宋史演義第九十四回 余制使、讒を憂え命を殞う/董丞相、脅かされ官を罷めらる (余制使憂讒殞命 董丞相被脅罷官)
杜範の宰相就任と施策提言
杜範は宰相に就くと、政治の根本を正す五箇条、続いて人材登用・清廉・辺境防備・財政再建など十二箇条を上奏し、時人から的確な意見として評価された。江陵に駐屯する孟珙は権力集中を疑われていたが、杜範は彼に誠実な返書を送り信頼を得た。徐元杰を工部侍郎に抜擢して政務を諮ったが、杜範自身は在任わずか八十日で病没した。
徐元杰・劉漢弼の急死と毒殺疑惑
徐元杰は登城の翌日に急死し、太学の学生らが陰謀を疑って上訴した。臨安府は事件をうやむやにした。劉漢弼も病死し、太学生が再び冤罪を訴えたため、朝廷は撫恤金を与えて収めた。世評は毒殺を疑い、史嵩之の甥・璟卿の急死も絡めて、史嵩之が黒幕、丞相范鍾が隠蔽したとの噂が広まった。
孟珙の病没と朝廷人事
孟珙は病のため辞職を願い出たが、赴任先で病没した。理宗は哀悼し厚く追贈したが、後任には賈似道を任じた。范鍾は辞職し、鄭清之が右丞相に、趙葵が枢密使に任じられた。
史嵩之の再起用未遂と人事
史嵩之は復帰を狙ったが、諫官らの弾劾により結局起用は見送られた。賈似道・李曾伯らが要職に就く一方、趙葵は讒言により左遷され、朝局の乱れが進んだ。
蒙古の内紛と蒙哥の即位
淳祐年間、宋の辺境は孟珙・余玠・呂文德らの守備で小康を保っていたが、蒙古では乃馬真后の摂政のもと寵臣が専横し、名臣耶律楚材が憂死するなど混乱していた。貴由が即位するも早世し、後継争いの末、拖雷の子・蒙哥が大汗に即位して政局を安定させた。
忽必烈の台頭と宋の無策
蒙哥の弟・忽必烈は漠南を治め、劉秉忠・姚枢・許衡らの賢才を集めて治世の基盤を築いた。宋はこの間も無策で、鄭清之の老衰、史嵩之への未練など、宰相人事は迷走を続けた。
余玠の四川経略と王夔誅殺
四川制置使・余玠は横暴を極める部将王夔を計略で誅殺し、統治体制を整えたが、後任争いに介入した謝方叔一派の讒言により朝廷に召還された。
余玠の失脚と四川の崩壊
余玠は召還後まもなく急死(自殺との噂もある)し、死後には家財没収の処分まで受けた。後任の余晦は無能で、蒙古将汪德臣の奇襲により宋軍は紫金山で大敗。徐清叟の諫言も空しく、余晦は罷免され李曾伯が後任となった。安撫使王惟忠は余晦の讒言で処刑された。この間、忽必烈配下の兀良合台は大理・吐蕃を平定した。
董宋臣・丁大全らの専横
理宗は寵妃閻氏や内侍董宋臣を寵愛し、宋臣は私腹を肥やして政道を乱した。監察御史洪天錫の弾劾も無視され、蕭山県尉丁大全は董・盧両宦官や閻貴妃に賄賂を贈って出世し、洪天錫や謝方叔を失脚に追い込んだ。右丞相には董槐が就任した。
董槐の失脚
董槐は宦官・外戚の専横を正そうとしたが、丁大全らの妨害に遭い、理宗にも見放されて罷免された。丁大全は兵を動かして董槐邸を包囲するという横暴に及び、士論は激しく非難した。太学生の陳宜中ら六人が丁大全を弾劾したが逆に処罰され、「六君子」と称された。丁大全はその後右丞相にまで昇った。
蒙古軍の南下と合州包囲
蒙哥汗は自ら南宋討伐に乗り出し、三路に分けて侵攻。四川では蒲擇之の軍が蒙古将紐璘に敗れ、成都以下多くの州県が降伏した。蒙哥汗は合州を包囲し、守将王堅は堅く抵抗した。蒙古の猛将汪德臣は攻城中に飛石を受けて負傷した。
評語
杜範・吳潛・董槐のような宰相の器、孟珙・余玠・馬光祖・向士璧・王堅のような将才がありながら、理宗は美色や佞臣に溺れて賢臣を退け、蒙古の内紛という好機を活かせなかった。杜範・孟珙が世を去り、余玠・董槐も讒言で追われた末に南宋の衰亡はすでに定まっていた。ただ蒙古側もまだ天下統一に至っておらず、合州での蒙哥の頓挫と病没によって、辛うじて理宗の代での亡国は免れたに過ぎない。