宋史紀事本末郭皇后の廃立(温成の事を付す)(郭后之廢(溫成事附))

仁宗の郭皇后が尚美人との争いで誤って帝の首を傷つけ、恨みを抱く呂夷簡と内侍閻文応の主導で廃位された事件と、その後の曹后冊立、郭后の急死、張貴妃(温成)の専寵をあわせて記す。孔道輔・范仲淹ら台諫十人が垂拱殿に伏して争ったが門は閉ざされ、そろって外に出された。慶暦の衛士の変では曹后が機転で帝を守り、皇祐には唐介が張堯佐の登用と文彦博を弾劾した。天聖二年(1024年)の郭后冊立から至和元年(1054年)の張貴妃の死まで、約三十年間。

年表(8件)

仁宗天聖二年十一月(1024年)

  • 乙巳、皇后に郭氏を立てた。后は平盧節度使の郭崇の孫娘である。当時、張美人が寵を得ていて帝は彼女を立てようとしたが、太后が許さなかったのでやめた。それゆえ后は立てられても、かなり疎んじられた。

明道二年夏四月(1033年)・呂夷簡の罷免と復帰

  • 呂夷簡・張耆・夏竦・陳堯佐・范雍・趙稹・晏殊が罷免された。先に夷簡は自ら疏を書いて八事を陳べた。朝綱を正すこと、邪径を塞ぐこと、賄賂を禁ずること、佞人を弁ずること、女謁を絶つこと、近習を疎んずること、力役を罷めること、冗費を節すること。帝に勧める言葉は甚だ切実だった。
  • 帝はそこで夷簡と謀り、張耆らはみな太后に付き従った者なのですべて罷めようとし、夷簡ももっともとした。帝は退いて皇后に話した。后は「夷簡だけが太后に付かなかったとでも。ただ機巧が多く、変に応ずるのが上手なだけです」と言い、これにより夷簡も罷免された。
  • 制が下ったとき、夷簡はちょうど押班していて、名が読み上げられるのを聞いて大いに驚き、理由が分からなかった。日ごろ厚遇していた内侍都知の閻文応に探らせ、事が郭后に発することを知った。これにより后を深く恨んだ。
  • 八月戊午、ふたたび呂夷簡を同平章事とした。
  • 十一月、美人の張氏が没し、追って皇后に冊された。

明道二年十二月(1033年)・郭后の廃位

  • 乙卯、皇后の郭氏を廃した。当時、尚美人と楊美人がともに寵を得ており、日ごろから皇后と激しく争っていた。ある日、尚氏が帝の前で后を侵す言葉を吐いた。后は憤りに堪えずその頬を打った。帝が自ら立って救おうとしたところ、誤って帝の首を打ってしまった。帝は大いに怒った。
  • 内侍の閻文応はこれに乗じて帝と后を廃することを謀り、爪痕を執政に示すよう勧めた。帝が呂夷簡に示して経緯を告げると、夷簡は以前の恨みから廃立の議を主導した。帝がなお迷うと、夷簡は「光武帝は漢の明主です。郭后は怨みを抱いただけで廃されました。まして陛下の首を傷つけたのですから」と言い、帝の意は決した。
  • 夷簡はまず有司に台諫の章奏を受理せぬよう命じ、そのうえで「皇后が入道を願ったので浄妃・玉京冲妙仙師に封じ、長寧宮に住まわせる」と詔した。台諫の章奏は果たして入らなかった。
  • そこで中丞の孔道輔が諫官の范仲淹・孫祖德・宋庠・劉煥、御史の蔣堂・郭勧・楊偕・馬絳・段少連ら十人を率いて垂拱殿に赴き、伏して「皇后は天下の母です。軽々しく廃すべきではありません。どうか対面を賜り、申し上げたいことを尽くさせていただきたい」と奏した。殿の門は閉ざされて取り次がれず、道輔は環を叩いて大声で「皇后が廃されようとしているのに、なぜ台臣の言を聴かれぬのですか」と叫んだ。
  • ほどなく詔があり、夷簡に皇后を廃すべき事情を諭させた。道輔らが中書に至って夷簡に「大臣の帝后に対する関係は、子が父母に仕えるようなものです。父母が不和なら諫めて止めるべきなのに、どうして父に従って母を出すのですか」と言うと、夷簡は「后を廃すのは漢唐の故事がある」と答えた。道輔は「人臣は君を堯舜に導くべきです。どうして漢唐の失徳を引いて法とできましょう」と言い、夷簡は答えられなかった。そこで「閤に伏して対面を請うのは太平の美事ではありません」と奏し、道輔を知泰州、仲淹を知睦州として出し、祖德らには罰金を科し、あわせて台諫が今後、連れ立って対面を請うことを禁ずる詔を出した。
  • 翌日、道輔らは朝に赴き、百官を留めて宰相に会釈して朝廷で争おうとしたが、待漏院で詔を聞いて退いた。道輔は硬骨で毅然、事に遭って弾劾し憚るところがなかったので、天下はみな直道の人と認めた。
  • 僉書河陽判官の富弼は「朝廷は一挙にして二つを失った。たとえ后を復せなくとも、仲淹らは戻すべきです」と言ったが、聴かれなかった。

景祐元年(1034年)・曹后の冊立

  • 詔して浄妃の郭氏を瑤華宮に移り住まわせ、尚美人を入道させ、楊氏を別宅に安置した。
  • 九月甲辰、詔して曹氏を皇后に立てた。曹彬の孫娘である。
  • もともと郭后が廃されたとき、帝は宋綬に詔を作らせ、「まさに德ある家を求めて坤儀に称うべし」と書かせた。ところがその後、左右が富人の陳氏の娘を宮に引き入れた。綬は「陛下は賤しい者を中宮に正位させようとされるのですか。先の詔と矛盾しませんか」と言った。王曾も入対して論奏したので、陳氏を退けて曹氏を立てた。
  • 御史裏行の孫沔は荘献の喪の期間を終えてから行うよう請い、秘書丞の余靖もこれを言ったが、取り上げられなかった。

景祐二年~三年(1035-1036年)・郭后の急死

  • 二年十一月戊子、もとの后の郭氏が急死した。后が瑤華宮にいるあいだ、帝はかなり彼女を懐かしみ、使者を遣わして見舞い、楽府を賜った。后が和して答えた詞は甚だ悲しく痛切で、帝はいよいよ悔いた。
  • あるとき密かに人を遣わして召そうとしたが、后は「もし再び召されるなら、百官を並ばせて冊を受けてからでなければなりません」と辞した。閻文応は日ごろ后を讒していたので、その復位を恐れた。后が軽く病んだ折、帝が文応に医者を連れて診させたところ、数日で后の急死を告げた。中外は文応が毒を進めたと疑ったが、実証は得られなかった。帝は深く憐れみ、礼をもって殮葬したが、諡・冊・祔廟の礼はとどめた。
  • 知開封府の范仲淹が文応の罪を弾劾して奏し、嶺南に流されて途中で死んだ。
  • 三年春正月壬辰、郭氏を追復して皇后とした。丁酉、皇后の郭氏を葬った。

慶暦八年閏正月(1048年)・宮中の変と曹后

  • 帝は閏正月の十五夜に灯を張ろうとしたが、曹后が諫めて止めた。三日後、親従官の顔秀ら四人が乱を謀り、夜に禁中に入り、屋根を越えて寝殿を叩いた。皇后はちょうど帝に侍っていた。変を聞いて帝は急いで立ち上がり、出ようとしたが、后は閤を閉ざして押しとどめ、急ぎ都知の王守忠を召して兵を引き入れて護衛させた。
  • 賊が殿の下で宮の女官を傷つけ、その声が帝のところまで届いた。宦者が「乳母が女の子を打っているのです」と偽って奏すると、后は叱って「賊が近くで人を殺しているのに、みだりなことを言うのか」と言った。ひそかに人に水を持たせて後を追わせたところ、賊は果たして松明を掲げて簾を焼こうとし、水でこれを消した。
  • その夕、遣わした内侍の髪を后はみな自ら切り、「これを賞の証しとする」と言ったので、争って死力を尽くした。守忠の兵が至って賊は捕らえられ滅ぼされた。
  • 詔して皇城司を領する者はみな連坐して斥けたが、事は副都知の楊懐敏に及んだ。夏竦は懐敏と結んでいたので庇おうとし、御史と宦官に禁中で合同して取り調べるよう請うた。丁度は「宿衛に変があり、事は社稷に関わります。外の台に付して徹底的に糾明されたい」と言い、帝の前で争ったが、帝は竦の議に従った。これにより懐敏は官を降されただけで、内職は従来どおりだった。
  • 十二月丁卯、美人の張氏を貴妃に冊した。もともと衛士の変のとき、帝は美人に警蹕を扈従した功があるとした。夏竦は彼女を尊ぶ議を建て、同知諫院の王贄も「賊はもともと皇后の閤の前から起こりました。その事を究明されたい」と言った。中宮を揺さぶり、ひそかに美人のために地歩を作ろうとしたのである。帝が御史の何剡に問うと、剡は「これは姦人の謀です。よく察せられねばなりません」と言った。帝は悟り、事は沙汰止みとなった。だが美人はついに功によって貴妃に進んだ。

皇祐二年~三年(1050-1051年)・張堯佐と唐介

  • 皇祐二年十一月己未、外戚は二府に任じてはならぬと詔した。当時、張貴妃の寵は後宮に冠たるもので、張堯佐はその伯父だった。急に宣徽・節度・景霊・群牧の四使に除されたので、殿中侍御史の唐介と知諫院の包拯・呉奎らが力を尽くして争い、中丞の王挙正もまた百官の班を留めて朝廷で論じた。それでこの詔が出、あわせて堯佐の宣徽・景霊の二使を罷めた。
  • 三年冬十月、あらためて張堯佐を宣徽使・知河陽に除した。侍御史の唐介は同列に「これは宣徽を与えるために河陽を名目にしているだけだ」と言った。同列が曖昧にする中、介だけが抗言した。帝が「除擬はもともと中書から出たものだ」と言うと、当時、文彦博が首相だったので、介はそのまま彦博を弾劾した。彦博が知益州のとき、間金と奇錦を作らせて宦官を通じて宮中に通じ、それで執政の地位を得たこと、今また堯佐を顕職に用いていよいよ自ら固めていること、彦博を罷めて富弼を宰相とすべきことを、甚だ率直に述べた。
  • 帝は怒ってその奏を退けて見ようとせず、「遠くに竄す」と言った。介はゆっくりと疏を読み終えて「臣は忠憤に激せられております。鼎鑊も避けません。謫されることを辞するものですか」と言った。
  • 帝は急いで執政を召して示し、「介が事を論ずるのはその職である。しかし彦博が妃嬪によって宰相になったとまで言うのは何事か。冢司の登用に介入できるはずもないのに、富弼を薦めるとは」と言った。そのとき彦博は帝の前にいた。介は彦博を責めて「彦博は自ら省みられよ。もしそのような事があるなら隠してはならぬ」と言った。彦博は拝謝してやまなかった。帝の怒りも甚だしく、梁適が介を叱って殿を降りさせようとしたが、介はなお力を尽くして争い、帝は声色ともに厳しかった。
  • 修起居注の蔡襄が急ぎ進み出て救い、「介はまことに狂直です。しかし諫めを納れ言を容れるのは人主の美德です。どうか寛大にお許しください」と言った。そこで介を春州別駕に貶した。王挙正が重すぎると言い、帝も悟った。翌日、その疏を取って読み、英州に改め、彦博を罷めて知許州とした。帝は介が途中で死んで直臣を殺した名を得ることを慮り、中使に護送させた。これにより介の直言の名は天下に聞こえ、天下で真の御史と称する者は必ず唐子方(介)を挙げるようになった。

至和元年正月(1054年)・張貴妃の死

  • 癸酉、貴妃の張氏が没した。貴妃は巧智に富み、迎合が上手で、父の堯封は郡王を贈られ、伯父の堯佐は太師に至り、姻戚はみな顕貴となった。しかし帝は法度を守り、事は大小を問わずすべて外庭の議に付した。宮禁からの請託は、いったん裁可されても途中で退けられることがあり、貴妃は寵を独占して格別だったとはいえ、ついに政を乱すには至らなかった。
  • 没すると帝は甚だ悼み、七日朝を廃し、京城で一か月の音楽を禁じ、温成皇后に追冊して皇儀殿で喪を執り行った。知制誥の王洙は密かに内使の石全斌と附会し、非礼をもって帝を導くことに努め、孫沔に冊を読ませ、宰相に葬を護らせようとし、帝は従った。沔は「陛下がこの沔に冊を読ませようとされるならよろしいが、枢密副使として冊を読むのはなりません」と言い、強く辞任を求めた。
  • 当時、陳執中が首相で、温成の喪事をひたすら謹んで奉行し、しかも王洙を翰林学士に引いたので、士の議論はこれによって争って執中を咎めた。