宋史紀事本末金匱の盟(金匱之盟)

杜太后が臨終に趙普へ記させた「兄弟相伝」の誓書と、それをめぐる皇位継承の帰趨を記す。太祖の崩御後、遺命どおり弟の光義(太宗)が立ったが、次に継ぐはずの德昭は自殺し、德芳も夭折した。趙普は金匱の誓書を持ち出して復権し、秦王廷美と盧多遜の獄を成して廷美を房州に流し、廷美はそこで没した。末尾に趙普の剛毅と専権、太祖・太宗との関わりを記す。建隆元年(960年)から雍熙元年(984年)までを扱う。

年表(11件)

建隆元年二月(960年)

  • 乙亥、母の杜氏を皇太后として尊んだ。太后は定州安喜の人で、家を厳しくかつ法度をもって治めた。五子を生み、匡済・匡胤・光義・光美・匡賛といい、匡済と匡賛は早世した。陳橋の変を聞いたとき、后は「わが子はもとより大志があった。やはりそうなったか」と言った。
  • 皇太后として尊ばれ、帝が殿上で拝したとき、太后は憂え顔で楽しまなかった。左右が「母は子によって貴くなると申します。今、子が天子となられたのに、なぜお喜びにならぬのですか」と言うと、太后は「私は君たることの難しさを聞いている。天子は万民の上に身を置く。治め方が道にかなえばこの位は尊いが、御しそこなえば匹夫になろうとしてもなれない。だから憂えるのだ」と答えた。帝は再拝して「謹んで教えを受けます」と言った。

建隆二年六月~七月(961年)・金匱の盟

  • 甲午、皇太后杜氏が崩じた。太后の病中、帝は薬を進めて側を離れなかった。危篤になると趙普を召して遺命を受けさせ、あわせて帝に「お前が天下を得られたわけが分かるか」と問うた。帝が「みな祖先と母上の余慶です」と答えると、后は「そうではない。柴氏が幼児に天下を主らせたからだ。周に年長の君があれば、お前がここまで来られたか。お前の百年の後は光義に位を伝え、光義は光美に伝え、光美は德昭に伝えよ。四海は極めて広い。年長の君を立てられるのは社稷の福である」と言った。帝は泣いて「教えのとおりにいたします」と答えた。后は趙普を顧みて「そなたも私の言葉を記録せよ。違えてはならぬ」と言った。趙普はその場で寝台の前で誓書を作り、紙の末尾に「臣普記す」と署した。これを金匱に蔵め、口の堅い宮人に管理させた。太后はそのまま崩じ、昭憲と諡された。
  • 秋七月、弟の光義を開封尹、光美を興元尹とした。

乾德二年六月(964年)

  • 皇子の德昭を貴州防禦使とした。故事では皇子が閣を出れば王に封ずるが、帝は德昭がまだ元服前なのでとくに礼を減らした。

乾德三年六月(965年)

  • 弟の光義に中書令、光美に同平章事を加え、子の德昭を貴州団練使とした。

開寶六年八月~九月(973年)

  • 趙普が宰相を罷めて河陽三城節度使として出た。普は河陽に至って表を上げ、自ら弁明して「世間では臣が皇弟の開封尹を軽々しく論じたと申します。皇弟は忠孝で徳が全く、非の打ちどころがありません。まして昭憲皇太后のご臨終の際、臣は実際に顧命に与っております。臣を知る者は君であります。お照らしくださいますよう」と述べた。帝はその表を自ら封じて金匱に蔵めた。
  • 九月、弟の光義を晋王に封じ、宰相の上に班した。また弟の光美に侍中を兼ねさせ、子の德昭を同平章事とした。

開寶九年三月~十月(976年)・太祖の崩御

  • 三月、子の德芳を貴州団練使とした。
  • 九月、帝が晋王光義の邸に行幸した。帝は光義を友愛し、たびたびその邸に行幸して恩礼が厚かった。光義が病んだとき自ら艾を灸え、光義が痛がると帝も艾を取って自ら灸えた。近臣に「光義は龍のように歩み虎のように進む。いずれ必ず太平の天子となろう。その福徳は私の及ぶところではない」と語った。
  • 冬十月、帝は病んだ。壬午の夜、大雪。帝は晋王光義を召して後事を託した。左右はみな聞くことができず、遠くから燭の影の下で晋王が時おり席を離れ、遠慮するような様子を見ただけだった。やがて帝は柱斧を地に突き立て、大声で晋王に「よくやれ」と言った。ほどなく帝は崩じた。時に四鼓(漏刻の四つ時)であった。
  • 宋皇后は晋王を見て愕然とし、「我々母子の命はみな官家(陛下)に託します」と急いで呼びかけた。晋王は泣いて「ともに富貴を保とう。憂えることはない」と言った。
  • 甲寅、晋王光義が皇帝の位に即き、名を炅と改めた。宋后を開寶皇后と号して西宮に移し、弟の廷美を開封尹として斉王に封じ、兄の子の德昭を永興軍節度使兼侍中として武功郡王に封じ、德芳を山西南道節度使・同平章事・興元尹とした。廷美とは光美のことである。ほどなく詔して、太祖と廷美の子女はみな皇子・皇女と称させ、一体であることを示した。

太宗太平興国四年二月~十月(979年)

  • 二月、帝は自ら北漢を伐とうとし、斉王廷美に留守を掌らせようとした。開封判官の呂端が廷美に「主上は風雨を冒して弔民伐罪に向かわれます。王は親しく賢明な立場にあり、率先して従軍されるべきです。留守を掌るのはふさわしくありません」と言い、廷美は従軍を願い出て、帝は許した。
  • 八月、皇子の武功王德昭が自殺した。德昭は帝に従って幽州を征したが、軍中で夜に騒ぎがあり、帝の所在が分からず、德昭を立てようと謀る者があった。帝はこれを聞いて不快に思った。帰還後、北征が不首尾だったため太原平定の恩賞を久しく行わなかったので、德昭がこれを言上した。帝は大いに怒り、「お前が自分で天子になってから賞しても遅くはあるまい」と言った。德昭は退いて自ら首を刎ねた。帝は聞いて驚き悔い、行ってその屍を抱き、「痴れ者め、なぜここまでするか」と大いに哭した。中書令を贈り、魏王を追封し、懿と諡した。
  • 冬十月、北漢平定の功を論じ、斉王廷美を秦王に進封した。

太平興国六年三月~九月(981年)・金匱の誓書

  • 三月、皇子の興元尹德芳が没した。中書令・岐王を贈り、康恵と諡した。
  • 当時、盧多遜が政を専らにし、趙普は朝請に列するだけの身で数年を過ごしていた。多遜はいよいよ普をそしり、普には初めから帝を擁立する意はなかったと言った。普は鬱々として志を得なかった。
  • 折しも晋邸の旧僚である柴禹錫・趙鎔・楊守一が、秦王廷美は驕恣で陰謀を企てていると告げた。帝は疑って趙普に問うた。普は「枢要の地位に備えて奸変を察したい」と言い、あわせて「臣は旧臣でありながら権幸に阻まれております」と自ら陳べ、昭憲太后の顧命に与ったこと、および先朝に表を上げて自ら弁明したことを詳しく述べた。帝が金匱を開くと誓書があり、また普の以前の表も見て、普を召して「人に過ちのない者があろうか。私は五十を待たずして四十九年の非を知った」と言った。
  • 九月、普を司徒兼侍中に拝し、梁国公に封じた。

太平興国七年三月(982年)・廷美の失脚と盧多遜の獄

  • 廷美が帝の西池行幸に乗じて乱を起こそうとしていると告げる者があり、廷美の開封尹を罷めて西京留守とし、襲衣・犀帯・銭千万緡・絹綵各一万匹・銀一万両・西京の甲第一区を賜った。枢密使の曹彬に瓊林苑で廷美を餞別させ、太常博士の王遹に河南府事を判じさせ、開封府判官の閻矩に留守事を判じさせた。柴禹錫を枢密副使、楊守一を枢密都承旨、趙鎔を東上閤門使に進めたのは、廷美の陰謀を告げた功に報いたものである。
  • 一方、左衛将軍・枢密承旨の陳従龍を左衛将軍に、皇城使の劉知信を右衛将軍に、弓箭庫使の恵延真を商州長史に、禁軍列校の皇甫継明を汝州馬歩軍都指揮使に、定人の王栄を濮州教練使に貶した。いずれも廷美と交わり、その饗応を受けた罪である。王栄はかつて廷美の腹心の吏と「私は近く節帥になる」と大言したと告げる者があり、籍を削られて海島に流された。
  • もともと昭憲太后の遺命では、太祖が帝(太宗)に位を伝え、帝は廷美に、さらに德昭に伝えることになっていた。それゆえ帝は即位の初めに廷美を開封尹とし、德昭・德恭らをみな皇子と称させた。だが德昭が非業の死を遂げ、德芳も相次いで夭折すると、廷美は落ち着かなくなり、柴禹錫が変事を上告して揺さぶった。後日、帝が伝国の意について趙普に諮ると、普は「太祖はすでに誤られました。陛下は重ねて誤られてよいものでしょうか」と答え、廷美は罪を得た。
  • 趙普が再び宰相になると盧多遜は落ち着かなくなった。普はたびたびそれとなく引退を勧めたが、多遜は権位を貪って決しかねた。折しも普は、多遜がかつて堂吏の趙白を遣わして秦王と通じていたことを突き止めた。帝は大いに怒って多遜を守兵部尚書に落とし、二日後に御史の獄に下し、中書守堂官の趙白、秦府孔目官の閻密、小吏の王継勲らを捕らえ、翰林承旨の李昉、学士の扈蒙、衛尉卿の崔仁冀、御史の滕中正らに合同で取り調べさせた。
  • 多遜はことごとく自白し、たびたび趙白を遣わして中書の機密を廷美に告げ、「願わくは宮車が晏駕(天子崩御)されたら、力を尽くして大王にお仕えしたい」と言ったと述べた。廷美もまた小吏の樊德明を遣わして多遜に「承旨の言はまさに我が意にかなう」と伝え、弓矢を贈り、多遜はこれを受けた。閻密は横暴で不法、言葉に指斥(天子への非難)が多く、王継勲はかつて歌妓を探して回り、勢いを頼んで汚職したことをみな自白した。
  • 獄が上申されると、帝は文武の官に朝堂で合議するよう詔した。太子太師の王溥ら七十四人は「多遜と廷美は形勢をうかがい呪詛した。大逆不道であり、誅戮して刑章を正すべきです。趙白らは斬に処すべきです」と奏した。
  • 詔して多遜の官を削奪し崖州に流し、その家族と期親(一年の喪に服す近親)を遠方に移した。趙白・樊德明・閻密・王継勲らはことごとく都門の外で斬り、その家財を没収した。廷美は私邸に謹慎させ、その男女はふたたび本来の名称に戻して德恭らを皇姪とし、皇姪女で韓崇業に嫁いだ者は公主・駙馬の称を除き、いずれも西京に送って廷美とともに住まわせた。閻矩を涪州司戸参軍、孫嶼を融州司戸参軍に貶した。いずれも廷美の官属で、輔導が不適切だった罪である。
  • 趙普はさらに、廷美が西京にいるのは都合が悪いとして、知開封府の李符にそれとなく上言させた。李符は「廷美は悔い改めず怨望しています。遠郡に移して他の変を防いでいただきたい」と言った。詔して廷美を涪陵県公に降封し、房州に安置した。妻の楚国夫人張氏は国封を削り、閻彦進を知房州、袁廓を通判州事として監視させた。普はまた李符が漏らすのを恐れ、別件で罪に落として春州に流し、一年余りで没した。

太平興国八年~雍熙元年(983-984年)

  • 太平興国八年冬十月、趙普が罷免された。廷美は房州に至って憂悸から病となり、雍熙元年春正月、房州で没した。享年三十八。
  • 帝は聞いて咽び泣き、宰相の宋琪・李昉らに「廷美は若い頃から剛愎で、長じていよいよ凶悪になった。私は同母の至親ゆえ法に置くに忍びず、房陵に住まわせて過ちを省みることを期待し、恩を及ぼして旧に復そうとしていた矢先に急逝した。痛ましいことだ」と語り、悲泣して左右を感動させた。詔して涪王を追封し、悼と諡し、喪を発して服を成し、その子の德恭・德隆を刺史とした。廷美が罪を得たのは趙普の仕業である。真宗が即位すると秦王に復し、妻の張氏を楚国夫人とし、仁宗は太師・尚書令を贈り、徽宗は魏王に改封した。

趙普の事跡

  • もともと普は佐命の功で范質らに代わって宰相となり、帝(太祖)は心を傾けて任じ、事の大小を問わずすべて相談して決めた。
  • 普がかつてある人をある官に推薦したが帝は許さず、翌日また奏したが許さず、その翌日また奏した。帝は大いに怒って奏牘を裂いて地に投げた。普は顔色を変えずひざまずいて拾い、持ち帰った。後日、破れた牘を継ぎ合わせて同じように奏したので、帝は悟ってついにその人を用いた。
  • また、ある群臣が昇官すべきであったが、帝は日ごろその人を憎んで許さなかった。普が強く請うと、帝は怒って「私が与えぬと言ったら、そなたはどうする」と言った。普は「刑賞は天下の刑賞です。陛下がご自分の喜怒で専らにしてよいものでしょうか」と答えた。帝はひどく怒って立ち上がり、普も従った。帝が宮に入っても普は宮門に長く立って去らず、ついに裁可を得た。その剛毅果断はこの類である。
  • ただし猜疑と冷酷な面が多く、しばしば微賤の頃の不満を口にした。帝は「もし塵埃の中で天子や宰相を見分けられるなら、誰もが物色するだろう」と言った。
  • 普は独り宰相となって十年近く、かなり専権であった。かつて私怨から馮瓉・李美・李檝を汚職と誣告して死罪とし、廷臣の多くが忌んだ。
  • 帝がその邸に行幸したとき、折しも呉越が普に書と海産十瓶を贈って簾の下に置き、まだ開けぬうちに帝が来たので、慌てて片づけられなかった。帝が「何の物か」と問い、普がありのままを答えると、帝は「海産ならさぞよいものだろう」と言って開けさせた。中身はすべて瓜子形の金だった。普は恐れ入って「臣はまだ書を開いておらず、実際に知りませんでした」と謝した。帝は「そのまま受け取れ。彼らは国家の事がすべて書生(そなた)の裁量だと思っているのだ」と言った。
  • 当時、官が私販を禁じていた秦州・隴州の大木を、多くの者が普の名を騙って都下で売っていた。三司使の趙玭がこれを報告し、帝は大いに怒ってただちに普を追放しようとしたが、王溥が強く弁護して取りやめになった。
  • また盧多遜は普と折り合わず、入対のたびに普を悪く言い、帝はいよいよ不快になった。
  • 先に開寶の初め、判大理寺の雷德驤が、寺の官属が普に迎合して刑名を増減していることに憤り、帝に面と向かって激しい語気で訴えた。帝は怒って引きずり出させ、商州司戸参軍に貶した。しばらくして知商州の奚嶼が普の意を迎えて德驤の怨望を奏し、籍を削られて霊武に流された。德驤の子の有隣が登聞鼓を打って冤を訴え、あわせて中書の吏の他の不法も訴えた。帝は御史の獄に下して事実を取り調べさせ、いよいよ普を疑った。そこで参知政事の呂余慶・薛居正に普と交代で印を掌り押班させ、その権を分けた。
  • 普はついに罷免され、太祖の世には二度と召されなかった。長く鬱々として志を得なかったが、太宗の太平興国五年に変事の上告に乗じて司徒・侍中として召され、秦王廷美の獄はついに普の手で成った。
  • 太平興国八年に罷めて武勝軍節度使となった。帝は詩を作って餞し、長春殿で宴を賜った。普は詩を捧げて泣き、「陛下が臣に賜った詩は、石に刻んで臣の朽骨とともに泉下に葬っていただきたい」と言った。帝はこれに感動した。翌日、宰相に「普は国家に功があり、私は昔ともに交わった。今は歯も髪も衰えたので、機務で煩わせたくない。詩でその意を伝えたところ、普は感激して涙を流し、私も涙を落とした」と語った。宋琪は「昨日、普は中書に来て御詩を手に涕泣し、臣に『この余生ではお報いする手立てがない。せめて来世で犬馬の力を尽くしたい』と申しました。今また宣諭を承り、君臣ともに終始を全うされたと申せましょう」と答えた。