宋史紀事本末西夏の叛服(李継遷・徳明)(西夏叛服(繼遷德明))
夏州を代々領した李氏が、太平興国七年に李継捧の入朝献土で一度は宋の手に帰したが、族弟の李継遷が地斤沢に走って叛き、契丹の冊封を受けつつ叛服を繰り返して勢力を築く経緯。宋は夏州城を破却し五路の兵で討ったが功なく、継遷は咸平五年に霊州を落として西平府とした。咸平六年に西涼府で潘羅支に敗れて流れ矢に当たり死ぬと、子の德明が立って帰順し西平王に封ぜられ、天聖九年(1031年)に德明が没して元昊が立つまで、建隆元年(960年)からの七十年を記す。
年表(19件)
- 太祖
- 建隆元年960年定難節度使の李彝興が朝貢し、太尉を加えられる
- 乾德五年~太平興国五年(967-)980年彝興・克睿・継筠と継承が続き、弟の継捧が立つ
- 太平興国七年五月~六月・継遷の叛乱982年継捧が四州を献じて入朝し、族弟の継遷は地斤沢に走って叛く
- 太平興国八年983年尹憲・曹光実が継遷を破り、その母と妻を捕らえる
- 雍熙二年二月~五月・銀州陥落985年継遷が偽降で曹光実を殺して銀州を占拠し、王侁が濁輪川で破る
- 雍熙三年986年継遷が契丹に降り、夏国王に冊封されて義成公主を娶る
- 端拱元年五月988年趙普の計で李継捧を夏州に戻し、趙保忠の姓名を賜って継遷を招かせる
- 淳化二年秋七月991年継遷が降を請うて銀州観察使となり趙保吉の名を賜るが、まもなく叛く
- 淳化五年正月~四月・夏州城の破却994年李継隆が継捧を捕らえて送り、夏州城を破却して民を移す
- 至道元年六月~七月995年継遷が張浦を遣わして馬を献ずるが、鄜州節度使の任命を受けない
- 至道二年四月~八月・五路の討伐996年五路の軍が平夏に向かうが期日を違え、功なく終わる
- 至道三年二月997年真宗の即位に際し継遷に定難節度使を授け、夏など五州を割いて与える
- 真宗
- 咸平五年三月・霊州の陥落1002年継遷が霊州を落として西平府と改め、知州の裴済が戦死する
- 咸平六年六月~十月・継遷の死1003年西涼府を取るが潘羅支に挟撃されて流れ矢に当たり死に、德明が立つ
- 景德三年九月~十月1006年德明が誓表を進めて帰順し、定難節度使・西平王に封ぜられる
- 大中祥符三年1010年夏州の飢饉に德明が粟百万を求め、王旦の計で恥じて取りやめる
- 大中祥符九年1016年德明が辺臣の盟約違反を訴え、詔してこれに答える
- 乾興二年1023年德明が麟州の柔遠砦を攻め、懐遠鎮に城を築いて興州とする
- 仁宗
- 天聖九年十月1031年德明が死んで子の元昊が立つ
太祖建隆元年(960年)
- 定難節度使の李彝興が朝貢した。李氏は李思恭以来、唐末から五代を通じて代々夏州を有した。後周の顯德年間には彝興が西平王に封ぜられ、ここに至って太尉を加えられた。
乾德五年~太平興国五年(967-980年)
- 乾德五年、李彝興が没し、子の克睿が立った。
- 太宗太平興国三年、李克睿が没し、子の継筠が立った。
- 太平興国四年、宋軍が北漢を伐つと、継筠は将の李光遠・李光憲に蕃漢の兵を率いさせて河を渡り、太原の境を略して軍勢を張らせた。
- 太平興国五年、李継筠が没し、弟の継捧が立った。
太平興国七年五月~六月(982年)・継遷の叛乱
- 李継捧が入朝して銀・夏・綏・宥の四州の地を献じ、自ら京師に住みたいと申し出た。そこで使者を夏州に遣わして緦麻以上の親族を闕下に赴かせ、継捧に彰德軍節度使を授け、その兄弟の克信ら十二人にもそれぞれ官を与えた。あわせて夏州管内に特赦を行い、曹光実を四州都巡検使とした。
- 六月、李継遷が叛いて地斤沢に走った。継遷は継捧の族弟で、当時、管内都知蕃落使として銀州にいた。朝廷の使者が来て闕下に赴かせようとしていると聞き、乳母が死んだので葬りに出ると偽り、そのまま一党数十人と地斤沢へ逃げ込んだ。
太平興国八年(983年)
- 知夏州の尹憲と都巡検の曹光実が継遷を襲って破り、五百級を斬り、四百余の天幕を焼き、その母と妻を捕らえた。継遷は逃げた。
雍熙二年二月~五月(985年)・銀州陥落
- 継遷が銀州を落とした。敗れた後の継遷は転々として定住せず、豪族との縁組を重ねて次第に強大になった。西方の人は李氏が代々恩德を施したことから、多くが継遷に帰した。継遷は豪族に「李氏は代々西土を有してきた。今、一朝にしてそれが絶えた。お前たちは李氏を忘れず、私に従って再興できるか」と語り、衆は承知した。
- そこで弟の継冲とともに夏州に赴いて降ると偽り、曹光実を葭蘆川に誘い出して殺し、その勢いで銀州を襲って占拠し、さらに会州を破って城郭を焼いて去った。報告を受けた朝廷は知秦州の田仁朗らに兵を率いて討たせた。
- 五月、田仁朗を召還し、副将の王侁が継遷を撃退した。もともと継遷は曹光実を殺すと三族砦を囲み、砦将の折遇乜が監軍の使者を殺して継遷に合流した。田仁朗は綏州まで進んだところで増兵を請い、一か月余り返答を待った。その間に継遷は勝ちに乗じて撫寧砦を攻めた。仁朗はこれを聞いて喜び、「戎人は常に烏合の衆で、辺を侵して勝てば進み、負ければ走るので、その巣穴を突き止められない。今、継遷は数万を集め、鋭気を尽くして孤立した壘を攻めている。撫寧は小さいが堅固で、十日程度では落ちない。彼らが疲れるのを待って大兵で臨み、別に強弩三百を分遣して帰り道を扼せば、敵は捕らえられる」と言った。
- 手はずを定めた後、仁朗はゆとりを示そうとして酒を飲み樗蒲(博打)に興じた。王侁らはこれを言い立てた。帝は三族砦がすでに陥ちたと聞いて大いに怒り、仁朗を召還して御史の獄に下し、増兵を請うたことと三族砦を失ったことを問い質した。仁朗は「銀・綏・夏の三州の兵はみな城を守るのが務めだと言って派遣しませんでした。三族砦は綏州から遠く、もとの詔で救うべき対象ではありません。臣はすでに継遷を捕らえる策を定めていたのに、詔が来て果たせませんでした」と答え、さらに「継遷は羌戎の心を得ています。丁重な詔で懐柔するか、あるいは厚い利で部落の酋長を釣って謀らせるのがよい。そうしなければ、いずれ大きな辺患となります」と述べた。帝はいよいよ怒ったが、特に死を免じて商州に流した。
- この月、王侁らは銀州の北に出て悉利の諸砦を破り、その一党の折羅遇を梟首した。麟州の諸蕃はみな馬を納めて罪を贖い、継遷討伐に加わることを願い出た。侁は部下を挙げて濁輪川に入り、賊の首五千級を斬った。継遷と折遇乜は逃げた。
- このとき郭守文に王侁とともに辺事を領するよう詔が下っていた。守文はさらに知夏州の尹憲とともに塩城の諸蕃を撃ち、千余の天幕を焼いた。これにより銀・麟・夏の三州の蕃百二十五族がことごとく内附した。
雍熙三年(986年)
- 継遷が契丹に降を請い、契丹は夏国王に冊封して義成公主を娶らせた。
- 夏四月、夏州の安守中が三万の衆で継遷と王亭鎮に戦って敗れた。継遷は城門まで追って還った。
端拱元年五月(988年)
- ふたたび李継捧を定難節度使として任地に遣わした。帝はかつて継捧に「そなたは夏州でどのような方法で諸部を制していたのか」と問い、継捧は「羌人は猛悍です。ただ羈縻するだけで、制することはできません」と答えていた。折しも継遷が朝廷の事をことごとく知っていると言う者があり、継捧が漏らしたのではと疑って崇信軍節度使として出していた。
- ここに至って継遷の侵略が日ごとにひどくなり、諸将が兵を用いても功がないので、帝は趙普の計に従ってふたたび継捧を夏州に鎮させ、趙保忠の姓名を賜り、厚く賜与して遣わし、継遷を招かせた。
淳化二年秋七月(991年)
- 李継遷が降を請い、銀州観察使とし、趙保吉の姓名を賜った。先に継捧は夏州に着いて数か月で「継遷が悔い改めて帰順した」と言い、詔して継遷に銀州刺史を授けたが、実際には降る心はなかった。
- ここに至って継遷は継捧と安慶沢で戦い、流れ矢に当たって逃げ、転じて夏州を攻めた。継捧が援軍を乞うたので翟守素を派して援けさせた。守素が到着すると継遷は帰順を申し出て表を奉り謝罪したので、この任命となった。あわせてその子の德明を管内蕃落使・行軍司馬とした。だがまもなく継遷はまた叛いた。
淳化五年正月~四月(994年)・夏州城の破却
- 春正月、李継隆を河西都部署として李継遷を討たせた。先に転運副使の鄭仁宝が塩池を禁じて継遷を困らせる策を議したところ、継遷は辺人四十二族を率いて環州を侵掠し、辺将は多く敗れた。
- しばらくして継遷が綏州の民を平夏に移そうとすると、部将の高文岯らが衆の不満に乗じて逆に攻めて破った。継遷はまた堡砦を囲んで居民を掠め、蓄えを焼き、ついに霊州を攻めたので、朝廷は継隆に討伐を命じた。
- 三月乙亥、李継隆が兵を率いて夏州に入った。継隆の到来を聞いた継捧は、先に母・妻・子女を連れて野外に壁を築き、「継遷と怨みを解きました」と上言し、馬五十匹を献じて罷兵を乞うた。帝は奏を見るとただちに中使を遣わして継隆に進軍を督させた。
- 軍が境に迫ると、継遷は継捧の営を襲ってその衆を併せようとした。継捧は寝ていたが変事を聞いて単騎で城に逃げ帰り、指揮使の趙光嗣が継捧を別室に閉じ込め、門を開いて継隆を迎え入れた。継隆は継捧を捕らえて汴京に送り、継遷は逃げた。継捧は京に着いて赦され、宥罪侯に封ぜられた。
- 夏四月甲申、夏州城を破却した。帝は夏州が砂漠の奥にあり、奸雄がこれに拠って割拠すると考え、城を壊そうとした。宰相の呂蒙正は「赫連が築城して以来、常に関右の患いでした。廃してしまえば万世の利です」と言い、詔して破却し、その民を銀州・綏州に移した。
- この年、継遷はふたたび使者を送って馬を貢ぎ謝罪した。
至道元年六月~七月(995年)
- 李継遷が押衙の張浦を遣わして良馬と駱駝を献じた。帝は衛士に後園で射させて浦に見せた。士はみな二石の弓を引いてなお余力があった。帝は笑って「羌人は敵えるか」と問うと、浦は「羌部の弓は弱く矢は短い。ただこの大男を見ただけで逃げてしまいます。まして敵うものですか」と答えた。帝は浦を京師に留め、使者を送って継遷に鄜州節度使を拝したが、継遷は受けなかった。
- 秋七月、李継遷が清遠軍を侵し、守将の張延が撃破した。
至道二年四月~八月(996年)・五路の討伐
- 夏四月、李継隆らを分道して李継遷を討たせた。もともと帝は白守栄らに秣と粟四十万を護送して霊州へ赴かせたが、李継遷が浦洛河で邀撃し、守栄の衆は潰えて輸送物資はことごとく奪われた。帝は怒り、継隆を環慶等州都部署として討たせた。
- 折しも曹燦が河西から帰り、「継遷の衆は一万余で、霊武を図ろうとしています。城中は急を告げていますが、その使者が継遷の手に落ちれば、兵を留めて去らなくなります」と述べた。呂端は「兵を麟府・鄜延・環慶の三道から出して平夏を衝き、その巣穴を襲えば、霊武の囲みは自ずと解けます」と請うた。「盛夏に旱海(砂漠)を渡れば水も泉も涸れ、糧の輸送が苦しい。静かに待つほうがよい」と言う者もあったが、帝は聞かず、諸将を配置した。継隆を環州から、丁罕を慶州から、范廷召を延州から、王超を夏州から、張守恩を麟州から、五路で進撃させ、まっすぐ平夏へ向かわせた。
- 保安軍が継遷の母を捕らえたと奏した。帝は寇準の議を用いて斬ろうとしたが、呂端が「昔、項羽が太公を得て烹ようとしたとき、漢祖は『どうか私にも一杯の羹を分けてくれ』と言いました。大事を挙げる者は親をも顧みません。まして継遷は敵国の悖逆の人です。斬れば仇怨を樹てるだけで、叛意をいっそう固めさせます。延州に置いて手厚く世話をし、継遷の心を繋ぎ止めるほうがよい」と言い、帝はこれに従った。
- 八月、李継隆が諸将を率いて進軍し、烏白池に至る期日を定めた。継隆は弟の継和を早馬で遣わし、「環州の道は遠回りです。清岡峡から継遷の巣穴に直進したい。霊武の救援には間に合いません」と奏した。帝は怒って「そなたの兄は必ず私の事を台無しにする」と言い、自ら手紙を書いて厳しく責めたが、使者が着く前に継隆はすでに出兵し、丁罕と合流していた。十日行っても敵に会わず、軍を還した。張守恩は敵を見ながら攻撃しなかった。
- 范廷召と王超だけが烏白池に至って賊に遭った。賊の勢いは甚だ鋭く、超は慎重に構えて進まなかったが、その子の德用は十七歳で先鋒となり、乗ずるよう請うて三日転戦し、敵はついに退いた。德用は「帰る軍は険に遭えば必ず乱れる」と言い、兵を率いて先に要害を押さえ、「隊列を乱す者は斬る」と令した。全軍は粛然とし、賊はその軍の整いを見て迫れなかった。廷召らは大小数十戦して勝敗相半ばしたが、諸将が期日を違え、士卒は疲れ果てて終わった。
至道三年二月(997年)
- 李継遷が使者を送って帰順を申し出、あわせて蕃任を求めた。折しも帝が崩じ、太子が即位したばかりで諒闇中だったので、これを許して継遷に定難節度使を授け、夏・綏・銀・宥・静の五州を割いて与えた。張浦も送り返した。継遷はほどなく弟の瑗を闕下に遣わして謝したが、まもなくまた辺を掠めた。
真宗咸平五年三月(1002年)・霊州の陥落
- 李継遷が蕃部を大いに集めて霊州を攻め落とし、霊州を西平府と改めてここに居した。
- 先に帝は霊武のことを李至に諮った。至は「河湟の地は蕃と漢が雑居しています。だから先王は度外に置きました。今、霊州は棄てざるを得ません。朔方軍を環州に移して辺境を固めるのも一時の便法です」と言ったが、帝は決しかねた。
- 当時、継遷の略奪はいよいよひどく、帝は張斉賢を涇原諸路経略使として防がせた。斉賢も「霊武は孤城で固守は難しい。いたずらに軍民六、七万を危亡の地に陥れるだけで無益です」と言った。
- 通判永興軍の何亮はさらに「安辺書」を上って言った――霊武は方千里、山河を表裏としています。これを棄てれば敵の利は広く豊かになる。これが第一の患い。環慶から霊武まで千里、西域の諸勢力が合して一つになる。これが第二の患い。冀北は馬の産地だが、匈奴が猖獗して以来、南に来る馬は一頭もなく、ただ西域に頼っている。西域はすでに二つに分かれ、その右は西戎の東の偏で実は夏賊の境、その左は西域の西の偏である。霊武を棄てれば再び一つに合し、夏賊は狡猾だから諸戎に馬を売らせまい。そうなれば戦馬はどこから来るのか。これが第三の患い。溥楽・耀德の二城を築いて河西への糧道を通じたい。霊武は絶域の外にあるので、この二城を唇歯として築かなければ、霊武を棄てるのと変わりません。
- 帝は奏を見てふたたび群臣に棄守の可否を議させた。楊億は上疏して漢が朱崖を棄てた例を引き、霊武を棄てて環慶を守るよう請い、李至の前の議と一致した。だが輔臣は「霊州は必争の地です。もし失えば沿辺の諸郡はみな保てません」と言い、帝は迷った。
- 李沆は「継遷が死なぬかぎり、霊武は結局、朝廷のものにはなりません。使者を送って密かに州の将を召し、軍民を配置して壘を空にして帰らせるに越したことはない。そうすれば関右の民は肩の荷を下ろせます」と言ったが、帝は従わず、王超を西面行営都部署として歩騎六万で霊州を援けさせた。
- 折しも継遷が清遠軍を侵し、都監の段義が叛いて継遷に降ったので、継遷の勢いはいよいよ張った。さらに定州・懐遠を攻め、曹燦が蕃兵で邀撃して多少は斬り捕らえたが、王超の率いる大軍はついに進めず、霊州はついに陥ちて、知州事の裴済が戦死した。帝は報告を得て、李沆の言に従わなかったことを悔いた。
咸平六年六月~十月(1003年)・継遷の死
- 六月、李継遷が麟州を囲んだ。詔して金明巡検の李継周に撃たせ、知州事の衛居宝が奇兵を出して突撃したので、継遷は陣を払って逃げた。
- 十月、李継遷は転じて西蕃を攻め、西涼府を取った。都首領の潘羅支が偽って降り、六谷の蕃部を集めて継遷を挟み撃った。継遷は大敗し、流れ矢に当たって死に、子の德明が立った。契丹は德明を西平王に封じた。
- 当時、環慶の辺臣が「德明は立ったばかりですから、詔を下して慰撫されたい」と乞い、帝は德明に詔して去就をよく考えるよう命じた。
- 知鎮戎軍の曹瑋は「継遷は河南の地をほしいままにすること二十年、兵は鎧を解かず、中国に西を顧みる憂いを抱かせました。今、その国は危うく子は幼い。今すぐ討ち滅ぼさなければ、後に強盛となって制しがたくなります。臣に精兵をお貸しくだされば、不意を衝いて德明を捕らえ闕下に送り、河南を郡県に復します。今がその時です」と上言したが、帝は恩で德明を懐けようとして答えなかった。
景德三年九月~十月(1006年)
- 九月、李德明が表を奉って帰順し、さらに劉仁朂を遣わして誓表を進めた。
- 十月、德明に定難節度使を授けて西平王に封じ、賜与は厚く、俸給も内地並みに支給した。あわせて子弟を人質に出すよう求めたが、德明は先代からの慣例ではないとして送らず、ただ駱駝と馬を献じて謝恩しただけだった。以来、德明の朝貢は毎年絶えなかった。
大中祥符三年(1010年)
- 夏州が飢饉となり、德明は表を上って粟百万を求めた。朝議はどうすべきか分からず、「德明は帰順したばかりなのに敢えて誓約に背いた。詔を下して責めるべきだ」と言う者もあった。王旦は「ただ德明に『すでに有司に命じて京師に粟百万を用意させた。衆を遣わして取りに来い』と詔されればよい」と言った。德明は詔を得て恥じ入り、「朝廷には人がいる」と言って取りやめた。
大中祥符九年(1016年)
- 德明が「辺臣が旧制を守ることが少なく、それぞれ功を狙って次第に盟約に背いている」と表を上げ、詔して答えた。
乾興二年(1023年)
- 德明が兵で麟州の柔遠砦を攻め、巡検の楊承吉が戦って不利だった。曹瑋を環慶・秦州の沿辺巡検安撫使として防備させた。
- この年、德明は懐遠鎮に城を築いて興州とした。
仁宗天聖九年十月(1031年)
- 德明が死に、子の元昊が立った。以後のことは後の篇に見える。