宋史紀事本末契丹との和戦(契丹和戰)
太祖の開寶八年に始まった宋と契丹の通好が、太宗の北漢征伐で断たれ、燕・薊回復をめざす二度の北伐がいずれも大敗に終わるまでを記す。太平興国四年の高梁河、雍熙三年の岐溝関で曹彬の主力が潰え、楊業は陳家谷口で援軍を得られず捕らえられて絶食して死んだ。君子館の敗戦で河朔の戍兵は闘志を失ったが、端拱二年に尹継倫が徐河で耶律興格を破って契丹の大挙侵入は止み、開寶八年(975年)から至道元年(995年)までの三十年にわたる。張斉賢・王禹偁ら文臣の攻守論も併せて載せる。
年表(14件)
- 太祖
- 開寶八年三月~七月975年契丹主耶律賢が雄州を通じて国交を申し入れ、和議が成る
- 太宗
- 太平興国二年夏四月977年契丹が太祖の山陵に使者を送り、辛仲甫が答礼して屈しない
- 太平興国四年正月~九月・高梁河の敗戦979年太宗が幽州を囲むが高梁河で大敗し、驢車で逃れる
- 太平興国五年三月~十一月・楊業980年楊業が雁門で契丹十万を破り、無敵と畏れられる
- 太平興国五年~七年(980-)・契丹の内情982年契丹主賢が没して隆緒が立ち、蕭太后が国政を専らにする
- 雍熙三年正月~四月・北伐の開始986年賀令図の進言で曹彬・田重進・潘美が三路から契丹を伐つ
- 雍熙三年五月・岐溝関の大敗986年糧道を絶たれた曹彬が退き、岐溝関・拒馬河で大敗する
- 雍熙三年五月~七月・楊業の死986年楊業が陳家谷口で援軍を得られず捕らえられ、絶食して死ぬ
- 雍熙三年十一月・君子館の敗戦986年劉廷讓の軍が君子館で壊滅し、賀令図も捕らえられる
- 雍熙三年十一月・張斉賢の代州の計986年張斉賢が偽の旗幟と伏兵で契丹を欺き、土鐙砦で大破する
- 雍熙四年正月~二月987年敗兵を不問とし河北の租税を免じ、義軍の募兵は河北のみに限る
- 端拱元年冬十月~十一月988年契丹が涿州・満城を陥れ、王禹偁が「禦戎十策」を献ずる
- 端拱二年正月~八月989年宋琪らが修好を説き、尹継倫が徐河で耶律興格を大破する
- 至道元年二月~十二月995年折御卿が子河汊で韓德威を破り、年末に陣中で没する
太祖開寶八年三月~七月(975年)
- 契丹主の耶律賢が、涿州刺史の耶律琮に命じて知雄州の孫全興に書を送り、国交を通じたいと申し入れた。全興が報告すると、帝は返書して許すよう命じた。契丹は克実・克舒蘇を遣わして和議を結び、さらに人を送って北漢に「宋と好を通じたので、みだりに侵略するな」と告げた。
- 秋七月、閣門使の郝崇信と太常丞の呂端を契丹に遣わして答礼させた。
太宗太平興国二年夏四月(977年)
- 契丹が使者の耶律敞を遣わして太祖の山陵の葬儀に参列させた。ほどなく辛仲甫を遣わして答礼させた。
- 契丹主が「中朝に党進という者がいると聞くが、真の驍将か。進ほどの者は何人いるのか」と問うた。仲甫は「名将は甚だ多い。進のような鷹犬の材など数え切れません」と答えた。契丹主が仲甫を留めようとすると、仲甫は「信によって命を成すのが使者です。義として留まるわけにはまいりません。死あるのみ」と言った。契丹主はその志を奪えぬと知り、厚く礼遇して帰らせた。帝は「仲甫は遠く異域に使いして、君命を辱めなかったといえる。このような者があと数人いれば、私に何の憂いがあろう」と言った。
太平興国四年正月~九月(979年)・高梁河の敗戦
- 正月、帝が北漢を伐つと、契丹は塔瑪と長寿を遣わして「何の名目で漢を伐つのか」と言わせた。帝は「河東は命に逆らったので罪を問うのだ。北朝が援けなければ和約は従来どおり。さもなくば戦うのみ」と答えた。以来、和好は中絶した。
- 帝は北漢を滅ぼすと、勝ちに乗じて幽州・薊州を取ろうとした。諸将は軍が疲れ兵糧も乏しいので行きたがらなかったが、崔翰だけが「乗ずべきは勢い、失ってはならぬのは時機です。取るのは易い」と言い、帝の意は決した。五月庚子、太原を発した。
- 六月丁卯、東易州に至ると契丹の刺史の劉宇が城ごと降り、兵千人を留めて守らせた。戊辰、涿州に至ると判官の劉厚德も城ごと降った。庚午、幽州城の南に進むと、契丹の将の耶律実迪が城北に軍していたので、帝は衆を率いて撃退した。壬申、宋渥・崔彦進・劉遇・孟玄喆に兵を分けて四面から城を攻めさせ、三重に囲み、潘美を知幽州行府事とした。契丹の将で降る者が多かった。
- 秋七月、契丹の順州・薊州がともに降った。当時、耶律学古が燕を守り、力を尽くして防いだが支えきれず、城中は大いに恐れた。契丹は耶律興格を遣わして燕を救わせた。癸未、帝が諸軍を督して契丹の将の耶律舒と高梁河で大戦した。舒は敗れて逃げようとしたが、折よく興格の兵が到着し、耶律色珍と左右の翼に分かれて進み、再び戦った。帝は大敗し、死者は一万余に達した。
- 甲申、帝は軍を率いて南に還った。興格が涿州まで追ってきたので、帝は急ぎ驢車に乗って逃れ、失った物資と兵器は数え切れなかった。庚寅、孟玄喆を定州に、崔彦進を関南に、劉廷翰・李漢瓊を真定に屯させて還り、石守信と劉遇は従軍中の失律(軍規違反)を理由に貶した。
- 乙巳、帝は范陽から帰着した。
- 九月丙午、契丹が鎮州を侵したが、都鈐轄の劉廷翰らが合わせ撃って大破した。このとき契丹は南京留守の韓匡嗣に耶律舒・耶律興格を添えて鎮州を侵させ、燕包囲の報復とし、満城の西で方陣を布いた。官軍が偽って降ろうとすると匡嗣は受け入れようとしたが、興格は「彼らの気は甚だ鋭い。我々を誘うのではないか。兵を整えて待つべきだ」と言った。匡嗣は聞かなかった。ほどなく劉廷翰が前面に陣し、崔彦進が密かに背後に回り、李漢瓊・崔翰・趙延進の兵も続いて到着して合撃した。契丹軍は大潰し、遂城の西まで追撃して大敗させ、一万三百級を斬り、三将と馬一万匹を獲た。匡嗣は旗鼓を棄てて逃げ、興格だけが兵を整えて退いた。
太平興国五年三月~十一月(980年)・楊業
- 三月、契丹兵十万が雁門を侵した。代州刺史の楊業が手勢数百騎を率いて西陘から出、雁門の北口に至って南向きに攻撃し、契丹兵は大敗、その駙馬・侍中の蕭徹爾を殺した。以来、契丹は楊業を畏れ、その旌旗を望み見れば必ず退いた。
- 楊業はもと北漢の節度使の劉継業で、北漢主継元のために太原城の東南面を守り、しばしば宋軍を殺傷した。継元が降っても継業はなお城に拠って苦戦していた。帝はかねてその勇を聞いて招こうと考え、中使に継元を諭させて継業を招かせた。継元が親信を遣わすと、継業は北面して再拝し、大いに慟いて甲を脱いで会いに来た。帝は慰撫し、楊の姓に復させ、名を業とだけして代州刺史に任じた。当時、業が戦上手であったので楊無敵と呼ばれた。
- 冬十月、契丹主の耶律賢が侵入して瓦橋関を囲んだ。官軍が水の南に陣したが、耶律興格が精騎を率いて水を渡って戦い、官軍は大敗した。興格は莫州まで追撃した。
- 十一月己酉、帝は自ら契丹を防ごうとし、戊午に大名に至ったが、折しも契丹主が引き揚げた。帝はふたたび幽州を伐とうとしたが、李昉が強く不可を陳べた。帝は劉遇と曹翰を幽州部署として京に還った。
- 当時、廷臣の多くは帝の意を迎えて速やかに幽・薊を取るべきだと言った。張斉賢は上疏して次のように述べた。
- 今や海内は一家、朝野は無事です。聖慮にかかるのは、河東を平定したばかりで屯兵がなお多く、幽燕がまだ下らず、輸送が労苦であることでしょう。臣はこれを憂えるに足りないと考えます。
- 河東が下ったばかりの頃、臣は知忻州として、契丹の粟を納める典吏を捕らえました。いずれも山後から転送して河東に給していたと申します。臣が思うに、契丹が自ら軍糧を備えられるなら、太原に力を尽くさなかったわけではない。それでも太原がついに我が物となったのは、彼らの力が足りなかったからです。
- 河東が平定されたばかりで人心が固まらず、嵐・憲・忻・代にまだ軍砦がなかった頃は、侵入されれば田畑と牧地をたちまち失い、辺境を騒がされれば守備も危うかった。だが国家が要害を守り壁塁を増やし、左右から扼して国境の備えが厳しくなり、恩信が行われて民心が定まると、彼らは雁門や陽武谷で小利を争うだけになりました。その知力の程は推し量れます。
- 聖人の挙事は万全にあります。百戦百勝は、戦わずして勝つに及びません。重んじ慎めば、契丹は呑むに足らず、燕・薊は取るに足りません。古来、国境の難は必ずしも敵国だけによるのではなく、辺吏が騒がして招くことも多い。沿辺の諸砦の統御に人を得て、壘を高くし溝を深くし、力を蓄え鋭気を養い、逸をもって自ら処し、我が方が敵を招くようにする。これこそ李牧が趙で用いた術です。いわゆる「卒を択ぶは将を択ぶに如かず、力に任ずるは人に任ずるに如かず」であります。そうすれば辺境は安らぎ、辺境が安らげば輸送が減り、輸送が減れば河北の民は休息を得られます。
- 臣は聞きます、六合を家とする者は天下を心とすると。尺寸の地を争い強弱を競うだけのはずがありましょうか。ゆえに聖人は本を先にし末を後にし、内を安んじて外を養う。陛下が徳で遠きを懐け、恵みで民を勤め、内治が成れば、遠人の帰服は立ちどころに待てます。
- 帝はこれを嘉して受け入れた。
史論(吕中)
- 張斉賢の論は本を知っている。しかし遼を伐てないことは知っていても、燕・薊は取るべきものだと知らなかった。斉賢だけでなく、趙普も田錫も王禹偁もこれを知らなかった。燕・薊を取るべき理由は二つある。一つは版籍の民が流離に苦しむこと、一つは山河の険が強敵の手に移ること。燕・薊を収めなければ河北の地は固まらず、河北が固まらなければ河南も枕を高くして眠れない。ただ太宗の時には取るべき機がなかっただけである。
太平興国五年~七年(980-982年)・契丹の内情
- 契丹主は帰国して耶律興格を裕悦とした。裕悦は契丹の至高の職である。興格は智略が宏遠で敵情の判断に長け、勝つたびに功を諸将に譲ったので、士卒は喜んで用いられた。
- 太平興国六年春正月癸卯、平塞・静戎の二軍を置いた。辛亥、易州で契丹の数千の衆を破り、静戎軍を安静軍と改めた。
- 秋七月、使者を渤海に遣わした。渤海はもと高麗の別種で、契丹がかつてその扶餘城を取って東丹府としていた。当時、帝は契丹征伐を大挙しようとし、使者にその王への詔書を賜って発兵を促し、遼を滅ぼした日には幽・薊の地は中朝に復し、朔漠の外はすべて渤海に与えると約した。だが結局、来る者はなかった。帝はのちにまた使者を高麗に遣わして発兵して西で合流するよう諭したが、高麗も応じられなかった。
- 太平興国七年九月、契丹主の賢が雲州に行幸し、焦山で病んだ。韓德讓と耶律色珍に遺詔を受けさせ、長子の梁王隆緒を立てさせて没した。隆緒は小字を文殊努といい、生まれて十二年であった。即位して賢に孝成皇帝と諡し、廟号を景宗とした。母の蕭氏を太后として尊び、太后が国事を専らにした。国号をふたたび大契丹とし、統和と改元した。太后は德讓を政事令兼枢密使として宿衛の兵を統べさせ、巴固済に山西諸州の事を総領させ、耶律興格を南面行軍都統とした。
雍熙三年正月~四月(986年)・北伐の開始
- 春正月庚寅、曹彬・田重進・潘美らを都部署として兵を率いて契丹を伐たせた。先に賀懐浦が兵を率いて三交に屯し、辺事を論じるのを好んでいたが、子の知雄州の賀令図とともに「契丹主は幼く、母后が政を専らにして寵臣が権を振るっています。その隙に乗じて燕・薊を取られたい」と上言した。帝はこれを信じた。
- そこで曹彬を幽州道行営都部署、崔彦進を副とし、米信を西北道都部署、杜彦圭を副として雄州から出させ、田重進を定州路都部署として飛狐から出させ、潘美を雲・応・朔などの州の都部署、楊業を副として雁門から出させた。
- 三月癸酉、曹彬は涿州に向かい、先鋒将の李継隆を遣わして契丹兵を破り、固安・新城の二県を取り、進んで涿州を攻め落とし、その将の和斯を殺した。敵兵がふたたび集まったとき、米信は手勢三百だけで交戦して幾重にも囲まれたが、大刀を持って大声で叫びながら囲みを突破した。折しも彬の援兵が至り、新城の東北で契丹兵を破った。
- 丁丑、田重進は飛狐を出て南で契丹兵に遭って破った。契丹の西南面招安使の大鵬翼が衆を率いて拒んだので、重進は東に陣し、部将の荊嗣に西へ出るよう命じ、日暮れに崖に迫って短兵で交戦した。契丹兵は崖から落ち、殺し捕らえた者が多かった。数日挑戦するうちに敵の勢いはかなり盛んになった。当時、譚延美が小沼に屯していたので、嗣は延美に平川で隊列を布かせ、別に二百人に白い幟を持たせて道の傍らに立たせ、自らは部下を率いて疾駆して戦った。契丹兵は旗幟が連なるのを見て大軍が続くと疑い、逃げようとした。重進が乗じて攻め、契丹兵は崩壊し、大鵬翼を生け捕りにした。飛狐・霊丘はともに降った。
- 丁亥、潘美は西からまっすぐ入って契丹兵と遭遇し、寰州まで追って破った。刺史の趙彦章が城ごと降った。進んで朔州を囲むと節度副使の趙希賛も城を挙げて降った。転じて応州・雲州を攻め、いずれも落とした。
- 夏四月己酉、田重進は飛狐の北で戦って再度破り、その二将を殺した。
- 趙普が上疏して次のように述べた――今春の出師で幽・薊を回復されると伺い、たびたび勝報を聞いて輿情はまことに快い。だが月は改まって初夏に及んだのに、なお回復に手間取っている。炎暑の時節にかかって輸送は甚だ煩わしく、戦闘はやまず、王師は次第に疲れ、わが民も疲弊している。夜も昼も思うに疑念が増すばかりである。戦は危事で万全を保ちがたく、兵は凶器で「戢めざる」ことを深く戒める。前人の書に「兵久しくして変を生ず」の言がある。これこそ深く慮るべきである。もしさらに長引かせれば、いよいよ機宜を失う。旬日のうちに秋に入る。臣はさらに、内地が先に困窮し、辺境が涼しくなれば、敵は弓が強く馬が肥え、我は人が疲れ軍が老いる。その際に指揮を誤りはせぬかと憂えます。速やかに詔して軍を還し、敵を侮ることのないよう願います。だが返答はなかった。
雍熙三年五月(986年)・岐溝関の大敗
- 五月庚午、曹彬が兵を引いて退き、契丹の耶律興格と岐溝で戦って敗れた。
- もともと諸将の出発の挨拶のとき、帝は「潘美はまず雲州・朔州に向かえ。そなたらは十万の衆で幽州を取ると称し、しかも重厚に進み、緩やかに行け。利を貪ってはならぬ。敵は大軍が来たと聞けば必ず総力で范陽を救い、山後を援ける余裕はなくなる」と言った。ところが彬らは勝ちに乗じて進み、行く先々で勝った。勝報が届くたびに帝は進軍の速さを訝った。
- 彬が涿州に駐まると、契丹の南京留守の耶律興格は兵が少なく出戦しなかった。夜は軽騎に孤立した弱兵を襲わせて全体を脅かし、昼は精鋭で勢いを張り、また林や草むらに伏兵を置いて糧道を絶った。彬は涿州に十日いて食が尽き、雄州に退いて糧秣を受けようとした。帝はこれを聞いて「敵が目の前にいるのに、かえって軍を退いて糧秣を受けるとは。策を失うこと甚だしい」と言い、急ぎ使者を送って彬に前進を止めさせ、急ぎ白溝河沿いに軍を引いて米信の軍と接し、潘美が山後の地を残らず攻略し、田重進が東下して合流するのを待って幽州を取るよう命じた。
- ところが彬の部下の諸将は、潘美と田重進が連戦連勝と聞いて、重兵を握りながら何も攻め取れぬことを恥じ、議論が沸き立った。彬はやむを得ず糧を携えて米信とともにふたたび涿州に向かった。興格はこれを聞いて軽兵で迫り、朝食の時を狙って攻め、隊列を離れた者を撃ち、戦いながら退いた。そのため宋の軍士は自らを守るのに精一杯で、方陣を組み、両側に堀を掘りながら進んだ。折しも炎暑で、軍は渇いて井戸もなく、泥水を漉して飲んだ。四日かかってようやく涿州に着いたが、士卒は疲れ果て、糧もまた尽きようとしていた。
- そこへ契丹主の隆緒と太后が駞羅口から大兵を率いて応援に来て、涿州に向かった。彬と信はふたたび退き、興格が兵を出して追い、岐溝関で戦った。彬と信は敗走して隊伍を失い、夜に拒馬河を渡ったが、興格が精兵を率いて追いつき、溺れた者は数え切れなかった。彬と信は南の易州へ向かい、沙河のほとりで炊事をしていたところ、興格が兵を率いてまた来たと聞いて驚き潰え、死者は半数を超え、沙河は流れが止まるほどで、棄てられた武具は丘山のようだった。知幽州行府事の劉保勲が戦死した。
- 興格は勝ちに乗じて黄河まで攻め取り国境としたいと請うたが、太后は従わず、兵を率いて燕に還り、興格を宋国王に封じた。
- 丙子、帝は詔して曹彬・米信および崔彦進らを還らせ、田重進を定州に屯させ、潘美を代州に還らせ、雲・応・朔・寰の四州の吏民および吐谷渾の部族を河東・京西に分けて移した。
雍熙三年五月~七月(986年)・楊業の死
- 当時、契丹の耶律色珍が兵十万を率いて定安の西に至った。賀令図はこれに遭って敗れ、南へ逃げた。色珍は追いついて五台で戦い、死者は数万に及んだ。翌日、蔚州を攻めたので、令図は潘美とともに救援に向かい、色珍と飛狐で戦ってまた敗れた。こうして渾源と応州の将はみな城を棄てて逃げ、色珍は勝ちに乗じて寰州に入り、守城の吏卒千余を殺した。
- 潘美は飛狐で敗れた後、副将の楊業が兵を率いて雲・応・寰・朔の吏民を内地に移す任に当たった。当時、耶律色珍はすでに寰州を陥れて兵勢が甚だ盛んだった。楊業は「兵を率いて大石路から出、まっすぐ石碣谷に入ってその鋒を避けたい」と言ったが、護軍の王侁らは臆病だとして雁門の北川を通って行こうとした。業が不可とすると、侁は「君侯はかねて無敵と称される。今、ためらって戦わぬのは他意あってのことか」と言った。業は「私は死を避けるのではない。時が利ならず、いたずらに士卒を殺して功が立たぬからだ。今、君は私を死なぬことで責める。ならば諸公の先陣を務めよう」と言った。
- そこで兵を率いて石跌路から朔州に向かった。出発に際して泣いて潘美に言った――「この行きは必ず不利です。私は太原の降将で、本来なら死ぬべきところ、主上は殺さず、寵して連帥とし兵柄を授けてくださった。敵を見逃して撃たぬのではなく、便宜を伺って寸尺の功を立て国家に報いたいのです。今、諸君は私が敵を避けると責める。なお身を惜しめましょうか」。そして陳家谷口を指して「諸君はどうかここに歩兵と強弩を布いて援護してほしい。私は転戦してここまで来る。挟撃すればよい。さもなくば一人も残るまい」と言った。
- 潘美は王侁とともに手勢を率いて谷口に陣した。色珍は業が来ると聞いて副部署の蕭達蘭に道に伏兵を置かせた。業が至ると色珍は衆を擁して戦う構えを見せた。業が旗を振って進むと色珍は偽って敗れ、伏兵が四方から起こった。色珍は兵を返して戦い、業は大敗して狼牙村に退いた。
- 侁は寅の刻から巳の刻まで業の報せがないので、人を托囉台に登らせて望ませたが何も見えず、契丹が敗走したと思い込み、その功を争おうと谷口を離れた。美は制しきれず、交河沿いに西南へ進んだ。二十里行って業の敗報を聞くと、兵を指揮して退いた。賀懐浦は敗れて戦死した。
- 業は戦いながら進み、午から日暮れまでかかって果たして谷口に至ったが、人影がないのを見て胸を打って大いに慟き、ふたたび手勢を率いて力戦し、身に数十の傷を負った。士卒はほぼ尽きたが、なお自ら数十人から百人を斬った。馬が重傷で進めなくなり、深い林に隠れたが、耶律実迪が袍の影を見つけて射た。業は落馬して捕らえられ、その子の延玉は死んだ。
- 業は嘆息して「主上は私を厚遇され、賊を討ち辺を守って報いることを期待された。それが逆に姦臣に迫られて王師を敗れさせた。どの面下げて生きようか」と言い、三日食を絶って死んだ。
- 業が敗れたとき手勢はなお百余人いた。業は「お前たちにはそれぞれ父母妻子がいる。私とともに死んでも益はない。逃げ帰って天子に報告せよ」と言ったが、衆は感激してみな戦死し、一人も生きて還らなかった。
- こうして雲・応・朔州および諸城の将吏は、業の死を聞いてことごとく城を棄てて逃げ、色珍がふたたびその地を陥れた。
- 事が伝わると帝は深く痛惜し、詔して業に太尉を贈り、潘美の三任を削り、王侁を除名した。もともと挙兵を議したとき枢密院とだけ相談して中書は与り知らなかったので、敗戦後、帝は悔いて枢密使の張斉賢らに「そなたらもともに見たであろう。私は今後、このようなことをふたたびするだろうか」と語った。
- 秋七月庚午、曹彬らを詔に違い失律したとしてそれぞれ貶官した。もともと米信の軍が潰えたとき、李継隆の部だけが隊列を保って還り、田重進もまた全軍が敗れなかった。詔して重進を馬歩軍都虞候、継隆を知定州とした。
- 丁亥、張斉賢を知代州とした。帝は楊業の死を受けて、代州を任せられる者を近臣に尋ねた。当時、斉賢は諫言が帝の意に逆らっていたので自ら赴任を願い出、潘美とともに沿辺の兵馬を領するよう命じられた。
雍熙三年十一月(986年)・君子館の敗戦
- 十一月壬寅、契丹主の隆緒と蕭太后が衆を率いて南下し、耶律興格を先鋒都統とした。当時、劉廷讓が数万の兵を率いて海沿いに北上し、李敬源と合流して燕に向かおうとしていた。興格はこれを聞いて要害を扼し、君子館で迎え撃った。折しも厳寒で、宋の士卒はみな弓弩を引き絞れなかった。そこへ隆緒の大軍が至って廷讓を幾重にも囲んだ。廷讓は先に精兵を分けて李継隆に付けて後詰めとしていたが、継隆は退いて楽寿を守った。廷讓は力及ばず、一軍はことごとく壊滅し、わずか数騎で脱出した。李敬源と楊重進はいずれも戦死した。
- 先に興格は間諜を使って賀令図を欺き、「私は本国で罪を得た。近く南朝に帰したい」と伝えさせた。令図はこれを信じ、私に重錦十両を贈っていた。廷讓が敗れると、興格は「雄州の賀使君に会いたい」と言い触らした。令図は降ってくるものと思い、その功を独占しようと数十騎で迎えに行った。帳下に至ると、興格は胡床に腰かけたまま「お前は常々辺事を画策するのが好きだったな。今こそ死にに来たか」と罵り、左右にその従騎を殺させ、令図を捕らえた。
- 以来、河朔の戍兵に闘志がなくなり、契丹は勝ちに乗じて長駆南下し、深州・邢州・徳州の三州を陥れ、官吏を殺し士民を捕らえ、金帛を車で運び去った。魏博の北の民がとくに苦しんだ。
- 帝はこれを聞いて詔を下して自ら悔い、敗走した将士の罪を許し、河北の滞納租税を免じて三年の復(賦役免除)を与えた。賀令図は功を貪って事を起こし、軽率で謀がなかった。当初、父の懐浦とともに北伐を首唱し、一年のうちに父子ともに敗れ、そのうえ中国に害を残した。
雍熙三年十一月(986年)・張斉賢の代州の計
- 壬子、契丹が代州城に迫った。副部署の盧漢贇は臆病で壁を保って自守するのみだったが、張斉賢は廂軍二千を選んで出て防ぎ、衆に誓わせると、みな感慨して一騎当千の気概を見せ、契丹は少し退いた。
- 先に斉賢は使者を送って潘美と并州の軍を合わせて会戦することを約していたが、その使者が契丹に捕らえられた。ほどなく潘美の使者が来て、「軍が柏井まで出たところで密詔を受けた。東路の王師が敗れたので并州の全軍は出戦を許されず、すでに州に還った」と告げた。
- 当時、契丹兵は川を埋め尽くしていた。斉賢は「敵は潘美が来ることは知っているが、退いたことは知らない」と言い、潘美の使者を室に閉じ込め、夜、兵二百を出して一人が一旒の幟を持ち一束の秣を負い、州の西南三十里に至って幟を並べて秣に火を点けさせた。契丹は遠くから火光の中の旗幟を望み見て并州の軍が来たと思い、驚いて北へ走った。斉賢はあらかじめ土鐙砦に歩卒二千を伏せておき、これを襲って大破し、契丹の国舅の詳衮特爾格と宮使の蕭達哩を殺し、数百級を斬り、馬二千と数え切れぬ武器を獲た。
雍熙四年正月~二月(987年)
- 春正月丙戌、詔して行営の将士で敗れ潰散した者はすべて不問とし、沿辺の城堡で防備に功のあった者は名を挙げて報告させ、戦死した文武官の子孫を登用し、河北の雍熙三年以前の滞納租税を免じ、敵に蹂躙された地には三年の復、軍が通過した地には二年、その他には一年の復を与えた。
- 二月、河北の諸州軍の城郭と濠を修繕した。
- 帝は大挙して契丹を討とうとし、使者を遣わして河南・河北の四十余郡で募兵し、八丁につき一人を取って義軍に充てようとした。京東転運使の李維清は「そうすれば天下が耕作しなくなります」と言い、三度上疏して争った。李昉らも相次いで「河南の民は戦闘を知りません。人心が動揺して盗賊になることも懸念され、得策ではありません」と言った。そこで詔して河北だけで選び、諸路はすべて中止した。
端拱元年冬十月~十一月(988年)
- 契丹主の隆緒が涿州を攻めて城を破り、進んで長城を攻めた。士卒が囲みを潰えて南へ走ったが、隆緒が迎え撃ってほぼ全滅させた。
- 十一月、契丹が満城・祁州および新楽を攻め、いずれも陥れた。己丑、郭守文が唐河で契丹を破った。
- 当時、北の辺境が騒がしく帝は憂えて、群臣に辺事を尋ねた。右拾遺の王禹偁が「禦戎十策」を献じた。その大略は漢の事に仮託して説くものである。
- 漢の十二帝のうち賢明といわれるのは文帝と景帝、昏乱といわれるのは哀帝と平帝である。ところが文帝・景帝の世には軍臣単于がもっとも強盛で、斥候の騎が雍に至り、烽火が甘泉を照らした。哀帝・平帝の時には呼韓邪単于が毎年来朝して人質を出し臣を称し、辺境の烽火は警めを止めた。なぜか。
- 文帝・景帝は軍臣が強盛な時に当たって、外は人を任じ内は政を修めた。深い患いとならなかったのは徳によるのである。哀帝・平帝は呼韓邪の衰弱の際に当たり、外に良将なく内に賢臣なくとも来朝させ得たのは、時勢によるのである。
- 今、国家の広大さは漢に劣らず、契丹は強盛とはいえ、辺塞を騒がすことはあっても、斥候の騎が雍に至り烽火が甘泉を照らすようなことがありましょうか。要は外は人を任じ、内は徳を修めることにあります。
- 臣は愚かながら申します。外については、兵勢を合わせて将の権を重くし、詔を下して辺民を感奮させ、幽・薊を取るのは旧疆の回復であって土地を貪るのではないと知らせること。内については、官を省いて経費を寛くし、文士を抑えて武夫を励まし、大臣を信用してその謀を借り、遊惰を禁じて民力を厚くすることです。
- 帝は深く嘉した。
端拱二年正月~八月(989年)
- 春正月、契丹が易州を陥れ、その民を燕に移した。癸巳、詔して北伐を議した。
- 張洎は「中国が戎を防ぐのはひとえに険阻に頼る。今、飛狐以東はみな契丹の有となり、地の利を失った。しかも河朔の諸壁塁はいずれも城を備えて自ら固めるだけで出戦できない。これは兵を分けた過ちでもある。沿辺に三大鎮を建て、それぞれ十万の衆を統べさせて鼎立して守り、あわせて親王に魏府へ臨ませてその要を制すれば、契丹に精兵があっても越えて南侵できまい。敵を制する方策はこれに尽きる」と述べた。
- 宋琪は「国家が燕を取るのに雄州・霸州からまっすぐ進むのは我が戦地ではない。大軍を易州から孤山に沿って涿水を渉り、桑乾河に至って安祖寨に出れば、東に燕城を臨んで一舎(三十里)の距離となる。これが周德威の燕を取った路である。孤立した壘を見下ろせば十日で必ず克てる。山後八州は薊門が守れぬと聞けば必ずみな降る。勢いがそうさせるのである。ただし兵は凶器で、聖人はやむを得ずして用いる。使者を選んで好を通じ、戦を止めて民を休ませるのも得策の一つである」と述べた。李昉と王禹偁も多くは修好を説いた。帝はこれを容れた。
- 八月、尹継倫が徐河で契丹兵を大破した。当時、朝廷は契丹の再来を聞き、李継隆に鎮定の兵一万余を出させて糧秣数千車を護送し威虜へ向かわせた。耶律興格はこれを聞き、精騎数万を率いて途中で迎え撃とうとした。北面都巡検使の尹継倫がちょうど兵を率いて巡邏しており、途上でこれに遭ったが、興格は目もくれず南へ向かった。
- 継倫は「彼らは我々を蔑んでいる。勝って還れば勢いに乗って我々を北へ追い立てるだろうし、勝てなくても怒りを我々にぶつけるだろう。いずれ生き残る者はない。今日の計は、兵をまとめ枚を銜んで後を追うことだ。彼らは鋭気に任せて前進し、我々が来ることを予想していない。力戦して勝てば身を立てるに足る。たとえ死んでも忠義の名は失わぬ。むざむざ死んで辺地の鬼となってよいものか」と言った。衆はみな憤激して命に従った。
- 継倫は馬に秣を与え、夜を待って各人が短兵を持って密かに後をつけた。数十里行って唐州の徐河に至った。夜が明けぬうち、興格は宋の大軍から四、五里の所で食事を終え、戦おうとしていた。継隆はすでに前面に陣して待っていた。そこへ継倫が後ろから急襲して契丹の大将一人を殺すと、衆はみな驚き潰えた。興格はちょうど食事中で箸を落とし、短兵で腕を傷つけられて重傷となり、馬に乗って真っ先に逃げ、残りの衆も引き揚げた。
- 契丹はこれで気を挫かれ、以後、大挙しての侵入をしなくなり、互いに「黒面大王を避けよ」と戒め合った。継倫の顔が黒かったからである。
至道元年二月~十二月(995年)
- 二月、契丹の大将の韓德威が一万騎を率い、党項の囉朗などの部族を誘って振武から侵入した。折御卿が迎え撃って子河汊で破った。囉朗らは乱に乗じて逆に契丹を攻め、その将の突厥哈里らを殺した。德威はかろうじて身一つで逃れた。
- 夏四月、契丹が雄州を侵した。何承矩は子河汊の勝利を条書して州民に諭し、あわせて市に掲げた。契丹は間諜からこれを知って恥じ憤り、承矩を襲って恥を雪ごうと、夜に数千騎を率いて城下に至った。承矩は兵を整えて出て拒み、夜明けとともに激しく戦い、契丹はまた逃げた。帝はこれを聞き、承矩は軽佻で事を起こしたとして罷免した。
- 十二月、契丹の韓德威は間諜から折御卿の病を知り、衆を率いて辺境を侵し、子河汊の役に報いようとした。御卿は病を押して防いだ。德威はその出陣を聞いて進めなかった。やがて御卿の病が重くなり、母が密かに帰るよう召したが、御卿は「代々、国恩を受けながら辺寇を滅ぼせぬのは御卿の罪だ。今、敵に臨んで士卒を棄てて我が身を安んじられようか。軍中で死ぬのが本分だ。母上に申し上げてくれ、私のことを思われますな、と。忠孝はどうして両立できましょう」と言い、言い終えて涙を流した。翌日、陣中で没した。契丹兵も退いた。