宋史紀事本末明肅・荘懿両后の事(明肅莊懿之事)

仁宗の生母である李宸妃と、その子を我が子として育てた劉太后(明粛)をめぐる一件。寒微の出の劉氏が真宗の皇后に立ち、真宗崩後は十一年にわたり垂簾聴政して号令は厳明だったが、魯宗道や范仲淹らがしばしば還政と礼制の逸脱を諫めた。李宸妃の死に際しては呂夷簡が后の服と水銀での殮を説いて後難を防ぎ、太后の死後、真相を知った仁宗は生母を荘懿と追諡した。景德四年(1007年)の郭后崩御から明道二年(1033年)の親政までの約四半世紀。

年表(8件)

真宗景德四年四月(1007年)

  • 皇后の郭氏が崩じ、荘穆と諡された。

大中祥符三年四月(1010年)・仁宗の出生

  • 甲戌、皇子の受益が生まれた。後宮の李氏の産んだ子である。李氏は杭州の人で、入宮して劉德妃に仕えた。荘重で寡黙だったので、帝は司寝とした。身ごもってから帝に従って砌台に臨んだとき、玉の釵を落とした。帝はひそかに「釵が無事なら男子が生まれる」と占った。左右が取って進めると元のままだった。やがて果たして男子を挙げた。劉德妃はこれを自分の子として奪い、李氏は何も言えず、内外も知らなかった。

大中祥符五年十二月(1012年)・劉后の冊立

  • 丁亥、德妃の劉氏を皇后に立てた。もともと后の父の劉通は虎捷都指揮使で、太原征伐に従って途中で没した。后は襁褓のうちに孤児となり、母方で育てられた。鼗(振り鼓)を鳴らすのが上手だった。蜀の人の龔美という者が銀を鍛えるのを業としていて、后を連れて京師に来た。十五歳のとき襄邸(真宗の潜邸)に入り、帝が即位すると美人から德妃に進み、後宮の寵を独占した。
  • 郭后が崩じて帝が立てようとすると、翰林学士の李迪は「妃は寒微の出です。天下の母とすべきではありません」と言ったが、帝は従わず、ついに后に立てた。
  • 后は立てられると、宗族がないので龔美を兄とし、その姓を劉と改めさせた。李迪の諫言を聞いて深く恨んだ。
  • 后は警敏な性で書史に通じ、朝廷の事を聞けばその本末を記憶できた。帝が朝から退いて天下の封奏を閲するのが夜中に及ぶことも多かったが、后はみな与り聞き、宮中の事で問われれば必ず故実を引いて答えた。帝は深く重んじ、これによって后は次第に外の政に干渉するようになった。
  • もともと帝が劉后を立てようとしたとき、丁謂に楊億へ制を草すよう諭させた。億は難色を示し、謂が「まあこれをやれ。富貴は心配ない」と言うと、億は「そのようにして得る富貴なら、望むところではありません」と答えた。そこで他の学士に草させた。

乾興元年(1022年)・垂簾聴政の開始

  • 二月戊午、帝が崩じ、太子が即位した。皇后を皇太后、淑妃の楊氏を皇太妃として尊んだ。
  • 三月庚寅、帝が初めて崇德殿に出御し、太后は承明殿に幄次を設け、簾を垂れて輔臣に会った。
  • 八月乙巳、太后は帝とともに承明殿に出御し、簾を垂れて聴政した。

仁宗天聖元年~五年(1023-1027年)

  • 天聖元年五月庚寅、皇太后の儀衛の制を乗輿(天子)と同じとすることを議した。
  • 天聖三年春正月辛卯、長寧節に近臣および契丹の使者が崇政殿で太后に寿を上った。
  • 天聖五年春正月壬寅朔、帝が群臣を率いて会慶殿で太后に朝した。先に帝は太后に、元日にまず太后に寿を上げてから朝を受けたいと申し出たが、太后は許さなかった。王曾は「陛下は孝をもって母儀を奉じ、太后は謙をもって国体を全うされます。どうか太后のお言葉どおりに」と奏したが、帝は従わなかった。
  • 太后がかつて参知政事の魯宗道に「唐の武后はどのような主か」と問うた。宗道は「唐の罪人です。危うく社稷を滅ぼすところでした」と答え、后は黙した。小臣の方仲弓が劉氏の七廟を立てるよう請うたとき、后が輔臣に問うと衆は敢えて答えなかったが、宗道だけが進み出て「もし劉氏の七廟を立てれば、嗣君(帝)をどうなさるのですか」と言い、取りやめとなった。
  • 后がかつて帝とともに慈孝寺に行幸した折、輦に乗って先に行こうとしたが、宗道は「夫が死ねば子に従う」の義をもって争った。后はただちに輦を乗輿の後に回させた。これ以来、后の左右で用事する者の多くが宗道を憚り、「魚頭参政」と呼んだ。

天聖七年~八年(1029-1030年)・范仲淹の諫言

  • 天聖七年十一月癸亥、冬至に帝が百官を率いて会寧殿で皇太后に寿を上り、そのまま太安殿に出御して朝を受けた。秘閣校理の范仲淹は事前に上疏して「天子が内で親に奉ずるには自ら家人の礼があります。今、百官と同列に北面して朝されるのは、君の体を欠き主の威を損なうもので、後世に法を垂れる所以ではありません」と述べたが、疏は取り上げられなかった。
  • 晏殊は初めに仲淹を館職に薦めた者だったので、これを聞いて大いに恐れ、仲淹を呼んで狂率で名を求めていると詰り、薦めた者にまで累が及ぶと言った。仲淹は正色して「仲淹は不才ながら公のご推薦を辱くし、常に相応しくなくて知己に恥をかかせることを懼れてまいりました。今日、かえって忠直によって門下から罪を得ようとは思いませんでした」と抗言し、殊は答えられなかった。
  • やがて仲淹はまた太后の還政を請う疏を上げたが、これも取り上げられなかった。そこで外任を乞い、河中府通判として出た。
  • 天聖八年二月、范仲淹が疏を上げて太后の復辟(政を帝に返すこと)を請うた。その大略は「陛下は聖躬を擁扶して大政を聴断されること、日月久しくなりました。今、皇帝は年齢すでに盛んで睿哲明聖であられます。乾綱を握りながら坤紐に帰するのは、黄裳の吉象ではありません。長楽宮で慶寿を保ち、大権を収めて真の主にお返しになり、天下の養を享けられるほうがよいのではありませんか」というものだった。疏は取り上げられなかった。

明道元年二月(1032年)・李宸妃の死

  • 丁卯、真宗の宸妃の李氏が没した。李氏は実は帝を生んだ人である。太后が帝を自分の子として引き取り、楊太妃とともに保護した。李氏は先朝の嬪御の中に黙って身を置き、自らを他と異にすることがなかった。人は太后を畏れて敢えて言う者もなかった。それゆえ帝は年長じても、自分が李氏の出であることを知らなかった。ここに至って病が篤くなり、順容から宸妃に進んだ。
  • 没すると、太后は宮人の礼で外に喪を出そうとした。呂夷簡は「礼として手厚くすべきです」と奏した。太后はただちに帝を引いて立ち去ったが、しばらくして独り簾の下に戻り、夷簡を召して「一人の宮人が死んだだけなのに、相公はあれこれ言うのはなぜか」と問うた。夷簡は「臣は宰相として罪を待つ身。事は内外を問わず、すべて与るべきです」と答えた。后は怒って「相公は私たち母子を離間しようというのか」と言った。夷簡は「太后は劉氏を全うされたくないのですか。劉氏を思われるなら、喪礼は手厚くすべきです」と答えた。
  • 司天が意を迎えて「年月が利あらず」と言ったが、夷簡はその説を伏せて発哀・成服を請うた。あわせて入内都知の羅崇勲に「宸妃は聖躬を生まれた方だ。その喪が礼を成さなければ、いずれ必ずその罪を受ける者が出よう。夷簡が今日言わなかったなどと言うな。后の服で殮し、水銀を棺に満たすべきだ」と言った。后は悟り、一品の礼で殮した。
  • そのとき宮城の垣を穿って喪を出す詔が出ようとしていたが、夷簡は「垣を穿つのは喪の礼ではありません。西華門から出すべきです」と言い、太后は従った。洪福院に殯した。

明道二年二月~四月(1033年)・太后の死と親政

  • 二月乙巳、皇太后が天子の衮冕を着けて太廟を享けようとした。薛奎は力を尽くして諫め、「必ずこれをお召しになるなら、どのように拝されるのですか」と言ったが、后は聞かず、儀天冠をかぶり衮を着て初献し、皇太妃が亜献、皇后が終献した。礼が終わると群臣は太后に尊号を上った。
  • 丁未、帝は東郊で先農を祀り、自ら籍田を耕した。宰相の張士遜に太廟への謝と籍田耕作の記を撰させたが、検討の朱郊が「皇太后の謁廟は後世の法ではありません」と言ったので、籍田記だけを撰することとした。
  • 三月庚寅、皇太后の病により大赦し、通常の赦で許されない者まで許し、乾興以来、貶されて死んだ者は官を復し、謫された者は内地に移した。
  • 甲午、皇太后が崩じた。称制すること十一年、政は宮闈から出たとはいえ、号令は厳明で恩威が天下に加わった。左右の近習にはあまり緩めることがなく、宮中で妄りに改造することもなく、内外への賜与にも節度があった。族人に御食を賜るときは必ず釦器(縁飾りのある器)に取り替えさせ、「尚方の器を我が家に入れさせるな」と言った。
  • 三司使の程琳が武后臨朝の図を献じたとき、后はこれを地に投げて「私は祖宗に背くことはしない」と言った。漕使の劉綽が帰京して「倉に余剰の糧千余斛があります。三司に付されたい」と言うと、后は「卿は王曾・張知白・呂夷簡・魯宗道を知っているか。この四人が余剰を献じて出世したとでもいうのか」と問うた。
  • 晩年はやや外戚を進め、宦者の羅崇勲・江德明らに外の事を探らせた。崇勲はこれによって勢いが中外を傾けた。
  • ここに至って后が崩じると、帝は左右に泣いて「太后は病んで言葉が出ぬまま、なお何度もその衣を引かれた。何か言い遺したいことがあったのだろうか」と言った。薛奎は「衮冕のことでございましょう。それを着けたままで、どうして地下で先帝にお会いになれましょう」と言った。帝は悟り、后の服で殮し、荘献明粛と諡した。旧制では后にはみな二字の諡だったが、称制した者に四字の諡を加えるのはここに始まった。
  • 太后の遺詔は太妃を皇太后として尊び、皇帝とともに軍国の事を議させるというものだった。閤門が百僚に賀を促したが、御史中丞の蔡斉は台の吏に目配せして班を集めさせず、入って執政に「主上は年長じて天下の実情に通じておられます。今こそ自ら朝政を執られるべきです。どうして女后が相次いで称制してよいものでしょうか」と言った。殿中侍御史の龐籍は、閤門から垂簾の儀制を取り寄せてことごとく焼くよう請うた。そこで取りやめとなり、太妃を皇太后として尊びつつ、「同議軍国事」の語は削った。
  • 夏四月壬寅、左右のうちに帝に「陛下は李宸妃のお生まれで、妃は非業の死を遂げられました」と言う者があった。帝は幾日も号泣し、詔を下して自ら責め、皇太后を追尊して荘懿と諡した。洪福寺に行幸して祭告し、梓宮を改めるにあたり自ら開いて見た。妃は水銀のおかげで顔色が生けるがごとく、冠服は皇后のものだった。帝は嘆じて「人の言葉は信じられるものか」と言い、劉氏への待遇をいっそう厚くした。
  • 壬子、帝は初めて親政した。寺観の新設をやめ、僥倖を裁き抑え、宋綬と范仲淹を召し、内侍の羅崇勲らを退けたので、中外は大いに喜んだ。
  • 范仲淹を右司諫とした。仲淹は遺詔で楊太妃を皇太后として国事に参決させると聞き、急ぎ上疏して「太后とは母の号です。保育したからといって代わりに立てた例はありません。今、一人の太后が崩じてまた一人の太后を立てれば、天下は陛下が一日も母后の助けなしでは済まぬのかと疑いましょう」と述べた。当時すでに「参決」などの語は削られていたが、太后の号はついに改められず、ただその冊命を罷めただけだった。
  • もともと太后は帝を実子のように愛し、帝もまた孝を尽くして、終始わずかの隙間もなかった。ここに至って帝が政務を自ら執ると、言う者の多くが太后の時の事を追いそしった。范仲淹は上言して「太后は先帝の遺託を受けて陛下を調護されること十余年。今はその小過を掩って大德を全うされるべきです」と述べた。帝は「それは私も聞くに忍びない」と言い、詔を下して中外を戒め、皇太后が垂簾していた頃の事をみだりに言うことを禁じた。
  • 冬十月丁酉、荘献明粛皇后と荘懿皇后を永定陵に葬った。祔廟の礼を定めるよう詔したところ、翰林侍読学士の宋綬が『春秋』の「仲子の宮を考える」ことと唐の坤儀廟の故事を引いて別に宮を築くよう請い、そこで奉慈廟を作って二つの神主を奉じた。