宋史紀事本末天書と封禅の祀り(天書封祀)
澶淵の盟を「城下の盟」と讒した王欽若の一言から真宗が恥を抱き、天書の降下を演出して封禅・汾陰の后土祭・太清宮参詣へと突き進んだ経緯を記す。王旦は諫めえぬまま従い、丁謂・陳彭年・林特ら五鬼が祥瑞と宮観造営を競い、孫奭だけが十不可を挙げて執拗に諫めた。玉清昭応宮の完成、乾祐山の偽天書と寇準の再登用を経て真宗は崩じ、天書は陵に殉葬された。景德三年(1006年)から天聖七年(1029年)の玉清昭応宮焼失までの約二十年間。
年表(15件)
- 景德三年二月・寇準の罷免1006年王欽若が澶淵を城下の盟と讒し、寇準が知陝州に出される
- 大中祥符元年正月・天書の降下1008年承天門に天書が現れ、大赦して大中祥符と改元する
- 大中祥符元年三月~六月・封禅の議1008年王旦らが二万余人を率いて封禅を請い、泰山でも天書が降る
- 大中祥符元年十月~十二月・封禅1008年帝が泰山と社首山で封禅を行い、曲阜で孔子を玄聖文宣王と諡す
- 大中祥符二年1009年方士の王捷を王中正と改名して将軍とし、丁謂が封禅の祥瑞図を上進する
- 大中祥符三年1010年薛南らの請いを容れ、翌春の汾陰での后土祭祀を詔する
- 大中祥符四年正月・孫奭の十不可1011年孫奭が汾陰行幸に十の不可を挙げて諫めるが容れられない
- 大中祥符四年二月~九月・汾陰の祀り1011年帝が宝鼎県で后土を祀り、隠士の李瀆・魏野らを召す
- 大中祥符五年・聖祖の降臨1012年趙玄朗を聖祖として奉じ、王欽若・丁謂ら五鬼が権を握る
- 大中祥符六年~七年(1013-)・太清宮への参詣1014年帝が亳州の太清宮に老子を謁し、玉清昭応宮が七年で完成する
- 大中祥符八年~天禧元年(1015-)1017年刻玉の天書を宝符閣に奉安し、張詠が遺表で丁謂の斬罪を請う
- 天禧元年三月~九月・王曾と王旦1017年王曾が会霊観使を辞して罷免され、王旦が天書を諫めえぬ悔いを残して没する
- 天禧二年~三年(1018-)・乾祐山の偽天書1019年朱能と周懐政が天書降下を偽り、王欽若が罷めて寇準が宰相となる
- 乾興元年・真宗の崩御1022年真宗が崩じ、永定陵に葬って天書を殉葬する
- 仁宗
- 天聖七年六月・玉清昭応宮の焼失1029年落雷で宮が焼け、范雍らの言により修理せず諸宮観使を罷める
景德三年二月(1006年)・寇準の罷免
- 寇準の平章事を罷めて知陝州として出した。準は宰相として人を用いるのに順序によらなかったので、同列はかなり不快だった。ある日、官職を除するとき、同列が吏に目配せして先例の簿を進めさせた。準は「宰相は賢を進め不肖を退けるためにある。前例を用いるなら一吏の職にすぎぬ」と言った。
- 澶淵から還って以来、準はかなりその功を誇り、帝の準への待遇は甚だ厚かった。王欽若はこれを深く嫉んだ。ある日の朝会で準が先に退くと、帝は目で見送った。欽若はそこで進み出て「陛下が準を敬われるのは、彼に社稷の功があるからですか」と言った。帝が「そうだ」と答えると、欽若は「澶淵の役を陛下は恥とお思いにならず、準に社稷の功があると仰せなのはなぜですか」と言った。帝が驚いて「どういうことか」と問うと、欽若は「城下の盟は『春秋』が恥とするところ。澶淵の挙は万乗の貴い身で城下の盟を結んだのです。これ以上の恥がありましょうか」と言った。帝は憂え顔になって不快になった。欽若はさらに「陛下は博打をご存じですか。博打をする者が銭を使い果たそうとするとき、有り金をすべて出すのを孤注といいます。陛下は寇準の孤注だったのです。まことに危ういことでした」と言った。
- これにより帝の準への顧みは次第に衰え、ついに罷めて刑部尚書として知陝州に出した。
- もともと張詠が成都にいて準が宰相になったと聞き、僚属に「寇公は奇材だが、惜しいことに学術が足りない」と語った。準が知陝州となったとき、詠はちょうど成都から帰るところで、準が郊外まで送って「何をご教示くださるか」と問うた。詠はゆっくりと「『霍光伝』は読まねばなりませんな」と言った。準はその意が分からなかったが、帰ってその伝を読み、「不学無術」の句に至って笑い、「これは張公が私に言ったのだ」と言った。
- ほどなく準を知天雄軍に移した。契丹の使者が大名を通ったとき、準に「相公は望みが重いのに、なぜ中書におられぬのか」と問うた。準は「主上は朝廷が無事なので、北門の鍵は準でなければならぬとお考えなのだ」と答えた。
大中祥符元年正月(1008年)・天書の降下
- 春正月乙丑、承天門に天書が現れ、大赦して改元した。
- 帝は王欽若の言を聞いて以来、澶州の盟を深く恥とし、常に鬱々として楽しまなかった。欽若は帝が兵を厭うていると見て取り、偽って「陛下が兵で幽薊を取られれば、この恥を雪げます」と進言した。帝は「河朔の生霊はようやく兵革を免れた。私はどうしてこれに忍びよう。その次を考えよ」と言った。欽若は「ただ封禅こそ四海を鎮服し外国に誇示できます。しかし古来、封禅には天瑞という世に稀な絶倫の事があってこそ行えます」と言い、さらに「天瑞は必ず得られるものではありません。前代には人力で作ったものもあります。ただ人主が深く信じて崇め奉り、天下に明らかに示せば、天瑞と変わりません。陛下は河図洛書が本当にあったとお思いですか。聖人が神道によって教えを設けたのです」と言った。
- 帝は長く沈思して「王旦が承知しないのではないか」と言った。欽若が「臣が聖意を諭せば、承知しないはずはありません」と言い、頃合いを見て旦に話すと、旦は渋々従った。
- 帝はなお猶予していたが、秘閣に行幸したとき、直学士の杜鎬に「古にいう河から図が出、洛から書が出たとは、実際どういう事なのか」と唐突に問うた。鎬は老儒で帝の意を測れず、いい加減に「これは聖人が神道によって教えを設けたのです」と答えた。帝の意はここで決した。
- そこで旦を召して飲み、大いに歓を尽くし、酒樽を賜って「帰って妻子とともに飲め」と言った。帰って封を開けるとみな美しい真珠だった。旦は帝の意を悟り、以後、異議を唱えなかった。
- ここに至って帝は群臣に語った――去る冬十一月庚寅の夜半近く、私が寝ようとしていると、突然、室内が輝いて神人が現れた。星の冠に絳の衣で、「来月、正殿に黄籙の道場を建てよ。一月には天書『大中祥符』三篇が降る」と告げた。私は畏まって起きて答えたが、もう姿はなかった。十二月朔日から朝元殿で斎戒し、道場を建てて神の賜を待っていた。
- ここに至って皇城司が、黄色い帛が左承天門の南の鴟尾の上に垂れていると奏した。中使に見させると、帛は長さ二丈ほど、書巻のような物を包み、青い紐で纏い、封じた所にうっすらと字があった。これが神人のいう天から降った書である。旦らはみな再拝して賀した。
- 帝は歩いて承天門に至り、仰ぎ見て再拝し、内侍二人を屋根に上らせて奉じ下ろさせ、旦がひざまずいて進めた。帝は再拝して受け、自ら輿に置いて道場まで導き、陳堯叟に封を開かせた。帛の上には「趙、命を受けて宋に興る。眘に付し、その器に居り、正を守る。世は七百、九九にして定まる」とあった。帝はひざまずいて受け、あらためて堯叟に読ませた。書は黄色の字で三幅、文言は『洪範』や『道徳経』の類で、初めに帝が至孝・至道によって世次を継いだことを述べ、次に清浄と簡倹を諭し、最後に世祚の永きことを述べていた。
- 読み終えると帝はまたひざまずいて奉じ、もとの帛に包んで金匱に納めた。群臣は崇政殿に入って賀し、宴を賜ったが、帝と輔臣はみな精進の食事だった。官を遣わして天地・宗廟・社稷に告げ、大赦して改元し、群臣に恩を加え、京師に五日の酺(無礼講の宴)を賜った。左承天門を承天祥符と改め、天書儀衛扶侍使を置き、大礼があれば宰執・近臣に兼ねさせた。
- 欽若の計が行われると、陳堯叟・陳彭年・丁謂・杜鎬がいよいよ経義をもって附和し、天下は争って祥瑞を言うようになった。ただ龍図閣待制の孫奭だけが帝に「臣の愚かな聞くところでは、天は何を言いましょうか。どうして書があるものでしょう」と言った。帝は黙した。
大中祥符元年三月~六月(1008年)・封禅の議
- 三月、封禅を議するよう詔した。宰相の王旦らは文武百官・諸軍の将校・官吏・藩夷・僧道・耆老あわせて二万四千三百余人を率い、五度も上表して封禅を請うた。帝の意はなお決しかねたが、丁謂を召して経費を問うと、謂は「大計は余裕があります」と答えたので議は定まり、翰林と太常に儀注を詳定させた。
- 先に西北で兵を用いていた頃、帝は便殿で意見を聴くことが多く、しばしば日暮れまで食事を忘れた。王旦は嘆じて「我らはいつになったら座して太平を致し、悠々と無事でいられようか」と言った。宰相の李沆は「強敵の外患は戒めとするに足る。いずれ四方が安らげば、朝廷が無事とは限らぬ」と言ったが、旦はそうは思わなかった。沆はさらに毎日、四方の水旱や盗賊を奏したので、旦は「些事で帝の耳を煩わすに足りません」と言った。沆は「人主は若い。四方の困難を知らせねばならぬ。さもなくば血気盛んなまま、声色や犬馬に心を留めなければ、土木・兵甲・祈祷の事が起こる」と言った。ここに至ってその言が果たして験を得た。
- 夏四月乙未、王欽若を参知政事とした。丙申、王旦を封禅大礼使、王欽若らを経度制置使、馮拯と陳堯叟を分掌礼儀使とし、丁謂らに財用を計らせた。謂はそのとき権三司使だったので『景德会計録』を著して献じ、大礼の経費を条陳して参照に備え、丁重な詔で奨励された。
- 六月乙未、王欽若が乾封に至って「泰山に醴泉が湧き、錫山に蒼龍が現れた」と上言した。ほどなく木工の董祚が醴泉亭の北で林の木に黄色い帛がかかっているのを見た。上に字があったが読めず、皇城使の王居正に言った。居正はその上に御名があるのを見て欽若に馳せ報せ、欽若は奉じて社首に至り、ひざまずいて中使に授け、闕下へ届けさせた。
- 帝は崇政殿に出御して急ぎ群臣を召し、「私は五月丙子の夜、また夢に先の神人が現れ、来月上旬に泰山で天書を賜ると言った。そこで密かに欽若らに、祥異があればただちに報せよと諭しておいた。今、果たして夢と符合した。上天の眷顧に、ただ相応しくないことを懼れるばかりだ」と言った。王旦らは再拝して賀した。
- そこで含芳園の正殿に迎え奉り、帝は斎戒して法駕を備え、殿に赴いて拝受し、陳堯叟に封を開かせた。その文には「汝は孝を崇め吾を奉じ、民を育んで福を広めた。汝に嘉瑞を賜い、黎庶にみな知らしめよ。この言を秘し守り、よく吾が意を解せよ。国祚は永く延び、寿暦は遐歳に及ばん」とあった。読み終えるとまた奉じて殿に上げた。
- そこで群臣は表を上げ、尊号を「崇文広武儀天尊道宝応章感聖明仁孝皇帝」とした。
- ほどなく欽若が芝草八千本を献じ、趙安仁が五色・金玉・丹紫の芝八千七百余本を献じた。諸州から芝草・嘉禾・瑞木・三脊茅などが上進され、数え切れなかった。
- 九月、有司に死刑の案件を奏さぬよう令し、天書をもって太廟に告げた。
- 乙酉、崇德殿で自ら封禅の儀を習った。
- 玉清昭応宮を造った。天書を奉じるためである。知制誥の王曾と都虞候の張旻がいずれも上疏して諫めたが、聞かれなかった。
大中祥符元年十月~十二月(1008年)・封禅
- 冬十月辛卯、帝は京師を発した。玉輅に天書を載せて先導させ、十七日かかって泰山に至った。王欽若らが芝草三万八千余本を献じた。三日斎戒して山に登り、道が険しい所では輦を降りて歩いて進んだ。鹵簿と儀衛は山下に並べた。
- 圜台で昊天上帝を享け、天書を左に陳べ、太祖・太宗を配し、群臣に命じて山下の封祀壇で五方帝と諸神を享けさせた。帝が福酒を飲むと、摂中書令の王旦がひざまずいて「天は皇帝に太一の神符を賜り、周りて復た始まり、永く兆人を綏んず」と称えた。三献が終わると金の匱と玉の匱を封じ、王旦が玉匱を奉じて石䃭に置き、摂太尉の馮拯が金匱を奉じて下り、将作監が徒を率いて䃭を封じた。帝は圜台に登って検分を終え、御幄に還り、宰相が従官を率いて賀した。
- 翌朝、社首山で皇地祇を禅祭したが、封祀の儀と同じだった。礼が終わると寿昌殿に出御して群臣の朝賀を受け、天下に大赦し、文武はみな官秩を進めた。開封府および通過した州軍に挙人を試験して送らせ、天下に三日の酺を賜り、乾封県を奉符県と改め、穆清殿で大宴を張り、さらに殿門で泰山の父老に宴を賜った。
- 十一月戊午、帝は曲阜県を通り、孔子廟に謁して酌献して再拝し、近臣を分けて七十二弟子に奠らせた。そのまま孔林に行幸し、孔子に玄聖文宣王の諡を加え、太牢で祭り、銭三十万・帛三百匹を賜った。また斉の太公望に昭烈武成王、周の文公旦に文憲王の諡を追贈し、太公の廟を青州に、周公の廟を曲阜に立てた。ほどなく孔子廟に配享・従祀される者も追封し、顔回を兗国公、閔損・曽参および漢儒の左丘明以下を郡公・侯・伯とした。
- 丁丑、帝は泰山から天書を奉じて宮に還った。群臣は争って功徳を頌えたが、進士の孫籍だけは書を献じて「封禅は帝王の盛事です。どうか陛下は満ち足りた状態を慎み、自ら満ち足れりとなさいませんように」と言った。知制誥の周起もまた「天下の勢いは、常に逸安に慣れて畏れを忘れることを患えます。どうか成功を告げたことに頼まれませんように」と上言した。
- 十二月辛卯、帝は朝元殿に出御して尊号を受け、宰相の王旦らはそれぞれ官秩を進めた。
大中祥符二年(1009年)
- 二月、方士の王中正を左武衛将軍とした。先に汀州の人の王捷が「南康で趙姓の道人に遇い、丹術と小鐶の神剣を授かった。司命真君である」と言った。これが聖祖である。宦者の劉承珪が報告し、捷に中正の名を賜り、龍図閣で対面させた。東封の後、聖祖の号を司命天尊とし、中正に左武衛将軍を授け、恩遇は甚だ厚かった。
- 十二月辛丑、権三司使の丁謂が封禅の祥瑞図を上進し、朝堂で百官に示した。封禅の後、士大夫は争って符瑞を奏し賛頌を献じたが、崔立だけは「徐州・兗州に水が出、江淮に旱が続き、無為に烈風が吹き、金陵に大火があった。これは天が驕慢を戒めるものです。それなのに中外の多くが雲霧や草木の瑞を上申している。これが治道を語るに足りましょうか」と言った。取り上げられなかった。
大中祥符三年(1010年)
- 六月、河中府の進士の薛南および父老・僧道千二百人が、汾陰で后土を祀ることを闕下で請うた。
- 八月丁未、翌年の春に汾陰で祭祀を行うと詔した。戊申、知枢密院事の陳堯叟を祀汾陰経度制置使、王旦を大礼使、王欽若を礼儀使とした。
- 冬十月庚申、丁謂が『大中祥符封禅記』を上進した。
- 十二月、陝州が黄河の澄んだことを報告した。集賢校理の晏殊が「河清頌」を献じ、帝は「奉天庇民述」を作って宰相に示した。
大中祥符四年正月(1011年)・孫奭の十不可
- 春正月辛巳、汾陰の祭祀に際し、執事で怠る者は罪を許さぬと詔した。
- このとき大旱で京師とその近郡は穀価が高騰した。龍図閣待制の孫奭が上疏して次のように述べた。
- 先王は五年をかけて征を卜い、年ごとにその吉凶を習い、吉が重なれば行い、そうでなければ徳を修めて卜い直しました。陛下は東封を終えたばかりで西幸を議されている。先王が五年をかけて卜った慎重さの意にそぐいません。不可の一。
- そもそも汾陰の后土は経に見えません。昔、漢の武帝が封禅しようとして先に中岳を封じ汾陰に祠り、郡県を巡幸して後に泰山で事を行いました。今、陛下はすでに登封を終えられたのに、また汾陰に行幸なさろうとする。不可の二。
- 古は円丘・方沢で天地を郊祀しました。今の南郊・北郊がそれです。漢の初めは秦を承けて五畤を立てて天を祀るだけで后土の祀りがなかったので、武帝が汾陰に祠を立てた。元帝・成帝以来、公卿の議に従って汾陰の后土を北郊に移し、後の王者の多くは汾陰を祀りません。今、陛下はすでに北郊を建てられたのに、それを捨てて遠く汾陰を祀られる。不可の三。
- 西漢は雍に都したので汾陰まで至って近かった。今、陛下は重関を経て険阻を越え、軽々しく京師という根本を棄てて西漢の虚名を慕われる。不可の四。
- 河東は唐の王業の起こった地です。唐はまた雍に都したので、明皇が時おり河東に行幸して后土を祀りました。聖朝の興りは唐と事情が異なるのに、陛下は理由もなく汾陰を祀ろうとされる。不可の五。
- 昔、周の宣王は災いに遭って懼れたので、詩人はその中興を称えて賢主としました。近年、水旱が相次いでいます。陛下は身を慎んで徳を修め天譴に答えるべきなのに、姦邪に迎合して遠く民を労し、遊幸をやめず社稷の大計を忘れられる。不可の六。
- そもそも雷は二月に蟄を啓き八月に声を収めて万物を育てます。時を失えば異変です。今、冬に雷が震うのはとりわけ甚だしい異変で、天意が丁寧に陛下を戒めているのに、かえって悟らず天意を失われる。不可の七。
- 民は神の主です。ゆえに聖王はまず民を成し、しかる後に神に力を致しました。今、国家の土木の工事は年を重ねて息まず、水旱がしきりに至って飢饉が多い。それなのに民を労して神に事えようとされる。神はそれを享けましょうか。不可の八。
- 陛下がどうしてもこれをなさろうとするのは、漢の武帝や唐の明皇に倣い、巡幸の先々で石に刻んで功を頌え、虚名を崇めて後世に誇示するにすぎません。陛下は天資が聖明であり、二帝三王を慕われるべきです。なぜ漢唐の虚名を下って襲われるのですか。不可の九。
- 唐の明皇は寵姫と姦邪によって内外ともに害され、身は流離し国は危うくなり、兵が闕下で交わりました。亡乱の跡はこのとおりです。承平に慣れて非義をほしいままにし、禍敗を熟させたのです。今、議者は開元の故事を引いて盛烈とし、陛下を唱導してこれを行わせようとしている。臣は陛下のために取りません。不可の十。
- 臣の言葉は意を尽くしません。陛下が臣の言を取るに足るとお思いなら、いささか清問を賜って臣の説を尽くさせていただきたい。
- 帝は内侍の皇甫継明を遣わして問わせた。奭はさらに上疏して次のように述べた。
- 陛下が汾陰に行幸されようとして、京師の人心は落ち着かず、江淮の衆は徴発に苦しんでおります。理として鎮め安んじ憐れむべきです。しかも土木の工事は息まず、盗みが公然と行われ、外国は兵を治めて辺境から遠くなく、使者は雑然と行き来しています。その心を保証できましょうか。
- 昔、陳勝は徭役の戍から起こり、黄巣は凶作から出ました。隋の煬帝が遠略に努めて唐の高祖が晋陽に興り、晋の少主が小人に惑って耶律德光が中国に長駆しました。陛下は姦佞に従い、遠く京師を棄て、幾年も飢饉が続いた地を渡り、経に違い久しく廃れた祠を修め、民の疲れを念わず辺の患いを恤まない。今日の戍卒に陳勝がなく、飢民に黄巣がなく、姦雄が肘腋でうかがわず、外敵が辺陲で釁を見ていないと、どうして言えましょうか。
- 先帝はかつて封禅を議されましたが、天災を畏れてほどなく詔して取りやめられました。今、姦臣は陛下に東封を力行するよう勧め、先帝の志を継いだこととしています。先帝はかつて北は幽朔を平らげ西は継遷を取ろうとされ、大勲を成さぬまま陛下に付されました。ところが群臣は一つの謀も一つの策も献じて陛下が先帝の志を継ぐのを佐けようとせず、かえって卑辞と重幣で契丹に和を求め、国を縮め爵を費やして継遷に姑息な扱いをしている。主が辱められれば臣は死ぬのが戒めであること、下を誣い上を罔うことが恥であることを、まったく思わない。祥瑞を作り出し鬼神に託し、東封を終えるやすぐ西幸を議し、軽々しく車駕を労し飢民を虐げ、無事に往還すれば大勲績を成したと言う。これは陛下が祖宗の艱難の業を姦邪の僥倖の資とされることで、臣が長嘆して痛哭する所以です。
- そもそも天地神祇は聡明正直で、善をなせば百祥を降し、不善をなせば百殃を降します。もっぱら籩豆簠簋を事として福祥を招けるとは聞きません。『春秋伝』に「国のまさに興らんとするや民に聴き、まさに亡びんとするや神に聴く」とあります。愚臣は敢えて妄りに議するのではありません。どうか陛下が最後にご裁択くださいますよう。
- 当時、群臣は争って祥瑞を奏していた。奭はさらに「今、野の鵰や山の鹿までが奏簡に並び、秋の旱や冬の雷にすらみな賀を称える。退いては腹の内でそしり、ひそかに笑う者ばかりです。誰が上天を罔うことができ、下民を愚弄でき、後世を欺けると言うのですか。人情がこうであっては、損なうところは小さくありません。どうか陛下はその妄を深くお見抜きください」と上言した。帝はその忠を知りながら従えなかった。
- 乙酉、帝は后土を祀る儀を習った。丙申、六月六日の天書再降の日を天貺節とすると詔した。丁酉、天書を奉じて京師を発した。
大中祥符四年二月~九月(1011年)・汾陰の祀り
- 二月壬子、車駕が潼関を出て渭河を渡り、近臣を遣わして西岳を祀らせた。癸丑、河中府に至った。丁巳、宝鼎県に至った。辛酉、后土の地祇を祀った。壬戌、大赦して天下に三日の酺を賜り、「汾陰配饗銘」と「河瀆四海賛」を作った。
- 草沢の李瀆と劉巽を召した。瀆は足の病を理由に辞して再拝したので、使者を遣わして見舞った。瀆は代々の家が儒と墨を本とし、静を習い世を避ける志であることを自ら述べた。瀆はもとより酒を好み、人がたしなめると「弱った身を扶け病を養うにはこれしかありません。私の好むところに従って余生を尽くすのも、また楽しくはありませんか」と答えた。巽は召しに応じ、大理評事を授かった。
- 乙巳、華州に至り、隠士の鄭隠と李寧を召見して茶・果・粟・帛を賜った。辛未、閿郷に至り、道士の柴又玄を召見して無為の要を問うた。
- 三月甲戌、陝州に至り、陝令の王希を遣わして草沢の魏野を召したが、病と称して来なかった。野は上言して「麋鹿の性は、纓を掛けられれば狂います。お聞き流しくださり、愚かなままに守ることをお許しください」と述べた。詔して長吏に常に見舞わせ、工人にその住まいを描かせて眺めた。野は陝州の東郊に住み、草堂を構えて水と竹の眺めがよく、琴を弾き詩を作ることを好み、清苦で当時に名を知られた。常に詩で寇準と王旦を諷し、休むことを乞うたので、帝はあえてその出仕を強いなかった。
- 己卯、西京に至った。丙申、諸陵に謁した。
- 夏四月甲辰朔、帝は汾陰から帰還した。宰相・親王以下はそれぞれ官秩を進めた。
- 九月辛卯、向敏中らを五岳奉冊使とし、五岳に帝号を加えた。帝は朝元殿に出御して冊を発した。
大中祥符五年(1012年)・聖祖の降臨
- 八月、会霊観を造って五岳を奉祀した。
- 戊子、王欽若と陳堯叟をともに枢密使、丁謂を参知政事、馬知節を枢密副使とした。当時、天下は治まり、王欽若と丁謂は帝を封祀に導いて寵遇が日ごとに高まった。欽若は自ら道教に深く通じているとして多くを建言し、謂がこれに附会し、陳彭年・劉承珪らとともに廃れた典礼を探って大いに宮観を修めた。林特には計算の才があるので三司使として財利を掌らせた。この五人は互いに通じて足跡が秘密めいており、当時、五鬼と呼ばれた。
- 王旦は諫めようにも既に同調してしまっており、去ろうにも帝の待遇が厚かった。李沆の先見を追想して「李文靖はまことに聖人であった」と嘆じた。
- 欽若は容貌が小柄で首に瘤があったので、当時の人は癭相(瘤の宰相)と呼んだ。性は傾巧で敢えて偽りを言ったが、智数は人に過ぎ、朝廷が事を興すたびに、うまく取り繕って帝の意にかなわせた。馬知節は衆が競って祥瑞を言うのを甚だ不可とし、しばしば帝に「天下が安らかでも、戦を忘れ兵を去ってはなりません」と言った。
- 冬十月戊午、帝は輔臣に語った――私は夢に神人が玉皇の命を伝えて「先に汝の祖の趙玄朗に汝へ天書を授けさせた。今また汝に会わせよう」と言った。翌日また夢に神人が聖祖の言を伝え、「吾が座の西に斜めに六位を設けて待て」と言った。そこでその日、延恩殿に道場を設けた。五鼓の一籌に、まず異香が漂い、ほどなく黄色の光が殿に満ちて聖祖が至った。私は殿下で再拝した。やがて六人が至り、聖祖に会釈してみな座に着いた。聖祖は私を前に召して「吾は人皇九人のうちの一人である。これが趙の始祖である。再び降ってからは軒轅黄帝となり、後唐の時にまた降って趙氏の族を主った。今すでに百年になる。皇帝はよく蒼生を撫育し、前の志を怠るな」と言い、座を離れて雲に乗って去った。
- 王旦らはみな再拝して賀した。詔して天下に聖祖の諱を避けさせ、「玄」を「元」、「朗」を「明」とし、書物で犯すものはそれぞれ点画を欠かせた。ほどなく「玄」と「元」が音が近いので、「玄」を「真」、「玄武」を「真武」と改めた。己未、大赦した。
- 閏十月己巳、聖祖に「聖祖上霊高道九天司命保生天尊大帝」の尊号、聖母に「元天大聖后」の懿号を上った。あわせて太廟六室にも尊号を加えた。群臣は帝に「崇文広武感天尊道応真佑德上聖欽明仁孝皇帝」の尊号を上った。
- 戊寅、寿丘に景霊宮と太極観を建てて聖祖・聖母を奉じ、あわせて天下の天慶観にも聖祖殿を増建するよう詔した。辛巳、建康軍に玉皇・聖祖・太祖・太宗の尊像を鋳させ、ほどなく丁謂を奉迎使として玉清昭応宮に安置した。帝は百官を率いて郊謁した。また天書を宮に刻ませ、王旦を刻玉使、王欽若と丁謂を副とした。戊子、自ら配享の楽章と二舞の名を製した。文舞を「発祥流慶」、武舞を「隆真観德」とした。
- 十一月丙申、帝は自ら朝元殿で玉皇を祀った。甲辰、王旦に門下侍郎、向敏中に中書侍郎を加え、内外の官に恩を加えた。玉清昭応宮使を置いて王旦を任じた。丁未、「汴水発願文」を作った。
- 十二月戊辰、京師に景霊宮を造った。聖祖を奉じるためである。
大中祥符六年~七年(1013-1014年)・太清宮への参詣
- 六年春正月癸巳朔、司天監が五星が同じ色になったと言った。
- 六月、亳州の官吏と父老三千三百人が闕下に赴いて太清宮への参詣を請うた。
- 八月庚申、翌春に自ら太清宮に謁すると詔した。庚午、太上老君に「混元上德皇帝」の号を加えた。
- 孫奭が上疏して「陛下は泰山を封じ汾陰を祀り、自ら陵寝に謁され、今また太清宮に祠ろうとされます。外の議論は喧しく、陛下が事ごとに唐の明皇を慕い倣っておられると申します。明皇が令德の主だとでもいうのでしょうか。まったく違います。明皇の禍敗の跡は深く戒めるに足るもので、臣だけが知っているわけではありません。近臣が言わないのは、姦を懐いて陛下に仕えているからです。明皇の無道にも敢えて言う者がなく、馬嵬に逃れて軍士が楊国忠を誅し、詔を偽った罪を請うに及んで、ようやく『識理が明らかでなく、寄任が所を失った』と諭しました。当時、罪己の言があっても覚醒はすでに遅く、何の役に立ちましょう。どうか陛下は早く自ら覚醒され、虚飾を抑え、邪佞を斥け遠ざけ、土木を興すのをやめ、危乱の跡を襲わず、明皇の及ばぬ悔いをなさいませんように。これが天下の幸い、社稷の福です」と述べた。
- 帝は、泰山を封じ汾陰に祠り、陵に上り老子に祠ることは明皇に始まったのではなく、開元の礼は今の世が踏襲しているもので、天寶の乱をもってすべて非とはできない、秦は無道が甚だしかったが今も官名や詔令、郡県は秦の旧を襲っている、人によって言を廃すべきかと考え、「解疑論」を作って群臣に示した。しかし奭の朴直な忠を知っていたので、その言が切直であっても容れて斥けなかった。
- 七年春正月、帝は亳州に赴いて老子に謁することとし、王旦に大礼使を兼ねさせ、丁謂に奉祀経度制置使を兼ねさせ、陳彭年を副とした。
- 壬寅、天書を奉じて京師を発した。丙午、奉元宮に至った。判亳州の丁謂が白鹿一頭と芝九万五千本を献じた。戊申、王旦が「混元上德皇帝」の冊と宝を上った。己酉、太清宮で老子に謁し、亳州を集慶軍節度に昇格させ、歳賦を十分の三減じた。太史が含誉星が現れたと言った。庚戌、三日の酺を賜った。
- 二月辛酉、帝は亳州から帰還した。壬申、天地を祀って大赦した。
- 十一月乙酉、玉清昭応宮が完成した。当初の議では工数として十五年を要するとされたが、修宮使の丁謂は夜を昼に継がせ、壁一つを描くたびに蝋燭二本を給したので、七年で完成した。全部で二千六百十楹、制度は宏麗で、屋宇が少しでも規格に合わなければ、金碧の装飾が済んでいても劉承珪は必ず壊して造り直させた。有司はその費用を問い質すこともできなかった。
大中祥符八年~天禧元年(1015-1017年)
- 八年春正月壬午朔、玉清昭応宮に謁し、玉に刻んだ天書を宝符閣に奉安し、帝の肖像をその傍らに侍立させた。還って崇德殿に出御して賀を受け、天下に赦し、十悪と枉法・贓罪以外はすべて除いた。帝は誓文を製して石に刻み、宝符閣の下に置き、また「欽承宝訓述」を製して中外に示した。
- 九月、知陳州の張詠が没した。遺表に「宮観を造って天下の財を尽くし生民の命を傷つけるのは不当です。これはみな賊臣の丁謂が陛下を誑かし惑わしているのです。謂の首を斬って国門に置き天下に謝し、しかる後に詠の首を斬って丁氏の門に置いて謂に謝していただきたい」とあった。帝はその忠を嘆じた。
- 九年春正月丙辰、会霊観使を置いて丁謂を任じた。
- 天禧元年春正月辛丑朔、改元し、玉清昭応宮に赴いて薦献し、玉皇大天帝に宝冊と衮服を上った。壬寅、聖祖に宝冊を上った。己酉、太廟に諡冊を上った。辛亥、南郊で天地に謝し、大赦して天安殿に出御して冊号を受けた。乙卯、「欽承宝訓述」を作って群臣に示した。
天禧元年三月~九月(1017年)・王曾と王旦
- 三月、王曾に会霊観使を兼ねさせたが、曾は辞して受けなかった。王欽若はそのころ符瑞を挟んで寵位を固め、密かに自分と異なる者を排斥していた。折しも詔で曾を会霊観使とすることになったが、曾はこれを欽若に譲った。帝は不快で、曾に「大臣は国事に協力すべきである。なぜ急に自ら異を立てるのか」と言った。曾は頓首して「君が諫めに従うのを明といい、臣が忠を尽くすのを義といいます。陛下は臣の駑鈍と病を知らずして宰府に罪を待たせておられます。臣は義を知るのみで、異を立てるとは存じません」と答えた。
- 九月癸卯、王曾が罷免された。曾が会霊観使を受けなかったので帝の意は不快で、王欽若がたびたび讒言した。折しも曾が賀皇后の家の旧邸を買ったが、その家がまだ引き移らないうちに曾が人に土を運ばせてその門に置いたので、賀氏が朝廷に訴えた。そこで曾の政事を罷めた。
- 王旦は休暇中にこれを聞き、「王君は毅然としている。いずれ德望と勲業は甚だ大きくなろう。ただ私はそれを見られぬだけだ」と言った。理由を問う者があると、「王君は先に観使を譲り、帝の意に逆らったが、言葉は真っ直ぐで気は和やかで、少しも臆したところがなかった。しかも登用されたばかりでこれだけのことができる。私は政事に二十年あるが、進み出て奏対するたび、少しでも逆らえば縮こまって身の置き所がなかった。それで彼の偉大な度量が分かるのだ」と言った。
- 己酉、王旦が没した。旦は祥符以来、大礼があるたびに天書を奉じて随行し、常に鬱々として楽しまなかった。臨終に子に「私に他の過ちはない。ただ天書の一件を諫めなかったことだけが、贖いようのない過ちだ。私が死んだら髪を剃り黒衣を着せて納棺せよ」と言った。諸子は遺命に従おうとしたが、楊億が不可としてやめた。議者は、旦は君の信を得て言は聴かれ計は従われたのに、正道をもって自ら終われなかったとして、馮道になぞらえる者もあった。
天禧二年~三年(1018-1019年)・乾祐山の偽天書
- 天禧二年夏、皇城司が「保聖営の西南で、営卒に亀と蛇を見た者がある」と言ったので、その地に真武の祠を建てた。今、祠の傍らに泉が湧き、疫病の者が飲むと多く癒えるという。詔してその地に祥源観を建てた。任布が上疏して神怪で愚俗を眩惑すべきでないと言ったが、取り上げられなかった。
- 三年六月甲午、王欽若を罷めて判杭州とし、寇準を同平章事、丁謂を参知政事とした。
- 先に巡検の朱能が内侍都知の周懐政と結んで天書が乾祐山に降ったと偽った。当時、寇準は判永興軍で、その婿の王曙が中央にいて懐政と親しく、準に朱能と組むよう勧めたので、そのまま上聞した。詔して禁中に迎え入れたが、内外みなその詐りを見抜いた。ただ帝だけが信じた。諭德の魯宗道は姦臣が誕妄で聖聴を惑わしていると言い、知河陽の孫奭が上疏して次のように述べた。
- 朱能は姦険な小人で、みだりに祥瑞を言い、陛下はこれを崇め信じ、至尊を屈して迎え拝し、秘殿に帰して奉安されました。上は朝廷から下は町中まで、痛心して眉をひそめ、口を歪め腹の内でそしらぬ者はありませんが、敢えて言う者がありません。
- 昔、漢の文成将軍は帛に書いて牛に食わせ、後に「牛の腹中に奇書がある」と言った。殺して見ると書があったが、天子はその筆跡を見抜いた。また五利将軍もみだりに術を言って多くが的中しなかった。二人はともに誅されました。先帝の時には侯莫陳利用が方術で急に寵用を得ましたが、ひとたびその姦が発覚すると鄭州で誅されました。漢の武帝は雄材、先帝は英断というべきです。
- 唐の明皇は霊宝符・上清護国経・宝券などを得ましたが、みな王鉷や田同秀らの仕業でした。明皇は公然と誅殺できず、邪説に怯え、自ら「徳が実に天を動かした。神は必ず我に福を与える」と言った。そもそも老君は聖人です。もし本当に降って語ったなら妄りであるはずがない。ところが唐は安史の乱離で乗輿は流離し、両都は覆り四海は沸き立った。どこが天下太平でしょうか。明皇はかろうじて闕に帰れたものの、また李輔国に脅されて遷され、ついに憂えて終わりました。どこが聖寿無疆・長生久視でしょうか。明皇の英睿をもってしても禍患がこう重なり、しかもそれに気づかなかったのは、在位が久しく驕慢が性となり、人は自分に及ばぬと思い、諫めは聴くに足らずと思い、心は日常の安逸に耽り、耳は諂いの説に慣れ、内は寵姫に惑い外は姦邪に任せ、鬼神に曲げて仕え、妖妄を過度に崇めたためです。今日は閣の上に老君を見、明日は山の中に老君を見る。大臣は禄を貪って迎合し、端士は威を畏れて沈黙する。左道に惑えば政の経が乱れ、民心が離れて変が倉卒に起こる。そのとき老君が兵を防いでくれましょうか。宝符が難を排してくれましょうか。
- 今、朱能のなすところは、あるいはこれに類します。どうか陛下は漢の武帝の雄材を思い、先帝の英断に法り、明皇が禍を招いたことを鑑とされたい。そうすれば災害は生ぜず禍乱は起こりますまい。
- いずれも聴かれなかった。寇準はこれによって召し用いられることになった。
- 当時、王欽若の恩礼は衰えていた。商州が道士の譙文易を捕らえたが、禁書を蓄え、術で六丁六甲の神を使えると称していた。欽若はこれと出入りしていた咎で罷められ、準が代わって宰相となった。
- 準が召されるとき、門生の中に「公がもし河陽に至って病と称し、外任を強く求められるなら、それが上策。もし入朝して見えるなら、乾祐の天書の詐りを暴かれるのが次策。もっとも下は、ふたたび中書に入って生涯の名を大いに損なうことです」と勧める者があった。準は不快だった。
乾興元年(1022年)・真宗の崩御
- 二月戊午、帝が崩じた。
- 冬十月、永定陵に葬り、天書を殉じた。
史論(史臣)
- 真宗は英悟の主である。即位の初め、宰相の李沆は帝の聡明が必ず多く事を作るであろうことを慮り、たびたび災異を奏してその奢侈の心を塞いだ。見るところがあったのである。だが澶淵の盟が結ばれると封禅の事が起こり、祥瑞が重なり天書がたびたび降り、それを導き迎えて安んじたので、一国の君臣は狂気を病んだかのようであった。まことに怪しむべきである。
- 後日、遼史を修めて契丹の古い風習を見てから、宋史の微言を推し量ってみた。宋は太祖の幽州の敗以来、兵を言うことを嫌った。契丹はその主を天と称し、その后を地と称し、一年に天を祭ることが幾度あるか分からず、狩りをして飛ぶ雁や鴇を手で受け止め、あるいは自ら地に落ちてくれば、みな天の賜と称して祭り告げて誇った。思うに宋の諸臣は契丹の風習を知り、しかも自分たちの君に兵を厭う意があるのを見て、神道によって教えを設けるという言を進め、これを借りて敵の耳目を動かし、その狙う志をひそかに消せると考えたのだろうか。しかし本を修めて敵を制することを思わず、かえって同じ真似をしたのだから、計としても拙い。仁宗が天書を山陵に殉葬したのは、ああ、賢明であった。
仁宗天聖七年六月(1029年)・玉清昭応宮の焼失
- 大雨と雷鳴があり、玉清昭応宮が焼けた。詔して守衛の者を御史の獄につないだ。太后は泣いて大臣に「先帝は天を尊び道を奉じられ、それゆえ力を尽くしてこの宮を成された。今、一夜でほぼ焼け尽き、長生・崇寿の二つの小殿だけが残った。どうして遺旨に副えようか」と言った。
- 范雍は敢然と「いっそすべて焼けてしまうほうがよいのです。先朝はこれで天下の力を尽くし、たちまち灰燼となった。人の意によるものではありません。もし残った分に因ってまた修繕なされば、民は堪えられません。天の戒めを敬う所以ではありません」と言った。王曾と呂夷簡も雍の言を助けた。中丞の王曙もまた「玉清昭応宮の建立は経義に適うものではありません。天変が警めに来たのです。どうかその地を除いて諸々の祈祷を罷め、天変に応じられたい」と言った。右司諫の范諷もまた「これは実に天変であり、獄に下すべきではありません」と言った。
- 太后と帝は感じ悟り、守衛の者の罪を減じ、詔して修理せず、二殿を万寿観とし、諸宮観使を罷めた。