宋史紀事本末貝州の兵乱(王則)(貝州卒亂(王則))
弥勒下生の妖術が広まる貝州で、宣毅軍の小校王則が仲間の密告により期日を繰り上げて冬至に叛き、知州張得一を捕らえて東平王を僭称した事件。明鎬が包囲して地道を掘り、文彦博が宣撫使として引き継いで城内に突入、籠城66日で王則を捕らえて磔にするまでの2年間を扱う。
年表(2件)
- 仁宗
- 慶暦七年十一月・王則の蜂起1047年王則が貝州に拠って東平王を称し、明鎬が安撫使となる
- 慶暦八年正月~四月・鎮圧1048年文彦博が地道から城に入って王則を捕らえ、貝州を恩州と改める
仁宗慶暦七年十一月(1047年)・王則の蜂起
- 貝州の賊の王則が城に拠って叛き、明鎬を河北安撫使とした。
- 則は涿州の人。もともと飢饉のため流亡して貝州に至り、自ら身を売って人の羊飼いとなり、後に宣毅軍に属して小校となった。貝州・冀州の俗は妖術を尚び、互いに「五龍」「滴涙」などの経および諸々の図讖を習い、「釈迦仏は衰え謝し、弥勒仏がまさに世を持つ」と言っていた。則は母と別れるとき、背に「福」の字を刺して印としていた。妖人はこれに乗じて、則の字が隠れて浮き出るとみだりに伝え、人々は争って信じて仕えた。
- 州の吏の張巒と卜吉がその謀を主導し、党与は德州・斉州の諸州に連なって、翌年の元日に澶州の浮橋を断って乱を起こす約束をした。だが仲間の一人が書を持って北京留守の賈昌朝のもとへ行ったため事が発覚して捕らえられた。それゆえ則は期日を待たず、急遽、冬至の日に叛いた。
- 当時、知州の張得一はちょうど官属とともに天霊観に参詣していた。則はその徒を率いて庫の兵器を奪い、得一を捕らえて囚え、通判の董元亨に庫の鍵を求めた。元亨は声を励まして賊を罵ったので殺された。さらに司理の王奨らを殺した。兵馬都監の田斌は従卒とともに市街で戦ったが勝てず、城を出たところで門が閉ざされた。
- 提点刑獄の田京らは城壁から縄で下りて南関を保ち、驍健営に入って士卒を撫した。賊に応じようとする者があれば、京は計をめぐらしてことごとく誅した。これにより外にいた営兵はみな懾服し、南関は陥落を免れた。
- 則は僭して東平王を称し、国を安陽、年号を德勝とした。旗幟も号令もみな仏を称し、城の一つの楼を一つの州とし、州名を書いてその徒を知州に任じ、面ごとに一人の総管を置いた。しかし城壁から縄で下りる者が日ごとに増えたので、民に五人一組の保を作らせ、一人が縄で下りれば残りをことごとく斬ることとした。
- 報告が届き、知開封府の明鎬を体量安撫使とし、あわせて貝州で賊を捕らえた者には諸衛上将軍を授けると詔した。
- 鎬が州に至ると、民の汪文慶が城の上から書を結んで鎬の帳に射込み、内応を約した。夜に縄を垂らして官軍を城内に引き入れること数百人。賊は気づいて衆を率いて拒み戦い、官軍は不利となり、文慶らとともにふたたび縄で下りて出た。
- 鎬は貝州の城が高くて攻められないので距闉(攻城用の土山)を作ったが、完成間際に賊に焼かれた。そこで南側に地道を掘り、日々、北側を攻めて牽制した。
慶暦八年正月~四月(1048年)・鎮圧
- 春正月、朝廷は則がまだ下らないので文彦博を河北宣撫使、鎬を副とした。夏竦は鎬を憎み、その成功を恐れて、鎬の奏することはすべて中央で阻んだ。彦博は命を受けると軍事を専行できるよう請い、許された。
- 彦博が貝州に至ったとき、鎬の掘っていた地道がちょうど通じた。そこで壮士を選び、夜半に地道から城内に入らせ、衆が城に登った。賊は火牛を放ったが、官軍が槍で牛の鼻を突くと牛は引き返して賊を攻めた。賊は大潰して東門を開いて逃げた。総管の王信が則を追って捕らえ、残る衆で村舎に籠もった者はみな焼け死んだ。
- 夏竦がまた「捕らえたのは真の賊ではないかもしれません」と言ったので、詔して則を檻に入れて京師に送り、市で磔にした。賊が城に拠ること六十六日で敗れた。貝州を恩州と改め、張得一は賊に降った罪で誅された。
- 詔して彦博を同平章事とし、明鎬に端明殿学士を加え、賈昌朝を安国公に封じた。侍読学士の楊偕は「賊は昌朝の管轄内で起こり、大臣を出してようやく平らげたのです。昌朝は罪があるのであって、賞すべきではありません」と言ったが、聴かれなかった。
- 夏四月、明鎬を参知政事とした。彦博が鎬の貝州の功を推し、あわせてその才が大いに用いるに足ると薦めたためである。