宋史紀事本末丁謂の姦(丁謂之姦)

寇準の推挽で世に出た丁謂が、鬚を拭った屈辱を恨みとして準に牙を剥き、真宗の病中に李迪・周懐政を退けて権を擅にし、雷允恭と結んで政を宦者の手に移した経緯。仁宗即位後は寇準・李迪を雷州・衡州へ流し、王曾すら口を封じたが、山陵の穴を勝手に移した一件が露見して允恭は誅され、劉德妙の妖事も暴かれて崖州に貶された。天禧三年(1019年)から乾興元年(1022年)の銭惟演罷免までの四年間。

年表(8件)

真宗天禧三年六月(1019年)

  • 寇準を同平章事、丁謂を参知政事とした。
  • 先に準は謂と親しく、かつてその才を李沆に薦めたが、沆は用いなかった。準が理由を問うと、沆は「謂はたしかに才がある。しかしその人となりを見て、人の上に置けるものか」と言った。準が「謂のような者を、相公は生涯、人の下に抑えておけるとお思いか」と言うと、沆は笑って「いずれ私の言葉を思い出すだろう」と言った。準は最後まで納得しなかった。
  • 謂は準の称揚によって次第に顕位に上ったが、同列になっても準に甚だ謹んで仕えた。あるとき中書で会食し、羹が準の鬚を汚した。謂はおもむろに立ってこれを拭った。準は笑って「参政は国の大臣ではないか。上役の鬚を拭うのか」と言った。謂は大いに恥じて恨み、こうして仇となった。

天禧四年六月(1020年)・寇準の罷免と周懐政の獄

  • 丙申、寇準が罷免された。当時、帝は風の病を得て、事の多くは皇后が決していた。寇準と李迪はこれを憂えた。ある日、準は人払いを請うて「皇太子は人々の望みを集めております。どうか陛下は宗廟の重きを思い、神器を伝えて方正な大臣を選んで羽翼とされたい。丁謂と銭惟演は佞人であり、少主を輔けさせてはなりません」と言った。帝はもっともとした。
  • 準は密かに楊億に表を草させて太子の監国を請い、あわせて億を輔政に引き立てようとした。ところが準が酒に酔って口を滑らせた。謂はこれを聞いて「今日にも主上の御体が平復されたら、朝廷はこれをどう処置するのか」と言った。李迪は「太子は出れば軍を撫し、入れば監国するのが古の制です。何の不可がありましょう」と言った。謂は力を尽くして準を讒し、その政事を罷めるよう請うた。帝は準と交わした約束を覚えておらず、ついに罷めて太子太傅とした。
  • 丙寅、李迪を同平章事、馮拯を枢密使とした。庚午、丁謂と馮拯をともに同平章事とした。
  • 癸酉、入内都知の宦者の周懐政が誅された。丁丑、寇準を貶して知相州とした。
  • もともと帝は病を得て自ら回復しないと疑い、かつて周懐政の膝を枕にして、太子に監国させることを謀った。懐政は東宮の官なので、出て寇準に告げた。ほどなく事が漏れて準は罷免され、丁謂らはこれに乗じて懐政を疎んじ斥け、帝に近づけないようにした。懐政は憂え恐れて落ち着かず、密かに帝を太上皇として太子に位を伝えさせ、皇后の政への関与をやめさせ、丁謂を殺して準をふたたび宰相にしようと謀った。客省使の楊崇勲らがその謀を謂に告げると、謂はただちに微服して夜に犢車に乗り、崇勲を連れて曹利用のもとへ行って議し、翌日、報告した。
  • 詔して曹瑋に取り調べさせ、懐政はすべて自白した。帝は甚だ怒り、太子にまで責めを及ぼそうとしたが、群臣は敢えて言わなかった。李迪はさりげなく「陛下には何人の子がおられるのですか。それなのにこのようになさるのですか」と奏し、帝は悟ってやめた。
  • 懐政を誅した。謂は皇后と謀り、あわせて朱能の天書の妖妄の事も暴き、準を貶して太常卿・知相州とし、翰林学士の盛度、枢密直学士の王曙、および朝士で準と親厚な者をみな斥けた。
  • 準が貶されるとき、帝は「小州を与えよ」と命じたが、謂は「遠い小州を与えよ」と言い直した。迪が「先ほどの聖旨に『遠い』の字はなかった」と言い、二人の憤り争いはここに始まった。
  • 八月乙酉、任中正と王曾をともに参知政事、銭惟演を枢密副使とした。
  • 壬寅、寇準を貶して道州司馬とした。当時、使者を遣わして朱能を捕らえさせたが、能は中使を殺して衆を擁して叛いた。まもなく衆は潰えて自殺した。準はこれに連坐して再び道州に貶された。もともと帝は準を江淮の間に謫そうとしたが、謂はついに道州に除した。同僚は敢えて言わなかったが、王曾だけが帝の言葉をもって問い質した。謂は振り返って「居停の主人は、これ以上言うな」と言った。曾がかつて邸宅を準に貸したことを指したものである。
  • 九月、帝の病が癒え、丙辰、初めて崇德殿に出御して政務を執り、朱能の党を処断し、死者と流された者が数十人に及んだ。壬戌、給事の朱巽と郎中の梅詢が朱能の姦を察知しなかった咎で謫官された。

天禧四年十一月(1020年)・李迪の失脚と丁謂の専権

  • 戊辰、李迪と丁謂が罷免された。当時、丁謂は権を擅にして事を行い、官吏の任免まで奏聞しなかった。迪は憤然として同列に「迪は布衣から宰相に至った。国に報いる術があれば死んでも恨みはない。どうして権幸に付いて自らの安泰を図れようか」と言った。
  • 折しも二府がみな官秩を進めて東宮の官を兼ねる議が出たが、迪は不可とした。謂がさらに林特を枢密副使に引こうとすると、迪はまたこれを阻んだので、謂の怒りは積もった。
  • やがて謂は門下侍郎兼太子太傅を加えられ、迪は尚書左丞を加えられて太子少傅を兼ねた。故事では宰相が左丞を兼ねることはない。長春殿で入対したとき、内から制書が出されて御榻の前に置かれた。帝が輔臣に「これはそなたたちが東宮の官を兼ねる制である」と言うと、迪は進み出て「東宮の官属は増置すべきではありません。臣は命を受けられません」と言った。そして「謂は上を罔うて権を弄び、林特と銭惟演に私し、寇準を嫉んでおります。特の子が人を殺した事は握り潰されて処断されず、準は罪もないのに遠く謫せられ、惟演は皇后の姻戚だからと朝政に与っております。曹利用と馮拯は互いに朋党を組んでおります。臣は謂とともに罷めて御史台に付し、糾弾していただきたい」と述べた。
  • 帝は怒って制を留めて下さず、迪を左遷して知鄆州、謂を知河南府とした。翌日、謂が謝しに入ると、帝は争いの事情を問うた。謂は「臣が敢えて争ったのではありません。迪が臣を罵ったのです。どうか重ねてお留めください」と答え、そのまま自ら出て口頭の詔を伝え、ふたたび中書に入って政務を執った。
  • 当時、翰林学士の劉筠がすでに迪と謂をともに罷める制を草していたが、謂が留任することになったので、あらためて制を草させようとした。筠は詔を奉じなかったので、学士の晏殊を召して草させた。筠が院を出たとき、枢密院の南門で殊に会った。殊は恥じ入って顔をそむけ、挨拶もできなかった。謂が復位するといよいよ権を擅にして専恣になった。筠は「姦人が用事している。一日たりともここにいられようか」と言い、強く外任を請い、知廬州となった。
  • 庚午、詔して、今後は軍国の大事は従来どおり自ら決し、その余はすべて皇太子が宰相・枢密らとともに参議して施行するよう命じた。太子は固辞したが許されず、資善堂を開いて政に親しんだ。皇后は内で裁決し、丁謂が用事したので、内外はこれを憂えた。
  • 王曾は銭惟演に「太子は幼く、中宮でなければ立てられません。中宮も太子に倚らなければ人心は付きません。后が太子に恩を加えられれば太子は安泰、太子が安泰なら劉氏も安泰です」と言った。惟演が機を見てこれを言うと、后は深く納得した。

史論(陳邦瞻)

  • 国家の危疑の勢いに当たって社稷を定め人主を安んずるのは、天下のいわゆる大忠である。しかし智がなければ成らない。戸を回す者は枢に係る。智者は安危の際にもその枢を得て回せるのである。
  • 宋の真宗が病臥したとき、事はみな劉后が決していたが、太子は后の出ではなかった。丁謂は姦邪で政を乱し、銭惟演は后の外戚としてこれを佐けた。ひとたび動揺すれば宋の事は終わりだった。当時、寇準も李迪もみな忠臣で、その計はいずれも謂と惟演を追い出せば后を制せられ、后が制せられれば太子が安泰になる、というものだった。だがこの策は、たとえ成っても人の母子の間をうまく処するものではなく、しかも後始末に窮したであろう。この策が成らなければ、禍はどれほど測りがたいものになったか。周懐政が死んでも太子が廃されずに済んだのは、ただ天の幸いにすぎない。
  • 当時、謂を追うのは難しくなく、后の心を安んじるのが難しかった。后の心が安んじなければ呂后・武后の事がまた現れ、謂のようになろうとする姦人はどこにでもいる。すべて追い出せようか。后の心が安んじれば、謂を除くのは孤豚や腐鼠を除くようなものである。
  • 王曾が惟演に告げたのは見事である。「太子は幼く、中宮でなければ立てられない。中宮も太子に倚らなければ人心は付かない。后が太子に恩を加えれば太子は安泰、太子が安泰なら劉氏も安泰だ」と。そもそも后はただ劉氏が安泰でないことを懼れていただけで、則天のように姓を改め命を易える志があったわけではない。太子が安泰であれば自分も安泰だと明らかに分かった以上、どうしてなお邪な謀をなすに忍びようか。ここから小人の僥倖の計が入り込めなくなったのは、曾の一言が深くその心を動かしたからである。しかもこの言は惟演を通して進めなければ后は信じなかった。これもまた曾の智である。萊公(寇準)は大事を決断できると称されたが、この点では沂公(王曾)に遠く及ばない。

  • 丁謂に太子少師、馮拯に少傅、曹利用に少保を兼ねさせた。

天禧五年十一月(1021年)

  • 丁謂に司空、馮拯に左僕射、曹利用に右僕射を加えた。当時、謂の威権は日ごとに盛んで、朝臣の多くが付き従った。起居注の李垂だけは謁しに行かなかった。理由を問う者があると、垂は「謂は宰相でありながら公道をもって天下の望に副わず、権勢を恃んでいる。あの振る舞いでは必ず朱崖に流される。私はその党の中にいたくない」と言った。謂は聞いて憎み、罷めて知亳州とした。

乾興元年二月(1022年)・真宗の崩御と仁宗の即位

  • 庚子、大赦した。癸卯、群臣が尊号を上った。甲辰、丁謂を晋国公、馮拯を魏国公、曹利用を韓国公に封じた。
  • 甲辰、帝の病が重くなり、左右に「私はなぜ久しく寇準を見ないのか」と問うた。群臣は謂の威を畏れて敢えて言わなかった。
  • 戊午、帝が崩じた。遺詔により太子の受益が柩の前で即位し、名を禎と改めた。王曾は遺詔を奉じて殿廬に入り、皇后が権りに軍国の事を処分して太子を輔け聴政する制を草した。丁謂が「権」の字を除こうとすると、曾は「皇帝は幼く、太后が朝に臨まれる。これだけでも国家の否運です。権と称してこそなお後に示せます。しかも制書の増減には法があります。表と則を示す立場の者が、先に乱そうとするのですか」と言い、謂はやめた。
  • 太子は即位した。時に十三歳。皇后を皇太后、淑妃の楊氏を皇太妃として尊んだ。
  • 両府が太后の臨朝の儀を議した。曾は後漢の故事に倣い、太后と帝が五日に一度、承明殿に出御し、太后は殿の右に座って簾を垂れて聴政するよう請うた。
  • 謂は権を擅にしようとして同列が機政に与ることを望まず、密かに入内押班の雷允恭と結び、太后に「帝は朔望に群臣に会い、大事があれば太后が輔臣を召して対面して決し、大事でなければ允恭に伝奏させ、禁中で裁可して下す」との手書を降すよう密かに請うた。曾は「両宮が離れて柄が宦官に帰す。禍の端が兆した」と言った。かくて允恭は勢いを恃んで専恣となり、謂の権は中外を傾け、衆は敢えて抗せず、ただ曾だけが正色して朝に立ち、当時これを頼りとした。
  • 庚申、丁謂を山陵使とした。

乾興元年二月~三月(1022年)・寇準・李迪の流謫

  • 戊辰、寇準を雷州司戸参軍、李迪を衡州団練副使に貶した。先帝が臨終に際してただ寇準と李迪に託せると言ったからである。丁謂は準を怨み、太后は迪がかつて自分を立てることを諫めたのを恨んで、朋党だと誣告して貶した。連坐した者は甚だ多く、曹瑋も知萊州に謫された。
  • 竄逐を議したとき、王曾は責めが重すぎることを疑ったが、謂は曾をじっと見て「居停の主人は、まだ言うことがあるのか。あなたも免れぬかもしれぬぞ」と言い、曾はそれ以上争わなかった。
  • 学士が制の草案を呈すると、謂は「醜徒が紀を犯した際に当たり、先帝が病まれた初めに属し、この驚きに遭ってついに重篤に至った」と改めた。しかも人をやって迪を急かして出発させた。「迪がもし貶されて死ねば、公は士論をどうするのか」と言う者があったが、謂は「後日、書生が事を記しても『天下これを惜しむ』と書く程度だ」と言った。
  • 謂は二人をどうしても死なせようとし、中使に敕を持たせて準のもとに遣わし、錦の袋に剣を入れて馬前に掲げ、誅戮しに来たかのように見せかけた。道州に着くと衆はみな恐れて為す術を知らなかったが、準はちょうど郡の官と宴飲していて、顔色を変えなかった。人をやって「朝廷がもし準に死を賜るなら、敕書を見たい」と言わせた。使者はやむなく敕を授けた。準は庭で拝し、階を上がってふたたび宴を続け、日暮れに終えた。
  • 丁謂は蔡斉を味方に引き入れようとして知制誥を約束した。斉は退いて嘆じ、「私は先帝の知遇を受けてここに至った。どうして権臣に脅されてよいものか。罪を得るのは恐れるところではない」と言い、行くことを拒んだ。

乾興元年三月~六月(1022年)・雷允恭と丁謂の失脚

  • 己酉、参知政事の王曾に山陵を視察させた。
  • 庚申、内侍の雷允恭が誅され、丁謂と任中正が罷免された。
  • 当時、允恭は都監として判司天監だった。邢中和が允恭に「今の山陵の百歩上は、法として子孫に宜しい地で、汝州の秦王の墳の類です。ただ下に石か水がある恐れがあります」と言った。允恭が「主上には他に子がない。秦王の墳のようであれば、なぜいけないのか」と言うと、中和は「山陵の事は重大です。踏査と再調査に日数がかかり、七月の期限に間に合わぬ恐れがあります」と言った。允恭は「ともかく上の穴に移せ。私が馬を走らせて太后に申し上げる」と言った。允恭は日ごろ尊貴で横暴だったので、人は逆らえず、ただちに上の穴を掘り替えた。
  • 允恭が入って太后に申し上げると、太后は「これは大事である。なぜそう軽々しくするのか」と言った。允恭が「先帝が子孫に宜しくなるのに、なぜいけないのですか」と言うと、太后はもっともと思わず、「出て山陵使と可否を議せよ」と言った。允恭が出て丁謂に話すと、謂はただ「はい、はい」と答えるだけだった。允恭が入って奏すると、山陵使にも異議はないというので、夏守恩に工人数万を率いて掘らせた。
  • ところが土と石が半々で、続いて水が出た。衆議は日ごとに喧しくなり、成功しないことを恐れ、途中でやめて命を待つよう請うた。丁謂は允恭を庇って曖昧にして決しなかった。内使の毛昌達が陵下から帰ってその事を報告し、詔して謂に問うと、謂はようやく使者を遣わして視察するよう請うた。ほどなくみな旧地に戻すよう請うたので、馮拯・曹利用らに丁謂の邸で議させ、王曾を遣わして再調査させた。
  • 曾は帰ると単独での拝謁を請い、「丁謂は禍心を包蔵し、允恭に皇堂を絶地に移させました」と言った。太后は大いに驚き、甚だ怒って謂もろとも誅そうとした。馮拯は進み出て「謂にはもとより罪があります。しかし帝が即位したばかりで、急に大臣を誅すれば天下の耳目を驚かせます」と言い、后の怒りは少し解け、允恭らを誅すにとどめた。
  • 二日後、太后は宰相を召して「丁謂は宰相でありながら宦者と通じていた。謂は以前、允恭に付いて奏事するとき、いずれも自分がそなたたちと議定したものだと言ったので、みな裁可した。しかも先帝の陵寝を営みながら勝手に移し替え、危うく大事を誤るところだった」と諭した。拯らは「先帝の崩御以来、政事はみな謂と允恭が同議し、禁中で旨を得たと称してまいりました。臣らは虚実を弁じかねておりました。聖神がその姦を見抜かれたのは宗社の福です」と答えた。任中正だけが進み出て「謂は先帝の顧託を受けております。罪があっても律に従って功を議していただきたい」と言った。曾は「丁謂は不忠で宗廟に罪を得た。なお議してよいものか」と言った。
  • そこで謂を太子少保に降して西京に分司し、あわせて中正を罷めて知鄆州に出した。故事では宰相を退けるにはみな制を降すが、このときは急ぎ行おうとして、舎人を召して詞を草させるだけにとどめ、朝堂に榜を掲げて天下に宣諭した。
  • もともと謂が進士を目指していた頃、許田に客居した胡則が厚遇したので、謂が貴顕になると則は急速に進用された。ここに至って謂が罷められると、則もまた西京転運使として出された。あらためて馮拯を山陵使とした。
  • 辛未、王曾を同平章事とした。丙子、銭惟演を枢密使とした。
  • 辛卯、丁謂を貶して崖州司戸参軍とした。もともと女道士の劉德妙が巫として丁謂の家に出入りしていた。謂が失脚すると德妙を捕らえて内侍に取り調べさせた。德妙はすべて自白し、丁謂がかつて「お前のしていることは巫事にすぎない。老君に託して禍福を言えば人を動かせる」と教えたこと、そこで謂の家に神像を設けて夜に園中で醮を行い、雷允恭がたびたび来て祈祷を請うたこと、真宗が崩じてからは禁中に引き入れられたこと、また地を掘って亀と蛇を得たので德妙に持たせて内へ入れ、自分の家の山洞から出たと偽らせ、「主上がお前の事えるものは何かと問われたら、老君は凡人ではないので相公はご存じでしょうと言え」と教えたことを述べた。丁謂はさらに頌を作り「混元皇帝が德妙に賜る」と題した。言葉は妖しく誕妄だったので、謂を崖州に貶し、その家財を没収したところ、四方からの賄賂は数え切れなかった。
  • 謂は崖州へ赴く途中、雷州を通った。寇準は人をやって蒸し羊一頭を境上で贈らせた。謂は準に会いたがったが、準は固く辞した。準は家僮が仕返しを謀っていると聞き、門を閉ざして博打をさせて外に出さず、謂が遠く行くのを待ってやめた。
  • 謂は機敏で智謀があり、狡猾さは人に過ぎた。崖州にあってはもっぱら仏教の因果の説に事えた。家は西京に寓していたが、かつて書を作って自ら責め、国の厚恩を述べ、家人にみだりに怨望せぬよう戒めた。人を洛に遣わし、守の劉燁にその家に届けてくれるよう頼み、使者には僚属が集まっている時に渡すよう戒めた。燁は書を得ると私することを憚り、ただちに上聞した。太后と帝はこれを見て心を動かされ、雷州に移した。

乾興元年十一月(1022年)・銭惟演の失脚

  • 丁卯、銭惟演が罷免された。もともと惟演は丁謂が国を執って権勢が盛んなのを見て付き従い、婚姻を結んだ。寇準が斥けられたのも惟演の力による。枢密の題名を記すとき、独り準の姓氏を削って「逆準は書かず」とした。御史中丞の蔡斉が帝に「寇準は忠義が天下に聞こえた社稷の臣です。どうして姦党に誣いられてよいものでしょう」と言い、帝はただちに削った跡を磨り消させた。
  • 謂が罪を得ると、惟演は自分に及ぶことを恐れて謂を突き放して言い逃れた。馮拯はこれでその人となりを憎み、「惟演は妹を劉美に嫁がせており、太后の姻家です。機政に与らせて祖宗の法を廃すべきではありません。罷めていただきたい」と言った。そこで保大節度使・知河陽府とした。
  • 一年余りして入朝し、執政を狙った。御史の鞠詠が上疏して論じたので、太后は内侍に奏を持たせて惟演に示した。惟演はなお様子をうかがって去らなかった。詠は右司諫の劉随に「もし惟演が宰相になるなら、白麻(任命の詔)を取って朝廷で破り捨てる」と語り、惟演はようやく急いで去った。
  • 惟演は勲貴の家に出て、文辞は清麗で、名は楊億・劉筠と伯仲した。書はあらゆるものを読み、とりわけ後進を奨励することを喜んだ。かつて「私の生涯で足りぬのは、ただ黄紙の上に署名できなかったことだけだ」と言い、しきりに中書に入ることを求めたので、当時の議論に鄙しまれた。