宋史演義第九十五回 捷報を捏ち君を欺き上を罔う/行人を拘え好を棄て盟に背く (捏捷報欺君罔上 拘行人棄好背盟)
汪德臣の死と蒙哥汗の病没
負傷した汪德臣はその夜死去し、蒙哥汗も攻城の長期化と名将喪失の心労から病に倒れ、釣魚山で没した。蒙古軍は合州の包囲を解いて北へ引き上げ、王堅は寧遠軍節度使に昇進した。
忽必烈の南下と鄂州包囲
蒙哥汗の死を知りつつも忽必烈は南征を続行し、長江を渡って鄂州を包囲した。部将董文炳兄弟の奮戦で宋の水軍は総崩れとなり、蒙古軍は容易に渡江した。丁大全は戦況を隠蔽していたが露見して罷免され、吳潛が左丞相に復帰。董宋臣は遷都を進言したが吳潛らの諫言と謝皇后の反対で沙汰止みとなった。
賈似道の督戦と臆病ぶり
鄂州防衛には賈似道が派遣されたが、実戦経験は乏しく、部将高達らに侮られていた。移防を命じられて黄州へ向かう途中、蒙古の遊撃隊の噂に怯えて隠れるなど臆病な態度を見せた一方、部下の孫虎臣が功を挙げると自分の手柄のように振る舞った。
忽必烈との密約と偽りの捷報
賈似道は密かに使者を送り臣従と歳幣提供を条件に和議を求めた。折しも蒙哥汗の訃報が伝わり、部下郝経の進言で忽必烈は北帰を決意、宋との和議を成立させて撤兵した。しかし賈似道はこの屈辱的な和議を隠し、あたかも大勝したかのように偽りの捷報を朝廷に送り、絶大な恩賞と信任を得た。
皇太子擁立をめぐる政争
理宗には実子がなく、宗室の子・禥(後の度宗)を養子として太子に立てる議論が起きた。吳潛は反対の意を漏らしたことで賈似道に付け入られ、失脚に追い込まれた。理宗は賈似道の言うままに禥を皇太子に立てた。禥の生母黄氏と賈似道の生母胡氏は同郷の出で、共に身分卑しい出自から貴顕を生んだ因縁が語られる。
忽必烈の即位と元朝の制度整備
忽必烈は開平で諸王に推戴されて大汗の位に即き、中統と改元。中書省・枢密院・御史台などの官制を整え、元朝の統治機構の基礎を築いた。廉希憲を派遣して反対派の阿里不哥方の勢力を関隴で討伐し平定した。
郝経の抑留と国信使問題
忽必烈は郝経を国信使として宋に派遣し和約履行を求めたが、賈似道は既成事実の露見を恐れて郝経を真州に抑留した。郝経は長文の上書で宋の姑息な態度を諫めたが黙殺され、幽閉されたまま歳月を過ごした。李璮は蒙古の命で淮安を攻めたが李庭芝に撃退された。
評語
賈似道は将としての器量がないことを自覚しながら権力に固執し、漢陽・黄州での醜態を晒した。蒙古の内紛と忽必烈撤退の機に乗じて偽りの和議・捷報で保身を図り、正使郝経を幽閉して敵の憎悪を買った。郝経の誠意ある上書を用いず対話の機会を自ら潰したことは、後の禍根を招いた大きな誤りであった。