宋史紀事本末至道の建儲(至道建儲)

太宗の長子の楚王元佐が廷美の死後に狂疾を発して庶人に落とされ、儲君の空位が続いたのち、寇準の「陛下ご自身でお択びください」の一言で襄王元侃が開封尹・寿王とされ、至道元年に皇太子(恒)に立てられるまで。太宗の崩御に際して王継恩・李昌齢らが元佐擁立を謀ったが、呂端が継恩を書閣に閉じ込めて太子を即位させた。雍熙二年(985年)から至道三年(997年)までを扱う。

年表(4件)

太宗雍熙二年九月(985年)・楚王元佐の廃位

  • 辛亥、楚王の元佐を廃して庶人とした。元佐は帝の長子で、幼くして聡明機敏、容貌が帝に似ていたので、帝はことのほか愛した。廷美が房州に移されたとき、元佐は力を尽くして救おうとした。廷美が死ぬと狂疾を発し、些細な過ちで棒や刃を取って侍人を傷つけるまでになった。病が少し癒えたので、帝は天下に赦を行った。
  • 折しも重陽の節に諸王を苑中の宴と射に召したが、元佐は病み上がりのため加えられなかった。諸王が宴から帰る途中、日暮れに元佐のもとを通ったところ、元佐は憤って「お前たちは主上の宴に侍り、私だけが加われなかった。私を見捨てたのだ」と言い、憤りを発し、酒に酔って夜にその宮に火を放った。帝は大いに怒って庶人に落とし、均州に安置した。宋琪が百官を率いて三度上表し、京師に留めるよう請うたので、帝は許した。黄山まで行ったところで召し返し、南宮に住まわせた。

淳化五年九月(994年)・寿王元侃

  • 壬申、襄王の元侃を開封尹とし、寿王に進封した。
  • 帝は在位が久しいのに儲君を立てていなかった。先に馮拯らが上疏してこれを進言したが、帝は怒って嶺南に流したので、内外に二度と言い出す者がなかった。
  • ここに至って寇準が青州から召されて左諫議大夫となり、拝謁した。帝が「私の諸子のうち、誰に神器を託せるだろうか」と問うと、準は「陛下が天下のために君を択ばれるのに、婦人や宦官に諮ってはなりません。近臣に諮ってもなりません。ただ陛下ご自身で、天下の望に副う者をお択びください」と答えた。帝は長くうつむいた後、左右を退けて「襄王でどうか」と言った。準は「子を知るは父に如くはなし。ご聖意ですでに可とお考えなら、ただちに決定していただきたい」と答えた。こうして元侃を開封尹として寿王に封じた。元侃は帝の第三子である。

史論(吕中)

  • 後漢や唐に女主・宦官・外戚の禍があったのは、太子を立てる権がことごとくその手から出たためで、李固・杜喬・裴度・鄭覃のような者でも正せなかった。寇準の言こそ万世の法である。

至道元年八月(995年)・立太子

  • 壬辰、詔して寿王の元侃を皇太子に立て、名を恒と改め、大赦した。唐の天祐以来、中国は多事で、儲君を立てる礼が廃れて百年に及んでいたが、ここに至って初めて挙行され、内外はみな喜んだ。
  • 太子は立てられると廟に謁して宮に還ったが、京師の民は道に押しかけて喜び躍り、「若い天子だ」と言った。帝はこれを聞いて不快になり、寇準を召して「人心がたちまち太子に付いた。私をどこに置くつもりか」と言った。準は再拝して祝い、「これは社稷の福です」と言った。帝は悟って入って后妃に語ると、宮中のみなが進み出て祝った。帝は喜んでふたたび出て準を招いて飲み、大いに酔って終わった。
  • 李至と李沆をともに太子賓客とし、太子に師傅の礼で仕えるよう詔した。太子は至と沆に会うたび必ず先に拝した。至らが表を上げて畏れ多いと辞退すると、詔して答えた――私は古訓を広く考えて承華(東宮)を建て、端正な者を選んで輔導を託した。卿らの宿望を頼りに護り調えることを委ねたのは、謙譲をもって励まさせるためである。それゆえその礼数を特別にしたのだ。当仁の譲(当然なすべきことでの遠慮)を飾らず、子を知る私の心に副ってほしい。至らは連れ立って謝した。
  • 帝は「太子は賢明で仁孝であり、国本は固まった。卿らは心を尽くして規誨せよ。行動がすべて礼にかなっているならそれを助け、まだ十分でないことは必ず力を尽くして言え。礼楽詩書のうち益するところのある道理については、いずれも卿らが日ごろ習熟しているもので、私が言い諭すまでもない」と言った。

至道三年二月~五月(997年)・太宗の崩御と即位

  • 二月辛丑、帝が病んだ。宣政使の王継恩は太子の英明を忌み、密かに参知政事の李昌齢、知制誥の胡旦らと謀って楚王の元佐を立てようとした。
  • 三月癸巳、帝が崩じた。享年五十九。皇后は王継恩に呂端を召させたが、端は変事があると察し、継恩を欺いて書閣に入れて鍵をかけ、急いで宮に入った。后が「宮車はすでに晏駕された。嗣を立てるのに年長を先にするのが順序である。今、どうするか」と問うと、端は「先帝が太子を立てられたのはまさに今日のためです。どうして異議があってよいものでしょうか」と答えた。后は黙し、太子を奉じて福寧殿に至って即位させた。
  • 簾を垂れて群臣を引見したとき、端は殿下に平然と立って拝さず、簾を巻いて殿に上って自ら確かめてよいかと請い、確認してから階を下りて群臣を率いて拝した。
  • もともと帝は端を宰相にしようとしたとき、「端は人となりが糊塗(曖昧)だ」と言う者があった。帝は「端は小事には糊塗だが、大事には糊塗でない」と言い、意を決して用いた。当時、同列の奏対には異議が多かったが、端だけは意見を述べることが稀だった。ある日、帝は内々の書付で「今後、中書は必ず呂端の参酌を経てから奏上せよ」と戒め諭した。
  • 五月甲戌、楚王を立てようと謀った罪を問い、李昌齢を忠武行軍司馬に貶し、王継恩を右監門衛将軍に降して均州に安置し、胡旦を除名して潯州に長流した。