宋史紀事本末呉越、領地を献ずる(陳洪進を付す)(呉越歸地(陳洪進附))

呉越王の銭俶が宋の建国当初から朝貢を続け、江南(南唐)征討では宋に呼応して常州を攻め、南唐主の離間の書を宋帝に差し出して信を得た。太平興国三年、陳洪進が漳・泉二州を献じたのに迫られて銭俶も十三州を納土し、呉越は淮海国王の封を受けて滅びた。建隆元年(960年)から端拱元年(988年)の銭俶の急死までを、陳洪進が留従効の子を排して泉州を握り宋に帰した経緯も併せて記す。

年表(9件)

建隆元年三月(960年)

  • 呉越王の銭俶が使者を送って帝の即位を祝った。以後、毎年朝貢した。

開寶七年冬十月(974年)

  • 江南を伐つにあたり、詔して呉越王の銭俶に昇州東南行営招撫制置使を加えた。先に銭俶が判官の黄夷簡を朝貢に遣わしたとき、帝は「帰って元帥に伝えよ。江南は強情で朝見せぬ。私は討つつもりだ。元帥は私を助け、人の言に惑わされるな。皮がなければ毛はどこに付くのか、と言うではないか」と語った。ほどなく密かに出師の期日を告げ、この任命となった。

開寶八年夏四月(975年)

  • 呉越王の銭俶は命を受けると、沈承礼に国務を権知させ、自ら五万の兵を率いて常州を攻めた。丞相の沈虎子は「江南はわが国の藩屏です。今、大王が自らその藩屏を取り払えば、何をもって社稷を守るのですか」と諫めたが、聞かなかった。
  • 進んでその関城を攻め、また北界でその軍を破り、兵を送って江陰と宜興を落とし、ついに常州を抜いた。
  • 江南主は銭俶に書を送り、「今日、私がいなくなれば、明日、あなたがいられましょうか。ひとたび聖天子が土地を替えて勲功に報いれば、王もまた大梁の一布衣にすぎません」と伝えた。銭俶は答えず、その書を帝に差し出し、丁重な詔で褒められた。

開寶九年二月(976年)

  • 呉越王の銭俶が来朝した。先に帝は呉越の使者に「元帥は毘陵(常州)を落として大功があった。江南平定を待ってしばらく来朝し、私と一度会って思慕を慰めてくれれば、すぐ帰してやる。私は三度、圭幣を執って上帝にまみえた身だ。食言などしようか」と語っていた。
  • ここに至って銭俶は妻の孫氏と子の惟濬とともに入朝した。帝は礼賢宅を賜って住まわせ、自ら行幸して宴を設け、賜与も厚かった。剣を帯び履のまま殿に上がること、詔書に名を記さぬことを許し、晋王と兄弟の礼で交わらせようとしたが、銭俶が固辞したので取りやめた。
  • 二か月留めて帰らせるとき、黄色い袱に厳重に封をしたものを賜り、「道中で密かに見よ」と戒めた。開いてみると、いずれも群臣が銭俶を抑留するよう乞うた上奏文だった。銭俶は深く感じ入り、かつ恐れた。

太宗太平興国三年三月(978年)・納土

  • 己酉、呉越国王の銭俶が来朝した。折しも陳洪進が土地を献納したので、俶は恐れて上表し、呉越国王の封と天下兵馬大元帥の職を解き、詔書に名を記さぬ待遇も返上し、兵甲を返して帰国したいと願い出たが、帝は許さなかった。
  • 臣下の崔仁冀は「朝廷の意はお分かりでしょう。大王が速やかに土地を納めなければ禍が及びます」と言った。銭俶の側近は口々に不可を唱えたが、仁冀は声を励まして「今や人の掌中にあり、しかも国を離れること千里。羽があってこそ飛んで帰れるというもの」と言った。銭俶はついに決意して上表し、領内の十三州・一軍・八十六県を献じた。
  • 銭俶が朝から退いてこれを知らされた将吏はみな慟哭して「わが王は帰れなくなった」と言った。
  • 丁亥、詔して銭俶を淮海国王に封じ、弟の儀・信をともに観察使、子の惟濬・惟治をともに節度使とし、惟演・惟灝および一族・僚佐にもそれぞれ官を授けた。また将校の孫承祐・沈承礼・崔仁冀をいずれも節度使とし、賜与と待遇は当時、群を抜いていた。
  • ほどなく両浙に命じて、銭俶の緦麻以上の親族と管内の官吏をすべて汴京に上らせた。船は千四十四艘に及んだ。范旻を両浙諸州軍事の権知とし、旻は「銭俶の在国時は徭役と賦税が繁苛でした。その弊をことごとく免除されたい」と上言し、これに従った。

太平興国八年十二月~端拱元年八月(983-988年)

  • 太平興国八年十二月、銭俶を漢南国王に改封し、天下兵馬大元帥を罷めた。
  • 端拱元年八月戊寅、銭俶の生誕日に帝が宴を賜った。その夕、俶は急死した。

陳洪進の事跡

  • 陳洪進はもと清源節度使の留従効の牙将である。建隆三年三月、従効が死んで子の紹鎡が留務を掌ったが、折しも呉越の使者が来たので、紹鎡は夜にこれを招いて宴を張った。洪進は紹鎡が呉越に付こうと謀ったと誣告し、捕らえて南唐の建康に送り、副使の張漢思を留後に推して自らは副使となった。
  • やがて漢思は洪進の専権を憂え、宴を設けて兵を伏せ殺そうとした。だが酒が数巡したところで突然、地が大きく揺れた。共謀者は恐れて洪進に告げ、洪進は急いで走り出て、甲士はみな散った。以後、互いに備え合った。
  • ある日、洪進は袖に大きな鎖を入れて悠然と府中に入り、当直の兵を叱って退けた。漢思がちょうど奥の斎にいたので、洪進はその戸を閉めて鎖をかけ、人に門を叩かせて「郡中の軍吏が副使に留務を掌るよう請うております。衆情には逆らえません。どうか印をお授けください」と言わせた。漢思は恐れ惑って為す術を知らず、戸の隙間から印を出して与えた。
  • 洪進はすぐさま将吏を召して「留後が私に印を授けて政務に臨ませた」と言い、一同は祝った。その日のうちに漢思を別舎に移して兵に守らせた。使者を南唐に送って命を請い、また牙将の魏仁済を間道から遣わして表を奉じ、宋に報告して制命を請うた。

乾德二年二月(964年)

  • 清源軍を平海軍と改め、洪進を節度使に任じた。洪進は毎年の貢納のために民から厚く取り立て、二州(漳州・泉州)はこれに大いに苦しんだ。

太平興国三年夏四月(978年)~雍熙三年(986年)

  • 洪進が来朝し、漳州・泉州の二州十四県を献じた。詔して洪進を武寧節度使・同平章事とし、汴京に留め、諸子にはみな要地の郡を授けて任地に赴かせた。
  • 洪進はのち太原平定に従い、岐公に封ぜられ、雍熙三年に没した。