宋史演義第九十九回 焦山に屯し全軍熸を告ぐ/臨安陥り幼主虜とせらる (屯焦山全軍告熸  陷臨安幼主被虜)

賈似道の最期

  • 会稽県尉の鄭虎臣は、かつて父を賈似道に陥れられた恨みを持っており、福王趙与芮の願いで似道護送の監押官を志願する。
  • 虎臣は建寧府の寓居にいた似道の侍妾を追い払い、炎天下を歩かせるなど、道中で徹底的に辱め続けた。古寺の壁に呉潜の詩を見つけては「あなたはなぜここに至ったのか」と皮肉を浴びせる。
  • 漳州の木綿庵に至り、虎臣は「天下のために似道を殺す、死んでも悔いはない」と言い放ち、厠で似道の胸を打ち据えて絶命させた。
  • かつて似道は夢で「鄭という者に命を制される」との予言を受けており、当時権勢を誇っていた宦官の鄭師望を疑って遠ざけたが、結局は鄭虎臣の手にかかって死んだという因縁が語られる。

逃亡する朝臣と太皇太后の詔

  • 朝廷は王爚を平章軍事、陳宜中・留夢炎を左右丞相兼枢密使とし、諸路軍馬の都督に任じる。
  • 陳宜中はかつて丁大全弾劾で名を挙げた人物だが、後に賈似道に取り入って出世し、似道が死んだと見るや掌を返して罪状を訴えるなど、変わり身の早さを見せる。鄭虎臣が独断で似道を殺したことを理由に虎臣を投獄・処刑する一方、似道の遺骸の帰葬や田宅の返還を許すなど矛盾した処置を行った。
  • 太皇太后謝氏はこれを忠厚と見なして追認し、張世傑に諸軍の総督を命じて元軍に対抗させる。
  • 元軍が日ごとに迫る中、多くの高官が任地を捨てて逃亡した。太皇太后は激しい詔を出し、逃亡官吏を厳しく戒め、留まる者は昇進、逃亡した者は御史台に糾弾させると布告したが、効果は薄かった。

元使殺害と諸城の陥落

  • 辺境の宋将は元の使者を次々と殺害する暴挙に出る。元の礼部尚書廉希賢・工部侍郎厳忠範が国書を携えて南下した際、独松関の宋将張済は忠範を殺し希賢を捕らえて送り、希賢は傷がもとで死んだ。宋廷は謝罪の使者を送るが、その使者もまた平江の守将に殺される始末であった。
  • 激怒した伯顔は各方面に兵を進め、常州を降し、阿里海涯は岳州・江陵を攻略。荊湖の諸将は次々と元に降伏し、湖北の諸城もほぼ元の手に落ちた。荊南を得た伯顔は西方の憂いなく東進を続ける。

揚州・真州の攻防と焦山の敗戦

  • 阿朮は真州に迫り降伏を勧めるが、制置使李庭芝はこれを拒み、投降を勧めた部下の将を斬って将士を鼓舞し、死守を誓わせた。真州の守将苗再成らは元軍と戦うも敗れる。
  • 揚州でも姜才が奮戦し、元将張弘範との激戦の末、勇将回回を討ち取られるなど一進一退の攻防が続くが、姜才は矢傷を負いながらも潰兵を収めて城に入った。
  • 常州の守りに功のあった劉師勇らが加わり、張世傑は舟師を集めて焦山に進出し揚州の後詰めとするが、四川方面での相次ぐ降伏の報にも動揺し、船を鎖で連結して背水の陣を敷く。しかし元軍に火攻めを受けて壊滅し、世傑は圌山へ敗走、多数の軍船を失った。

朝廷の内紛と文天祥の献策

  • 焦山の敗戦後、平章王爚は陳宜中らの無責任な指揮を批判し辞任を願うが許されず、結局病没する。陳宜中もまた朝命に応じず、太皇太后自らの説得でようやく帰朝する。
  • 文天祥は入朝し、国土を四つの都督府に分けて連携防衛する「四鎮」の策を上奏するが、留夢炎・陳宜中はこれを迂遠として退け、実行されなかった。

常州・江西の陥落と諸将の殉節

  • 伯顔は三路に分かれて東進し、常州は元軍に包囲される。文天祥の援軍派遣も間に合わず、知州姚訔・通判陳炤・都統王安節らは力戦の末に討ち死にし、城内はほぼ皆殺しにされた。劉師勇のみ数騎で脱出する。
  • 江西方面でも撫州・建昌が相次いで陥落し、都統密佑・統制米立らが最後まで屈せず殺されるなど、各地で忠烈の死が続いた。

和議交渉の失敗

  • 宋廷は柳岳を使者として和議を求めるが、伯顔は「宋が元使を殺した罪を問うている」として拒絶。続いて陸秀夫・呂師孟らを派遣し臣従・称姪を申し出るがこれも容れられず、使者の柳岳は帰路に土民に殺される始末であった。

潭州の陥落と李芾の殉節

  • 潭州は阿里海涯に三か月にわたり包囲され、知州李芾は将兵に死守を厳命する。水攻めにより城内は窮乏し、元旦の未明に城は陥落した。
  • 知衡州尹穀は一家で焼身自殺し、李芾も家臣沈忠に一族皆殺しを命じたのち自らも自刃、沈忠も家族を手にかけたのち殉死するという壮絶な最期を遂げた。多くの潭州の民も一族で殉じ、城内には死体が満ちた。

臨安の降伏

  • 宋廷は続く敗報に動揺し、太皇太后は元への称臣・貢納を申し出るが伯顔は許さず、あくまで降伏を求める。文天祥の献策により吉王昰・信王昺がそれぞれ益王・広王に封じられ福州・泉州に出鎮する。
  • 陳宜中は遷都を強く求めながら当日姿を消し、太皇太后の怒りを買う。ほどなく元軍が臨安近郊に迫ると、宜中は独断で伝国璽と降表を元軍に送った。降表では帝が幼少であることを訴え、領土すべてを差し出して宗社の存続のみを願う内容であった。
  • 伯顔は璽と表を受け取ったが、なお陳宜中に出頭を求める。宜中はこれに応じずその夜のうちに逃亡し、張世傑・劉師勇らは戦わずして降伏した朝廷を見限り、海上へ去った。師勇はまもなく病死する。
  • 太皇太后は文天祥を右丞相として吳堅とともに和議のため元軍に送るが、天祥は屈せず伯顔に強い言葉で対峙したため、軍中に抑留されてしまう。

帝顕の北行

  • 元軍は臨安を接収し、府庫・図書・印璽等を没収、宮女・楽官も徴発され、投水自殺する宮女も多かった。
  • 太皇太后は賈餘慶・劉岊らを新たに祈請使として元軍に送るが、席上で文天祥は賈餘慶の諂いや呂文煥の変節を厳しく糾弾する。伯顔は天祥を抑留し北行の使団に同行させた。
  • 益王・広王を追撃する元軍の中、駙馬楊鎮は身代わりとなって命を落とす。
  • 徳祐二年三月、伯顔は幼帝顕・全太后・福王与芮ら宋の宗室を捕らえて北へ連れ去った。詩には、六歳の幼帝に何がわかろうかと、この破局が結局は幼き者たちの巡り合わせによるものかと嘆く趣旨が詠まれる。
  • 帝は北へ去り、南宋は事実上滅亡した。なお亡国の後日談があるとして、次回に続くことが示される。

評語

  • 太皇太后謝氏は太平の世なら凡庸でも許されたが、強敵に囲まれた非常時には到底国政を担えなかったと評す。
  • 賈似道を信任し、続いて陳宜中を重用した点にすでに謝氏の不明が表れているとし、宜中の罪は似道に劣らないと断じる。
  • 文天祥の四鎮策や、臨安陥落直前の背城一戦策は実行可能であったにもかかわらず、宜中がことごとくこれを妨げ、あえて国を敵に差し出す道を選んだと批判する。
  • 結局、似道は国を誤り、宜中は国を売り、謝太后は生を偸んで死を惜しむだけの人物であり、三者ともに亡国の責を負うべきだと結んでいる。