宋史紀事本末咸平、諸臣が時務を論ずる(咸平諸臣言時務)

真宗の咸平年間(998-1000年)に諸臣が上った時務の議論を集める。王禹偁は辺防の盟好、冗兵・冗吏の削減、選挙の厳格化、僧尼の淘汰、大臣への信任という五事を説き、柳開は西辺の備えと審官院・三班などの新設官司の廃止を求めた。孫何は三司の使額を六卿に戻して唐制に復すことを論じ、王禹偁はさらに黄州の虎闘・鶏鳴・冬雷を災異として奏し、淮甸の飢荒への備えを請うた。

年表(4件)

真宗咸平元年春正月(998年)・王禹偁の五事

  • 翰林学士の王禹偁が上疏して五事を述べた。
  • 第一、辺防を謹み盟好を通じ、輸送に苦しむ民に休息を得させること。
  • 今、北に契丹、西に李継遷がある。契丹が辺を侵さずとも守備兵を減らせようか。継遷が帰順しないかぎり兵糧の送りも止められない。関中・輔郡の民の苦しみはとりわけ甚だしい。臣の考えでは、封疆の吏に命じて遼の臣に書を送り、その主に達して旧好を尋ねるよう請い、詔を下して継遷の罪を赦して夏州の地を返すのがよい。彼らは必ず恩に感じて内附し、しかも天下は陛下が己を屈して民のためになさったと知る。
  • 第二、冗兵を減らし冗吏を併せ、山沢の豊かさを少しでも下に流すこと。
  • 乾德・開寶のころは土地もまだ広くなく財賦も豊かでなかったが、河東を撃ち北辺に備えながら国用は足りずとも兵威は強かった。なぜか。蓄える兵が精鋭で多くなく、用いる将が専任で疑われなかったからである。その後、東南の数国をことごとく取り、河東も平らげて土地も財賦も広く豊かになったが、兵威は振るわず国用はかえって逼迫している。なぜか。蓄える兵が冗多で精鋭でなく、用いる将が多くて専任でないからである。臣の考えでは、兵と賦を開寶年間のように整えれば、枕を高くして治められる。
  • しかも開寶年間は設ける官が至って少なかった。臣はもと魯の人で済上に籍を置くが、及第前、一州には刺史一人と司戸一人がいるだけで、当時それで事が欠けたことはなかった。その後、団練推官一人が加わり、太平興国年間に通判・副使・判官・推官が増置され、酒・専売・税・算を監する者がさらに四員増え、曹官のほかに司理まで加わった。その租税は昔より減っているかと問えば減っており、その人民は昔より逃げているかと問えば逃げている。一州がこうなら天下は推して知るべし。冗吏が上で費やし、冗兵が下で費やす。だから山沢の利をことごとく取っても足りないのである。
  • そもそも山沢の利は民と共にすべきものである。漢以来これを取って国用としてきたので棄てるわけにはいかないが、取り尽くしてもならない。茶法にしても、古くは税がなかった。唐の元和年間に斉・蔡で兵を用いるため初めて茶に課税した。唐史はその年の収入を四十万貫としているが、今は数百万である。民はどうして堪えられよう。だから「冗兵を減らし冗吏を併せ、山沢の豊かさを少しでも下に流せ」と申すのである。
  • 第三、選挙を難しくし、入官が濫にならぬようにすること。
  • 古は郷挙里選で、官のために人を択んだ。士君子は学行を家で修め、しかる後に朝廷に薦められた。歴代に沿革はあっても、その道から遠く離れたことはない。隋唐に至って初めて科試を設けた。太祖の世には毎年の進士は三十人を超えず、経学は五十人。しかも諸侯が勝手に辟召できず、士大夫も蔭資を得ることが稀だったので、生涯一度も及第せず、死ぬまで一官も得ない者があった。太宗は藩邸で徳を養われた頃からこれをご覧になり、御位に就いてからは完璧を求めずに人を取り、短を捨てて長を用い、十のうち五を抜いた。在位二十四年に近く、及第者は一万人に迫る。俊傑の才もあるが、安易に得た者もある。
  • 臣の考えでは、数百年の困難があったからこそ先帝は広く取ることで救われたのであり、二十年の恩沢の後は、陛下が旧章によって正されるべきである。挙場を旧例どおり有司に戻していただきたい。吏部の銓衡もまた帝王が自ら執るべき事ではない。従来、五品以下は旨授の官と呼ばれ、今は幕職と州県の官のみである。京官には選限があっても多くは行われていない。臣の考えでは、吏部を有司に戻し、格式と敕に従って注擬させるのがよい。
  • 第四、僧尼を淘汰し、疲れた民を消耗させぬこと。
  • 古はただ四民があるのみで、兵はその数に入らなかった。井田の法では農がすなわち兵だったからである。秦以来、戦士は農業に従事しなくなり、四民のほかに一民が生じて農はいよいよ苦しくなった。だが干戈を執って社稷を衛るのは道理として除けない。
  • 漢の明帝の後、仏法が中国に流入し、度牒を出し寺を建てることが歴代増え続けた。蚕を飼わずして着、耕さずして食う。五民のほかにもう一つ加わって六となった。かりに天下に一万の僧があり、日に米一升、年に絹一匹としても、これは極めて倹しい方だが、それでも月に三千斛、年に一万縑を費やす。まして五、七万の輩ならなおさらである。民の蠹と言わずにいられようか。
  • 臣の考えでは、国家は多くの人を度し、多くの寺を造った。その費用は億万を下るまい。先朝がご不例のときも施しは多かったが、仏に霊験があるならなぜ福が来なかったのか。仏に事えても効がないのは断じて明らかである。どうか陛下は治の本を深く鑑み、速やかに淘汰を行っていただきたい。もし即位の初めゆえこの輩を驚かせたくないというなら、二十年間、人を度さず寺を造らぬことにして自然に減らすのも、弊を救う一つの手である。
  • 第五、大臣に親しみ小人を遠ざけ、忠良で直言する士が進んで疑わず、姦佞で巧みな輩が退いて畏れるようにすること。
  • 君は元首、臣は股肱。同体ということである。その人を得たら疑わず、その人でなければ用いない。帝王の盛時を論ずる者は、必ず堯舜の時を挙げる。契は司徒、咎繇は士、伯夷は礼を典り、后夔は楽を典り、禹は水土を平らげ、益は虞官となった。委任して成果を責め、堯には人を知り賢に任ずる徳があった。とはいえ堯の道は遠い。臣は近い事で申したい。
  • 唐の元和年間、憲宗が裴洎に諸官の銓衡を命じたとき、洎は「天子は宰相を択び、宰相は諸司の長官を択び、長官が自ら僚属を択べば、上下は疑わず政は成ります」と言った。識者はこれを知言とした。どうか陛下は遠くは帝堯に取り、近くは唐室に鑑み、宰相を得たら用いて疑わず、宰相に諸司の長官を択ばせ、長官に自ら僚属を取らせていただきたい。そうすれば垂拱して治まる。
  • 古は刑を受けた者を君の側に置かなかった。「鄭声を放ち佞人を遠ざく」と言う。周の文王の左右には靴下の紐を結ばせるような者すらいなかった、みな賢者だったからである。そもそも小人は巧言令色で、意を先取りして旨に迎合し、事は必ず正しきを害し、心はただ賢を忌む。聖明でなければ深く見抜けない。旧制では南班三品の尚書でなければ殿に上れなかったが、近ごろは三班奉職でも使いに出たというので殿に上ることを許されている。天聴を惑わすこと、これに過ぎるものはない。どうか陛下は綱紀を振るい立て、視聴を厳正にしていただきたい。今こそその時である。
  • 臣がさらに思うに、今の急務は、まず兵を議して多少を宜しきに得、措置を道にかなわせること。しかる後に吏を議して清濁の道を分け、品流を混ぜぬこと。しかる後に選挙を難しくしてその源を塞ぎ、僧尼を禁じてその消耗を除くこと。そうすれば自然に国用は足り王道は行われる。

咸平元年冬十月(998年)・柳開の上言

  • 知代州の柳開が上言して次のように述べた。
  • 国家は創業して四十年になろうとし、陛下は二聖の祚を継いで至治を求めておられる。旧規を守るだけでは十全ではなく、新法を立ててこそ神機が顕れる。
  • 臣は、益州がようやく静まったので、陛下に賢能を選んで鎮めさせていただきたい。必ず人望重く威のある者でなければ、小人どもは畏れ服さない。
  • また西の辺境は今は朝廷に帰しているが、後日も必ず保てるとは限らない。もし翻意があれば、制御できる人を得ねばならない。契丹と比べるなら西辺のほうが患いは深い。なぜか。契丹は君臣の分が久しく定まり、蕃と漢の別も久しく定まっているので、南を狙う心が萌しても自ら考えるところがある。だが西辺は積年の恨みが消えず貪心が改まらず、その下は猖狂で競って凶悪を謀り、侵し漁って満足を知らず、姑息な扱いでは恩に感じない。
  • 常に備えを設け、良将にその要害を守らせ、厚い賜与でその貪欲を満たし、撫慰でその情を招き、寛大な扱いでその野心を鎮めていただきたい。あわせて多くの使者を西の甘州・涼州に入れて厚くその心を結び、わが声援とする。動きがあればそこから襲わせ、彼に後顧の憂いを持たせれば、軽々しい動きを制せられる。
  • 今、甲兵は多いが太祖の時には及ばない。当時は人ごとに訓練され、謀臣・猛将についてはさらに格段の差がある。それゆえ近年、西北がたびたび侵され、養育には月々の費用が甚だ広く、征戦には勝報を聞かない。どうか訓練と統制を行い、往時のようにしていただきたい。行伍には必ず勇敢な者を求め、指揮に前後の乱れを許さず、軍規を失った者はことごとく誅し、功を挙げた者は必ず賞し、副将も主将も威厳のない者は退ける。政務の暇には自ら殿廷に臨み、勇士を召して撃刺と馳駆をさせ、神武の盛んなことを示していただきたい。
  • 臣はまた思う。宰相と枢密は朝廷の大臣であり、委ねる以上は疑わず、用いる以上は当を得るべきである。僚属を統べ職官を評品し、内は百司を主管し、外は四海を分治する。ところが今、京朝官には別に審官院を置き、供奉・殿直には別に三班を立て、刑部に詳断させず別に審刑院を立て、宣徽の一司はまったく閑職と同じ。大臣が信任を得られず、小臣がかえって至公と称される。銀台の一司にしても、旧は枢密に属したが、近年の改制で職掌が甚だ多くなり、人員も倍増したのに、事は従来どおりで別に利害もなく、変更が空しいだけである。
  • 臣は、審官院と三班を停め、ふたたび中書・枢密に委ね、宣徽院と銀台司を枢密に戻し、審刑院を刑部に戻していただきたい。
  • また京府は大都であり万方の模範である。従来どおり親賢を選んで委ねていただきたい。今、皇族の宗子はみな成長しているが、優遇して安逸に置くばかりでは才を試せない。外藩に委ね、文武忠直の士を選んで左右の輔弼の任に当てるべきである。
  • また天下の州県は官吏が均しくなく、あるいは冗員が甚だ多く、あるいは長年欠員のままである。県で四千戸以上には朝官を知として選び、三千戸以上には京官を知として選び、主簿を省いて県尉に兼領させたい。その他、通判・監軍・巡検・監臨の使臣もあわせて酌量して減らし、利禄の無駄を免れさせ、職官の均衡を図りたい。
  • また人情は貪り競い、時世の風は軽薄である。骨肉の至親であっても勢利に臨めば変わることが多く、同僚の間も不和が多い。隙をうかがえば人を陥れ、患難には少しも救い合わない。仁義の風は跡形もない。どうか明らかに告諭を頒って、それぞれ改めさせ、教化の源を厚くし、政の本を永く固めていただきたい。
  • 恐れながら太祖は神武、太宗は聖文、その光は百王を掩い、威は万国に加わり、賢者で用いられぬ者なく、事で知られぬものはなかった。どうか陛下も御心を天のごとく海のごとく開き、断ずべきは断じ、行うべきは行い、忠直の臣を愛惜し、姦諛の輩を見抜いていただきたい。臣は久しく地位を汚し、恩寵を蒙ってまいりました。言葉は狂い理は拙うございますが、どうか聖明のご寛恕を。

咸平二年春正月(999年)・孫何の上疏

  • 入閣の故事を挙行した。右司諫の孫何が上疏して次のように述べた。
  • 六卿が職を分けるのは国家の大きな柄です。吏部は考績を弁じて人材を育て、兵部は車徒を簡して戎備を治め、戸部は版図を正して貨財を殖やし、刑部は紀律を謹んで暴強を誅し、礼部は神祇を祀って賢俊を選び、工部は宮室を繕って堤防を修める。六職が挙がれば天下の事は備わります。
  • ゆえに周の会府、漢の尚書は庶政の根本を立て百司の綱紀を提げ、令・僕がその属を率い、丞がその行を分け、二十四司が星のように整然と並び、郎中・員外がその曹を判じ、主事・令史がその事を承け、四海九州の広さも網に綱があるようでした。
  • 唐の盛時にも利権を分けて使額を新設し、軍需を取り立てたとは聞きません。玄宗の代に奢侈の心が萌し、徴発が広くなって租調が足りなくなると、蕭景・楊釗が初めて地官(戸部)で度支を判じ、宇文融が租調地税使となり、利の孔を開いて禍の階を築きました。粛宗・代宗に至って有司の職はことごとく廃れ、利を言う臣が間で腕まくりする有様。かくて叛乱が相次ぎ、経費が足りず、軍期に迫られ国計に切迫して、当時の急を救うために結局は権宜で処理しました。五代は短命で、これを顧みることすらなかった。
  • 今、国家は三聖が相承け、五兵は試されず、太平の業の統を垂れて制を立てるべきはこの時です。三部の使額を六卿に返し、戸部尚書一人を慎重に選んで専ら塩鉄使の事を掌らせ、金部の郎中・員外郎にこれを判じさせ、さらに本行の侍郎二人を択んで度支・戸部の使の事を分掌させ、それぞれ本曹の郎中・員外郎に分判させる。そうすれば三使とその判官は、省いても省かぬのと同じことです。あわせて左右司の郎中・員外に帳目を総知させ、分担して遅滞を検査させれば、職守に常規があり、日程も定まって、進んでは苛斂の懸念がなく、退いては詳練の名があります。周官と唐式を復せます。この事は難しくなく、陛下がお行いになるかどうかです。
  • 先に何はかつて五議を献じていた。第一は方略ある儒臣を択んで兵を統べさせること、第二は世禄の家は太学で学ばせ、寒門の俊才は州郡が推薦することとし、贄を投じて自ら売り込むことを禁ずること、第三は制挙を復すること、第四は郷飲酒の礼を行うこと、第五は能によって官を授け、恩慶の例で昇進させないことである。帝は見て嘉した。

咸平三年冬十月(1000年)・王禹偁の災異上疏

  • 知黄州の王禹偁が上疏して次のように述べた。
  • 臣は昌運に際会して官籍に列なる身、見聞したことはすべて論奏すべきです。しかし言葉が災異に関わり、事が機宜に及ぶので、忌諱のない朝でなければ時の忌みに触れるかと恐れます。今は耳に逆らうことも避けず、身を顧みぬ心を明らかにいたします。
  • 臣の本州では昨年十一月、城南の長圻村で二頭の虎が夜に闘い、一頭が死んで半ばほど食われました。当時すぐ密奏しようとしましたが、鑾駕が北征中で、吉祥でないことを行在に届けるのは憚られました。臣はただ盗賊を警戒し軍民を撫恤しただけです。
  • また今年八月十三日・十四日の夜、鶏の群れが急に鳴き、今も時おり夜鳴きが止みません。さらに十月十三日には雷声が西北から起こり、盛夏と変わりませんでした。
  • 臣は『洪範五行伝』および『春秋』の災異、『史記』天官書、両漢の五行志・天文志を読んで照合しました。虎は毛虫で金に属し、金がその性を失えば毛虫の妖がある、また虎が食い合えばその年は大飢饉になる、といいます。鶏は羽虫で火に属し、火がその性を失えば羽虫の妖がある、また鶏が夜鳴けば兵革を主る、といいます。昔、鶏を聞いて舞った人がそれです。雷は震で木に属し、木がその性を失えば冬雷の妖がある、また雷の起こった地は飢饉になる、といいます。これらはみな儒学から得たもので、禁書によるものではありません。
  • ただし数年経ってから応ずる事もあり、ついに応じない事もあります。要は臣下が隠さず、帝王が知り尽くし、徳を修めて天心に答えるか、備えを設けて時難を防ぐかにあります。『詩』に「天の怒りを畏れ、敢えて戯れ楽しまず」とあり、『易』に「天文を観て時の変を察す」とあります。
  • 咸平元年に彗星が出たとき、呂端らが臣に避位の表を作るよう請いましたが、臣は「星は虚・危に見え、斉の分野です。青州・斉州の間に備えを設けて天戒に応じられたい」と具申し、端らもみなもっともとしました。その後どのような措置がとられたかは存じません。臣は言事の職になかったので官を侵すことを控えました。昨年、敵騎が辺を犯し、果たして斉の地に入りました。天が天文の象で人に告げても、人が自ら備えを知らなかったのです。端は物故しましたが、李沆以下はみな臣の言を聞いております。
  • 今、黄州にこの災祥がある以上、前のように黙っているわけにはまいりません。妖は徳に勝てぬので聖明を煩わすことはありますまいが、事に遭って敢えて言うのも、いささか忠鯁を申し述べることになりましょう。今年は穀の実りが少しあり、臣下に憂いはありません。しかし他日に応ずることを恐れます。ならば先に手を打っておくべきです。どうか陛下は臣の拙直を恕し、愚衷を察して、淮甸の間に飢荒への備えをさせていただきたい。かりに災祥が的中せずとも、事に臨んで備えのないよりはましです。
  • 臣はまた思います。古の循吏は政が神霊を感じさせました。宋均のときは猛虎が江を渡って去りましたが、臣のところでは虎が食い合いました。魯恭のときは雉が桑の下に馴れましたが、臣のところでは鶏が夜に鳴きます。百里嵩のときは甘雨が車に随いましたが、臣のところでは冬に雷が暴発します。これはみな臣の教化が至らず、政を布くのに和を失ったためで、常刑に処されて当然、自ら弾劾すべきです。しかも他人が先に上奏すれば、臣には隠蔽の咎があることになります。
  • 帝はこれを見て憮然とした。