宋史演義第一〇〇回 二王を擁し勉めて残局を支う/両宮覆り悵みて重洋を断つ (擁二王勉支殘局 覆兩宮悵斷重洋)
帝顕北行と文天祥の逃避行
- 恭帝(帝顕)が捕虜となった後、全太后・福王・沂王・隆国夫人・駙馬都尉らも従い北へ連れ去られる。太学生の徐応鑣は二子・娘とともに井に身を投げて殉じた。
- 太皇太后謝氏は病のため臨安に残留。元の伯顔はアラハン・トゥンウェンビンらを残して閩・浙を経略させ、自らは帝顕らを北へ護送する。
- 知信州の謝枋得は元軍に追われ建寧の山中に潜伏、妻子は捕らえられ江東は陥落。制置使の夏貴は淮西を挙げて元に降る。
- 文天祥は鎮江から真州へ脱出し、苗再成に迎えられて挙兵を図る。李庭芝に共同挙兵を促す書を送るが、庭芝は降伏の噂を疑い天祥暗殺を再成に命令。再成は天祥を逃し文書を見せる。天祥は誤解を解くため揚州へ向かうも、追捕の令が出ていると知り変名して脱出、樵夫や嵇聳一家の助けを得て泰州・通州を経て温州へ至り、二王の行方を追って福州へ向かう。
二王の福州擁立
- 益王昰・広王昺は母や外戚らに擁護されて浙南から逃れ、山中に潜伏しつつ温州へ。陸秀夫・蘇劉義らも合流し、陳宜中・張世傑を召して両王を都元帥・副元帥に立てる。
- 秀王與檡を福建察訪使として先発させ、忠義の兵を募る。福州にて益王昰を帝(景炎元年)に立て、楊淑妃を皇太妃とし、恭帝を尊号で奉り広王昺を衛王とする。陳宜中を左丞相、李庭芝を右丞相とするなど人事を定め、福州・温州を改称し大赦を行う。この日、府中に大音が響き人々は驚いた。
文天祥の起用と江西・広東の攻防
- 文天祥は右相を固辞し枢密使に任じられ、南劍州で江西経略を担当。江西では一時南豊・宜黄・寧都などを回復するが、元将唆都の反撃で衢州が陥落し、傅卓・翟国秀らも敗れて降伏する者が相次ぐ。
- 広東では経略使徐直諒が元将梁雄飛の誘いに応じかけたが景炎帝擁立を受けて拒否するも、結局雄飛に広州を落とされる。
- 淮東では李庭芝・姜才が揚州を死守。太皇太后の降伏を促す詔にも屈せず、姜才は瓜洲での奪還戦に敗れるも降伏を拒み続けた。
帝顕・全太后・謝太皇太后のその後
- 燕都に至った帝顕一行では祈請使の賈餘慶・高応松が死去。全太后は尼となり、帝顕も後に出家、六歳で瀛国公に封じられのちに沙漠で病没。謝太皇太后も北送され壽春郡夫人に降封、七年後に燕で没した。福王与芮は平原郡公に。家鉉翁のみ元に仕えず節を守り、後に眉州へ帰り処士として天寿を全うした。
揚州・真州の陥落と李庭芝・姜才の死
- 謝太皇太后のなお続く降伏勧告にも庭芝は応じず使者を射殺。糧道を絶たれ周辺諸城が次々陥落する中、庭芝・姜才は兵民相食むほどの窮乏に耐え屈しなかったが、副使朱煥が揚州城を元に献じて降伏。庭芝・姜才は泰州で捕らえられる。姜才は阿朮の詰問に「殺すなら殺せ」と啖呵を切るが、降将朱煥の讒言により二人とも処刑された。
淮東・浙東・福建・広西の陥落
- 真州も陥落し苗再成が戦死。淮東諸州は元の手に落ちる。元は舟師・騎兵を分けて閩・広へ南進。東莞の熊飛が挙兵し広州を一時奪還するが、のちに敗死。秀王與檡も瑞安で戦死し、一族・部下多数が殉じた。建寧も陥落し、福州は動揺、陳宜中・張世傑は帝昰らを奉じて海上へ逃れる。
- 福州は招撫使王積翁の内応で陥落。泉州の招撫使蒲壽庾は帝昰を迎えたが張世傑がその船を奪ったため怨みを抱き、宋の皇族を殺害して元に降伏。興化では陳文龍が捕らえられ、節義を貫いて絶食死。広西の静江では馬塈が力戦の末捕らえられ斬られてもなお屈しなかったという。
文天祥の再挙兵と各地の一時的な蜂起
- 文天祥は江西へ進撃し会昌・雩都を落とすが、汀州守将黄去疾らの降伏や吳濬の裏切りもあった中で天祥は吳濬を斬って進軍を続けた。広東では張鎮孫が広州を一時回復、陳文龍の甥陳瓚が興化を奪還するなど各地で義兵が興り、四川の張珏も一部の州を回復するなど、南宋残存勢力に一時の勃興が見られた。
元軍の総攻撃と文天祥の敗北
- 元が北方の反乱を平定し南進を再開。李恒が興国県の文天祥軍を急襲し、天祥は方石嶺で大敗、部将は戦死、妻子は捕虜となった。趙時賞は天祥と偽って身代わりとなり殺され、天祥自身は辛くも脱出して循州へ逃れる。
- 泉州の元軍増援により張世傑は囲みを解き、邵武・興化も再陥落。陳瓚は捕らえられ処刑される。広州も張鎮孫が降伏し、四川の張珏も涪州で捕らえられ自害した。
帝昰の最期と帝昺の即位
- 張世傑一軍のみが帝昰を奉じて転戦。井澳で暴風に遭い帝昰の乗る船が転覆、辛くも救われるが健康を損ね、さらに碙州への移動中に病が悪化し十一歳で崩御。陳宜中は占城への使いに出たまま戻らなかった。
- 陸秀夫の進言により群臣は衛王昺(八歳)を新帝に擁立、祥興と改元。張世傑は厓山を拠点と定め行宮を築き、端宗(帝昰)を埋葬。陸秀夫は左丞相となり嗣君を教導する。文天祥は母・弟を伴い厓山へ表を上げ、信国公に封じられる。湖南でも義兵が挙がるが、まもなく阿里海涯らに鎮圧され、海南も元に降る。
文天祥の捕縛
- 広州は李恒に攻められ厓山へ敗走。文天祥は潮陽で海賊討伐中に元の張弘正の急襲を受け、母と長子は病死、鄒㵯は自刃、劉子俊は身代わりを申し出るも露見して処刑され、天祥自身は服毒するも死にきれず捕らえられた。張弘範は天祥を客礼で遇し、厓山へ同行させる。
厓山の攻防と天祥の詩
- 張弘範は張世傑の甥を遣わして三度招降するが応じず。天祥にも降伏を勧める書を書かせようとするが、天祥は代わりに「人生自古誰無死、留取丹心照汗青」の一句を含む詩(過零丁洋感懐)を書いて拒絶を示した。張世傑は千余隻の船を鎖でつなぎ、帝昺を中央に置いて背水の陣を敷く。
厓山海戦と南宋の滅亡
- 元軍の火攻めは船に塗られた泥で防がれるが、弘範は海路を断って宋軍を兵糧攻めにし、李恒の援軍も得て挟撃を準備。祥興二年二月六日、元軍は南北から総攻撃をかけ、宋軍は苦戦の末、翟国秀・凌震らが降伏。
- 大勢が決したのを見た陸秀夫は帝昺に「これ以上の辱めを受けるな」と告げ、妻子を先に入水させたのち帝昺を背負って海に身を投げた。楊太妃も帝昺の死を知り、「趙氏のためだけに生き延びてきた」と嘆いて後を追い入水した。張世傑は脱出を図るが暴風に遭い、趙氏の再興を天に祈った末に船が転覆し溺死。蘇劉義も殺され、南宋は滅亡した(高宗から帝昺まで九代百五十二年、北宋と合わせて三百二十年)。
文天祥・謝枋得の最期
- 文天祥は元都に送られ三年後に処刑され、妻歐陽氏が遺骸を収め、のち吉州に帰葬された。謝枋得も七年後に脅されて北行させられ、絶食して節を守り、子が遺骸を信州に持ち帰った。作者は二絶の詩を掲げて『宋史演義』全編の結びとする。
評語
- 本回は南宋残局の顛末を一気に描くが、各段に脈絡があり緊密に呼応していると評す。二王の落命や文天祥・張世傑・陸秀夫の百折不撓の奮闘は歌うべく泣くべきものであり、大勢に抗して離島に立てこもる様は「益なきを知りて敢えて情に殉じた」行いと称える。
- 後世これを迂拙と笑う者もあろうが、当時すでに存続の理がなかった以上、三忠はただ己の心を尽くしたに過ぎないとする。
- 諸葛亮「後出師表」の「鞠躬尽瘁、死して後已む。成敗利鈍は逆睹する所に非ず」を引き、忠臣義士は皆そうしたものであったと結ぶ。
- 宋は滅んでも綱常は滅びず、それゆえ元の命運も百年に満たずして明に帰した。これは一代の悲劇であると同時に、後世百代のためには幸いであったとも評している。