宋史紀事本末儂智高(儂智髙)
広源州の首領儂智高が交阯への怨みと内附の拒絶をきっかけに叛き、邕州を落として大南国を称し、広州を囲んで嶺南八州を陥れるまでの経過と、狄青が宣撫使として起用され、陳曙を斬って軍令を立て直し、崑崙関を夜に越えて邕州で智高を大破し広南を平定するまでの5年間。
年表(4件)
- 仁宗
- 皇祐元年九月・儂智高の蜂起1049年儂智高が邕州の横江寨を攻め、守将張日新らが戦死する
- 皇祐四年五月・広州包囲1052年邕州を落として大南国を称し、八州を陥れて広州を囲む
- 皇祐四年六月~九月・狄青の起用1052年狄青が出征を請うて宣撫使となり、賓州で陳曙ら三十二人を斬る
- 皇祐五年正月~五月・崑崙関の勝利1053年夜に崑崙関を越えて邕州で智高を破り、広南が平定される
仁宗皇祐元年九月(1049年)・儂智高の蜂起
- 乙巳、広源州の蛮の儂智高が叛いて邕州を侵した。
- もともと儂氏は唐の初めから西原に雄拠し、代々広源州の首領だった。唐末に交阯が強盛になると広源はこれに服属した。知儻猶州の儂全福が交人に殺され、その妻は商人に再嫁して智高を生み、儂氏の姓を冒した。壮年になると母とともに儻猶州に拠って国を建て、大暦と号した。交人が攻めて捕らえたが、罪を許して知広源州とした。
- 智高は交阯を怨み、隙に乗じて安德州を襲って占拠し、僭して南天国と称し、景瑞と改元した。亡命者を招き入れ、中国に貢献して内附を求めたが朝廷は許さなかった。あらためて金の函に入れた書を奉じて請うたが、これも返答がなかった。
- 智高は怒り、広州の進士の黄師密らと広南を占拠することを謀った。そこでたびたび古着を出して穀と交換し、「洞中は飢饉で部落は離散した」と偽った。知邕州の陳珙はこれを信じて備えを設けなかった。
- ある夕、智高は突然、火を放って自分の住居を焼き、衆を欺いて「生涯の蓄えが今、天火に焼かれた。生計は窮した。邕州と広州を取って王となるほかない。さもなくば兵に死ぬだけだ」と言った。衆は従い、そこで五千の衆を率いて江に沿って東下し、邕州の横江寨を攻めた。守将の張日新らが戦死した。詔して江南・福建などの路に兵を出して備えさせた。
皇祐四年五月(1052年)・広州包囲
- 智高が邕州・横州などの諸州を落とし、広州を囲んだ。詔して鈐轄の陳曙らに兵を出して討たせた。
- 智高は邕州を攻め落として知州の陳珙らを捕らえ、司戸の孔宗旦を任用しようとした。宗旦は屈せず、大いに罵って死んだ。智高は州に大南国を建て、自ら仁恵皇帝と称し、啓暦と改元して官属を置いた。
- 当時、天下は久しく安らかで、広南の州郡には備えがなく、智高の向かうところ、守臣はすぐ城を棄てて逃げた。かくて横・貴・藤・梧・康・端・龔・封の八州が陥ちた。知封州の曹覲と知康州の趙師旦はいずれも戦死した。
- 智高は進んで広州を囲んだ。知州の魏瓘は力戦して防いだ。知英州の蘇緘は壮勇の者を集めて数千人を得、救援に赴いて賊の帰路を扼し、黄師密の父を捕らえて斬って衆に示した。転運使の王罕もまた外から至り、民兵を募っていよいよ守備を修めたので、城は陥落を免れた。
- 報告が届くと陳曙に討伐を命じ、さらに余靖を広西安撫使として、提刑の李樞および曙とともに賊盗の事を経営させ、あらためて楊畋に広西・広東の鈐轄の兵を検分・安撫させて赴かせた。
皇祐四年六月~九月(1052年)・狄青の起用
- 六月丁亥、狄青を枢密副使とした。もともと尹洙が青と兵を語ってこれを善しとし、韓琦と范仲淹に「これは良将の材です」と薦めた。二人は厚遇した。仲淹は『春秋左氏伝』を授けて「将たる者が古今を知らなければ、匹夫の勇にすぎない」と言った。青はこれによって節を折って読書し、秦漢以来の将帥の兵法にことごとく通じ、累進して馬軍副都指揮使となった。
- 狄青は行伍から起こって十余年で顕貴となったが、顔の入れ墨はそのまま残っていた。帝がかつて薬を塗って除くよう命じたとき、青は自分の顔を指して「陛下は功によって臣を抜擢され、門地を問われませんでした。臣が今日あるのはこの入れ墨のおかげです。臣はこれを留めて軍中を励ましたく存じます。詔は奉じかねます」と言った。帝はいよいよ重んじた。
- ここに至って知延州から召されて副使に拝された。台諫の王居正らが不可を諫めたが、帝は聴かなかった。
- 秋七月、儂智高が昭州を落とした。
- 九月、孫沔を広南安撫使とした。もともと沔を知秦州として引見したとき、帝は秦州の事で励ました。沔は「秦州は聖慮を煩わすに足りません。陛下は嶺南こそ憂うべきです。臣が見るに賊の勢いはまさに張っており、官軍は近く必ず敗報を出しましょう」と答えた。やがて昭州鈐轄の張忠の敗報が届いたので、帝は沔を湖南・江西安撫使に除した。
- 沔は騎兵の派遣を請い、武庫の精良な甲を求めた。梁適が沔を挫いて「大げさに騒ぐな」と言うと、沔は「先日、備えがなかったからこそこうなったのです。今になって鎮静を示そうというのですか。実の備えがないのに外見だけ鎮静を装うのは危亡の道です」と答えた。そこで兵七百人を与えられた。
- 沔は賊が嶺を越えて北上することを憂え、湖南・江西に檄して「大兵がまもなく至る。営壘を修繕し、犒いの支度を多く備えよ」と言わせた。賊は疑って北へ侵入しなかった。鼎州まで進んだところで広南安撫使を加えられた。
- 智高の侵略は日ごとにひどくなり、嶺外は騒動し、楊畋らは久しく功がなく、帝は憂えた。智高は行営に書を送って邕州・桂州の節度使を求めた。帝がその降伏を受け入れようとすると、梁適は「そうなれば嶺表は朝廷のものではなくなります」と言った。
- 折しも狄青が上表して出征を請うたので、宣撫使・提挙広南経制盗賊事とした。青は入対して自ら「臣は行伍から起こりました。戦伐でなければ国に報いる術がありません。蕃落の数百騎を得、さらに禁兵を加えて、賊の首を捕らえて闕下に致したく存じます」と言った。帝はその言を壮とした。
- 当時、入内都知の任守忠を青の副とする命があった。知諫院の李兌は「唐がその政を失ったのは、宦者を観軍容使として主将の手足を縛ったためです。法とするに足りません」と言い、守忠を罷めた。諫官の韓絳がさらに「青は武人です。専任すべきではありません」と言った。帝が龐籍に問うと、籍は力を尽くして青が用いるに足ることを賛し、あわせて「号令が専らでないなら、遣わさぬほうがましです」と言った。そこで嶺南の諸軍はみな青の節度を受けるよう詔した。
- 儂智高が賓州を落とし、ふたたび邕州に入った。当時、交阯が兵を出して智高の討伐を助けると申し出、余靖は便宜としてこれを許し、朝廷に請うた。狄青が奏して「外から兵を借りて内の寇を除くのは我が利ではありません。一人の智高が二広を踏みにじり、こちらの力で制せられぬからといって蛮夷の兵を借りれば、蛮夷は得るものを貪って義を忘れ、それに因って乱を開いたとき、何をもって防ぐのですか。交阯の助兵を罷められたい」と言い、帝は従った。
- 十二月、狄青は賓州で兵を統べ、陳曙の兵が敗れたので斬って衆に示した。
- 青は行軍にあたって行伍を立て約束を明らかにし、野戦でもすべて営柵を組んだ。広南に至って孫沔・余靖の兵と合わせ、進んで賓州に至り、諸将に「みだりに賊と戦うな。私のなすところに従え」と戒めた。
- 広西鈐轄の陳曙は青の到着前に、勝手に歩兵八千で賊を撃って崑崙関で潰え、殿直の袁用らはみな逃げた。青は「令が揃わなかったから兵が敗れたのだ」と言い、早朝に諸将を堂上に集め、曙に会釈して立たせ、あわせて用ら三十二人を召し、敗亡の状を糾して軍門の外に引き出して斬った。沔と靖は顔を見合わせて呆然とし、諸将は足を震わせて誰も顔を上げられなかった。
皇祐五年正月~五月(1053年)・崑崙関の勝利
- 春正月、狄青は夜に崑崙関を越え、邕州で儂智高を大破した。智高は大理へ逃げ、広南は平定された。
- 青は陳曙を誅した後、兵を止めて営に留め、軍に十日の休みを命じた。衆は意図を測りかねた。賊の偵察者は帰って「軍はすぐには進まぬ」と告げた。青は翌日、兵を整えて自ら前軍を率い、孫沔が次軍、余靖が殿となり、夕に崑崙関に至った。
- 夜明け、大将の旗鼓を整え、諸将は帳の前に立ち並んで令を待って出発しようとしたが、青はすでに微服して先鋒とともに関を越えていた。諸将に関の外で会食するよう促した。
- 賊はここで初めて気づき、全軍を出して迎え撃った。右将の孫節が賊と組み合って山の下で死に、賊の気は甚だ鋭く、沔らは恐れて顔色を失った。青は白旗を執って蕃落の騎兵を左右の翼から撃たせた。縦横に開き合わせて部伍は乱れず、賊は為す術を知らず大敗して逃げた。五十里追撃して数千級を斬り、賊の党の黄師密・儂建中らおよび偽の官属で死んだ者は百五十七人、賊の生け捕りは五百余、死者は一万を数えた。
- 智高らは夜に火を放って城を焼いて逃げ、合江口から大理に入った。夜明け、青は兵を整えて入城し、金帛を巨万も得た。老いも壮も七千二百人を招き還し、賊に俘われ脅されていた者は慰めて帰した。師密らを城下で梟首し、屍を集めて城の北隅に京観を築いた。
- 当時、賊の屍に金の龍衣を着た者があり、衆は智高が死んだと考えて上聞しようとした。青は「それが偽りでないとどうして分かるのか。智高を取り逃がしてでも、功を貪って朝廷を欺くことはできぬ」と言った。広南はことごとく平定された。
- 勝報が届くと帝は喜んで「青が賊を破ったのは龐籍の力だ」と言い、さらに「もし梁適の言がなければ、南方の安危はどうなっていたか分からぬ」と言った。詔して余靖に広西を経営させて智高を追捕させ、青と沔を召し還した。
- 二年後、靖は都監の蕭注を特磨道に入らせ、智高の母および弟の智光、子の継宗・継封を生け捕った。また決死の士を募って大理に智高を求めさせ、幾重もの通訳を経てようやく到達したが、智高はすでに大理で死んでいた。首を箱に納めて京師に至り、そこでその母と弟・子を誅した。
- 五月、狄青を枢密使、孫沔を副使とした。広南平定の功に報いたものである。龐籍および台諫・朝士はみな青を長官とすべきでないと論じたが、省府は聴かなかった。