宋史紀事本末北漢を平定する(平北漢)

劉鈞・劉継恩・劉継元と続いた北漢が、契丹を後ろ盾として太原に拠り、宋の攻撃を凌ぎ続けた二十年の攻防。太祖は開寶二年に自ら太原を囲んだが契丹の来援と暑雨に阻まれて還り、趙普の「太原は後回し」の献策もあって連年攻めては退いた。太宗は太平興国四年に親征し、郭進が白馬嶺で契丹の援軍を破り、潘美らが太原を囲んで劉継元を降伏させ、建隆元年(960年)から太平興国四年(979年)まで続いた北漢は滅んだ。

年表(11件)

建隆元年夏四月~八月(960年)

  • 北漢主の劉鈞が自ら兵を率いて潞州に至り、李筠を援けたが、李筠が敗れると恐れて兵を引き揚げた。
  • 八月、昭義節度使の李継勲が北漢の平遥県を焼き、多数を捕らえた。晋州鈐轄の荊罕儒も衆を率いて汾州を攻めたが、北漢の大将の郝貴超に襲われて戦死した。罕儒は驍将だったので帝は深く惜しみ、命に従わなかったその部将二十余人を斬った。

建隆三年二月(962年)

  • 北漢が潞州を侵し、晋州の守将が撃退した。

乾德元年秋七月~九月(963年)

  • 北漢の宿衛殿直の王隠・劉昭・趙巒らが謀叛して誅された。供述が枢密使の段常に及び、北漢主は常を汾州刺史として出したうえ、まもなく縊り殺した。
  • もともと北漢主の寵姫の郭氏は、医僧が寡婦と通じて生ませた娘で、格別の美貌だった。北漢主は寵愛して妃に立てようとしたが、段常が「出自が釣り合わず、隣国の笑い者になります」と言うので取りやめた。また姫の兄弟や姻戚も多く抑えて用いなかったので、みな段常を怨み、讒言して殺させた。その死は罪によるものではなく、国人は憐れんだ。
  • 八月、王全斌が北漢の楽平を攻め取り、詔して平晋軍とした。契丹が救援に向かったが間に合わなかった。
  • 九月、北漢が契丹の兵で平晋軍を攻めたが、洺州防禦使で西山巡検を兼ねる郭進が救援して撃退した。
  • 郭進は部下を厳しく統率した。帝は戍卒を送るとき必ず「お前たちが謹んで法を守れば、私はまだ許すが、郭進はお前たちを殺すぞ」と諭した。かつて西山から汴京に来て不法を誣告した軍校があったが、帝はその実情を見抜いて郭進のもとへ送り返し、殺せと命じた。折しも北漢が侵入してきたので、進はその男に「私を訴えるとは、たしかに胆力がある。今回は罪を許そう。お前が敵兵を襲って殺せば、すぐ推薦しよう。負ければ河東(北漢)へ逃げるがよい」と言った。男は勇み立って戦い、大いに勝ちを収めた。進はただちに報告してその官職の回復を乞い、帝は従った。
  • 北漢主は潞州の敗戦以来、日々宋軍の来襲を恐れ、趙文度を宰相とし、また抱腹山の人の郭無為と五台山の僧の継顒を召して国事に参与させた。まもなく文度と無為の議論が合わなくなり、北漢主は文度を出して汾州を守らせ、無為が独り宰相となって機務をすべて委ねられた。
  • 契丹主が北漢主に書を送り、「そなたは我が命を受けずに勝手に年号を改め、李筠を助け、段常を殺した。その罪は三つある」と責めた。北漢主は「父は子のために隠す」の言を引いて謝した。
  • もともと北漢と契丹は毎年の使者が絶えなかったが、これ以後、契丹の使者は来ず、北漢の使者が行けば抑留されたので、群臣はみな北への使いを恐れた。北漢主は甥で侍衛親軍使の劉継文に命を請わせたが、これも拘留された。継文は世祖(劉崇)の嫡孫で、体格が立派で気概と器量があり、沈毅で寡黙だったので、契丹主も厚く礼遇した。

乾德二年二月~三月(964年)

  • 昭義節度使の李継勲が北漢を侵し、遼州を落とした。継勲はたびたび北漢兵を破っていたが、ここに至って帝は曹彬を送って継勲と合流させ、北漢の境内に入って辺邑および遼州・石州を攻めさせた。継勲は遼城の下で北漢兵を大破し、北漢の遼城刺史の杜延韜は窮して部下の兵三千を挙げて継勲に降った。契丹が六万騎で救援に来たが、これも撃退した。
  • 三月、北漢の耀州団練使の周審玉らが降った。

乾德四年~五年(966-967年)

  • 乾德四年、北漢がふたたび遼州を取った。
  • 乾德五年、北漢の将の閻章と樊暉がそれぞれ砦ごと降った。

開寶元年秋七月~十一月(968年)・劉継恩の即位と死

  • 北漢主の劉鈞が没し、養子の継恩が立った。もともと世祖(劉崇)の娘が薛釗に嫁いで継恩を生み、再嫁した何氏との間に継元を生んだ。二子は幼くして孤児となり、世祖は劉鈞に子がないので養子とさせた。劉鈞はかつて郭無為に「継恩は柔弱で世を済う才ではない。我が家のことを果たせまい。どうしたものか」と語ったが、無為は答えなかった。ここに至って病篤くなると無為を召して後事を託した。継恩は即位すると、無為が初めに自分を助けなかったことを怨み、かつ専政を恐れて守司空を加え、表向きは優遇しながら内実は遠ざけた。
  • 八月戊辰、李継勲に兵を率いて北漢を伐たせた。もともと帝はかつて間諜を通じて北漢主(劉鈞)に「そなたの家と後周は世讐だから屈しないのももっともだが、今、私とそなたの間には何の恨みもない。なぜこの一方の人を苦しめるのか。中国に志があるなら太行を下って勝負を決すべきだ」と伝えたことがあった。北漢主は間諜を通じて「河東の土地と兵は中国に当たるに足りません。ただ我が家は代々叛いた者ではなく、細々とここを守るのは、漢氏の祭祀が絶えることを恐れるからです」と答えた。帝はその言葉を哀れみ、間諜に「私のために鈞に伝えよ、お前に一つ生きる道を開いてやる、と」と言った。それゆえ劉鈞の代には兵を加えなかった。ここに至ってその死を聞き、李継勲らに禁軍を率いて伐たせた。
  • 北漢主は即位したばかりで、すでに宋軍が境内に入っていたので、劉継業・馬峯らに軍を率いて北谷の囲みを扼させた。馬峯が銅鍋河に至ったところで、李継勲の前鋒将の何継鈞が撃破し、三十余級を斬り、汾河の橋を奪って太原城下に迫り、延夏門を焼いた。
  • 九月、北漢主は郭無為を追放したかったが、臆病で決しかねた。一か月余り後、供奉官の侯霸栄が十余人を率いて刃を抜いて閣に入り、その門を内から閉ざした。継恩はちょうど独りで喪次にいたが、これを見て驚いて立ち、屏風を回って逃げた。霸栄は刃でその背を刺して殺した。無為は人に屋根から入らせて霸栄を殺した。継恩の在位はわずか六十余日だった。并州の人は、無為が霸栄に指示しておき、急いで殺して口を封じたのだと疑った。
  • 無為が群臣と議して継恩の弟の継元を立てようとしたとき、参議中書事の張昭敏だけが「先の少主は劉氏ではなかったから位を全うできなかった。今は宗姓を立てて民望を慰めるべきです。世宗(世祖)の嫡孫の継文は久しく契丹に留まって険阻を経てきました。迎えて立てれば宗社を固め、敵の援けも結べます」と言った。だが無為は従わず、継元のほうが制しやすいとしてこれを立てた。
  • 十一月、北漢主は使者を送って契丹に即位を告げ、あわせて援兵を乞うた。契丹主は塔喇に諸道の兵を率いて救援させた。帝も使者に詔を持たせて北漢主に降伏を諭し、平盧節度使を授けると約し、別に郭無為にも詔を賜って邢州節度使を許した。無為は詔を得て顔色を変え、北漢主に帰順を勧めたが、北漢主は従わなかった。
  • もともと帝は間諜の恵璘に、殿前指揮使を名乗って罪を負って北漢に亡命したと偽らせていた。無為はその詐りを知りながら供奉官とした。宋兵が境内に入ると璘は駆けつけようとしたが、嵐谷で候吏に捕らえられて太原に送られた。北漢主が無為に取り調べさせると、無為は釈放して問わなかった。李超という者が璘の奸状を知って上告すると、無為は怒って超もろとも斬り、口を封じた。
  • 李継勲らは契丹兵の来襲を聞いていずれも引き揚げた。北漢はそこで晋州・絳州の二州を大いに掠奪した。
  • 北漢主継元の妻の段氏は、些細な過ちで孝和后の郭氏に責められたことがあり、まもなく病死した。継元は后が殺したと疑った。后が喪服で孝和帝(劉鈞)の柩の前で哭していたところ、継元は寵臣の范超を遣わして捕らえ、縊り殺した。宮中の嬪御は辱めを受け、憚るところがなくなった。世祖の十子のうち劉鎬・劉錡・劉錫がもっとも賢行があったが、継元は小人の讒言を聞いて幽閉し、一年もたたぬうちにみな死んだ。

開寶二年三月~閏五月(969年)・太祖の太原親征

  • 帝は李継勲らが功なく還ったので再挙を謀り、魏仁浦に「私は太原を親征したいがどうか」と問うた。仁浦は「速やかならんと欲すれば達せず。どうか慎重に」と答えたが、帝は聞かず、継勲らに先に太原へ向かわせ、光義を東京留守として自ら汴京を発した。
  • 三月、太原に至り、長連城を築いて囲み、城の四面に砦を立てた。継勲は南、趙賛は西、曹彬は北、党進は東に軍した。北漢の劉継業らが闇に乗じて門から突出し、東西の砦を襲ったが、敗れて逃げた。
  • 帝はさらに汾水と晋水を堰き止めて城に注がせ、北漢の人は大いに恐れた。郭無為はふたたび北漢主に降伏を勧めたが従わなかった。ある日、群臣との宴の折、無為は庭で号泣して「なぜ空城で宋の百万の師に抗するのか」と言い、佩刀を抜いて自刺しようとして衆心を動かそうとした。北漢主は急いで階を下りてその手を取り、座に引き上げてやめさせた。
  • 夏四月、契丹がふたたび北漢を救援した。帝は必ず鎮州・定州を経て太原を救うと読み、韓重贇に倍速で急行させた。また一隊が石嶺関から入ると聞いて何継筠を召し、方略を授けて迎撃させた。継筠は陽曲で契丹兵に遭って大破し、千余級を斬った。重贇も先に嘉山に陣した。契丹兵は定州から西に入ったが、旗幟を見て大いに驚き逃げようとした。重贇は急襲して大破し、その首領三十余人を捕らえた。帝は捕らえた契丹の俘虜を城下に示させ、城中は気力を失った。憲州判官の史昭文と嵐州刺史の趙文度がそれぞれ城ごと降った。
  • 閏五月壬子、帝は軍を還した。当時、契丹主が韓知璠を遣わして北漢主を冊立させていた。知璠は軍備に通じており、囲まれた城中で昼夜、督察して心を尽くして固守した。帝は水軍に弩を載せて包囲攻撃させたが、驍将の石漢卿らが多く戦死した。北漢兵もたびたび敗れた。ある夜半、突然「漢主が出て降る」と触れ回る声があり、帝が壁門を開けさせようとしたところ、将作使の趙遂が「降を受けるのは敵を受けるようなもの。夜中に軽々しく出てよいものでしょうか」と言った。果たして間諜の仕業だった。
  • 契丹はさらに南大王なる者に兵を率いて北漢を援けさせた。東西班都指揮使の李懐忠は「敵の勢いはすでに窮しています。精兵を選んで急攻すれば、陥落は目前です」と言い、都虞候の趙廷翰が一番乗りを願い出た。帝は壮として衆を率いて攻めさせたが、戦は不利で、懐忠は流れ矢に当たって危うく死にかけた。
  • 当時、帝の軍は甘草池に駐屯していたが、暑さと雨で兵士に病人が多かった。太常博士の李光贊が上書して帰還を請い、帝が趙普に問うと普も同意した。そこで兵を分けて鎮州・潞州に屯させ、北漢の民一万余戸を山東・河南に移して還った。北漢主は宋が棄てた軍需を集め、粟三万、茶と絹を各数万得て、敗戦の後をこれで少し凌いだ。
  • 太原の包囲中、南城が汾水に沈んだとき、郭無為は降伏して出ようと謀り、自ら夜襲を率いたいと請うた。北漢主は信じて精甲千人を選んで無為に付け、自ら七夏門に登って送り出した。無為は北橋まで行ったが、風が起こって暗くなったので中止した。ここに至って宦官の衛德貴がその事を告発し、あわせて「無為が土地を献ずる謀は形跡がたびたび露見しており、反状は明白で赦せません」と言った。北漢主はそこで無為を殺して衆に示した。

開寶三年春正月(970年)

  • 契丹の韓知璠が太原から帰り、「晋陽は防備が堅いが、劉継元には輔佐する政事がない」と述べ、令の趙高勲も「我々と晋陽は父子の国です。先君が一時の怒りでその使者をことごとく拘留したのは、まことに理由のないことでした」と言った。契丹主はそこで北漢の使者十六人をすべて探し出し、厚く礼遇して帰らせ、あわせて劉継文を平章事、李弼を枢密使として継元を輔けさせた。だが継文らは久しく契丹に留まったうえ、その任命を受けて帰って国政を執ったので、側近がみなそしり、北漢主は継文を代州刺史、李弼を憲州刺史として出した。
  • この年、北漢主は僧の継顒を太師兼中書令とした。継顒はもと劉氏の庶子で、宗姓ゆえに鴻臚卿を授かっていた。かつて華厳を遊歴して地に宝の気があるのを見、団柏谷に銀の採掘場を置いて民を募って山を鑿らせ、官が十分の四を取った。継顒は自ら監督して得た分は民の倍だった。当時、北漢主には寵姫が多かったので、継顒が首飾り数百組を献じたところ北漢主は大いに喜び、この任命となった。

開寶六年十二月(973年)

  • 北漢主が弟の劉継欽を殺した。もともと北漢主が大内都点検だったとき、父の劉鈞は幼弱を案じて劉継欽を副とし、禁衛を委ねた。北漢主が立つと親旧の多くを誅殺・追放したので、継欽は病と称して辞任を請うた。北漢主は「継欽は先帝に仕えただけだ。私のために力を尽くすものか」と言い、交城に退けて住まわせ、まもなく人を遣わして殺した。
  • 北漢主は残忍な性で、臣下で意に逆らう者があれば必ずその一族を誅した。帝の親征および将を遣わしての攻撃以来、それに乗じた殺傷は数え切れない。大将の張崇訓・鄭進・衛儔、もとの宰相の張昭敏、枢密使の高仲曦らが前後して讒言により殺された。

開寶九年八月(976年)

  • 帝は党進・潘美・楊光美・牛思進・米文義に兵を率いて五道に分かれて太原を攻めさせ、また郭進らに忻・代・汾・沁・遼・石などの州を分けて攻めさせた。諸将は向かうところ勝ち、党進は太原城下で北漢兵を破った。北漢主は急ぎ契丹に救いを求め、契丹主は宰相の耶律舒を救援に遣わし、宋軍は還った。
  • 先に帝は微行して趙普を訪ね、北漢を下すことを謀った。普は「太原は西北の二面に当たります。太原を下せば、二辺の患いを我々が独りで引き受けることになります。しばらく待って諸国を平らげてしまえば、あの弾丸黒子ほどの地はどこへ逃げましょうか」と言った。帝はもっともと思い、それゆえ連年攻めながらも城下に至れば必ず兵を退いていた。

太宗太平興国四年正月~五月(979年)・北漢の滅亡

  • 春正月庚寅、帝は北漢征伐を議した。薛居正らの多くは不可としたが、曹彬だけが強く賛成したので帝の意は決した。潘美を北路都招討使とし、崔彦進・李漢瓊・劉遇・曹翰・米信・田重進を率いて四面から太原城を攻めさせ、また郭進を太原石嶺関都部署として燕薊からの援軍を断たせた。
  • 二月甲子、帝は自ら北漢を伐った。三月乙未、北漢が契丹に救いを求め、契丹は耶律舒を都統、迪里を監軍として軍を派遣した。白馬嶺で都部署の郭進と遭遇し、舒は谷川を隔てて後続を待とうとしたが、迪里は従わずに川を渡って迎え撃った。まだ陣が整わぬうちに進が迫り、契丹は大敗して迪里らはみな死んだ。折しも耶律色珍の兵が至ったので進は兵を引いて退き、舒は難を逃れた。
  • 田欽祚は石嶺の屯軍を監護していたが、恣に私利を貪った。郭進は禁じられず、たびたび言葉に表した。欽祚はこれを恨んだ。進は武人で剛烈、戦功が高かったが、欽祚がしばしば侮辱したので堪えられず、ついに首を吊って死んだ。欽祚は「にわかに眩暈を起こして死んだ」と報告した。帝は長く悼み惜しみ、安国節度使を贈った。左右はみな真相を知っていたが、あえて言う者はなかった。ほどなく詔して牛思進を代わりとした。
  • 夏四月、帝は鎮州を発した。行営都監の折御卿が兵を分けて岢嵐軍を攻め落とし、続いて嵐州を取った。北漢の人が隆州で険に依って城を築いて拒んだので、帝は軍使の解暉・折彦贇らに先に兵を出して囲ませ、続いて尹勲を遣わすと、城は陥ちた。
  • 庚午、帝は太原に至った。当時、潘美らはたびたび北漢兵を破り、進んで長連城を築いて太原を囲んでいた。矢と石が雨のように交わり、北漢は外援が来ず兵糧の道も絶たれ、城中は大いに恐れた。帝が到着して督戦をいっそう厳しくすると、城には無傷の女牆もなくなった。帝は落城で殺傷が多くなることを憂え、詔で継元に降伏を諭したが、使者が城に至っても城壁を守る者は入れなかった。帝は自ら将士を督して城下に迫り、前面に陣を布き、甲を蹲らせて射合った。矢は城上に集まって針鼠の毛のようだった。
  • 五月、北漢の指揮使の郭万超が城を越えて降った。継元の親信の臣も多くが逃亡し、城中は危急となった。帝はふたたび詔で継元に速やかな降伏を諭し、終始、富貴を保証すると告げた。詔は城中に入ったが、諸将の攻撃は激しくて止められない。帝はなお落城による良民の被害を憂え、兵を指揮して少し退かせた。
  • 五月甲申、継元はついに夜、客省使の李勲を遣わして表を奉り、降伏を乞うた。詔して許した。そして城北に至って楽を奏し、城台で従臣に宴を賜った。翌日、継元は官属を率いて縞衣・紗帽で台下に罪を待った。帝は罪を許して襲衣と玉帯を賜り、召して台に上らせ、継元は叩頭して謝罪した。
  • 五月甲申、詔して継元に特進・検校太師・右衛上将軍を授け、彭城郡公に封じ、賜与は厚かった。劉保勲を知太原府とした。合わせて州十・軍一・県四十一を得た。帝は「平晋詩」を作り、従臣に和させた。また北漢の宰相の李揮以下にもそれぞれ官を授けた。詔して太原の旧城を毀ち、平晋県と改め、榆次県を并州とし、使者を分遣して太原の民を移住させた。太原の家屋に火を放ったが、老幼で城門にたどり着けず焼け死んだ者が多かった。

史論(陳邦瞻)

  • 宋が遼に制せられたのは燕・薊を失ったからであり、燕・薊を取れなかったのは、先に太原を下したことに過ちがある。かつて王朴が後周の世宗と天下を取ることを謀ったとき、まず南方を定め、次に燕に及び、最後に太原に及ぼうとした。燕が定まれば太原は罠の中の兎も同然で、どこへ逃げようか。太祖と趙普の雪の夜の言葉も王朴の遺意である。太宗は一朝にしてこの本来の謀を忘れ、北漢征伐を急ぎ、堅城の下に鋭気を尽くしてようやく克った。だが軍はすでに疲れていた。そこへさらに燕攻めを議したのは、いわゆる強弩の末は魯縞をも穿てぬというもので、一敗して生涯振るわず、再挙してまた失敗した。いずれも太宗が天下の大勢を知らず、逆さまに進もうとして躓いたためである。