はすかさず牙牌をもって道の左で「万歳山の瑞禽が駕を迎えます」と奏した。上は顧みて測りかね、大いに喜んで官を命じ、賜与を厚く加えた。