宋史紀事本末黄河を治める(治河)

北宋の太祖・太宗・真宗三朝にわたる黄河の治水を記す。陽武・滑州・澶州などでのたび重なる決壊に対し、遥堤の築造、州兵と丁夫の徴発、長吏への河堤使の兼任、毎年正月着工の恒例化などで対処した。真宗朝には李垂が『導河形勝書』を上進して河を北へ導き契丹への備えとする策を二度説いたが、いずれも煩費として退けられた。末尾に陳堯佐の木龍と、信水・桃華水など季節ごとの水勢の名辞、埽の作り方と沿河諸州の埽を列挙する。乾德二年(964年)から天禧五年(1021年)までを扱う。

年表(15件)

太祖乾德二年(964年)

  • 使者を遣わして黄河を巡視させ、古い堤の修築を議した。だが旧河はにわかに復せず労役も大きすぎるとの意見が出て中止し、民に遥堤(本堤の外側の控え堤)を築かせて決壊の患いに備えさせた。

乾德三年秋(965年)

  • 大雨が続き、黄河が陽武で決壊し、梁・澶・鄆でも決壊した。詔して州兵を出して修復させた。

乾德四年八月(966年)

  • 滑州で河が決壊し、霊河県の大堤を壊した。殿前都指揮使の韓重贇らに士卒と丁夫数万を督して修復させた。

乾德五年春正月(967年)

  • 帝は河堤がたびたび決壊するので使者を分遣して巡視させ、畿内の丁夫を徴発して修繕させた。以後、毎年の恒例とし、いずれも正月に着工して晩春に完成させた。
  • この月、開封府・大名府および鄆・澶・滑・孟・濮・斉・淄・滄・棣・浜・徳・博・懐・衛・鄭などの州の長吏に、本州の河堤使を兼ねさせた。

開寶五年五月~六月(972年)

  • 河が濮陽で大決壊し、さらに陽武でも決壊した。諸州の兵と丁夫あわせて五万を徴発し、潁州団練使の曹翰を派して工事を監督させた。翰が出発の挨拶に来ると、太祖は「長雨がやまず、また河の決壊も聞いた。私はここ二晩、香を焚いて天に祈っている。天災が下るなら我が身に当たり、民に及ばぬようにと」と言った。翰は頓首して「昔、宋の景公は諸侯の身でありながら、ひとたび善言を発して災星が退きました。今、陛下は万民を憂えてこれほど懇ろに祈られるのですから、必ず天心を感動させ、災いにはなりますまい」と答えた。
  • 六月、詔して言うには――近ごろ澶州・濮州など数州で長雨が続き、黄河が患いとなった。私はたびたびの決壊で民が重ねて苦しむのを思い、前代の書を読むたびに水路を究めてきた。夏后(禹)の記すところも、河を導いて海に至らせ、山に沿って川を浚うと言うだけで、激流を力ずくで制し高い岸を大々的に築いたとは聞かない。戦国以来、利を専らにして旧道を塞ぎ、小を優先して大を妨げ、私を優先して公を害し、九河の制は崩れ、歴代の患いは止まなかった。搢紳・多士から草沢の者まで、日ごろ河渠の書に習熟し疏導の策に通じ、長く保って重ねての労苦を免れる方法を知る者は、闕に赴いて上書し、駅伝で条陳することを許す。私が自ら目を通し、その長所を用いる。求めに応じてくれた者は必ず顕彰する。
  • 当時、東魯の逸人である田告が『禹元経』十二篇を編んでいた。帝は聞いて闕下に召し、治水の道を尋ねて、その言を善しとして官を授けようとしたが、親が老いていることを理由に固辞して帰って養ったので、これを許した。
  • 曹翰は河上に至って自ら工事を督し、まもなく決壊箇所はすべて塞がった。

太宗太平興国二年秋七月(977年)

  • 河が孟州の温県、鄭州の滎沢、澶州の頓丘で決壊した。いずれも沿河の諸州の丁夫を徴発して塞いだ。

太平興国三年春正月(978年)

  • 使者十七人に黄河の堤を分担して修めさせ、水害に備えた。

太平興国八年五月~十二月(983年)

  • 河が滑州の韓村で大決壊し、澶・濮・曹・済の諸州に溢れて民田と民家を壊し、東南に流れて彭城界から淮に入った。詔して丁夫を徴発して塞がせた。
  • 堤が久しく成らないので使者に遥堤の旧址を巡視させた。使者は帰って「遥堤を修めるより水勢を分けるほうがよい。孟州から鄆州まで堤防はあるが、滑州と澶州がもっとも狭い。この二州の地に分水の制を立て、南北の岸にそれぞれ一つ開き、北は王莽河に入れて海に通じ、南は霊河に入れて淮に通じ、汴口の法どおりに激流を減殺する。分水河には遠近に応じて斗門を作り、時に応じて開閉して均衡を図り、舟運を通じ農田を灌漑すれば富庶の資となる」と条陳したが、採用されなかった。
  • 当時、曇雨が多く、河は久しく塞がらなかった。帝は憂えて枢密直学士の張斉賢を駅伝で白馬津に遣わし、太牢に璧を加えて祭らせた。
  • 十二月、滑州から決壊が塞がったと報告があり、群臣が祝賀した。

太平興国九年春(984年)

  • 滑州がまた房村での決壊を報告した。帝は「先に韓村の決壊で民を徴発して堤を修めさせたが成らなかった。重ねてわが民を苦しめられようか。諸軍で代えるべきだ」と言い、兵五万を出し、侍衛歩軍指揮使の田重進に工事を統べさせた。

淳化四年冬十月(993年)

  • 河が澶州で決壊して北城が水没し、七千余戸の家屋を壊した。詔して兵を出し、民に代えて修復させた。
  • この年、巡河供奉官の梁睿が「滑州は土質がもろくて岸が崩れやすく、毎年、河が南岸で決壊して民田を害します。迎陽で渠を鑿ち、水を四十里引いて黎陽で大河に合流させ、急激な増水に備えたい」と上言し、帝は許した。

淳化五年春正月(994年)

  • 滑州が新渠の完成を報告した。帝はさらに図を検討し、昭宣使・羅州刺史の杜彦鈞に兵夫を率いさせ、延べ十七万の工数で河を鑿ち渠を開かせた。韓村埽から州西の鉄狗廟まで五十余里、ふたたび河に合流させて水勢を分けた。

真宗大中祥符三年(1010年)・李垂の導河論

  • 著作佐郎の李垂が『導河形勝書』三篇と図を上進した。その要旨は次のとおり。
  • 汲郡の東から禹の故道をたどり、御河を挟んで水勢を測り、大伾・上陽・太行の三山の間に出し、西河の故瀆を復して北へ大名の西・館陶の南に注ぎ、東北で赤河と合して海に至らせたい。あわせて魏県の北で一渠を分け、真北からやや西へ、衡漳を経て真北に下り、邢州・洺州に出し、『夏書』の「洚水を過ぐ」のように、やや東へ易水に注いで百済と合し、朝河と会して海に至らせる。大伾より下は黄河と御河が混流し、山に迫り堤に阻まれて勢いが遠くまで及ばない。こうすれば高地に載せて北流させることになり、百姓は利を得、契丹は南侵できなくなる。
  • 『禹貢』のいわゆる「碣石を右に夾んで河に入る」について、孔安国は「河が逆上してこの州界に至る」と言う。その起点は大伾の西八十里、曹操が開いた運渠の東五里で、ここから河水を引いて真北からやや東へ十里、伯禹の堤を破って牧馬陂を経て禹の故道に入り、さらに東へ三十里、大伾の西を回って通利軍の北へ、白溝を挟んで大河に戻し、北へ清豊・大名の西を経て洹水・魏県の東を歴て館陶の南に至り、屯氏の故瀆に入って赤河と合し、北へ海に入る。
  • さらに大伾の西の新たに開いた故瀆の西岸から一渠を分け、真北からやや西へ五里、幅と深さは汴河と同じとして御河に合わせる。大伾に迫って北へ堅い土地が続くので、そこから東西二十里の一渠を分け、幅と深さは汴河と同じとして大河に戻す。二渠が分流すれば、三、四分の水はなお澶淵の旧渠に注げる。おおむね河水は西の大河の故瀆から東北へ赤河と合して海に達する。
  • しかる後、魏県の北で御河の西岸から一渠を分け、真北からやや西へ六十里、幅と深さは御河と同じとして衡漳水に合わせる。また冀州の北界、深州の西南三十里で衡漳の西岸を決し、水を限る門を設け、西北へ滹沱に注ぐ。長雨のときは塞いで東へ渤海に流し、旱のときは決して西へ屯田に灌ぐ。これが中国の辺境防衛の策である。
  • 両漢以来、水利を論ずる者は九河の故道を求めて疏通しようとした。だが図志を調べると九河はみな平原にあり、しかも河は澶州・滑州で壊れ、平原に至らぬうちにすでに決壊している。九河が何の役に立とうか。漢の武帝は大伾の故道を捨てて頓丘の激流を放ち、兗に濫れ斉に泛れて中土を患わせ、河朔の平田千里の膏腴を辺寇の掠奪に委ねた。今は大河がすべて東流し、燕の地は全部が北(契丹)に陥ちている。辺を守る計として河にまさるものはない。さもなくば趙・魏の百城の富庶は、いわば盗を誨え寇を招くようなものだ。ある日、こちらが飢饉のとき虚に乗じて侵入されたら、その場で計を立てるのは難しい。人が足り財が豊かな今こそ成し遂げるのが易しい。
  • 詔して枢密直学士の任中正、龍図閣直学士の陳彭年、知制誥の王曾に詳定させた。中正らは上言して「李垂の述べるところは詳細だが、滑臺から下を六派に分けるという案は、流れが下るにつれ急になって制しがたく、水勢が集まって一つになり、導いたとおりに流れない恐れがある。かりに六派が成っても河口が六か所増えるわけで、長期にわたって堤防が難しい。また滹沱・漳河に入って次第に二水が淤塞し、いよいよ民の患いとなる恐れもある。さらに七百里の堤を築くには夫役二十一万七千、工期四十日を要し、民田を侵して費用がかさむ」と述べ、この議は取りやめとなった。

天禧三年六月(1019年)

  • 滑州で河が城の西北の天台山のあたりで溢れ、ほどなく城の西南でも岸が七百歩にわたって崩れ、州城に溢れ、澶・濮・曹・鄆を経て梁山泊に注ぎ、さらに清水・古汴渠と合して東へ淮に入った。被害を受けた州邑は三十二。ただちに使者を遣わして諸州に薪・石・楗・橛・芟・竹の類を千六百万も賦課し、兵夫九万を徴発して修復させた。

天禧四年二月(1020年)・李垂の再度の建議

  • 河が塞がり、群臣が祝賀に入った。帝は自ら文を作って石に刻み功を記した。
  • この年、祠部員外郎の李垂がまた河を疏通する利害を述べた。垂に大名府・滑州・衛州・徳州・貝州・通利軍に赴いて長吏と計画を練るよう命じた。垂の上言は次のとおり。
  • 臣が赴いた先はどこも「黄河の水が王莽沙河と西河の故瀆に入って金赤河に注げば、水勢が浩大となって民田を浸し、堤防が難しくなる」と言う。臣も河水が通る所に害がないとは思わない。今、河が南に決したことによる害は多く、しかも陽武埽の東と石堰埽の西は地形が低く、東の河は水を流すのも難しい。「今の決壊箇所は漕底の坑が深く、旧渠は逆上している。塞げば必ず脇が壊れる」と言う者もある。とすれば河を塞ごうという議は確かに難しい。だが河が北に決した場合、害は少ないとはいえ、ひとたび河水が御河に注ぎ、易水に及び、乾寧軍を経て独流口に入れば、契丹の境に達する。「それでは辺境を揺るがす」と言う者もある。とすれば河を疏通しようという議もまた難しい。
  • 臣はこの二つの難のあいだに一計を立てる。上流から北へ引いて高地に載せ、東は大伾に至って澶淵の旧道に流し、南は滑州に至らず北は通利軍界に出ないようにしたい。その方法はこうである。衛州の東界、曹操が開いた運渠の東五里、河の北岸の突き出た所から、岸に土を固く盛って真北からやや東へ十三里、伯禹の古堤を破って裴家潭に注ぎ、牧馬陂を経て、さらに真東からやや北へ四十里、大伾の西山を鑿って二渠に分ける。一つは大伾の南麓に迫って古堤を決し、真東へ八里で澶淵の旧道に復する。一つは通利軍城の北の曲河口に迫り、大禹が導いた西河の故瀆まで真北からやや東へ五里、南北の大堤を開き、さらに東へ七里で澶淵の旧道に入れる。こうすれば南は滑州に至らず、南渠と合流する。かくて北へ高地に載せ、大伾の二山の脽股のあいだで勢いを分け、二渠に浚え流し、東北へ三十里も行かぬうちにふたたび澶淵の旧道に合し、滑州は手を加えずとも水が涸れる。
  • 臣は兵夫二万をもって来年二月に着工し、三伏の半功を除いて十月に完成させたい。厚薄を均す作業は翌年でよい。
  • 疏が奏上されたが、朝議は煩わしく民を騒がすとして取りやめた。
  • もともと滑州は天台の決口が水から少し遠いというので、その程度の修繕にとどめ、西南の堤ができたところで天台口のそばに月堤を築いた。六月十五日、河はふたたび天台の下で決壊し、衛南に走り、徐州・済州に溢れ、被害は天禧三年と同じでいっそうひどかった。帝は最近の賦課で民力を使い果たしたことを憂え、京東・京西・河北路の水害を受けた州軍には重ねて丁夫を割り当てぬよう詔し、堤防を守る役兵は長吏に手厚く扱わせ、交替で休ませた。

天禧五年春正月(1021年)・陳堯佐の木龍と河の名辞

  • 知滑州の陳堯佐は、西北の水が城を壊しても外からの防ぎがないので大堤を築き、さらに城の北に埽を重ねて城中の住民を守った。また横木を鑿って数条の木を下に垂らし、水際に置いて岸を守った。これを木龍といい、当時これに頼った。あわせて旧河に沿って枝流を開き、水勢を分け導いた。詔があって嘉奨された。
  • 論者によれば、黄河は時に応じて増減するので、物候(季節の風物)を水勢の名としたという。立春の後、東風が凍りを解くと、河辺の人は水が最初に至るのを候い、一寸増せば夏秋には一尺に達するとし、よく的中したので信水という。二月三月、桃の花が咲き始め氷が解けて雨が積もり、川の流れが集まって波が高まるのを桃華水。春の末に蕪菁の花が開くのを菜華水。四月の末に麦の畝が穂を出して芒が色を変えるのを麦黄水。五月に瓜の実が蔓を伸ばすのを瓜蔓水。北方の地では深山幽谷が固く陰り凍え、氷が堅くて解けるのが遅く、盛夏になってようやく解けきり、山石を洗った水が礬の匂いを帯びて河に合流するので、六月中旬以後を礬山水。七月に豆が穂を出すのを豆華水。八月に荻や薍が花咲くのを荻苗水。九月は重陽の節にちなんで登高水。十月に水が落ちて流れが安らぎ故道に復するのを復槽水。十一月・十二月、割れた氷が混じって流れ、寒さで再び凍るのを蹙凌水という。水の便りは常があってこれを基準とし、時ならぬ増水を客水という。
  • 水勢について――流れが移って岸に横向きに当たり、刺し壊すようになるのを劄岸。溢れて堤を越えるのを抹岸。埽の岸が古びて朽ち、水が潜り込んで下を洗うのを塌岸。波の勢いが渦巻いて岸の土が上から崩れるのを淪捲。水が岸を浸して逆向きに増すのを上展、順向きに増すのを下展という。また水が落ちかけたとき、直流の中で急に曲がって横に射すのを径○水。流れが激しく速く、澄もうとする所が移って、遠望すると白く明るく見えるのを拽白、または明灘という。激流の怒りがやや静まり、勢いがゆるやかに湧き立って、行き合った舟がしばしば沈むのを薦浪水という。
  • 水が退いた後の淤泥は、夏は膠土で肥沃、初秋は黄滅土でやや疏らな壌、深秋は白滅土、霜降の後はみな砂である。
  • 旧制では毎年、河の決壊を予期して、有司が孟秋にあらかじめ塞ぎ止める資材を調える。梢・芟・薪柴・楗・橛・竹・石・茭索・竹索など合わせて千余万、これを春料という。詔を河沿いの諸州の産地に下し、あわせて使者を派して河渠の官吏と会し、農閑期に丁夫と水工を率いて採取・備蓄させた。
  • 蘆や荻を伐るのを芟、山の木や楡・柳の葉を伐るのを梢という。竹を編み芟を紏って索とし、竹で作る巨索は長さ十丈から百丈まで数種ある。まず広く平らな場所を選んで埽場とする。埽の作り方は、芟索を密に布き、梢を敷き、梢と芟を重ねて土で圧し、砕石を混ぜ、巨大な竹索をその中に横に貫く。これを心索という。これを巻いて束ね、さらに大きな芟索でその両端を縛り、別に竹索を内から外へ出す。高さは数丈、長さはその倍になる。丁夫数百人あるいは千人が声を合わせて引き、堤の低く薄い所に積む。これを埽岸という。据えた後、橛と臬で押さえ、さらに長い木を貫く。竹索はみな岸に巨木を埋めて繋ぐ。河が横に決壊すれば、さらに追加して欠けを補う。埽は数層に積まなければ激流を止められない。ほかに馬頭・鋸牙・木岸というものがあり、水勢を押し縮めて堤を守る。
  • 河沿いの諸州の埽は次のとおり。孟州には河南・河北の二埽。開封府には陽武埽。滑州には韓村・房村・憑管・石堰・州西・魚池・迎陽の七埽。通利軍には斉賈・蘇村の二埽。澶州には濮陽・大韓・大呉・商胡・王楚・横隴・曹村・依仁・大北・岡孫・陳固・明公・王八の十三埽。大名府には孫杜・侯村の二埽。濮州には任村と東・西・北の四埽。鄆州には博陵・張秋・関山・子路・王陵・竹口の六埽。斉州には采金山・史家渦の二埽。浜州には平河・安定の二埽。棣州には聶家・梭堤・鋸牙・陽成の四埽。費用はいずれも有司が年ごとに計上し、欠けることがなかった。